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オレンジドロップ

2013年09月16日
オレンジドロップ作


池辺りあ

2013年09月16日
池辺りあ作

ユリカ

2013年09月16日
ユリカ作

金木犀

2013年09月16日
金木犀作

箱舟ノア

2013年09月16日
箱舟ノア作

らんたん

2013年09月16日
らんたん作

MELON

2013年09月16日
MELON作

春号  By月夜猫

2013年09月16日

嘘ツキ少女と散るものたち
月夜猫



 ……綺麗。桜吹雪。儚いもの。散る運命のもの。
「だから綺麗」
 諸行無常。散るからこそ美しい。何もかも。だからこそ、僕は、
「……醜い」


 誰もいない無機質な部屋に帰る。必要最低限のモノしか置いていない部屋。もう慣れたよ。慣れたってば。なんとなくテレビをつける。笑い声が拡散される。顔、顔、顔。綺麗な人。普通の人。みんな何十年後かには死んでる人。終がある人たち。
「お腹、すいた」
 お腹がすく。体が栄養を欲しているということ。体は生きたいって思ってる。
「嘘ツキ」
 それでも欲求に抗えず、のそのそとご飯を口に運ぶ。にんにくラーメンチャーシュー抜き。いつからか、肉などを食べたくなくなってしまったため、特注のものを毎日食べている。
「おいしい」
 美味しいよ。これ。毎日毎日食べれるくらいに。この生活を何年続けてるんだろう。日めくりのカレンダーはめくる手が疲れていつからか捨ててしまった。携帯は必要ないと思って壊してしまった。外を見ればいつぐらいかは分かるから時計なんてしゃれたものもない。静かな部屋に針の音が響き渡るのも嫌いだったから、ちょうどよかった。だって、
「……一人って、感じがするから」
 ……だから、何? 僕は寂しいって思うのか。嘘。嘘ツキ。もうそんな感情なんてないくせに。楽しいも、悲しいも、寂しいも、愛しいも、全部全部もうないくせに。いつからなくなったっけ。それとも初めからなかったっけ。もう思い出せない。今日は日曜日。一応見た目だけは中学生の僕の安息日。眼を閉じても、眠れない。浮かぶのは、いつもの情景と憧憬だけ。突き刺すような痛みと、零れ落ちる液。何回も繰り返して、何回も壊して、何回も作り直して、それでもやっぱり、望む世界はできなくて。ピアノでうまく弾けない部分があると、反復練習をするように、自分が「いい」と思えるところまでするように、僕は続ける。その力を持った事を感謝するようにしながら。ありがとうって思う。
「……息がつまる」
 一日のうち、何回か息が止まるような感覚に陥る。いっぱい繰り返したからかな、体が終の感覚を覚えているんだろう。
そういう時は、外に出るのが一番いいってことを学んだ。始めのうちは、ただ叫びながらごろごろと部屋で転がっていた。でも、それすら無駄だって気づいたのと、何かが終わったのは同時期だった気がする。無機質な部屋から、開放的な空気へと変わる。幸いにも花粉症でなかった僕は、何の装備もしなくても、このうすら寒い外を歩ける。普通の人間のふりをした時は、マスクをつけたりもしたけど。マスク越しの空気は、余計に息がつまった。ちょうど今は、桜が散っている。人はそれを綺麗だと感じ、褒めて、子供は枝を揺らし無邪気にはしゃぐけれど。樹はどう思っているんだろう。自分の力だけで咲かせ、育てたものが散るのを、見ていたやるせなさとか。受け入れざるを得ない運命に、のどまで出かかった言葉を飲み込んでいるのか。言っても仕方ないし。
「君は、僕と同じだね……」
 そう言って撫でてみると、不思議と落ち着いてきた。たとえ樹が僕を馬鹿にしていたってかまわない。樹は何も言わないのだから。そう、お世辞すらも。拒絶もしないけど、受け入れもしないその体制はある種救いだ。曖昧。全てが曖昧な世界は、理想的。他人との壁がなくって、傷つきも傷つけられもしない世界。そこには僕はいないけど、今この状態もそんな感じだから、構わない。でも僕にはリピートの機能はあっても、リメイクの機能はない。誰かから与えられた力で、誰かが作ったちょっとずつ違う世界を繰り返すだけ。意思でどうにかできることなんて、僕の言動くらい。その言動ももう似通ってきた。無機質で、無意味で、無価値で……。終わりたいのに終われない、人類の古来よりの夢や野望だとしても、ただ苦しみが続くだけだ。何かの罪に対する報いとしか思えない。僕ってそんな悪いことしました? 僕の前世は僕。その前世も僕。その前も、その前の前も、ずーーーっと前も僕。
 僕が僕であり続けるものってなんだろう? どんな個性でも、それは今までの、そしてこれからのいろんな人が持つありふれた個性だ。僕が僕たる所以のものだなんて無い。それはつまり、僕という人物は今ここにいながらいないことと同義。あれれ、おかしいな。いるのにいない。いるから終われない。いない事を望むのに、いるから。なのにそのいたくない世界にいるのに僕はいない。……意味のない、こと。余計わかんなくなってきた。僕は終わりたいだけなのだ。こんな世界から、とっととおさらばしたいのだ。自分を傷つけたことも、何回もある。ある時は動くものに飛び込み、ある時は自らの血を抜いて、ある時は薬を飲んだ。たまに他人に傷つけられもした。だけど、僕の世界は終わらなかった。繰り返し、繰り返し。どれだけ続いたかわからない人生の中で、僕という存在は薄れてしまった。

春号  By魅烏

2013年09月16日
兄妹
魅烏



――
少女が胸元にしがみついてきた。
「おにい……ちゃん……だいじょうぶ? 」
「僕」のことをお兄ちゃんと呼ぶ少女を僕は知っている。でも僕は彼女の兄じゃない。
今にも泣きそうな瞳で僕を見る。
今にも消えそうな声で僕を呼ぶ。
そして彼女の後ろに居る中年の男性と女性も僕を息子と信じきっている。
もしここで少女に僕が兄ではないことを告げれば……
もしここで男女に僕が息子でないことを告げれば……
彼女らは崩れ落ちてもう一生立ち直れなくなってしまうのではないか。そんな脆い三人を見るぐらいなら僕は……
「大丈夫さ。美揺(みゆる)」
彼との約束のために僕は嘘を吐く。
◆◇◆
「お兄ちゃん……」
まどろみの中から声が聞こえた。この声を僕は知っている。
「うん、起きてるよ。起きてるから僕の上から降りて」
「わかった。ご飯できたから早く食べにきてね。待ってるから」
彼女はベッドから飛び降り部屋を出て行った。彼女は稲橋(いなばし)美揺。僕の親友だった稲橋遼(りょう)の妹だ。僕と彼は親友だった。僕たちは血は一滴も繋がっていないくせにまるで双子のように似ていた。と言っても外見だけだ。中身はまるで違った。僕は臆病でそのくせプライドだけ高くて人とあまりコミュニケーション。それに対し彼は誰にでも気軽に話せる気さくな奴だった。僕は彼と初めて会ったときこそビクビクしていたものの、だんだん打ち解けて行った。一緒に遊び、学校へも一緒に登下校するほど仲よくなったものだ。けれど、そんな時間はすぐに終わりを告げた。
その頃僕は父親から虐待を受けていた。ある日僕は帰りが遅いと殴られて雨の中外に放り出された。体中が腫れ上がったかのように違和感があるうえに、雨で体温が奪われ続けてままだときっと衰弱死していただろう。体は動かせず、生きることを諦めかけたときに彼は僕を見つけてしまった。彼は僕を助けるために自転車で彼の家まで運ぼうとしてくれた。しかし、その途中で僕たちは事故にあってしまった。
彼は病院に運ばれたけど死んでしまった。僕は、体の四肢がぐちゃぐちゃになっていたらしいが生きていた。轢かれた瞬間見てた人が救急車を呼び僕は一命をとりとめることができた。
目が覚めたときには病院のベッドの上で全身を包帯でぐるぐる巻きにされていた。全身包帯で巻かれていたので目は見えないし体は動かせなかったけど、声は聞くことが出来、喋ることもできた。
そこで医者に彼が死んだと聞かされたときはあの時に見つからずに、自分が死んでいればと後悔した。動かない体を嘆き、非力な自分に助けてくれた人を救えないどころか、その姿さえも見ることができない状況に僕はただただ泣叫ぶことしか出来なかった。
そんな中彼の家族が僕を彼だと思いお見舞いに来ていた。だけど僕の父親は一回も来なかった。家族は僕が目を覚ますまで生きているのに死んでいるような生活状態だったらしい。特に一番ひどかったのは彼の妹だったそうだ。ろくに物は食べず、部屋で何処かを見て生きているかわからない状態だったという。
だけど僕は彼じゃない。でも、僕が彼ではないと言った瞬間この家族はどうなってしまうのだろうか。それが怖かった。僕がまた壊してしまうのではないか。僕のせいでこの家族が僕の家族のようにバラバラに壊れなってしまうんじゃない。
それはだめだ。朦朧とする彼は僕に死ぬ前に告げたのだ。
「俺の代わりに家族を、妹を守ってくれ」
と、その約束のために僕は彼になると決めた。
「……おはよう。遼」
僕は遼の遺骨が入ったお守りに挨拶しお守りを首にかけ、鞄を持ってリビングへ向かった。
「おはよう。とうさん、かあさん」
彼の両親が先に挨拶しないように先に挨拶をした。
「おはよう。リョウ」
「リョウちゃん。おはよう」
彼らは僕に優しい笑みで挨拶を返してくれる。そう、この顔だ。僕は二人のこの顔を毎朝見るたびに胸が苦しくなる。だから、僕は先に挨拶することで二人の顔をあまり見ないようにしている。この僕に向けられた笑みは、遼に向けた笑みだ僕ではない。
「お兄ちゃん。早くしないと遅刻しちゃうよ?」
「おう。ごちそうさま。行ってくる!」
食器を洗い場に出し鞄を持って僕と美揺は外へ出た。
「お兄ちゃん。どう?」
美揺は僕の前に立ちその場で一回転した。今日から新学期だ。それゆえ自分の容姿がいつも以上に気になるのだろう。
「おう。よく似合ってる。可愛いぞ」
僕は優しく微笑み美揺の頭を優しく撫でた。
「えへへ。ありがと」
美揺は目を細め満足そうにしている。ふと腕時計を見る。
「うわっ! やばい! 行くよ、美揺」
僕は美揺の手を取り走った。息を切らせながら僕たちは教室に入る。タイミングを合わせたかのように予鈴が鳴り響いた。ちなみに僕は入院期間が長すぎたため出席日数が足りず、美揺と同じ学年だ。僕たちが席につき息を整えていると教室がいっそうざわめきだした。
「……あれ? なんか音がしない?」
廊下のほうから何かが走ってくる音がする。
「ちこくしたー! そぉい!!」
いきなり知らない女性が入ってきた。しかも、水揚げされたマグロのように滑ってきた。多分この女性は先生なんだろう。教員のバッジを付けている。
「セーフ? セーフだよね?」
一番前に座っていた子、つまり美揺の肩をガッシリ掴み息切れしていた。
「ほ、本鈴がなってないので大丈夫だと思いましゅ」
美揺は先生の迫力に負けておどおどしている。
「よかったー」
彼女は後ろに座っている僕を見た瞬間驚いた顔をした。
「浩人(ひろと)? 私だよ、木(き)村(むら)那緒(なお)! えっと、この苗字だと分からないか。田原(たはら)那緒(なお)! お姉ちゃんだよ!」
どきっとした。そう彼女こそ僕と血を分けた本当の兄弟である「姉さん」と呼びたいのをぐっと我慢する。
「もしかし田原浩人君と間違えていませんか? 僕は稲橋遼ですよ?」
「あ、ごめんなさい。そうよね、浩人もう一つ上の学年だものね。弟とあまりに似ていたものだから勘違いしてしまったわ」
何とかやり過ごせたようだ。僕は作り笑顔を浮かべて返す。
「大丈夫ですよ。僕も彼と始めてあったときはびっくりしましたから」
木村という苗字は母親の旧性だ。両親が離婚するとき父親は僕を引き取り、母親は彼女を引き取った。母親と実家に帰った後の連絡などはなく、心配だったのだが元気そうだ。少し安心した。
「あ、浩人のこと知ってるんだ! 私、もしかしたら弟に会えるかと思って弟が住んでいる家に近いこの高校に赴任したんだ! 浩人は元気?」
そうか、姉さんは僕たちの事故のことを知らないんだ。そういえば葬儀のときに姉さんを見かけなかった気がする。
「彼は……」
美揺が何か言おうとするのを僕は慌てて遮る。
「それよりも早くホームルームを始めて下さいよ、先生(・・)」
「そうだった!」
「今年からこの奈良学園に赴任した木村那緒です。気軽に下の名前で呼んでね。みなさん生徒には楽しい学園生活をおくってほしいと思ってます。悩み事などがあれば相談に来てくれると嬉しいな」
ここまではテンプレって感じだな。
「私のことを軽く知ってもらえれば相談しやすくなるとおもうので簡単に自己紹介すると、私は弟が大好きです」
ん?
「さっき少し話したけど、私には浩人って言うみんなより一つ年上の弟がいるの。小さいころいつも弟は私に甘えてお姉ちゃん、お姉ちゃんっていってて。その姿の可愛いこと、可愛いこと」
んん?弟ののろけ話になってないか?
「ですが小学生のときに両親が離婚し、私たちはそれぞれ別の親に引き取られちゃったの。そのあと音信不通になっちゃって。この近辺に住んでいることは知ってるのであと少しで……」
そのときチャイムが鳴った。
「あー話の途中なのにー。まあ、これはおいおい話すこととするわ」
クラスの生徒たちはみな一様に長話からやっと開放されたと安堵のため息を吐いた。姉さん一人が残念そうな顔をして教室が出て行った。
「なんで言うのやめさせたの?」
美揺は目ざとく僕に声をかけてきた。むりやり遮ったのがばれていたようだ。
「今教えたら先生、今みたいに元気に話せないだろ?」
「そっか、お兄ちゃんはやっぱり優しいね」
「……? 普通のことだろ?」
姉さんは僕が居ないことを知ったらどう思うのだろう。今日見た姉さんは僕の記憶に残っている姉さんとは別人だった。嬉しいようで寂しいけれど、「遼」である僕がそんなことを感じるのはお門違いかもしれない。
◆◇◆
今日は教科の説明などの配布物だけだったので授業は午前中で終わった。
「稲橋君、ちょっといい?」
先生の、姉さんの頼みなら仕方がない。
「分かりました」
僕は静かに姉さんについていった。通されたのは会議室だった。しかし会議室とは思えないぐらいあちらこちらにダンボールが積み重ねてあり、机にも誇りがたまっている。教員会議って本当に行われているのだろうか?
「適当な場所に座って」
「はい。妹を外で待たせているのでできれば手短にお願いします。」
姉さんはうなずいたはものの、コーヒーを入れ始めると言ったマイペースぶりだ。
「浩人今どうしてるの? この学校にはいないみたいだけど?」
直球だ。ならば僕も覚悟を決めねばならない。
「浩人は死んだよ」
姉さんが息を呑む気配が感じられた。コーヒーを机に置いていたことがせめてもの救いだ。目を見開き、手をわなわなと震わせている。コーヒーカップをもしもっていたら落としているところだ。僕は姉さんに言うと言うより、自分に自分を「遼」だと言い聞かせるかのようにもう一度繰り返した。
「浩人は死んだよ。僕と一緒に浩人の父親が運転する車にはねられて」
「嘘ダッ!」
間髪要れずに姉さんの叫び声がだだっ広い会議室に響いた。
「ほんとだよ、これが証拠だ」
そういって僕は袖をまくった。白い貧弱な腕に手術のあとが残っていた。
「浩人にもらった腕だ。僕の四肢は全部彼に貰ったものだ」
ちがう、これは遼にもらった体だ。姉さんごめん、嘘まで吐いて。でもあの家族は僕の理想郷なんだよ。ずっと望んでいたものなんだよ。家族のためでも歩けど僕自身のためにも僕は遼でありたい。姉さんは僕の腕をまじまじと見る。
「確かにつないだあとはあるわ。だけどそれが浩人のだとは……」
「逆にここで嘘を吐いて僕に何のメリットがあると言うのですか?」
「うぐっ。で、でも……。そうよ、父さんが、浩人のことをあんなにかわいがってた父さんが浩人をはねるはずがないわ!」
 姉さんはさも偉業を成し遂げたかのような顔でこちらを見てくる。姉さん、僕はもう遼なんだよ……。
「浩人の、先生の父親は奥さんと別れてからすっかり変わったよ。仕事も手につかず、遊びほうける毎日。おかげでたまるのは借金ばかり。それだけじゃない、彼はそのストレスを浩人で発散し始めた」
「浩人で発散……?」
「そう。もっと簡単に言うと浩人を虐待してた。精神のどっかがおかしくなってたんじゃないかな? 浩人は毎日サンドバックにされていた」
「じゃあ私たちのところに来れば……」
「そんなことしたら先生たちに迷惑をかけるからと思ったから……じゃないですか?」
姉さんは今にも涙を流しそうな絶望した顔をしている。当然だ。姉さんがここにきたのは浩人に会うため。再会することをあんなきらきらした笑顔で話していたのだから。だけどそれはかなわない夢となってしまった。
「でも、でも!  それなら浩人に会いに来ればいいじゃないですか! 」
「え?」
僕はどうやら自分とあの家族と同じぐらい姉さんのことも大切に思っていたみたいだ。姉さんにあったら僕は自分を置いていったことを憎み、罵るかと思っていた。でもどうやら違ったみたいだ。姉さんの絶望した顔をただ黙って見ることはできなかった。姉さんには笑っていて欲しいその一心で考えるより先に口が動いてしまったようだ。そう自覚した今ですら口は動くのを止めない。
「この体は……この髪一本からこの血の一滴まで浩人と生き、浩人に助けられたものです。僕は遼であると同時に浩人でもあるんです。僕を浩人と思ってください。」
これは遼としての言葉なのだろうか、それとも浩人としての言葉なのだろうか。わからない。姉さんはといえばこちらを見たまま唖然としている。しかし僕の視線に気づいたのか、はっとしてもう一度話し始めた。さっきとは違い、落ち着いた声になっている。
「ごめんね。そしてありがとう、稲橋君。先生がこんなに荒れてちゃいけないわよね。それにこんな状態じゃ浩人だって安心して眠れないわ。ほんとは稲橋君だってつらいだろうに先生にこんなことをいえるなんて君は強いね。」
姉さんは、先生は涙でぐちゃぐちゃになりながらもしっかり笑っていた。もう大丈夫だろう。僕は黙礼だけをして会議室を後にした。もう先生は大丈夫だろう。僕は美揺と家路についた。

