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3学期 by魅烏

  とある月夜の出来事
魅烏

去年の三月、私は令(れい)の隣で眠っていた。
いつもいつも令の事を想って笑っていた。
今年の三月はそんな令が隣にいない。

 ***

私と月宮(つきみや)令の関係は、月宮財閥が経営する図書館の雇い主と一従業員というだけではなかっただろう。いや、正直に言おう、私たちはたぶん恋人と呼んでいい関係であった。「あった」と過去形なのは、私たちは離れる決心をしからだ。
別に喧嘩をしたわけではない。お互いに憎み合うほどの出来事があったわけではない。ただいつかはこうなるべきだった。そしてその日が訪れた。それだけのことだった。私はその言葉をもうずっと前から覚悟をしていたし、その日が近いことだってわかっていた。
それなのにいざその時がくると、ふと鼻を掠めた令の髪に、いつも当たり前のように近くに感じていた令のかおりに、あふれ出る涙を止めることができなくなった。
最後の最後であっても令は、「冬香の事を嫌いになんかなれない」という言葉をあまりにも辛そうにそういうものだから私の涙は止まらなくなった。ああ、この人は本当に酷い人だと思った。私は溢れんばかりの令への想いも必死で押し留めているのに。そんな私の決意も努力も全て無にしてしまうような甘い言葉を囁く。そんな事を言うくらいなら、いっそ「嫌いになったから別れて欲しい」くらいの事を言ってくれたほうが優しさだと思った。
もうこれ以上私に近づかないで欲しい。
令を感じさせないで欲しい。
そう思ったら、何かのスイッチが入ってしまったかのように、私の頭の中は令との楽しかった思い出ばかりがよみがえってきた。

 ***

昔はずっとこのまま一生一緒にいられるものだと思い込んでいた。ただ私は令が好きだと、令も私を好きでいてくれるという想いだけで何でもできる気がしていた。
 しかし大学を卒業し、令に誘われるがままに一緒に働くようになって突きつけられた現実。立ちはだかった令と私の間に置かれている身分という壁。令は日本有数の財閥の一人娘で、いずれはその全てを継いでいかなければいけない立場だった。何についても有能な令の事だから、手掛けている事業のことはそれほど心配もしていなかったし、きっとうまいこと月宮財閥を発展させていけるのだろうとは思った。
そうなると次に問題として浮上してくるのは世間体。令には適齢になれば結婚して後継者を残すというごく当たり前の事が、ある意味義務として付きまとうことになる。
そして私とではそれはできない。
令を微力ながら支えることは頑張ればできるかもしれない。でも、私は女で、どんなに頑張ったってそれは変えられず、令に子どもを授けてあげることはできないし、令の恋人でそして将来を約束した仲であると胸を張って表舞台に立つことなどできるわけがなかった。
その事は令の父親にも念を押された。
数日前、図書館を訪れた令の父親は私に数枚の見合い写真を持ってきて
「この中で令にはどの人が合うだろうか。私なんかよりもずっと長いこと傍にいる君の方が、令の好みや性格を知っていると思ってね」
と、言った。にこにこととても紳士的なその顔の裏に隠れた悪意に私はうまく返答することができていただろうか。
令の父親には令から私のことを恋人だと、一生添い遂げるつもりだと紹介してもらった。その事に令の父親は、「お前達の関係に口出しするつもりはない。ただ、この家を継ぎ、多くの従業員の生活を支えるという義務があることだけは忘れるな」と答えた。
完全に認めてもらっているとまではさすがに言わなくてもここまであからさまに拒否されるとは思っていなかった。現実は厳しいのだと再認識した。
「そんなこと気にしない。言いたい奴には言わせていればいい。後継者だって今時世襲なんて古いんだよ」と令は何度も私に言い聞かせるように言ってくれた。だけどその言葉を鵜呑みして、ただ自分の幸福のために令が世間から後ろ指を指されるのを黙って見ていることなど私には到底できそうになかった。
いつか離れる日の為に令と距離を少し置くようにした。令がそれを望まないことは分かっていた。自惚れかもしれないけれど、令はきっと世間体や他人(ひと)からの視線や評価よりも私を選んでくれるだろう。だけど、これは令だけの問題じゃない気がした。だから少しでもお互いの傷口が浅くすむように、私は自分の心を殺した。
悔しかった。誰よりも令のことが好きで、愛していて、ずっと一番近くで令を見てきて、この想いは誰にも負けない。それなのにいとも簡単にその座を家柄がよく、男性であるということだけで、名も知らぬ誰かに奪われてしまう。なんていう理不尽。どうしてそれが私ではないのだろうか。別に男に生まれたかったと言うことではない。私は令を支え、いつだって令の一番の味方でありたいと思った。嬉しいことも悲しいことも、令の一番近くで一緒に感じていたいと思っていた。いや、今だってそう思っている。それなのに……。悔しくて悔しくて私は唇をかみ締めた。
私は相も変わらず令が好きだ。令が好きだからこそ、私は令から離れたいと願っている。愛しているからこそ、私は令の枷にはなりたくない。

 ***

「どうした?」
私はこみ上げてきた涙ぐっと飲み込んだ。令に最後の我儘を聞いてもらってからはもう泣かないと決めた。決めたはずなのに、静かに涙を流す令を見ると、思いがけず自身の瞳からも涙が零れてしまった。本当に詰めが甘い人だと思った。別れを切り出しておきながら泣くなんて反則である。もう無理だ。これ以上自分の心を殺すことも、令から離れることもできない。一度零れ落ちた涙は、堰を切ったように溢れ出し、止め処なく流れ出した。そしてその涙と共に、私の口からも止められなくなった想いが言葉として溢れ出た。
「嫌なの……。令が誰かを……私以外の誰かを傍に置くのは嫌だ!」
令の枷にだけはなりたくなくて、令の華やかで順風満帆な未来を奪うことだけはしたくなくて、愛する人の幸せが自分の幸せだなんて一生懸命に言い聞かせて我慢してきたのに……。感情的に言葉をぶつける私をそうやってどこか冷静に眺めている私がいた。しかし、一度口から零れてしまった言葉をとめることなどできなくて、私は令に叩きつけるように全てを吐き出した。
「好きなの。令が好きなんだよ! もし令が私以外の誰かのものになるのなら私は令を殺してしまいたいぐらい好きなんだよ!」
月明かりが照らし出す令の顔はまるで陶器でできた人形のように思えた。このままその白く細い首を絞めて、令を殺してしまおうか。そして私も一緒に死んでしまおう。そんな馬鹿げたことを考えている自分に呆れる。
「令とずっと一緒にいたい……。でも私が一緒にいたら、令に後ろ指を差される生活をさせてしまうかもしれない……。仕事にも影響が出るかもしれない……。だけど! それでも私は令が欲しい! ごめんなさい、ごめんな……」
「僕はお前だけを愛している」
 令は令らしくもない切羽詰まった声で私の言葉おさえぎると、私の頭を抱え込むように抱く。
「冬香。僕には冬香が必要なんだ。冬香がいないと息をするのも苦しい。冬香は私を本気で殺す気なの?それならそれでも構わない。だけど、それなら冬香も一緒に死んで」
令は私の頬を手で挟んで顔をあげさせると、まっすぐに私を見据え、全てを見透かすかのような瞳を私に向けた。
私はそんな令の顔を引き寄せて唇を重ねた。初めて自分からしたキス。私は初めて自分から令を求めた。
「うん。一緒に死のう。でも、まだ死ぬには早すぎるよ。私、令とこれからしたいことたくさん、たくさんあるんだからね」
 私は何度も何度もキスをした。
今求められているのは覚悟だ。
それは、令から離れる覚悟ではない。
令と共に歩みつづける覚悟。
私は令が進むべきだったごく当たり前の生活を奪ってしまったのだから、その分令を支え、慈しみ、深い愛情で令に幸福を与え続けなければならないと思った。それはもちろん強制されたことではなくて、自ら望んだことだ。

***

「令、大好き……。これからずっとずっと、ずーっと一緒にいれるなんて私は幸せだなぁ」
「ん? どうした? 眠い?」
私の身体をソファに押し倒しながら令は私の唇を塞ぐ。そのまま甘いキスを繰り返す。嬉しいのに、眠くてうまくこたええられない。意識が薄れていく。
「今夜は月がきれいだね」と令が言ってくれた気がしたけど、現実だったのか、夢だったのか。今はもう定かじゃない。



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