春号  Byトム猫

2013年09月16日
Skies of underdogs
トム猫



 クリストファーは叱られた。父親が大切にしていた置時計にイタズラをして、故障させてしまったのだ。彼は思いっきり殴られ、それから家の外へと放り出された。彼は途方に暮れて、家の前で座っていた。ぼんやりと月が動いていくのを眺めると、自分は家族に見捨てられたのだ、と思って悲しくなって、ひどく泣いた。泣き続けて、かなりの時間が経った頃、遠くから轟音が聞こえて、思わずそちらを見上げた。近くの空軍基地から戦闘機が飛んできたのだ。頭上を戦闘機が駆け抜けていく。明け方、空は白くなってはいたがまだ暗かった。その暗い空に輝く排気管の輝きは美しかった。彼は寒いのも悲しいのも忘れて、それを見つめていた。家の扉が開いたのはそれから十分後、彼の兄が開けたのだった。

《基地司令部よりソーサラー隊へ。所属不明機との距離、10マイル。所属不明機は依然、領空外へ向かって飛行している》
《ソーサラー1、了解。『ポーカー』、カメラの用意はできてるか?》
《こちらソーサラー2、万全です。あちらさんのハゲ頭まで写りますよ》
《よし、ばっちり写してやれ。いいか、ピンボケしないようにな》 
そこまで喋って、ソーサラー1―――エドワード『チキン』マクドネル大尉―――は話をやめた。所属不明機の姿が見えてきたのだ。
《機種は『メイ』だな。『ポーカー』、撮影会の時間だぜ》
『ポーカー』―――クリストファー『ポーカー』ダグラス少尉―――はカメラを持った。所属不明機をファインダーに入れてシャッターを切る。カシャ、という音がした(音がしたような気分になった、というのが正しいのではあるが)。フィルムを巻き取り、さらに別のアングルから何枚かを撮影する。
 《撮影完了。プロもびっくりの名写真ですよ。いっそ写真家に転向しようかな》
《なら、連中に連れて帰ってもらえ。連中、ポルノ写真だけはとびきりうまいぞ》
《基地司令部よりソーサラー隊へ。無駄話はいい。領空から離れている。そのまま監視を続けろ》
《ソーサラー1、了解》
クリスはカメラをしまった。司令部から帰還命令が出るまでエドワードとクリスは監視を続けた。監視といっても特にやることも無いので、結局は無駄話が始まる。
《おい、この間出たばっかりの映画見たか?》
《どの映画ですか? 『オペレーション・インポッシブル』の新作?》
《いやいや、ほら、セリーヌ・バルサンの……》
《あのね、隊長。俺はポルノ映画には興味ありませんよ》
《低俗なポルノ映画と一緒にするな。ありゃ高尚な恋愛映画だぜ》
エドワードが不機嫌に言う。しかし彼の見る映画というのは未成年には見せられないようなものばかりだ。彼が空軍にいるのは妻の目が届かないからだ、という噂が立っているほどである(そして恐らくそれは真実である)。
《なら今度の非番に奥さんと一緒に見たらどうですか?》
《おいおい、勘弁してくれ。あいつと見たらせっかくのセリーヌの身体の魅力が半減だぜ》
《今の発言、奥さんに報告ですね》
《こちら司令部、無駄口を叩くな》
《おい、勘弁してくれ! 頼む、それだけはやめてくれ!》
《さて、どうしましょうかね。俺が貸した本を返してくれれば考えますが……》
司令部からの指示を無視して会話を続ける。それまでの会話でも同様に司令部の制止を無視していたため、司令部の士官も我慢の限界だった。
 《こちら司令部! 繰り返す、無線を独占するな! 今の会話の録音テープを家族に送りつけるぞ! マクドネル大尉!》
 一瞬の沈黙を挟んでエドワードが答えた。
《『ポーカー』、私語はやめるんだ。いいか、隊長の命令だぞ》
 それから間もなく帰還命令が出て、2人は基地に帰還した。

  クリスは愛機、イーグルF・3の二一五四‐○七四番機から降りて垂直尾翼を眺めた。垂直尾翼に描かれた魔法使い―――エドワードの言葉を借りるなら、アホ面をしたウスノロバカの魔法使いが今日も変わらずニヤニヤと笑っている。部隊の者はこの魔法使いを「イディオット」と呼んでいた。クリスはこのイディオットが好きだった。この間抜けな顔をした魔法使いの気楽な雰囲気が好きだった。
「いつまでそのバカを眺めてるつもりだ。お前もバカになっちまうぞ。ほら、行くぞ。」
エドワードに急かされて司令部へ向かった。報告をするためだ。
近年、リーンシア共和国連邦は領空侵犯されることが増えてきている。そのほとんどは隣国のヴォセイト連邦の偵察機だった。そのため、司令部は最近はずっとピリピリしていた。いつ事が起こるか分からない。そのストレスのはけ口は下へと向かう。そのため、司令部への報告があまりに遅いとまたやかましいのだ。
「クリス、『ベア』だったでしょ? ほら、さっさと一〇〇ブクわたす!」
「おおっと、そりゃダメだ。お前が俺に一〇〇ブクわたすんだぜ。『メイ』だったからな」
クリスの同期で、同じ隊の隊員でもあるパトリシア・ノースロップ少尉が駆けてきた。その日の朝に二人はスクランブルが発生した時の所属不明機の機種を当てるという賭けをしていた。パトリシアは女性であるが、隊内では腕相撲で負けたことがないくらい、腕っ節は強い。学生時代は相当ヤンチャしていたらしい。
「嘘でしょ! 絶対『ベア』だって!」
「いやいや、嘘じゃないさ。トリッシュは賭けに弱いからな。写真を現像すれば分かるさ……」
 クリスは彼女にカメラを見せようとしてふと気付いた。カメラがない!
「隊長! カメラ、機体格納庫に置いてきました! 取りに行ってきます!」
「ほら見ろ、バカになっちまった!」
クリスは全力で駆け出した。廊下を曲がって、そこのドアを抜ければ機体格納庫だ。そのドアが開いて、ぬっと大きな体が出てきた。
「『ポーカー』、忘れ物だ。こいつが無いと司令部のやかましい連中にどやされるぜ。連中、今日は一段と機嫌が悪い。俺もさっきごちゃごちゃ言われた」
「サンクス、『パスタ』! ちょうど探していたところだった!」
クリスはカメラを受け取りながら言った。
「流石は『パスタ』。頼りになる」
「それはいいんだが、『パスタ』ってのいい加減止めてくれよ。いくらラットリー出身だからって安直すぎる……」
「サンキュー、『パスタ』! かっこいい!」
『パスタ』の言葉を無視しながらクリスは駆け出した。
「やれやれ」
『パスタ』の本名はカルロ・アエルマッキ。ラットリー共和国出身で、同国の空軍で整備兵をしていた。一年前から、リーンシア共和国連邦空軍に派遣されている。『パスタ』というのは、エドワードが名づけたものである。もちろん、ラットリー料理の定番、パスタからとられた。
「隊長! カメラ持ってきました!」
「よし、行くか!」
報告の後、無線を独占した件で司令部の面々に散々お小言を食らったのは、言うまでもないことである。実に二時間に及ぶ説教と言い訳の応酬をここに書いても読者の気分を害するし、私の体力も無駄に使うことになるので、割愛させてもらう。ただ、エドワードの妻に無線の内容を聞かれることは回避できたということはここで明言しておく。

「『ポーカー』、今日の飛行はもう無いよな?」
クリスに話しかけてきたのはフィリップ『スカイハイ』グラマン中尉。ソーサラー隊の三番機で、エドワードのことを最も良く理解している男(本人談)である。操縦技術は卓越しており、航空学校は首席で卒業した。その上、それを鼻にかけることもないので基地では人気者である。
「ええ、スクランブル待機も無いですし、訓練もありません。始末書は隊長の仕事ですしね」
「じゃあ、『リオン』も誘って、三人で飲みに行くか」
『リオン』はパトリシアのTACネームである。彼女が読んでいた漫画にライオンが登場していたことが由来だ(悪役だったが)。
「了解です。誘ってきますね」
「おっと、待った。あいつ、お前に100ブク払わされたんだよな。俺のおごりだと言っとけ」
「了解です! 行ってきます!」
パトリシアは夕食後、決まって機体格納庫にいた。パイプ椅子に腰掛けて、夜風に当たるのが最高に気持ちよかった。機体格納庫の扉から見えるのは満天の星空だった。こうしている間だけはすさんだ感情も消え失せ、穏やかな気持ちになれる。その日は寒かったので、そろそろ戻ろうか、と腰を上げたとき、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、トリッシュ。グラマン中尉が飲みに行かないか、だとさ」
その言葉を聞いて穏やかな気持ちはきれいに消え失せた。
「誰かさんのせいで財布が軽いのよ、行けないわ。誰のせいかは知らないけどね……」
「中尉のおごりだぜ」
「行くわ」
その後、カルロを車の運転手として駆り出して街の酒場まで向かった。もちろん、カルロから抗議があった。しかし、クリスの説得によってカルロは結局、運転手として働くことになってしまった。向かったのはフィリップの行きつけの店、『イムーバブル・スキットル』。店主はフィリップの幼馴染である。
「よお、マスター。いつもの頼むぜ。こいつらにも」
「ああ、フィルか。いつものって言われてもお前、いつも別々の物頼むじゃないか」
「後輩にいい格好したいっていう俺の気持ちを汲んでくれよ。いつものって格好良いじゃねえか」
「お前の気持ちなんて考えるだけ無駄だからな。ああ、いつも水は飲むから、お前は水でいいんだよな。お三方、何をお飲みに?」
「俺はバーボン……オールドレイヴンBIBで。割らなくていいです」
「じゃああたしは……」
パトリシアが注文しようとしたその時、嫌なダミ声が響いてきた。
「おいおい! フィリップじゃねえか! 久しぶりだな! え?」
その声の方向を向くと、海軍の制服を着た集団がいた。四人。全員、アヴィエイター(パイロットの海軍風の呼び方)らしい。フィリップはそちらを振り向かずに答えた。
「セバスキー少佐。相変わらずひどい声ですね。のど飴いります?」
「エドの野郎はどうした? ……何だ、お前らの隊には女がいるのか」
セバスキーがパトリシアをじろじろと眺める。パトリシアの表情は既に爆発寸前のものだった。フィリップはそれを見て、マズいと思った。暴れられたら手がつけられない。しかも相手は海軍の少佐。下手すれば全員が飛行資格を剥奪、なんて事態になりかねない。
「うちの隊に女がいて、それで何ですか。そんなに珍しいですか、女性が。まあ、艦にはいませんよね」
「なんで女なんかが飛行機乗りになってるんだってことだ。しかもどうだ、戦闘機隊だぜ、こいつらの部隊は。スチンソン少尉、どう思う」
 スチンソンと呼ばれた男は笑いながら答える。
「さあ、娼婦の考えることはよく分かりませんや。間違えたんでしょう、操縦桿とアレを……」
「何だと! てめえ、もう一度言ってみろ、クソ野郎!」
そう言ってパトリシアが飛びかかろうとする。それをクリスとカルロが慌てて止めた。パトリシアの拳にはいつの間にかハンカチが巻かれている。
「貴様、言っていい事と悪いことがあるだろう! 今すぐ謝れ! セバスキー少佐も、たとえ少佐だろうとウチの者を侮辱するなら容赦はしねえぞ!」
フィリップも既に襲いかかりそうな雰囲気でそう言い放つ。カルロはベルトを外して拳に巻いた。クリスはそっと三人の後ろに下がった。海軍の面々もそれぞれ構えている。臨戦態勢だ。店長がそこに割って入った。
「フィル、俺の店で騒ぎを起こしてくれるな」
「ああ……すまん。だが……」
「これだから空軍は。空軍は野蛮人の集まりだからな。マスター、こいつらを入れない方がいい。気づいたら店の金を盗られてるぜ」
流石にクリスもこれにはカチン、ときた。その瞬間、騒ぎを起こさず、恥をかかせてやる方法を思いついた。飛びかかろうとした三人をまあまあ、と必死に押さえてセバスキーに話しかけた。
「では、海軍はどうなんです?」
「あ? そりゃもちろん、賢い人間の集まりだ。俺たちには知識と知力が必要なんだ。少なくとも空軍のマヌケ共よりはな」
「では、一つ、『マヌケ』の私と勝負をしませんか。もし私が勝ったら、トリッシュにしっかりと謝ってもらいます。まあ、それでも殴られるかもしれませんがね。あと、こちらの言うことを一つ、聞いてもらいましょう。私が負けたら、こちらが言うことを聞きます。あとは、まあ、持ち金全部渡しましょう」
「あ? ……一体何で勝負するつもりだ」
「ポーカーなんか、どうでしょう」
クリスはそう言ってポケットからトランプを取り出した。
「ポーカーか。いや……いいだろう、受けてやる。だが、俺はポーカーが強いぜ。母艦の航空隊の中では一番だ」
「私は運が強いんですよ。面倒なので勝負は一回。だからチップは使いません。もちろん、勝負を降りてもいいですが、五回までとします。チップは使いませんから、コールやレイズもありません。選択肢は勝負するか、しないか。そして、手札を変えるか。いいですね?」
「ああ、構わないぜ。だが、俺が勝ったら本当に何でも言うことを聞くんだな?」
「ええ、約束ですから」
「じゃあ、そこの姉ちゃんに何をさせてもいいんだな? あんなことやこんなことをしちまうぜ? すぐそこに連れ込み宿もあるしな」
「ええ、約束ですからね。でも、今はどうやって勝つかを考えた方がいいんじゃないですか? 私は運が強いんですよ、とても。ああ、マスター。そこの食器棚の鏡を外せる?」
店主は鏡を外した。手札が見えないようにするためだ。
「カードはこのカード、バイサイクル。まあ定番でしょう。もちろん未開封です。確認してください」
セバスキーはカードの箱を手にとって調べた。封のシールは剥がれていない。つまり、まだ箱は一度も開けられていないということだ。イカサマを仕込むことはできない。
「確認した。問題ないぜ」
「では、開封します。見ていてください。……ジョーカーを除きます。いいですね」
 除いたジョーカーをテーブルの端に置く。
「シャッフルします」
 クリスは馴れた手つきでカードをシャッフルした。
「一応、俺にもシャッフルさせてくれるよな」
「もちろん。それくらいの権利は当然のものです」
クリスはセバスキーにカードの束を手渡した。クリスはセバスキーの手元をじっと見つめる。
「おい、どうしてそんなにジロジロと見つめるんだ? まさか、俺がイカサマでもすると思っているのか?」
「用心には用心を重ねる必要がありますからね。飛行機と一緒ですよ。少しでも違和感を感じたら、予備機に乗る。射撃前には後ろを振り向く。もっとも、勇猛果敢な海軍さんはそんな真似しないのかもしれませんね」
  セバスキーは黙ってシャッフルしたカードの束をテーブルの真ん中に置いた。
クリスはポケットからコインを取り出す。
「ディーラーはこのコインで決めましょう。表が出たら私、裏が出たら少佐……」
「いや、逆だ。表が俺で裏が貴様だ」
「構いません。どうせ確率は変わらないですから。では、投げます」
ピン、とコインを弾き、手の甲に落とす。クリスが左手の甲に被せた右手を開けようとした瞬間、セバスキーが止めた。
「いや、やっぱり裏が俺だ。表が貴様」
「投げた後ではずるい気もしますが……まあ構いませんよ。では、開けます」
コインは表。ディーラーはクリスだ。
「心が広い方が得をしたようですね。まあ、得というほど得ではないんですが。イカサマをするならともかく」
「……いや、やっぱりディーラーは無関係の奴がやるべきだ」
クリスはニヤリとして言った。
「この店の中のどこに無関係の人がいるんですか? 我々とあなた方、そしてマスターのみ。他のお客さんはいません。マスターはグラマン中尉のご友人ですから、公平とは言い難いです。そもそもディーラーが決まった後でそれは無いでしょう」
セバスキーは黙って煙草に火をつけた。
「イカサマなんてしませんよ。しなくても勝てます。今日は特にツイてる。トリッシュとの賭けにも勝った」
そう言いながらクリスはカードを配った。
「五枚ありますか?」
「ああ、間違いない。五枚だ」
「では、ゲームを始める前に。観客が気になりますね。向こうの席に行ってもらいましょう。お互いに手札を隠すべきです」
クリスが指差した先の席にそれぞれの人間が座った。既に喧嘩が始まりそうな雰囲気である。パトリシアに至ってはナイフを手に握っている。
「いや、誰かイカサマを見張る奴が必要だ。それぞれ、お互いの隊の人間を見張り役に出そう」
「なるほど、それは確かに一理ありますね。トリッシュ、セバスキー少佐がイカサマをしないよう、見張ってくれ。くれぐれも殴りかからないようにな」
「言っとくが、イカサマを指摘してイカサマじゃなかったら、それも勝負を降りた回数のカウントに入れるぜ。そうだな・・・おい、ケニー。お前、この兄ちゃんを見張ってろ」
「了解です」
パトリシアと、ケニーと呼ばれた若い男が、近くの席に座る。もちろん、手は見えない。セバスキーとクリスが同時に自分の手札を見た。
「どうします? 棄権しますか、それとも勝負しますか。もちろん、ドローしてもかまいません。イカサマさえしなければね」
「勝負しよう。手札は変えなくていい。このままで勝負するぜ」
クリスは思わずニヤリとした。
「私も、ドローはしません。このままで勝負します」
「よし、いいだろう。手札を……」
クリスがそれを止め、パトリシアとケニーをじろ、と見た。二人とも首を振った。
「どうやら二人とも、イカサマの気配すら捉えなかったようですね。まあ、私はイカサマなんてしてませんが」
「いや、俺もしないぜ。……えらく自信満々だな、ロイヤルストレートフラッシュが決まったか?」
「まさか。……あなたはフルハウスですね。間違いない。あなたの手札はフルハウスだ」
  セバスキーの顔色が変わった。セバスキーの手札はフルハウスなのだ。セバスキーは何故見破られているか分からなかった。そして、見抜いた上で棄権していないということは、クリスの手札はフルハウスに勝てるカードに違いないのだ。
「まあ、開いたらわかるでしょう」
セバスキーの顔色が更に変わって、完全に真っ青になった。
「ストレートフラッシュです。流石にロイヤルストレートフラッシュとは行きませんでしたが。ほらね、ツイてる」
「……あ、有り得ない! ドローせずにストレートフラッシュなんて! 俺の手札を言い当てるなんて! イカサマしたな! 貴様!」
「ケニー君ケニー君、俺は一度でもイカサマをしたかね? 君の目玉はそれを捉えたかね? ほんのちょっとでも、その気配があったかね?」
「い、いいえ……全く。全くおかしなところはありませんでした。というより、手札を見て、そして相手に見せる以外の動作をしていないので……」
 真っ青だったセバスキーの顔が土気色になった。
「配った時にイカサマを……」
「皆が見てるんですよ。無理です。一人じゃない。七人です」
セバスキーは机をバン、と叩いた。山札が崩れる。反論できない。
「さて、約束は守ってもらいましょうか。まず、トリッシュに謝る。そしてこちらの言うことを聞く。ほら、四人で。並んで。トリッシュはそこに座っていいですよ」
「お前ら……並べ。約束は約束だ。守らなきゃならん」
 パトリシアが椅子から立ち上がった。
「別に謝らなくてもいいわよ。どうせ上辺だけの言葉だし。マスター、店の扉を開けて。おい、そのまま並んでろよ、じっと……」
マスターはよく分からない、といった顔をしながら、言われるままに扉を開けた。よく分からないのはクリスやフィリップ、カルロも同じだった。
「トリッシュ、何をするつもりだ?」
トリッシュは無言で、スチンソンの方へと歩いて行った、そして蹴り飛ばした!
「うわ、痛え!」
カルロが叫んだ。なるほど、確かに痛そうな鈍い音がした。スチンソンは吹っ飛んでいった。トリッシュは、店の外まで吹っ飛んでそこでうずくまっているスチンソンに蹴りを入れている。スチンソンは頭を守ろうと必至だが、その手の隙間から的確に蹴りを入れているのだ。
「当然、だな。セバスキー少佐、覚悟しといた方がいい。『リオン』はああなると俺や隊長でも手がつけられない。さっき飛びかかろうとした時に謝っておけばああはならなかったんだが」
既に血の気を失ったセバスキーの顔が更に白くなった。目には明らかに恐怖の色が浮かんでいる。残りの二人もまた、ガタガタと震えだしている。パトリシアはスチンソンの腕をひねりあげている。既におかしな方向に曲がっている。
「セバスキー少佐。あなたの度胸、正直言って驚きました。ポーカーじゃない、トリッシュに喧嘩を売ったことですよ。アメフト用のマウスピース、すぐそこのスポーツ用品店で売ってるんで買ってきましょうか?」
「いや、クリス、もうダメだ。歯型を取ってる間にトリッシュは少佐殿に襲いかかるぜ。ほら、入ってきた」
  セバスキーは扉の方を振り向いた。セバスキーの目に飛び込んできたのは、右腕と左脚が明らかに異常な方向に曲がっているスチンソンだった。顔がよく見えないが、少なくとも血で真っ赤になっていることは確かだ。地面には血だまりが出来ている。パトリシアがどんどん近づいてくる。この女、後先の事を考えないのか。軍の上層部まで動くような問題になるかもしれないんだぞ。
「セバスキー。何でも言うことを聞くのよね? じゃあ上着を脱げ。帽子も」
セバスキーは言われるがままに上着と帽子を脱いだ。
「あたしも軍人の端くれ、階級が上の人間を殴ったりするわけにもいかない。でも、今のあんたは階級章も何もない。少佐だなんて分からない。分かるはずがない。私は喧嘩を売ってきた『ただの薄汚いダミ声のオッサン』を殴るだけ」
フィリップはそれを聞いておもわず呟いた。
「ひええ、セバスキーおじさんに神のご加護があらんことを……」
セバスキーの身体は吹っ飛んで、スチンソンのすぐ隣に落ちた。セバスキーはスチンソンの顔を見て、ゾッとした。白目を向いて、泡を吹いている。鼻は完全に変な方向に折れ曲がっている。
「なるほど、パイロットになった意味が分かったぜ」
 パトリシアはごく普通の家庭に生まれ育った。兄弟はいない、一人っ子だ。小さな頃は素直で皆に可愛がられた子供だった。
 中学生の時、一年生だっただろうか、同級生が集団で無視したり、靴箱の靴を盗んだりするようになった。いわゆるイジメである。ある日、パトリシアはその集団に囲まれ、そして財布を盗られた。パトリシアは自分の中で何かが切れる音を聞いた。グループの中心にいた女の子を、パトリシアは無意識の内に殴っていた。もちろん、中学一年生の、しかも女子の腕力だから大したことは無いのだが、それでも十分な衝撃として受け止められた。だが、逆恨みされ、そして、他校の生徒までもがパトリシアに喧嘩を吹っかけるようになっていった。同時に、パトリシアの周辺にも味方ができていった。気づけば、毎日が喧嘩の日々だった。
高校生になり、ついに警察に捕まった。理由は喧嘩ではなく、喫煙。何だかんだで釈放された後、偶然見かけた空軍の人員募集ポスターを見て、その足で役場に向かった。喧嘩続きの生活にうんざりしていたのである。もちろん、認められるはずがない。それが生来の負けず嫌いな性格に火を点けたのだ。それはもう必死に勉強して、空軍士官学校に入ったのだ。
ただ、彼女の凶暴な性格は勉強しようが空軍士官学校に入ろうが部隊配属されようが全く変わらなかった。どうやらこれも生来の性格だったらしかった。
「ところで『ポーカー』、どうしてセバスキーの手札がフルハウスだって分かったんだ? いや、そもそもどうしてあんなに勝ちを確信してたんだ?」
クリスはニヤリとして、トランプを広げた。そして、それを再び束にして、混ぜた。
「トリッシュ、カットしてみな」
トリッシュがカードの束を混ぜる。
「一番上のカードはスペードのジャック。二番目はスペードの6。三番目はダイヤの2」
 トリッシュが上からめくっていくと、確かにその通りのカードが出てきた。
「す、すげえ。どうして分かるんだ?」
「あたし、ちゃんと混ぜたわよ?」
「ご存知の通り、俺の趣味は手品。トランプは四歳の頃から触ってます。指の感覚だけで枚数を数えることができるんです。そして、最初に広げた時に並び順を覚えれば、シャッフルした後の並び順も分かります」
三人はぽかん、とした。
「いや、確かにそれができるとして、そのあとに『リオン』も混ぜてたじゃないか」
「パッと見て、どこのカードが何枚、混ぜられているかは分かりますよ。トリッシュみたいにぎこちない混ぜ方だったら、特にね」
「じゃあ、それで順番が分かったとして、どうやって思い通りの手札を作るんだ。まさか、図柄を変えられるわけじゃないだろう」
クリスはカードの束を手にとった。
「一番上のカードは、スペードのジャック」
束の一番上のカードを表に向けて三人に見せる。
「中尉、カードをそっちにやりますよ。よく見ててください」
 クリスはスッとカードを滑らせて、フィリップの方へ出した。
「今のカード、束の一番上のカードだったでしょう?」
「ああ、確かに一番上のカードだった」
 フィリップは自信を持って答えた。間違いない。
「でも、そのカードはハートの5ですよ」
 フィリップがそっと裏返すと、確かにそれはハートの5だった。
「ほ、本当に図柄を変えたのか! いやいや、しかし……だが本当に一番上のカードだった!」
 「……いや、これはそう見せかける『技術』ですね。そうだろ、クリス」
「流石は『パスタ』。よくわかってる」
クリスは、一番上からカードを配っていると見せかけて、実は別の場所から、思い通りにカードを配っていたのだ。
「お前、あれだけ散々言っといて実は自分がイカサマしてたのかよ。しかし、これをやるにはディーラーになる必要がある。それはどうやったんだ。コイントスもイカサマなのか?」
「有名なイカサマですけど、手のひらで押さえた後に表裏を変えることができるんですよ。コロッとね。コインは凹凸がありますから、表裏の判別もできますし。いくら賭ける面を変えても、ディーラーになるのは俺だったんですよ」
「ひどーい……」
「トリッシュに言われたくはない。まあ、あれですよ。『イカサマはばれなきゃイカサマじゃない』んです」
フィリップは笑いながらクリスの背中をバン、と叩いた。
「やりやがったな、流石だ! この大悪党め!」
「ほめてるのか、けなしてるのかイマイチ分からないんですけど・・・」
「ほめてるよ、イカサマ師!」 
「気分がいいから、全員分、あたしのおごり! 特にクリス! 飲めっ! MVP!」
パトリシアがサッと何枚かの紙幣を取り出した。見れば、いつもの財布ではない。セバスキーの名前が書かれている。
「お前、盗ってきたのか? 流石にマズイんじゃ……」
「いや、セバスキーのクズが『これで許してください』って言うから、これを貰って、顔面蹴っ飛ばしてきた」
三人の男たちはこの時、絶対にパトリシアに逆らわない事を決心したのだった。

  翌々日のことだった。観測所から所属不明機が一機で飛行しているという報告を受け、ソーサラー隊は四機でスクランブル発進した。そこまではまだ『よくあること』だった。あえて普段と違うことを挙げるならば、副司令が機体格納庫にいたくらいであった。だが、異常なことではない。副司令はよく散歩をしていたからだ。
ソーサラー隊の四機は所属不明機に接近した。クリスはカメラを構えた。
《『ポーカー』……写真取る必要もないぜ。ありゃ友軍機だ》
《『青鮫』……なんでこんなところに一機でいるんですかね》
『青鮫』はリーンシア空軍きってのエースパイロットで、トマホーク紛争、ユーストリア戦争といった戦争で大活躍したパイロットである。エドワードとはユーストリア戦争で同じ基地に配属されていた旧知の仲である。
《ブルーシャーク1。応答しろ……おい?》
《隊長、無線の調子が悪いですよ。こっちの問題ですかね》
 雑音が混ざって聞こえる。かなり聞き取りにくい。
《こちらもだ。『リオン』、そっちはどうだ》
《あたしもです。一体何が……あ、『青鮫』が》
くるり、と『青鮫』の機体が旋回した。クリスはそれを目で追った。『青鮫』の機体はまだ量産体制に入っていない、最新型の戦闘機であるブラックウィドウⅡF・1である。旋回性能が非常に高く、あっという間にソーサラー隊の後ろに潜り込んだ。
《機位を失したのか? だったら、最寄りの飛行場まで誘導するぜ。ここからだったら……》
《ありがとう、エド。でも、その必要はない》
 その瞬間、思わずクリスは左にブレイクした。
《散開しろ! チクショウ、何のつもりだ、トニー! てめえ!》
エドワードの機体から火が出ている。射撃したのは間違いなく『青鮫』だ。
《さあ、俺にもさっぱりわからん。二機目だ。パラシュートの用意はできたか?》
「グラマン中尉! 右旋回を! ああ!」
フィリップの機体と『青鮫』が曳光弾の黄色い光で結ばれた。そして、火を噴いた。プロペラが外れ、主翼に突き刺さる。
《二番機、次はお前だ……何でもイカサマ師らしいからな、落としたつもりにならないよう気をつけなければ》
クリスはスロットルレバーと操縦桿を突っ込んで、一気に急降下した。マイナスGがかかり、クリスの身体は浮き上がってキャノピーに頭をぶつけ、酸素マスクの中には胃の内容物がぶちまけられた。恐らく、機体の制限荷重を超過しているだろう。だが、空中分解する方が幾分かはマシだ。炎上するよりは……
機体の横を曳光弾が走っていく。ラダーペダルを左に踏み込み、機を横滑りさせて、弾をかわす。高度計が今まで見たこともないような勢いで回転していく。もう操縦桿を起こさなければ、水面に激突する。しかし、その引き起こしの瞬間は相手にとっては最も絶好のチャンスとなる。どうしたものだろうか。
迷っている間にもぐんぐん高度は下がる。もう迷っている時間はない。思い切り操縦桿を引くと、機体の各部からミシミシという音が聞こえた。視界が急激に真っ暗になる。全身に力を込めて頭に何とか血を登らせる。それでも意識は飛んで行きそうになる。
  ダダダッと水面に白い水柱が立っているのが後方確認用のミラーに映った。しかし、後ろに『青鮫』は見えない。今の白い水柱はパトリシアがクリスを助けるために撃った援護だった。
《もう相手をしている時間が無い。今の援護射撃、的確だった。流石はエドの教え子だな。二番機、基地に戻ったら機体の整備をしてもらえ。桁がひん曲がってるはずだ。そこまで持つかは分からないが……
『青鮫』はそれだけ言い残し、そのまま東へ向かって飛んでいった。《こちら基地司令部! 応答しろ、ソーサラー隊!》
《こちらソーサラー2。手短に報告します》
十分後、基地司令部からの無線が聞き取れるようになった。どうやら電波障害になってからずっと呼びかけていたらしい。クリスはようやく回復した無線で基地司令部に事態を報告した。『青鮫』が単機で飛行していたこと。エドワードとフィリップが撃墜され、パラシュートで脱出したこと。『青鮫』が撃墜したこと。東へ飛んでいったこと。
《分かった。そのまま真っ直ぐ戻ってこい。こっちもちょっと大変なことになってるんだ。滑走路は大丈夫だ》
《何が起こったんです?》
《戻ってきたら分かる》
クリスはその言葉に首を傾げながらもパトリシアを引き連れ、基地へ針路をとった。ようやく基地の滑走路が見えてきた時、思わずクリスは安堵のため息をもらした。滑走路に進入する最中にふと見ると、機体格納庫が一棟、大きく破壊されている。どうやら爆発によるものらしい。
《『リオン』、小滑走路に着陸してくれ。着陸の時に事故が起こるかも》
《了解》
予想通りに、クリスの機体が接地した瞬間、右主翼がベキッと折れた。「ひん曲がった」桁が折れたらしい。右主脚を失った機体は右に大きく傾き、右主翼の折れた部分を地面に擦りながら進んでいった。擦っている部分からは火花が出ている。主翼には燃料タンクがある。引火するんじゃあないか、とクリスはヒヤリとした。右主翼が機体の重さに負けて曲がっていき、ついにプロペラが地面に擦った。そこで一気に機体は減速し、ようやく止まった。
「おい、大丈夫か! 怪我は?」
「大丈夫だよ……悪い」
走り寄ってきた整備員に助けてもらって、機体からはい出る。手の甲に切り傷があるが、大した事はない。整備員がハンカチで血を止めてくれた。
「あの格納庫、何があったんだ」
「工作員……てところか。格納庫を爆破したあと、司令部の無線機も破壊しようとしてたらしい。それを無線手が止めたんだが銃撃戦、工作員は意識不明だ。無線手は腕を撃たれたが、後遺症の心配はないらしい。で、その工作員ってのが、カーチス副司令なんだ」
「何だって! なんでだ!」
思わず、クリスが彼の胸ぐらを掴んだ。整備員は息が止まり、顔が真っ赤になりながら答えた。
「箝口令が敷かれてる。お前らも基地の外には出るな。あと、息が……」
掴んだ手を離して、クリスは考え込んだ。どうして副司令が破壊工作を行い、『青鮫』が自分たちに攻撃をしかけてきたのか。つながりがあるはずだが、全く見えてこないのだ。
(続く)

春号  Byみるく

2013年09月16日
うそつき
みるく


いつも通りあなたのベッドに、いつも通りに入った。
耳元にささやくあなたの声にまた、幸せを感じながら。

まん丸のお月様は、私たちを窓からのぞいて。
私たちもそれに応えて踊らなくちゃ。
私たちだけを照らす、スポットライトにありがとう。

あなたと一緒なら、いつまでも踊れるのだけど
残念ながらあなたは眠そうね。

「眠いの?」なんて聞いても、あなたは強がって
本当のことなんか、いいやしないから。

「眠いよ」ってウソをついて、あなたの胸に顔をうずめるの。
私の大好きなあなたの匂いを胸いっぱいに吸い込んで
仕方なく眠りにつくわ。

ほら、まだお月様があるうちに眠らなくちゃ。
太陽はスポットライトには強すぎるから。...
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この一日を
ざっきー☆   


 白い雲が前方の空に浮かんでいた。雲の隙間からは鮮やかな青色が見える。
 こんな綺麗な世界がもうすぐ終わってしまう……。
 こういうときは何も考えないほうが良いのかもしれない。
叶(かのう)は左手をハンドルから手を離し、右肩を揉んだ。さらにハンドルを持つ手を替え、左肩を揉む。最後に首を左右に振るとポキポキと音がした。
僕の運転する紺色のBMWは、中央自動車道の右側車線を、制限速度よりちょうど二十キロオーバーで走っている。 ラジオからは渋滞情報が流れていた。例年に比べて渋滞は少ないらしい。
 例年に比べて渋滞は少ない……当たり前だろう。
 今時、もうどこへ行っても状況は変わらない。
 そう考えると、自分がわざわざ田舎を目指して車を走らせているのが馬鹿らしくなってきた。
 でも仕方ない。母から電話がかかってきたのだ。
「お父さんが叶に用事があるらしいわよ。どうしても家に戻ってきてほしいらしいわ」
 まったく、今時になって父はどういうつもりなのだろう。
 いや、今時だからだろう。そう、あと二年となった今時。

「もうここには二度と帰ってこない」
 そう言ったのが十九のことだ。それから東京に行き、親と仲が悪いという重荷を背負いながら自分は二十九になっていた。 
 父は僕の事を小さい子供のときから「馬鹿だ、馬鹿だ」とずっと言っていた。
 そして十九の時には失敗作と、そして何をしても失敗すると、父は俺に言った。
 その時、誓った。絶対成功してみせると。
 そして家を出た。その後はいろいろ大変だった。東京で成功するためにアルバイトをしながら勉強した。そして大学に入り、精一杯がんばった。
そしていつの間にか会社を持ち、妻を持ち、子供を持った。
果たして僕の人生は失敗だろうか――いや僕はそうは思わない。
そう、あと二年しか生きられないとしても、失敗ではない。
俺の寿命があと二年――そういうわけではない。
俺の寿命ではなくて世界の寿命だ。

*****************************

地球に彗星がぶつかると発表されたのが三年前、そのとき地球はあと五年と発表された。
 初めの一年は恐怖と焦りで混乱した人たちが、あちこちで暴れだした。
 むやみに人が殺されることが多発し、警察の手には負えなかった。
 また、大半の人間が働くのを辞めた。
 貯金をする必要がなくなったからだ。
 あとたった五年間、預金がもてばいいのだから。
 しかし、人間の大半が消費者の世界で生産者が働かなくなるとどうなるだろうか。
 消費者は怖がった、食糧危機になることを。
 初めは買いだめなどが各地で起こった。
 そして、食料が本当になくなってきたとき、あちこちの店が襲われた。
 略奪、暴動があちこちで起こっている中、恐怖に耐え切れず自殺していく人が後を絶えなかった。

 発表から二年目
 政府は強硬手段に出た。多少の犠牲が出ても犯罪者を捕らえることにしたのだ。
 警察は重装備が基本になり、銃の発砲に何の躊躇をしなくなった。
そして、捕らえた犯罪者は無理やり食料を生産させられた。

 発表から三年目
 大量の人が犠牲となり、どうにか食糧などのバランスが取れてきたため、犯罪を起こそうとする人は少なくなった。
 生き残っている人は、いかに有意義に残りの時間を過ごそうか考え始めた。

*******************************

 あと五年と聞いたとき、僕は初めに友人など、会いたい人に片っ端から会っていった。
 既に死んでしまった友人や目の前で自殺した友人など、様々な友人に会った。会えて良かったと思っている。
 その次に行きたい場所に行った。今更どこも同じ状況なのだが海外に行った。そして、何も考えずにやりたいことをやった。何から何まで。あと、美味しい物も食べた。
 そして……妻に謝った。
 今まで「愛してる」や「ありがとう」は何回も言ったことはあったが謝った事は一度も無かった。
 それでも何かにまだ、けじめをつけられていない気がした。
 それが何なのかに気づいたのは母からの電話だった。
 電話を取った後は、妻に話してすぐに車に乗って実家に帰ろうとした。
 もう重荷は下ろしたかった。

*******************************

 もうすぐ実家だ。ふと、胃が痛くなった。 
自分は父と会うのを別に怖がっているわけでもない。しかし、異様に緊張した。
 実家が見えた。十年前の記憶と何も変わっていない。
 俺は心臓が異様に早く鼓動を打っているのを感じながら、玄関の呼び鈴を鳴らした。
「叶っ! 久しぶりね」
 母が顔をほころばせながら出迎えてくれた。
「さ、食事にしましょう」
 私は母の後ろについていった。
 元々自分も住んでいた家なのに、全く他人の家に感じられた。
 台所に行くと父がいた。
 外見は十年前とほとんど変わっていないように見えた。
 父が顔を上げた。
 父と目が合った。
 目が合わさったとき、どんな顔をすればよいのか、全くわからなかった。
その後は出来るだけ目を合わせないようにした。
「元気にしてた?」
「うん、元気だよ」
 そんなたわい無いことを母と話して夕食を終えた。
 父とは何も話さなかった。
 そのあと風呂などに入って寝る用意をした。
 母の電話を思い出した。
 父が何か用事があると。
 そんな父は今、酒を馬鹿みたいに一人で飲んでいる。
 何を考えているか、全くわからない父は放っておき、俺は母と話しをした。
「母さん、明日、僕は妻が心配だから帰るね、今までありがとう」
「そう、もう帰ってしまうの」
母は悲しそうな顔をした。
 そして俺は寝床に就いた。

*******************************

「叶」
 少し厳しい口調で呼ばれた。
「はいっ!!」
なっ、なんだ? いきなり父に呼ばれた。
「話がある」
 なんだろうって、酒臭え!
「どれだけ飲んでいるんだよ!」
「黙れ、馬鹿! シラフで息子と話せるか!」
 この時点で僕は父に乗せられた。父は僕に話をさせるのがとても上手い。
「はあぁ?」
 今、偉そうに情けないこと言ったぞ!
「とりあえず黙れ、お前には色々聞きたいことがある」
 そういえば、用事があるって……
「な、なんだよ」
「父さんが知らないうちに結婚して子供もいるそうじゃないか。奥さんとはしっかりやっているのか? お前を器の小さい男に育てた覚えは無いからな」
「シラフで息子と話せない器の小さい男が語るなよ!! 別に……上手くやっているよ」
「よし、じゃあお前も飲め、これから話す内容はお互いシラフで話す内容じゃないんだよ」
 なんだ? 今のが、本題じゃないのか?
「叶、父さんはお前が子供の頃から馬鹿だ馬鹿だと言い続けてきたな」
そう、僕は昔から成績が悪かった。
 父としては僕以上に苦労がかかった事は無かったはずだ。
 それは父の口癖の「叶は、いつもいつも……」と言う要因にもなったはずだ。
 それは僕にもわかっていた。
 わかっていたからつらかったのかもしれない。
「父さんはあの頃、ちょうど仕事で失敗していてな」
「……」
「お前は百歩譲っても父さんの子だから、父さんの悪いところを受け継がれたと考えると認めたくなくてな」
「……」
 言葉が出ない。
 まさか、そんなことを考えていたなんて。
 それに僕は、父さんは僕を息子と認めていないとも思っていた。
「それに、頭の良さは成績や学歴ではないしな。成績が悪くても大きな事は出来る。お前に馬鹿と言ったのは父さんが馬鹿で認めようとしなかったからだ。それにお前は俺が馬鹿と言わなければもっといろんなことが出来たかもしれない」
「……」
「父さんはお前の人生をつぶしてしまった。父さんが悪かった……」
 胸が苦しいような不思議な感情があふれ出てきた。
 気づくと、父さんの顔がしっかり見えずに、にじんで見えた。
 果たして僕は何を憎んで十年も逃げてきたんだろう。
「誰が許すか! この馬鹿父!」
「あぁ、本当に馬鹿だったのは父さんのほうだ」
最終的に父に言った「許さない」は嘘になってしまった。

*******************************

「父さん、母さん、ありがとう。僕は家に帰るよ。妻が待っているからね。あと二年だけど、必ず妻を連れてもう一度ここに来るよ」
 実家の玄関、今は他人の家に感じられない。
「あぁ」
 父さんが笑った。
 人生で父さんが笑っているのを見たのは初めてかもしれない。
「それじゃあね、叶。十年前のように家に帰ってこない、なんて事はやめてよね」
 母さんも笑っていた。
「うん、必ず帰ってくるよ」
 十年間背負っていた重荷を、今ようやく下ろせた気がした。
 妻に話すと妻も笑ってくれた。実は妻も僕に仲直りしてほしかったらしい。
 僕はこの人生を誰にも失敗とは言わせない。

*******************************
...
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きょろキョロ恐路
妖怪腹黒



 誰しも朝は眠い。誰しも、だ。そうあって欲しい、というかそうじゃない奴は呪ってやる。そう心の中で呟きながら佑介は起き上がった。いつも何かしら忘れ物をしてしまう悪癖はこれに起因するとわかっていても、目覚ましを五回も延長してもうさすがにこれ以上寝ていたら遅刻してしまう時間までだらだらと寝てしまう。
 急いで服を着替える。私服校に通っているのだからファッション誌をくまなくチェックして常に流行りの服を着なければ、というほどではないが、ある程度ブランドを選んで上質な服を選んで来ていた。ある程度のブランドの物を買えばそう間違いは無い。佑介はそう思っていた。また常々心の底では、全く服装に気を遣わない同級生、例えばよれよれで趣味の悪い服や小学生でも着ないような幼稚なブランドの服を高校生になっても来ているような人間のことを見下していた。
 朝食はお気に入りのベーカリーのフランスパンをスライスして焼いたものを食べた。フランスパンなどの本格的なパンこそがベーカリーの力量の差が顕著に表れるからだ。自分が良質なものを食しているという満足を得て、朝食の席を立つ。出かけねばならない時間だった。玄関の前の姿見で服と髪型を整える。本人が多少残念でも色々と気を遣ったらそれなりになんとかなるものだ、と自分に言い聞かせる。自分の耳に甘いことを言うのだけは得意だ。
家から歩いて数分で駅に着く。祐介がいつも乗る電車は、その駅では空いているのでいつもの場所に座った。しばらく座っていると座席が込み合ってきた。二、三駅過ぎたあたりで、数人の小学生が佑介の目に留まった。
「席を替われよ、俺らが座りたいんだ」
「い、嫌だ。ぼ、ぼ、僕達が先に座っていたんだ」
 二組の小学生たちが会話している。座っている方は地味で大人しそうな子供達だが、座席を奪おうとしている小学生たちは明らかに垢ぬけていた。
「生意気なこと言ってるんじゃねえよ、お前らみたいな下の奴らが」
 派手な子供達の内の一人がそう言って迫ると、地味な方の子供達は下を向いて返す言葉が無い。
「調子に乗るなよ」
 とさらに続けると、ついに地味な方の子供達は立ち去った。
 スクールカースト、学校における階層社会、こういったものは別に学校に限らず集団生活の中では必ず生じるものであることは確かだが、小学校の低学年の内からそれにさらされている現場を見ると、いや正確には昔の佑介の立ち位置を思い出させるようなものを見て彼は、ひどく暗い気分になった。「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった」谷崎という作家のこの言葉は常に真実であることは佑介も理解していた、しかし、小学校低学年から階級が厳然とあるのを見るとやはり寂しかった。
「うぃーす、おはよー」
 登校しているとあちこちから声がかかる。佑介は、ああ、俺は知り合いがたくさんいるんだな、と思うだけで安心できるし、またそう思えなければ不安になる。教室に入ったら周りをキョロキョロと見渡して友達の輪を把握してその友達たちの群れの間を飛び回る。広く浅く華麗に、が俺の人間関係のモットーだ、と佑介は自慢げに思った。自分でも友達は多い方だと思うし、そのなかでも良く遊びに行くとりわけ仲の良いグループもいる。俺はただの八方美人じゃない、というのが佑介の言い訳めいた自負心だった。
朝に見た風景のせいだろうか、休み時間に佑介は漢文の授業で取り上げられた本を図書館へ借りに行っていた。性悪説というものも彼にとっては自分に合っているように感じられた。
 それにしても、いつ来ても、図書館というのは息苦しい。そこに巣食うやつらも何かパッとしない。どいつもこいつも似たようなジメジメしたメガネ君ばっかりだ。ダサいうえによれよれの服、甲高い声、卑屈な態度。キーキー屁理屈を喚いていてもちょっと小突いたらすぐに泣いちゃうんだろうな、と佑介は常々馬鹿にしていた。このクラスの底辺め、お前と交わることなんか一生無い、とも。
さて。ところで、人間とは案外、他人の話を聞いているものである。クラスでひっそりと話されること、クラブでひっそりと話されること、当人たちは世界にその会話を共有している者は我らだけだなどと思っているが実は居合わせた大半が把握していたりする。「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とあるが、見えている範囲にある物には自分の言は把握されていると考えてよい。
 祐介はその時、教室に残って宿題を解いていた。だがふと背後の話題が気になって意識を集中させると同級生の女子たちが喋っていた。
「私××って嫌いだわー」
「私も。あいつなんかきもいよね」
「あいつって凄く出しゃばりだよね、この前の体育もキモいくらいに張り切っちゃってさ」
「やたら大声出してうっとうしかったよね、しかも全然自分で動かないでこっちにばっかりボール回してくるし」
 おいおい欠席裁判にも程があるだろう、この前の体育なら男女合同だったから分かるが、もっと声出せだのパス出せだの叫んでいたのはこいつらだというのに。所詮こういった悪口大会は誇張歪曲捏造なんでもありの断罪ありきの魔女裁判だ。しかし佑介にはそう思っていても言わないだけの賢さはあったので、黙って宿題をこなしていた。彼は何となしに図書館で借りたあの本を読みたいと思った。
もうそろそろ宿題も終わって暇になったので教室を出て靴箱まで歩いていると、暗い中、見知った姿が見えた。
「あれ、どうしたんだ?」
 佑介は後輩が最終下校時刻過ぎにまでに学校に残っているのが珍しくて声を掛けた。
「今日は星の観測会があるので残っているのですよ」
「あれ、君は天文部だったっけ?」
「違いますよ、いや、私は天文部ですけど、今日のは学年の観測会です」
「ああ、学年のか。私達の学年は数回しかやっていないな」
「そうなんですか? 私達の学年は結構沢山観測会ありますよ?」
「ふーん、どうせうちの学年の時は男ばっかり集まって、君の学年の時は女子がいっぱい集まったからじゃないかな。あの腐れロリコン教師が」
「あははっ、あながち間違ってはないですね。でも腐っているのは彼だけじゃないですよ。競争を課せられることなく市場を独占しているのにもかかわらず利益を利用者に還元しない、学校指定のバス会社やクソ不味い食堂や購買がどうやって採用されているかっていったらそりゃやっぱりコレですよコレ」
 そう言いながら後輩は制服の袖の下を引っ張る。
「腐敗しきってるな」
「実は全部今のは私の妄想です」
「え?」
「つまり全く根拠なんて無いんですけど、ぶっちゃけあの独占っぷりと客数とぼったくりっぷりは一般の小売から見たらチートですよ。どっからどーみても薄汚い大人のアレがぐちょぐちょですよ本当にありがとうございました」
「そ、そうかい。まぁボロい商売してるなあとは思うけど」
「でしょでしょ。あ、すみませんもう行かなくちゃいけないんで」
「うん、わかった。ばいばい」
「さようならです!」
 早口でまくし立ててぴょこぴょこ走り去っていく。あの子と話せて気がまぎれた、と佑介は思った。先刻、担任と学年主任が話している内容が、夕暮の静かな校舎に反響して聞こえてきたのだ。彼らは佑介をこう評していた。「中身のない軽薄な人間」と。それなりに充実して、同級生とも教師とも仲良く出来ていると思っていただけに彼の心に突き刺さる言葉だった。
 次の日の放課後佑介は毎週のことだが焼肉屋にアルバイトに行った。図書館で借りた本はまだ読んでいなかった。
バイト先でも上手に立ち回って人間関係を築き、社会経験を着実に積んでいる、と佑介自身は思っていた。思い込んでいた。また、客の一部をいかにも底辺臭いと小馬鹿にしていた、彼自身もはした金の為にあくせくアルバイトしている人間であるというのに。
佑介がシフトに入ってから1時間ほど経った頃だろうか。ちょうど客の多い時間帯で、中々に忙しかった。外見に難はあるものの愛想の良さで接客の方を担当していた佑介は足に疲労を感じ始めていた頃だった。今日の賄いは何かな、などと頭の片隅で考えていた。また新しく客が入ってくるのをみて「いらっしゃいませー」と声を出した。クラスメイトだった。クラスメイトが来た。クラスメイトがクラスメイトがクラスメイトがクラスメイトが来た。佑介と数人を除いたクラスの皆が来ていた。つまりクラス会ということで、自分は「ハブられた」わけで、つまりいわゆる残念な奴で、つまり普段見下している奴らと同じで、いやそれ以下な訳で、あああああ。
佑介は呼吸が止まりそうだった。何故。自分は友達もそれなりにいるし、人気もあるし、ちゃんとしたポジションを確立していたはずなのに、どうして。彼は人生を丸々否定されたように感じた。これは一部の俺のことが嫌いな人間が強硬に主張した結果だ、きっとそうに違いないと言い聞かせないとまた倒れそうになる。それでも全く知らないふりをして、マニュアル通りの完璧な接客をする。当たり前だが向こうもこちらに気づいていて、空気が重くなっている。しかし、その後少ししたら、何かぎこちなくもそれなりに楽しそうにしている。
うすうすとは分かっていた。浅く交友範囲を広げたところで、結局は誰にも友達扱いなんてされていないって。まあまあなポジションを築いたつもりになっていても結局周りからの評価は低いのだと。格好いい服を着ているんじゃなくて服に着られているんだと、自分が普段見下しているような者よりも結局は劣った恥ずかしい存在なのだと。
その後のことは良く覚えていない。フラフラになりながら家にたどり着いて泣いたことくらいだ。その次に何か惹かれるものがあって本を手に取った。
そこにはこう書いてあった。
「人主之患在於信人,信人則制於人。
人臣之於其君,非有骨肉之親也、縛於勢而不得不事也。
 故為人臣者,窺覘其君心也無須臾之休,而人主怠傲處其上,此世所以有劫君弑主也。
 為人主而大信其子,則姦臣得乗於子以成其私,故李兌傅趙王而餓主父。
 為人主而大信其妻,則姦臣得乗於妻以成其私,故優施傅麗姫,殺申生而立奚斉。
 夫以妻之近与子之親而猶不可信,則其余無可信者矣。
 君主の災いは人を信じることで生じる
 人を信じれば人に出し抜かれる
家臣の君主に対する態度は
家族の情愛から来ているのではなくて
状況が従わざるを得ないようにさせているのである
家臣は絶え間なく君主の心を探ろうとしているのに、
君主がその上にいて安穏としている
これが世の中で君主が殺される理由である
君主が子を信用すれば、姦臣は子を利用して悪事を図る
君主が妻を信用すれば、姦臣は妻を利用して悪事を図る
夫が妻や子ですら信用できないならば、
もうほかに信じられる人などいないのである」
つまりこれは、王はだれも信じてはならないという人間不信宣言だ。
ああそうだ、と彼は思った。人は皆それぞれが絶対不可侵な領域を総べる王なのだ。人は並んで立つことはできても、隣にいることはできても、最終的には一人なのだ。所詮人なんて、人と人のつながりなにて、この世においては諸業無常の理に従いて流転して滅するものなのだ。その通りだ。この世の関係なんてほとんどが利害に応じて役割を演じているだけの茶番なんだよ。
――まぁ、負け惜しみなんだけどね、と佑介は一人呟いた。佑介は一人そのつもりになっているけど客観的にみると、気持ちの悪い男がねちょねちょと口を動かしながら不明瞭な鳴き声を発しているだけであった。人は誰しも己の恥ずかしい姿を見据えられなくて、思考停止して頭の中で言い訳めいた幻想を作る。己の行為を脚色し仮面を被せ心地良いものにして誤魔化す。喩えるなら仮想OSとでもいえるだろうか。結局彼はそういった悪い癖からは決別できていないのだ。
彼はその後、人間よりも獣を好むようになって、猫カフェなどに入り浸るようになる。もう人間なんか嫌、だそうだ。
...
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春号  By匠

2013年09月16日
パラレルワールド


マヤ文明の予言では二〇一二年に人類は滅亡する、と言われていた。しかし、人々にさんざん騒がれたというのに結局、何も起こらなかった。人類は今も概ね平和に暮らしている。
 だが、私達が無事だとしてもこの世界とは異なる未来を迎えた世界、パラレルワールドの中の一つでは人類は滅亡している。そのパラレルワールドもこの世界と同様に人類が滅亡するほどの災害も起こらなかったし、宇宙人が侵略に来たというようなことは何もなかった。
 それにも拘らず、ある悲劇によって、そのパラレルワールドの人類は滅んでしまったのだった。



 ここは、あと一か月で人類が滅びてしまう世界。
そんな世界の日本の首都、東京でランドセルを背負った二人の少女が不安げな顔をしながら下校していた。このパラレルワールドに住む親友同士の優奈(ゆうな)と亜美(あみ)だ。
「今日は十人も学校休んでたね」
「これからもっとみんな来なくなるよ……」
 人類が滅亡するまであと一か月。そこまで迫るとどうせ人類は滅亡するのだから、もう仕事をしても意味がないと働かない者が少なからず出てきていた。
 やる気をなくすのは当然大人だけではなく、子供も同じで学校に行かなくなっている子が増えてきた。むしろ子供の方が多い。犯罪数も大幅に上昇した。
「たったあと一か月でほんとに人間がみんな死んじゃうと思う?」
「大人達が言ってるんだからそうなんじゃない?」
「適当だなー」
 優奈は真剣に聞いたのに亜美はどちらでもいいという風に答えた。本当は不安で堪らないのに強がっているだけだ。幼稚園からの長い付き合いだからそれが分かり、苦笑いした。
「優奈は明日もちゃんと学校来てね」
「うん。亜美ちゃんもだよ」
「分かってる。じゃ、また明日」
「バイバイ」
 亜美に手を振りながら、家に入った。

「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、家の中が静まりかえっていることに真っ青になった。
「もしかして……」
リビングに入ると家族全員が暗い顔で座り込んでいた。父がすまなそうな顔でこちらをのろのろと見上げた。
「チケット、だめだったの?」
家族の様子からして、答えなどほぼ分かっているのに聞かずにはいられなかった。
「すまない……優奈。一枚しか、取れなかったんだ」
 父は机の真ん中に置かれた一枚の紙切れを指差した。優奈は頭が真っ白になってパタン、と膝をついた。一枚では意味がないのに。
 これは地球脱出のための宇宙船のチケット。
地球で何かが起こり、人類が滅亡するのなら宇宙に逃げてしまえばいい。そう考えた人類は数年前から世界中の優秀な研究者を集め、巨大宇宙船を開発していた。このことがあったからこそ人々は人類滅亡説を信じたのだ。
しかし、全人類が助かるための数の宇宙船は用意できなかった。宇宙船はそれぞれの国の人口数に比例させ、平等に分けられた。日本には五機の宇宙船が与えられた。だが宇宙船に乗れるのはどう頑張っても一千万人にも満たない。
だから、首都で宇宙船のチケットをかけたオークションが開催された。それが、今日だったのだ。
「そっか……」
 それだけポツリと呟いた。他に何を言えばいいか分からなかった。我が家は一般的にみると裕福な方だ。だから父が必ず家族全員分のチケットを手に入れてくると出かけて行った時、父の言葉を信じて疑わなかった。チケットのことが心配で学校を休んでいた姉と弟は大泣きしたようで、真っ赤な目をしていた。母も普段はおしゃべりなのに先ほどから何も話さない。
「それで、誰が宇宙船に乗るかだが……どうしたい?」
 父は家族を見回した。チケットは一枚だけ。よって助かるのは一人だけだ。
「……拓也はどう? 一番小さいんだし……」
「で、でもぼく、お母さんにも助かってほしい!」
 母は幼い拓也を指名するが、拓也は母親っ子なので母なしで生きていけそうにない。
「やっぱり家族代表でお父さんじゃない?」
 姉の玲奈は父だと主張したが、当の本人が拒絶した。
「愛する妻や子を置いて一人だけ逃げるわけにはいかない。子孫を残すことを考えれば玲奈か優奈だ」
 優奈は自分のことよりもお互いのことを考える家族の姿に感動した。取り合いになると思った自分が恥ずかしくなった。
「じゃあ、誰も乗らないってことでいいじゃない」
「え?」
「本当に滅びるかも分からないし、死ぬ時は家族みんなで一緒がいいよ」
 そう提案するとさっきまで落ち込んでいたのが嘘のように家族全員がニコリと笑って頷いた。
「うん!」
「そうね。それがいいわ」
「あぁ、そうだな」
「さすが優奈。いい考えね」
 優奈はこんなに素晴らしい家族を持てたことを幸せに思った。




 翌日、学校に行くと明らかに空気が沈んでいた。優奈の教室、六年三組に行くと、普段ならほぼ全員来ている時間帯なのにも関わらず半数程度しかいなかった。
「優奈、おはよ」
「おはよう、亜美ちゃん。……どうしたの? すごく顔色悪いけど」
「うちさ、チケットが一枚も取れなかったんだよね……。みんなにも聞いたけど取れなかったか一枚だったって。普通の家じゃとても家族全員分は払えない額らしいよ。優奈ん家はどうだったの?」
 亜美が問いかけた瞬間クラスにいた全員の視線が優奈に集中した。
「あ、えっと、うちもダメだったの」
 そう言うとクラスメイト達の視線が外れていった。みんな気になって仕方ないのだろう。
「優奈ん家でもだめだったのかー」
「うん……。でも家族はね、最後まで家族一緒に幸せに暮らせたら短かったかもしれないけどいい人生じゃないかって言ってるの」
「うわ、すごいポジティブ。じゃそれ、あたしも家族に言うよ」
「それがいいよ」
 優奈はその日から勉強にも運動にも精一杯取り組んだ。時間の許す限り、家族や友達とともに過ごした。それが死ぬまでにやるべきことだと思ったのだ。



 そして、ついに人類の滅亡までわずか一日となった。人々は最後になるであろう夜を過ごしていた。
 深夜、優奈は物音で目を覚ました。
「なに……?」
 次いで、母の悲鳴が聞こえた。泥棒かもしれない。見に行こうかしばらく迷ったが、やがてそろりそろりと母達の寝室に向かった。弟はまだ一人で眠れないのだ。
「お母さん、大じょ……」
 優奈は母達の寝室を覗き込んで絶句した。優奈の目の前には父も母も拓也も血だまりの中に倒れていた。悲鳴を上げようにも声がでなかった。そしてその先には玲奈が立っていた。
「優奈……。あんたもチケット狙い?」
「ちが、ひ、悲鳴が聞こえたから……」
「じゃ、わたしがこのチケットもらっても文句ないわね?」
「その、ためにお母さん達を?」
 玲奈は顔を歪ませて首を横に振った。
「こ、殺すつもりなんてなかった。こっそりチケットを盗もうと思っただけ。だって、だって死にたくなかったんだもの。なのに忍び込んだらお父さんは死んでて拓也は大泣きしてて……」
 動揺しだした玲奈を見ていると、優奈は何故かすっと冷静になれた。落ち着いて玲奈の話を聞いた。
「お父さんは最初から死んでたってこと?」
「お母さんよ! あ、あの人初めから拓也を助けるためにチケットを盗んで逃げる気だったのよ! 結局拓也が一番かわいいんだから」
 玲奈によると母は寝ている父を刺し殺そうとしたが、父は母の様子がおかしいと警戒して狸寝入りをしていたらしい。しばらく抵抗したがやはり、包丁を持っていた母の方が有利だった。一部始終を見ていた拓也は大泣きし、母があやしている時に玲奈が乱入したのだ。母も玲奈も互いに動転し、チケットを奪い合った挙句殺し合いに発展した。空手の有段者だったこともあってか玲奈が勝利した。母を殺してしまってから理性を取り戻し、そばで泣きじゃくっていた拓也に事情を聞いたのだという。
「だから、拓也はちゃんと生きてるわ。話してくれた後、疲れてお母さんに縋り付いて寝ちゃっただけ」
耳を澄ますと確かに拓也はすやすやと寝息をたてていた。
「じゃあね」
 そう言い残して玲奈は静かに家を出て行った。優奈は怒ることも泣くこともできず、茫然と立ち尽くしていた。
一か月前に家族に感動した自分が馬鹿みたいだった。母は息子のため、玲奈は自分のために家族を殺したのだ。父も母を信じ切ることができなかった。
結局、人間は自分が危機になると本能的に命を守ろうとするものだったのだ。ようやく優奈は真実を知り、目が覚めた。



このような事態は世界中で起こった。宇宙船に乗るために人々は争い合い、ついに国同士で宇宙船の取り合いになった。最終的に核戦争にまで発展した。どの国が初めに使用したのかは分からない。核兵器を所有している全ての国は緊急事態に備えていつでも使えるように準備していたらしい。箍が外れた人々はめちゃくちゃに核兵器を使用した。
そして、核兵器によってパラレルワールドの人類は滅亡したのだった。
                     
                       終わり

ホ ン ト の キ モ チ(girl side)
壱潟満幸 

 
 前半

 部屋のドアが閉まった音で私は目を覚ました。目覚ましを確認すると、現在七時三十分。今日は大学の講義が午後からなのでまだまだ余裕がある時間帯だ。今さっき、出て行ったのは同居人の少年、多田(ただ)剣壱(けんいち)だ。この前、彼の母親が亡くなり、一人暮らしになってしまったので、昔からの縁もあって一緒に住むことになった。それに彼には少し、問題があるからだ。高校生の少年と大学生の私が同居するのはいささかどうかと思うが、お互いフォローしあう所があるので、今の所は不問である。
 もう一眠りしようかと思ったが、この勢いだと講義に寝坊で遅れてしまうと思い、体に鞭を打って布団から這い出る。
 現在一月下旬、冬の寒さが一番厳しくなる時期だ。Yシャツにパンツというかなり、エロい格好でその上薄手なので寒い。さっさと着替えをしまおうと思い、衣服をしまってある箪笥に向かう。
 しかし、向かう途中で昨日洗って洗濯機の中で乾燥させてあったのに気付き、洗濯機のある洗面所に向かう。ドラム型の洗濯機の蓋を開け、中身を籠の中に放り込んでいく。後で畳んでおかないと、と思いながら、ブラを探していく。そして、タイツ、長袖のシャツと次々と取り出してカーテンで仕切られたリビングスペースに戻る。
 着替えを済ませて、キッチンに行くとテーブルの上にハムエッグとサラダがラップを掛けられて置かれていた。その隣には剣壱が書いた置手紙があり、味噌汁があると書いてある。味噌汁を注ぎにコンロの方に行く。小さい鍋の中には、アサリの味噌汁が入っていた。私の中でかなり好きな具だ。コンロに火をつけてお玉で混ぜ、食器棚からお椀を取り出して温まった味噌汁を注ぎ込む。美味しそうな匂いと白い湯気が立ち上る。そして、炊飯器の中から今朝に炊き上げられた白飯を茶碗に少なめに盛る。テーブルに付き、箸を取って「頂きます」と言い、静かに食事を始めた。一言言うと、おいしかった。私でも作れるような簡単なメニューなのに、何だか自分が作ったものとは違う美味しさがあった。
 食事が終わり、洗濯機から取り出しておいた洗濯物を畳み始める。剣壱も私も特に気にしていないので洗濯機を回すのは同じタイミングだ。つまり、彼の下着も畳まないといけないのだが、恥ずかしさなどなかった。別にいやらしいことをするわけでもないのだし。
 洗濯物を畳み終わり時計を見ると、九時前。小さな薄型液晶テレビを付け、朝のバラエティ番組を見る。食材の特集や健康法など様々な情報があった。しかし、それは私より上の年齢が気にするような事ばかりだったので、特に気にも留めなかった。
 十時過ぎ、友人から電話がかかってきた。
「もしもし、明海(あけみ)?」
「ヤッホー、夕実(ゆみ)。今、暇? いや、暇だよね?」
「うん」
 何だか嫌な予感がした。
 黒真(くろま)明海、大学で知り合った友人で同じサークルに所属している。
サークルの活動は主に小説や随筆、評論文の吟味。執筆を活動内容としている。いわゆる文芸活動だ。
明海は小説などの舞台を観光したりするのが好きで、よく誘われる。
「じゃあさ、これから寺町京極商店街に行こうよ!」
 恐らく、声のトーン的に電話の向こうでは彼女が目をキラキラと輝かせていることだろう。
「そこって、『檸檬』の舞台の一つだっけ?」
「そうそう」
「……今日は無理かな? 昼から講義があるし」
「え~そんなのサボっちゃいなよ! どうせ、あの面白くも無い爺教授の講義でしょ。聞いても意味ないって」
「でも、出席日数稼いでおかないと、後で単位に響くもん」
「ぶ~、ちぇ、折角後で辻利のパフェ奢ってあげようと思ったのに」
「……それ、完全にサボりルートじゃん」
「そういやそうね。サークルに間に合わないな」
「なら、無理ね。じゃ、サークルで」
「うい~」
 通話を終了し、テレビに視線を戻そうかと思ったが、次の同人誌に載せる短編が出来上がっていなかったので、テレビを消してノートパソコンを持ってくる。
 今書いているのは、いじめを受けていて、ついには自殺未遂をしてしまった少女が転校することを主人公である少年が知って、その彼女を追う話だ。まあ、これはとあるアニメのエンディングを聞いて思いついたものなので大体のプロットは出来ているのだが、細かいところが中々思いつかないので筆が進まない。打ち込んでは消し、打ち込んでは消す作業を繰り返している。三十分もすると集中力が切れてしまい、カーペットを敷いた床に転がる。お気に入りの可愛い猫の形をしたクッションを抱いてごろごろする。ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……
 甘いものが欲しくなり、キッチンに行って戸棚からココアを取り出す。粉をカップの中にタップリいれて、牛乳を注ぎ込んでレンジで温める。スプーンを咥えて待つこと一分弱。チーンという昔ながらの音で温めが完了。扉を開けて、カップを取り出すとある程度混ざった状態のココアが湯気を上げる。咥えていたスプーンでカップの底に溜まったあるであろう粉をかき混ぜる。そして、混ざり終わったらチビチビと甘いココアを口に含んでは飲み込んでいく。甘いものがある程度好きじゃない人だと吐きそうになるほど甘い。始めは甘すぎると思ったが、今はこれが丁度良い。甘党万歳☆
 ココアを飲み終わり、水を入れてシンクに置き、周りにおいてある朝食の食器を洗い始める。洗剤をつけて、油汚れなどを落としていく。泡立ったスポンジは油をどんどん分解して汚れを落としていく。すべての食器を泡塗れにし、お湯で濯いでいく。給湯器が使えるので赤切れなどには困らないが、手が荒れてしまうので、後でハンドクリームを塗っておこう。
 食器を洗い終わると、十一時。そろそろ大学に行く準備をしなければならない。
 ノートパソコンの電源を切って、コンセントを抜く。洗面所に行って、いつも通りにメイクを済ます。髪を巻かずにヘアゴムでまとめ、メイクで失敗していないかを鏡で確かめる。問題なし。
 ハンガーにかけてあるコートを着て、鞄にノートパソコンを入れ、教科書、ノートを確認する。こちらも問題なし。
 玄関に向かい、ブーツを履く。そして「いってきます」と誰もいない部屋に向かって言い、大学に向けて私は家を出た。

 大学の講義は明海が言ったとおりつまらないもので、結局ノートには思いついた小説のアイデアを書いていた。講義で言われたところはチェックを入れてあるため、見落としているところは無いはず。
 現在、二時三十分。二つの講義を終えて、かなり遅めの昼食を中庭のベンチで取っていると、誰かに声をかけられた。
「よお、麻井(あさい)。今頃昼飯か?」
 後ろを振り返ると、ジーパンにシャツ、紺のカーディガンという格好の眼鏡男がそこにいた。
「あ、真治(しんじ)さん」
 彼は礒部(いそべ)真治、私が所属しているサークルの部長である。彼は作家としても名を世間に知らしめている実力者でもある。しかし、文芸以外は全然だめで、ファッションや食、その他諸々にまるで関心が無い。天才にはやっぱり何か一つは欠陥があるものだなと勝手に分析している。
「今日は、コンビニか。彼氏が作った弁当じゃないんだな」
「彼氏じゃないです。剣壱は私の同居人で幼馴染です。特にそのような感情は持ってません。第一、彼はまだ高校生で子供ですよ?」
 からかわれているのに少々、苛立ちながら真治さんに反論する。
「今の言葉聞いたら、剣壱くん、傷つくだろうな」
 真治さんはにやりとしてベンチで空いている私の隣に座った。
「え、どうしてですか?」
「高校生で思春期の若人に子供扱いをするのは失礼だからな。君だってそうだったろ?」
「いえ、私は身の丈を知っていたので、そのようなことはなかったです。親に暴言を吐いたらどやされましたし」
「…………あ、そう? まあ、結構今はデリケートな時期だから彼の前ではそのような事言っちゃダメだよ?」
「は、はぁ」
 私は何故か真治さんに諭されてしまった。何故か最近、真治さんは剣壱の事を良く知っているような口調で話す。何故だ?
「あ、そうそう。原稿あがった?」
「まだです。締め切り、あと二日延ばしてくれませんか?」
「僕は別にいいけど、未来(みらい)がねぇ。あの子、締め切り五月蝿いから。あ、僕は昨日で仕上げたよ」
「何ページほど?」
「七八ページ」
「作家の名は伊達じゃないですね。その脳ちょっと解剖したくなります」
 私は冗談めいた事を言って笑う。あぁ、羨ましい。
「それは困るな。解剖されたら死んでしまうよ。ハハ」
 真治さんも笑い、そのままサークル活動時間まで話し続けた。原稿を書けよと思うがまあ、不問でよろしく。
 最近始まった、小説のドラマのヒロインがどうやら、東野圭吾のミステリーの人気である理由は何だ、好きな作家は何だ、嫌いな文章はどんなものかなど。
「あ、そろそろ時間だな。行こうか」
「はい、お話、面白かった上に為になりました」
 私は真治さんにつられて立ち上がって彼に笑って御礼を言う。現役作家の言葉はとても貴重なものだった。
「うん、僕も楽しかったよ。また、暇が会ったら話そう」
 そういって、真治さんは私の頭に手を置いて撫でた。
「ちょ、やめてください」
「あはは、赤くなってる」
 手を払いのけ、一歩さがる。真治さんは気に入った子の頭を撫でる時があるので気をつけなければならないのに。油断した。顔が赤くなるのを感じる。
「……ほら、さっさと行きましょ。遅れたら未来さんに怒られますよ」
 日が傾く直前の青い空の下、私は歩き始めた。少し、拗ねたような顔をしながら。


 サークルで未来さんに締め切りより遅く出すことを言って、そのまま説教され、執筆をし、駄弁ってサークル活動が終わった。
「んじゃ、お疲れ。原稿、早く仕上げろよ」
「はい、分かりました」
 サークルに支給されている部屋を出て、私は帰路に着いた。
 すると、ケータイが鳴った。
 サブディスプレイに表示されたのは、剣壱の名前だった。
「もしもし」
「あ、ゆう姉。今、スーパーにいるんだけど、晩に食べたいものある?」
「別に、何でも良いけど、暖かいものが良い。寒いし」
「わかった。そういや、今日はほうれん草が安いし、……よしシチューにするよ。サラダとかいる?」
「いらない。白飯あれば十分」
「はーい。他に要る物ある? あったら買うけど?」
「無い。ナッシングよ~」
「了解、じゃ、買い物して帰るわ」
 そう言うと、剣壱は電話を切った。シチューか久しぶりに食べるな。
 今から楽しみにしながら、私は家に足を向けた。
 空では日は沈み、わずかに残ったオレンジ色と夜色が混ざっている。カラスが増え、辺りでカーカーと泣きながら高い空を飛ぶ。町に明りが灯る。街路樹を冷たい風が撫で、私の息を白くする。手袋をしていないため、手は冷たくなる。口元に持っていって息をはぁっと吐いて温める。少し手が温まると、コートのポケットに手を入れて私は足を速めた。


 家に付いた頃には既に空は闇に包まれて、見える数個の星と月が輝いていた。家の明りが点いているので今、剣壱がキッチンで料理を作っているのだろう。早く、中に入ろうと思い、鞄の中から鍵を取り出す。かじかんだ手で鍵を開けようとすると、手が震えた。手は氷のように冷たくなっていた。鍵穴に鍵を指して回すと開錠されたと分かる。取っ手を回し、暖かい我が家の中に入った。
「お帰り、ゆう姉」
 玄関でブーツを脱いでいると、キッチンから剣壱が顔を出した。
「もう少しで出来るから、手を洗って着替えておいでよ」
「あんたは、母親か」
 剣壱は母親みたいなことを言う。私はそれを苦笑しながら返す。いつもの楽しい時間だ。私はそう思いながら、言われたままに従い、洗面所に向かって手を洗う。お湯が出るまでしばらく時間がかかるので、手を入れたり、引いたりする。待っていると、暖かいお湯が出てくる。手をぬらして、ハンドソープを付け、手と手をこすり合わせてあわ立てる。そして、指と指を絡めて手に広げていく。ある程度あわ立つと蛇口からお湯を出して泡を落とす。綺麗になった手からはほのかにハンドソープの匂いが残っていた。
 手を洗い終えて、リビングスペースに行ってカーテンを閉めようとする。
「見ないでよ」
 私は恥ずかしそうに少々上目遣いでシチューを掻き回している剣壱に言う。
「別に言わなくたって見ないよ。ていうか、そう言われると逆に気になるよ」
 剣壱はカーテンを持ってブラブラしている私を少々戸惑いながら見ていた。初々しくて可愛いと思った。私はイタズラっぽく笑い、「別に見たって何にも無いよ~」とさらに茶化してカーテンを閉めた。楽しい。コート、シャツ、スリムパンツと順番に脱いでいって、下着と靴下だけの姿になる。そして、運動していないか細い腕、大きいとはとても言えない小さい胸、白いお腹、細い太股、膝小僧、細い足と視線を動かしていく。色気のかけらも無い病人みたいな体だと思った。基本小食で運動をしないのが関係していると思う。もう少し、太らないと色々発達しないよなぁ。そう思うと、何だか悲しくなってきたので直ぐに部屋着を着る。どうやったら、成長するんだろ? まあ、ステータスとは言われるけど……(泣)あ、けど、私、成長期過ぎてる!ってあれ? まだ大丈夫なんだっけ? ?

 カーテンを開けて、視線を前に向けるとテーブルの上に深皿に注がれた薄緑色のシチューが湯気を上げていた。甘い匂いが鼻をくすぐる。
「あ、出てきた。ねぇ、ごはんどれくらいがいい?」
「少な目で」
 私は即答してテーブルの席につく。そして、剣壱の後姿を見てニコニコする。ホント、幸せだ。

「あぁ、もう原稿が進まないよぅ~」
 私はテーブルの上に突っ伏して嘆いた。右手にはいつも通り、カップ酒が握られている。これで五本目。あまり酒に強い体質はしてないが、酒は大好きだ。その所為でいつも飲みすぎて酔い潰れてしまう。もう、意識がぼぅっとしている。そろそろ、止めないとな。
「大丈夫だよ、ゆう姉。何だかんだで、いつも原稿出してるじゃん。今回もいけるって」
 向かいの席で煎茶を飲みながら、剣壱が励ます。こちらは未成年なので酒を推すことは出来ない。しかし、私の晩酌には付き合ってくれる。何と優しい弟分だ。私は内心でカンド―しながら、カップに残っている酒を飲み干した。喉にアルコールによる熱い刺激が来て、くぅっと唸った。おっさんみたいだなと自分でも思う。そういえば、高校のとき伯母に若年寄だと言われたことがある。別に気にはしなかったが今、こうして実感すると悲しくなる。
「今日はこれで打ち止めにしよう。もう酔いつぶれかけてるじゃないか」
 剣壱が私のほうを心配そうな顔で見た。多分、今私は目がトロンとしていて、顔が真っ赤なのだろう。
「うん、そうする。剣壱、お茶頂戴」
 私は素直に頷いた。ぼぅとする頭で何かを考えるのは面倒くさい。もう、彼の言うことに従おうと思った。しばらくして目の前に暖かい煎茶が湯飲みに入れられ、コトリという音を立てて現れた。
「ん、ありがと。剣壱」
 湯飲みを手にとって口元に持っていき、口の中に熱い緑色の液体を口に流しこん―――
「あっっつ!!」
 自分が猫舌だったことを忘れて熱々のお茶を流し込んでしまい、思わず吐き出した。テーブルに吐いたお茶をぶちまけ、おまけに服を濡らしてしまった。
「ったく、酔うからこんなことになるんだよ。台拭き取ってこないと」
 剣壱は持っていた湯飲みを置いて、呆れながら席を立ちあがる。そして、キッチンの方に向かう。
「ううぅ、酷い~。心配してくれたっていいじゃない。剣壱のバカ~。あぁ、酔いが醒めちゃった~」
「それは良いことだ。早く風呂入って、原稿書けっていう神様の御意志だよ。きっと」
 剣壱は戻ってきて台拭きで机の上のお茶をふき取る。そして、私の頭をポンと叩き、笑いながらキッチンに消えていった。
「ぶぅ。もう、私の方が年上なのに世話されてる気分」
 私は湯飲みに残ったお茶に息を吹きかけて冷まし、飲み込んだ。少しだけまだ熱い。舌がひりひりした。

 風呂上り、部屋着を着てバスタオルを首に掛けた状態で冷蔵庫に向かう。お目当ては勿論、冷蔵庫の中でひんやりと冷えたビール。晩酌を済ませた後にさらに酒。酒万歳。冷蔵庫を開け、棚からビールを一本取り出す。そして、プルタブをあけて喉に流し込む。火照った体が冷えていく。とても気持ちが良かった。
 リビングのカーペットの上に胡坐をかいて座り、テレビをつける。丁度、ゴールデン後のニュース番組が終わった後でこれからバラエティが始まるところだった。濡れたままの髪にドライヤーを掛けないといけないが、タイミングが悪いので後にすることにした。バラエティでは各地の問題がどうやらなんやらと二人の芸能人が喋りあっていた。現在は番組に対するクレームをしている。出演者がこんなこと言って良いのかよと思う内容もぼやいていた。
しばらくして、髪を乾かし、リビングに戻るとパソコンを開き、適当に思いついてくる話の内容をワードで打ち込んでいく。打ち込むスピードはそれ程ではないが、着実と進んでいく。現在、主人公が駅に着いて彼女を探すシーン。電車が来る直前の焦った主人公を描いていく。
カタカタカタカタ

「原稿、終わりそう?」
 途中で行き詰まり、手が止まっているのを見た剣壱が横から聞いてきた。彼は今、宿題を終わらせたところの様だ。さっきまで開いていたノートと教科書が今は閉じられている。
「どうだろ、徹夜すれば楽勝かな。明日、しんどいけど」
「徹夜はやめときなよ。明日のバイト、夜勤なんでしょ」
「あ、そうだった。くそう、また未来さんに怒られる~」
 明日のコンビでのバイトは夜から朝までなので今日は寝ないとバイト中に意識が吹っ飛んでしまう。立ててあるプロットを確認すると原稿完成はあと十ページ程先。順調に行けばあと二時間で終わるが、今は行き詰まっている。どう考えても朝に完成となってしまう。
「むぅぅ、どうしよう! これだから、恋愛縛りとかしたくなかったのよ!」
「ゆう姉、グロくて残酷な話の方が得意だもんね」
「あぁ、もう、今回休もっかなぁ! 未来さんには悪いけど」
「けど、ここまで書いてるのにそれは勿体無くない?」
 剣壱は私の原稿を覗き込んで言った。
 現在、書いてるのは三十五ページ目。構成的には四十ページ程度の作品だ。もう、ラストまで来ているのに捨てるのは確かに勿体無いことだ。
「もう、書くしかないか。二日くらい寝なくても大丈夫だよ。移動時間でも寝れるし」
「……無理はしちゃだめだよ」
 剣壱の顔が一瞬で曇った。彼は母親が無理をして働き、倒れたという過去があるため、他人が無理をするところを見るのがトラウマとなっている。これが彼の問題点だ。今までは無理をするところを見せないように気をつけていたけど、今回は自分がサボったツケなので仕方が無い。
「大丈夫だって、一日二日で私は倒れたりしないよ。意外と丈夫だからさ私」
 何気なく、私は剣壱を抱き寄せる。小さい頃からやっている行為。剣壱が落ち込んでいたり、泣いていたりするときにいつもしている。思春期を経て、少し恥ずかしいとは思うようにはなったが、これは彼のためにやめることはできない。いや、許されない。昔、誓ったんだから、剣壱は私が、ボクが守るんだって。絶対、傷付けさせないって。
「うん、ごめんね。忙しいのに」
 しばらくすると剣壱が顔を上げ、体を離す。少し曇りは取れたが、まだ不安の色は完全に取れてはいなかった。けど、これくらいなら彼自身で処理しきれるのでもう抱き寄せることはしないで、距離をとった。
「もう、剣壱は寝る?」
「うん、明日も朝練あるから」
 剣壱は剣道部に所属している。小さい頃から続けていて、実力もそれなり。府内大会では準決勝まで行く事がある。保護者目線全壊で応援した事を今でも覚えている。私も昔剣道をやっていた事があるが、物語の面白さに没頭してからはしなくなった。今やったら、竹刀をちゃんと振る事ができるかさえ怪しい。
 時計を見ると、十二時半。そろそろ寝ないといけないのは確かだ。
「ん。わかった。お休み、剣壱」
「お休み、ゆう姉」
 剣壱は立ち上がって床に畳んで置いてある布団を敷き、シーツの皺を伸ばす、そして掛け布団を敷く。
「電気、つけっぱなしでおk?」
「問題ないよ」
 剣壱はリビングを区切るカーテンを閉めてから布団にもぐりこんだ。すると、数分もしないうちに彼は眠りについた。
「よし、頑張りますか。寝れるように」
 私はパソコンに向かいなおして、原稿を打ち込んでいく。
 さて、そろそろラストだ。いつものようにオチで失敗しないようにしなくては。

 結局、原稿が完成したのは午前五時三十分。空が明るくなり、新聞の配達が終わって剣壱が起き上がる頃だった。



 原稿を提出すると、未来さんは予想以上に喜んでくれた。
「いやぁ、今回のはいいよ。オチもしっかりしてるし、夕実らしいグロさもないね。それに、今回、三作しかなくて困ってたのよ。これで堂々と配布できるわ」
 下がった眼鏡を直して、彼女は笑った。苦労はしたが、これだけ褒められると嬉しい。これからも良い作品を作ろうという気になってくる。とは言うものの寝不足の所為で出来たクマが取れないが。
「それでは、バイトがあるので失礼します」
 私は部室を後にした。編集作業が長引いたため、いつの間にか午後の八時を越えていた。晩御飯を食べ損ねた。どっか近くの店で買って食べよ。

 バイト先であるコンビは、住んでいるマンション(立派ではない)と最寄り駅の中間地点にある。近くにあまりよろしくない高校があるため、よく店の前にたまられる。マニュアル上、退けなければならないが、非力な私には出来ないのでいつも放置気味で、よく店長に怒られる。まあ、百パーセント許してくれるのだが。
「お疲れ様です」
 昼番の店員に交代を告げ、レジに着いた。客の姿は雑誌コーナーにはあるが、この人たちは大抵、サンデーやマガジンの立ち読みに来ている人なのでレジには来ない。数人はお菓子や飲み物を買って帰るが。
 一応、家を出るギリギリまで寝て、睡眠時間三時間を確保したが、夜勤では足りない。仕方なく嫌いな栄養ドリンクに頼ってみたものの、改善したかというと、なんとも言えず。あくびをしないように唇を舐め、まっすぐ立ちなおした。
「会計、お願いします」
 男の人が会計しにレジまでやってきた。仕事だ! ガンバロ!

 品を棚に下ろし、レジ前のフライ物を補充。レジを打ち、清掃をして休憩し、また同じ仕事を繰り返した。
 気付けば、深夜の三時になっていた。仕事が終わるまであと三時間。眠気はもうマックス。疲れもマックス。いつもならもう少し余裕があるが今は無い。授業の関係で昼間に寝れないので夜にきちんと睡眠をとる必要があったが、原稿の為にそれを捨てた。まあ、自業自得なので仕方が無い。
 客もいないので暇。瞼が立っている状態でも閉まろうとする。あぁ、眠い。

 午前六時、交代をする事ができ、やっと帰宅。今日は授業がないので思いっきり寝てやると心に誓った。ロッカーから私服を取り出して着替える。今日一日で一気に年を取った気分になる。酒飲みたい。
「おつ、かれさまでした~」
 半徹夜はつらい。もう、やめよう。心にそう決めた。

 コンビニを出て、帰路に着く。横断歩道を渡り、向い側の歩道に移動する。頭がぼぅとしていて何かを考えることもできず体を動かして家に帰る。家に帰れば布団にダイブして寝れるというのに、そこに至るまでの行動をしたくないと思う自分がいる。足元を見ていると、かなり千鳥歩きに近い歩き方をしている事がわかる。酔っ払いみたいだ。
横の車道には殆ど車は走っていない。通ったとしても商品の搬入を終えたトラックが数台、ちらほらと見える程度だ。昨晩のうちに出してあったであろうゴミ袋はカラスに食い破られ、生ゴミが露出している。普通の情景だった。
 ふらりふらりと、危なげに歩き続けるとマンションの近くの公園の前まで帰ってきた。ケータイで時間を見ると、六時四十分。もう、剣壱が起きて朝食を作っている頃だと思われる。我が家までの道は近い。あと、横断歩道を渡ってしまえば、すぐだ。
 信号が青になったので横断歩道を渡る。家に着く安堵感の所為か疲れがどっと出てくる。あとちょっとが大変だ。
「危ない!」
 突然、後ろから男の人が叫んだ。どうやら、ジョギングをしていたらしく彼はジャージを着ている。しかし、危ないとはどういうことだろう。
「へっ!?」
 渡っている横断歩道の右側を見ると、トラックが私に向かって走ってくる。勿論、信号はこちらが青。向こうは赤だ。しかし、トラックはスピードを緩める気配はない。運転席を見ると、運転手は眠っていた。居眠り運転だ。すぐに走って逃げようとしたが、驚きすぎて腰が抜けてしまいその場にへたり込んでしまう。体は丈夫でも、精神的には丈夫ではないという自分の欠点を呪った。
「ひっ!」
 目を瞑り、無駄だと思いながら体の前で腕をクロスさせる。すると、すぐに衝撃は私の体に襲ってきた。
 ゴッ!!!!
 トラックと自分の体の接触面からミシッという骨にひびが入る音を聞く。その直後には、体が軋み骨が砕けたのを感じた。体はトラックの下の隙間に引き込まれていき、投げ出された腕はトラックのタイヤに轢かれて砕け、千切れる。アスファルトと車体に擦られ、服は破け、皮膚は裂け、内臓を抉られる。頭はつぶれ、目は見えなくなる。痛みなど感じない。すべて、一瞬のことだったから。


「は! ん、はぁ、はぁ、はぁ……」
 私は布団から跳ね起きた。
 全身寝汗に濡れていた。とんでもない量だ。五体満足である事がわかっていても震えている体は言うことを聞かない。自分の体を抱き締める。
「はぁ、はぁ、はぁ……ん、はぁ」
 時間が経つと、次第に震えは止まり、きつく締め付けていた腕を離す。しかし、夢の中に出てきた恐怖は私の心を蝕んだ。心を癒して欲しくて、誰かを求めたくなる。だが、部屋には誰もいない。誰かに電話を掛けても解決できないだろう。誰かの温もり、匂い、感触を感じたくなる。
 すると、私は気が狂ったのか……

 気が付くと、もう午後四時を過ぎていた。そろそろスーパーで食品を買って、晩御飯の準備をしなくてはならない。しかし、それが叶わない状況である。何をしているんだと自分の頬を殴った。奥歯を噛み、自分の情けなさに怒る。たかが、夢相手に何怯えてんだか。
「……シャワー、浴びてこよ」
 自分の箪笥から着替えを取り出し、風呂場に向かった。バスタオルは風呂場にあるだろう。この、キモチワルイ感覚を洗い流したい。このことは忘れよう。そして、ばれないようにしよう。ばれたら、どうなってしまうかわからない。怖い。夢での恐怖は払拭されたが、違う恐怖が心の中に芽生えた。急がなくちゃ、すぐに、元の私に戻らなくちゃ。そう思う。これでは、壊れてしまう。大切にしていたものが。この、目覚めてしまった感情は封じ込めなくちゃ……









  中書き
 どうも、壱潟満幸です。
 今回はとあるギャルゲーを元に作ったものです。まあ、アレンジが強すぎて何かわかりませんが。分かったら超能力者です。読心能力者(サイコメトラー)です。
 テーマの「覚醒」をやっと入れる事ができました。主人公のとある気持ちが目覚めるということで。しかし、目覚めに至っていく過程の描写は自粛。まあ、思春期を迎えてそれなりの方は何があったかわかるのではないでしょうか。わからない人は探ることをオススメしません。そのまま、読み進めてください。読むのをやめるのは無しですよ? お願いします。いや、マジで。
 さて、ここから先はこの作品のラストです。
 最後、主人公の気持ちは明かされのでしょうか?
 それとも?












 後編


 一度気づいてしまった気持ちというのはどうしようもなく厄介なもので、それは私を追い込んでいった。
簡単に開けられた箱が簡単に閉められるという確証はない。私は、「パンドラの箱」を開けてしまったのだろうか……

 数日経っても、忘れることができないため、まともに剣壱と顔を合わせることができない。それは恥ずかしいという気持ちによるものでもあり、悔いる気持ちによるものでもある。何かをしていないと、またアノような行動をとってしまうのではないかと、不安でしょうがない。また、酒も最近止めている。酔うと、なんでも吐いてしまうという酒癖に自分で気づいているからだ。要注意人物「私」、笑えない。誰かに相談しようと思ったが、相談できるような内容でない。自分でも、今まで気づかなかったのもおかしな話だと思うが、何よりこんな時期にこの気持ちが出てくるのが腹立たしい。人間として最低だと思う。自分の行動がそれに結び付かせるためのものだったと考えるとなお、腹立たしい。故意にやった訳ではないが。
 とにかく、この気持ちは封印すべきだと思う。何度も言うが。喩え、この気持が彼に受け止められたとしてもそれは、本当の気持ちではないだろう。だから、すべてが解決するまでは―――

 隠し通さなければならない。彼の為にも。



 休日になり、私は熱を出した。インフルエンザではないものの、三十八度を超える高熱だ。兆候は昨日からあったが、気にせずにそのまま大学に行って帰ってきた。そして、翌日朝起きたら体を動かすことができず、熱が出てしまったと分かった。そのためずっと布団の中で横になっている。まあ、特にそこは問題はないのだ。
 問題は、部屋の中にいるのが私と剣壱の二人のみということである。
 思考回路がどうしても剣壱のことになってしまう。することがない、というより、何もできないという状況が憎たらしい。
「うがぁぁ……」
 叫ぼうとしてものどが痛くて声が出ない。寝巻きのまま布団の中で丸まっておくしかない。だるい。
 昨日の八時から寝ていたので十二時間以上経った今、私の中に眠気など存在しなかった。
「ねぇ、ゆう姉、朝ごはん食えるぅ?」
 カーテンを開けて、剣壱が朝食を食えるかどうかを聞いてきた。
「ぅぅ、多分食べれるけど、そんなに量はいらない」
 食欲がない。けど、食べないと。何か、言ってることと考えてることが食い違っているような。まあ、いいや、めんどくさい。
「分かった。何食う?」
「何でもいい、のどに問題なければ」
 出していた顔を布団の中に引っ込めた。傍から見たら朝に弱い人か、ニートか、はたまた……

 あ、思考が途切れた。

「ゆう姉、雑炊できたって、あれ? 寝ちゃった?」


 目を覚ますと、そこには誰もいなかった。時計の針の音が部屋の中で響いている。体のだるさはなく、すぐに起き上がることができた。額に手を当てるが、熱いという感覚はなかった。
 剣壱は何処にいるのだろう。何故か、そんな事が頭の中に浮かんだ。普通かもしれないが、この思考が自分のどの感情から上がってくるのかが自分で分かったので嫌悪する。
 外に行こう。
 ただ、その考えで私の頭はいっぱいになった。
 私は寝巻き(ジャージの上と下着のみ)のままふらりと玄関のドアを開けた。靴もはかないで私は外に歩みを進める。ただ、前に足が進む。
 しばらく、歩き続けると緑の葉を茂らせた公園にたどり着いた。
 こんなところに公園なんてなかったはずだが。
 呆然として、足を進める。
 が、そこには足場はなく私は転がった。
「きゃぁぁぁぁ!」
 階段があったのだ。私は気付かずに踏み外したのだ。
 咄嗟に直ぐ隣にあった手摺を掴もうとすると、手は手摺を掴むことなく空を切った。伸ばした手は直ぐに下に落ち、自分の体と階段に挟まれ、あらぬ方向に力が加えられて肩をはずす。庇えていない私の頭は階段の角に何度も打ち付けられる。体も打ち付けられ続け、体中の骨にひびが入ってついには砕ける。痛みが体を駆け巡り、私の悲鳴を誘う。
 意識が飛びそうになっては階段に打ち付けられて戻される。あぁ、なんて地獄なのだろうか。死という恐怖が私の心を染め上げていく。どろりとしたモノがキモチワルイ。あぁ、誰か、助けてください。

「っ!」
 最後の階段に打ち付けられるのと同時に私の意識は夢から現実に戻ってきた。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が体から出てくる。夢の中で蓄積された恐怖が心を黒く染め上げていく。
 布団につめを立てて強く握り、体を丸めて布団を抱く。落ち着かない。顔から血の気が引いていくのがわかる。体が震える。がくがくぶるぶると。
「けん、いち……けん、いち」
 すぐに抑えきれなくなり、痛む喉から掠れた声を絞り出して剣壱を呼んだ。涙腺が崩壊しそうになり、視界がぼやけてくる。呼び続ける「剣壱」という言葉が震える。
「どうしたの、ゆう姉」
 すぐに剣壱がカーテンを開け、しゃがんで私の傍に来てくれた。顔には心配そうな表情が浮かんでいた。それが妙に安心感を私の中に芽生えさせた。
「ごめん」
 そう言って私は傍にいる剣壱に抱きつく。こうするしか、これを止める手段がもう思いつかなかった。
「ちょ、ゆう姉。何を――」
「ごめん。ちょっと落ち着くまでこうさせて」
 剣壱の胸に顔を沈め、腕を背中に回した。驚いて早くなった剣壱の鼓動が伝わってくる。一定のリズムを刻んでドクンドクンと音を立てる。剣壱の匂いがした。暖かい彼の体が私の余裕のなかった心を落ち着かせてくれた。

 十分もすると、体の震えは止まり全てが治まっていた。
「ありがとう。ぐずっ」
 結局、耐えていた涙も流して嗚咽交じりに泣いた。子供っぽい泣き方だ。あ、鼻水が垂れる。
「大、丈夫?」
「大丈夫だ問題ない。だが、風邪は引いてますよ」
 私は笑って剣壱から体を離れさせた。落ち着いてきたら変に意識をしてしまうからね。
「こんなこと、よくあるの?」
「まぁ、疲れが溜まったり熱にやられている時にたまに出てくる。昔からある、訳の分からないものだよ」
 情けない姿を晒してしまい、少し恥ずかしい。顔を逸らして剣壱に泣いた後の顔を見られないようにする。
「止め方が何か独特だね。その、人に抱きついたり……」
「んまぁ、落ち着けば何でも良いんだよ。音楽でも物でも基本はね」
 ティッシュを取って鼻をかむ。水っぽいな。まあ、生理食塩水だもんね、殆ど。
「じゃあ、そこにあるぬいぐるみとか抱けば収まったんじゃない? 僕に抱きつかなくても」
「咄嗟の判断だからしょうがないじゃん」
 頬を膨らませて拗ねたように見せる。演技丸出しだが。
「ご、ごめん」
「別に、……問題ない」
 あぁ、よくよく考えてみたら物凄く恥ずかしい事したな。剣壱に抱き付くなんて。後から心臓がドキドキしてきた。耳が熱くなる。
「あれ、ゆう姉。顔赤いけど、また熱上がった?」
 赤くなった私の顔に気付いて手で熱を調べようと、私の額に手を置く。
「あれ、そんなにはないなぁ」
 う、何かばれそう。
「な、なんでもない。もう、大丈夫だから。出て。早く。よくよく考えたら私今、上しか着てないし!」
 剣壱の手を払いのけ、彼の体を押して距離を取った。
「わかった。んじゃ、熱が下がるまでちゃんと寝といてよ」
 剣壱は何も問題ないかなと思ってくれたらしく、直ぐに立ち上がるとカーテンの向こうに姿を消した。
「危な」
 自分の胸を両手で押さえ息を吐いた。鼓動の高鳴りがうるさい。


 翌日、悪いことに私の熱が下がらなかったために剣壱が学校を休んだ。一生懸命看護してくれたのだけれども、それに罪悪感を感じた。
 熱は今は下がっており、普通に食事が喉を通るようになった。で、今は夕食。普通の食事に六食ぶりにありつけた。あぁ幸せ。
 メニューは肉じゃが、酢の物、味噌汁(豆腐とわかめ)である。
 ジャガイモに味がしみてて美味しい。味噌汁は体が温まる。酢の物はさっぱりとしていて肉の脂を忘れさせてくれる。
「明日も一応、休むの?」
「うん、そのつもり。だからバイトも無理かな」
「古本屋だっけ? 商店街の」
「そ、おじいさんには悪いけど」
「まぁ、体が第一だからしょうがないよ」
 熱が引いたものの、体力が完全に戻ってないので深夜勤は無理そうだ。授業も受ける事ができない。明日は好きな講義だったのにな。
 味噌汁を啜り、「はぁ」と息をつく。酒飲みたい。けど、我慢我慢。風邪が完治したわけじゃないし、それにあの事があるから。
「ねぇ、明日帰りが遅くなりそうなんだけど、晩御飯どうする?」
「ん? 私が作るよ。チャリでスーパーに買い物行くくらいはできるからさ」
「わかった。じゃぁ、任せるね」
「了解」
 最後にお茶を喉に流し込んで私は食事を終えた。
「ごちそうさま」


 翌日
「やることないなぁ!」
 家事を一通りやりこなし、するべき事を終え、面白い番組もやっていないこの十一時から十二時の間の時間帯。
「原稿ってまだ、テーマ決まってないし。一週間前に締め切りだったし。あ、そうだ。長編の続き書こう」
 ずっと鞄の中にいたパソコンを立ち上げ、USBメモリーを挿して長編の原稿を開く。現在、五十ページほど。プロットを立て、書き直して書き直してを繰り返した結果、五ヶ月でこの有様。全然、進んでいない自分の原稿に呆れた。
「うわぁ、第一章の中盤だよ。まだこれ」
 とりあえず、プロットを見直しキーボードの上に手を載せ、キーを打っていく。そして、五十字近く打ったところで文章がおかしい事に気付き、修正を入れていく。そして、さらに前のところを見ていって修正が行き届いていることを確認し、続きを書いていく。
「はぁ、まだまだ先は長いね」
 このプロットでは後、二百ページは書くことになるだろう。何でこんなの書きたいと思ったのかが疑問である。

 カタカタカタカタカタカタカタカタ

 パソコンとにらめっこし続けて目が疲れたので顔を上げてテレビを見ると、いつの間にかお昼のワイドショーが始まっていた。現在、二時。三時間か。原稿は現在、五十八ページを進んでいる。集中し続けたら昼ごはんが遅れてしまった。
「ごはん♪ ごはん♪」
 私は立ち上がって、キッチンに向かう。
「さて、何を作ろうか」
 冷蔵庫の中身を見る。卵、ハム、豚肉、野菜たくさん、あ、弁当のあまりの玉子焼き発見&ゲットだぜ☆ 戸棚を開け、インスタント食品を見るとラーメンとビーフン、焼きそばがあった。
「うぅん。迷うな。ハムエッグ作っても良いんだけど、玉子焼きと被るし、ラーメンって気分じゃないんだよな。じゃぁ、ビーフンかな? よし、ビーフンにしよう」
 戸棚からビーフンを取り出し、フランパンも取り出す。
 野菜を取り出し、洗って切る。そして、コンロに火をつけフライパンを熱する。もちろん、換気扇もオン。フライパンが熱し終わると、油を引いて豚肉を並べ焼く。両面焼き終わると、ビーフンを開け、麺を豚肉の上に置く。そして、麺の上に野菜を置き、水を入れて蓋を閉じる。ここから三分三十秒放置。
 三分三十秒後
 蓋を開け、麺を解し野菜と混ぜる。水気を飛ばし、
 今日の昼ご飯完成!
 皿に盛り、玉子焼きを冷蔵庫から取り出して、テーブルに置き箸を出して、お茶を入れて食べる準備が完了。
「頂きます」
 手を合わせて食事を始める。久しぶりだなぁ。これ。


 夜になって、食事の準備が終わっても剣壱は帰ってこない。現在、八時半。遅くなると言ってもここまで遅いとさすがに心配になってくる。時計を見たり、テレビを見たり、うろうろしたりと色々な事をして気を紛らわそうとするが、心配だ。アノ気持ちが作用しているからかもしれないが、そんなことはどうでも良かった。
「電話、ってなんかウザい人っぽくなるしなぁ。どうしよ」
 あぁ、もぅ! 髪がボサボサになることも構わずに頭をかき、むきぃぃぃ! と心の中で叫ぶ。
「はぅぅ。心配性が疼くぅぅ!」
 時間はなかなか過ぎず、八時四十分にもなっていない。
「あぁ、もう九時よぉ! 何処行ってるのぉ!」
 頭を抱え、うがぁ! となっていると、チャイムが鳴った。
 玄関に駆け寄りドアを開けると、待っていた少年の顔があった。
「ただいまぁ、あぁ疲れた」
 呑気に疲れたような顔をしている。少し、イラッとした。
「お帰り、……」
「あれ? 怒ってる? ちゃんと、昨日言ったはずだけど」
「こんなに遅いとは思わないでしょ。普通。高校生なのに」
 きょとんとしている彼の顔が少し憎たらしい。自分が完璧に拗ねている事が分かる。たまに思うけど、私って子供っぽい。
「ごめん、心配かけた?」
「別に、心配とかじゃないし」
 目を逸らし、嘘がばれないようにするがこのアクションは逆にばらしている気がする。もう、後の祭りだけど。
「ねぇ、そろそろ。中に入れてくれない? 寒いんだけど」
 あ、忘れてた。よし、そろそろ、中に入れてやろう。


 夕食が終わり、風呂も終わり、現在くつろぎタイム。
 十一時が過ぎ、テレビではニュース番組がやっている。今日は、球界のキャンプがどうとか、空気が乾燥しているための火災がどうかという内容だった。火の元には注意しないとな。
「酒を絶って、約一週間。何か酒を飲まないのが苦痛にならなくなってきたな」
 独り言をつぶやきながら、つまみとお茶を食べて飲んでする。ぼぅと、テレビを見てると何も考えなくて済むから楽でいいな。
「ねぇ、ゆう姉」
 すると、後ろから剣壱が声をかけてくる。
「どうした?」
「ちょっと、話があるんだ」
 そして、剣壱は私の隣に座る。距離を取っておこうかと思ったが、さすがにその行動はだめだ。剣壱を傷付けてしまう。それに余計、ばれやすくなる。息を呑んで決心し、そのまま何気ない様子を装う。つまみであるするめを噛み、お茶を飲む。
「あ、のさ。どうしても今日、言っておきたくて」
 剣壱は何かいうのに緊張しているようだ。いつもなら表情から大体、読み取ることができるが、今回はそれができなかった。
 私が剣壱の感情を知るのを恐れているからか。
 私はこんなことになってしまった、自分を恨んだ。心の底から。しかし、その恨みでは払拭しきれないほど、あふれ出てくるこの暖かな感情はどうしても留めることができない。けど、頑張って抑えないといけない。
 そして、剣壱は私の正面に移動して、ゆっくりと告げた。




 どうして?
 どうして? それを口にしてしまったの?
 ずっと、隠してたのに私は。あなたのために。
 自分を嫌悪し、自分を傷つけたのに。
 どうして、あなたは……簡単に、口にしてしまうの?




 私の両目から涙が流れた。自分が嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、悔やんでいるのか、恨めしく思っているのか分からない。ただ、こみ上げてくるのは涙だけ。

 歯車が、私の心の中にあった歯車が、がしゃりと音を立てて、はずれ、何もない地面に叩き付かれて、砕け散った。

 心が崩壊していく。人格が崩壊し、理性が飛びそうになる。必死にこらえるが、それに対するリミッターを今の私は持っていなかった。

 嫌だ
 嫌だ嫌だ
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……


  ・
  ・
  ・
  ・


 新しい歯車が嵌った時、私はもう自分の役割を果たせない廃人同然だった。考えることもできない。ただ、「逃げる」というどこから来るか分からない意志に従った。

 ごめんなさい。

 約束を守れなくて。

 私は最低限必要なものだけを持って、家を出た。

 すべての今まで築き上げた物を消して、最後に残した。

「ごめんなさい。そして、さようなら」と。
...
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真冬の血の薔薇日記
風船犬キミドリ

夕暮れの駅前を、目元を赤く腫らしながらも爽やかないわゆる「イイ顔」をして歩く僕こと大槻(おおつき)賢治(けんじ)は、先ほど別れた二人のことを思い出していた。小学生時代のトラウマを想起させるトリガー、小早川(こばやかわ)鈴音(すずね)。植物状態から奇跡的回復を果たしたという汀(なぎさ)ひいらぎ。別段長い付き合いがあるわけではなく、それはもうほんの一瞬運命が交錯しただけの二人だったが、僕の人生に多大なる影響を与えるインパクトには事欠かない。そりゃたった今隣を通りすがった見目麗しい性別不詳気味の人物もかなり謎で、思わず振り返るほどに衝撃だったが。何か大きな紙袋をいくつもぶら下げ、肩からは細長く黒いケースのようなものをかけている。紙袋からは大きなぬいぐるみがはみ出していたし、服装もなんだかよくわからないウェイターのような……。
 まあ、そんな通りすがりの人はいいとして。二人の話に戻そう。そもそも小早川が廃人のような有様で大学を中退した理由は僕にあるらしい。僕が大学で彼女を見つけ、声をかけて食事に誘い、走り去る。それが小早川の汀との思い出を喚起させてしまい、強烈なフラッシュバックに心が耐えられなくなり、パニックを起こしたというわけだ。彼女は僕のせいじゃないというが、確かに僕のせいじゃない。だが、それで責任を感じないかといえばそういうわけでもない。感じるなというのは無理な相談以外のなんでもない。
 とにかく、彼女はパニックを起こし、心を閉ざして数日を過ごしてきたらしい。その間、汀は病室でただ横たわっていたということだ。二人とも、闇に閉じこもっていた。対する僕は――闇を閉じこめていた。思い出したくない、見たくない現実を心が勝手に隅へ追いやって厳重に仕舞い込んだ。何かの弾みで開くことの無いように、それはそれは厳重に。それを僕は無理やりこじ開けた。小早川がしまいこまれた“何か”を思い出させてくれたから。
 要は僕たち三人はきっとどこかが壊れてしまった人間なのだろう。何とか社会に適応しているふりをしているだけで、結局は全員異端者でだからこそ運命が僕たちを交錯させた。いや、僕と小早川が出会ったのも(厳密に言えば小学校卒業後に存在を認識しただけではあるが)、小早川と汀の趣味が一緒だったのも、汀がトラックにはねとばされたのも、僕が小早川の、小早川が僕のトラウマの起爆剤となったのも、すべてがすべて神の御業か。何一つこの手で決めたことはなく、ご都合主義の運命の慈悲、もしくは遊び心が奏させたのかもしれない。みなも知ってのとおり、この物語をそいつなりに懸命に綴る運命とやらはずいぶんとご都合主義らしいから。そのくせできすぎた展開を嫌うんだから始末に終えない。突飛に走って自爆するのが趣味らしい。
 閑話休題。ともかく、僕たちが出会い、それぞれの欠けた部分を修正しあったのは運命だ思っていいらしい。たまには良いこともしてくれるようで、運命は僕の心にこそばゆい春を運んできたようだった。小学生のころ、僕は恋をした。初恋だというのに珍しく(かどうかは不明だが)、両想いとなったわけだが、そこから先はただのサスペンスドラマのクライマックスのような状況となった。そんなに僕が憎かったのか、運命さん。僕はその相手である少女に首を絞められ殺されかけた。以来、僕は友愛を感じることはあっても性的欲望を根源とした恋情を抱くことができなくなった。いやはやまったく、人間の心というのはしたたかなもので、都合の悪いことは自身の保護のため、切り捨てることができるようだった。おかげで僕には女性関係のネタがない。
 それが、小早川のおかげで今まで口煩く僕を制止していた心の声はなりを潜め、僕は自由に恋愛ができる精神状況にようやく戻れたらしい。小学六年生以来、久しく覚えなかったむずむずするような感じが心地よい。相手はもちろん小早川だ。
 僕は結局運命に踊らされているだけなのだろう。ただ、一概にご都合主義と片付けるには惜しい運命である。まったく性格の悪いことだ。一度言おうと思っていた。『お前が恋愛小説を書き綴ろうとすると必ずといっていいほど偏愛方向へと向かうから登場人物のためにもやめてくれ』と。きっと偏愛こそ至高だとか思っているのだろう。頼むから恋愛方向はやめて救われない運命でも書いていろ。
 閑話休題、どうも僕は妄想をたくましくして神と交信するのが得意のようだ。さて、小早川に恋をしたわけだが、別段これからどうしようか決まっているわけでも、迷っているわけでもない。ただ彼女を愛していたい、それだけだ。そりゃ彼女からも愛されたら嬉しいどころの騒ぎじゃないし、出来ることなら彼女を独占したいが、今の関係を維持するだけでも全然構わない。何せ僕は彼女を愛することができるだけで満足だから。分をわきまえて足るを知る。これこそが人間が生きる意味なんじゃないかとふと思った。
 どこか色ボケた、春らしい思考を巡らせていると、前から歩いてくる男女の二人組みの間を通り抜ける形でぶつかってしまった。僕がボーっとしていたせいだ。
「すみません!」
「いやいや、こっちこそごめんね~」
 二人のうち女性のほうが軽い口調で返してきた。闇を透かして二人を見ると、驚いたことに外国人だった。それにしては流暢な日本語だなと思ってしまうのは偏見だろうか。
「おい、早く行こう。仕事は早いほうがいい」
もう一人の男のほうが足を止めずに歩き去りながら言った。
「やれやれ、敵さんより血に飢えていらっしゃるようで、レオーネ」
「無駄口叩かず行くぞ、リンチェ」
「じゃあね~、また会わないことを願うよ」
 そして二人は夕闇に融けて見えなくなった。その先をじっと見つめ、なんともなしに感心していた。身近に現れた異国というのはなかなか物珍しく、少し嬉しくなった。単純な僕だ。
 さて、すっかり陽は暮れ、辺りは寂しげな暗さに包まれていた。元々人通りが少なかったがもはや僕しか人影はない。夕飯を適当に買って、さっさと帰ろう――
「なあなあ、そんなにイイコト、あったのかい?」
 後ろからかけられた声に、ざわりと首筋が粟立つ。ばっと振り返ると先ほどまでなかったはずの人影が、手を伸ばせば触れられそうな位置にあった。それは完全に、危険な間合いだった。
「ええと……?」
「いやねえ、そんな美味しそうな色を振りまきながら歩かれたらねえ」
「は?」
「うん、だからね。そんなニヤニヤしながら歩いていたら不審者扱い受けるよっていう忠告、かな」
 ……どうやら僕はヘンな奴に絡まれたようだ。
「あの、とっとと帰りたいんで……」
「まーちょっと待てって。どうせ用事はないんだろ? ちょっとばかしそのイイコトとやらを聞かせろよ」
「いや、もう構わないでくださいよ……」
「そういうわけにもいかないんだよねえ、美味しそうな食事を逃すだなんて無理な話だ」
 もはや意味不明だ、頭が痛くなってくる。
「なあ、仮にだ。お前に好きなコがいたとしよう。てか、いるだろうな。で、そのコは自分にとっては手の届かない存在だと思いつつも諦めきれない。そんな青臭い悩みを解消できるようなすげー力があったら欲しい?」
「まったく話が見えないが。別に僕の恋愛観からいってそんな能力、金払われてもいらない。僕をそんな卑しい奴だと思わないでくれ」
面倒くさかったが、ちょっとカチンときたので言い返さずにいられなかった。
「ふうむ……このリア充め。俺も現実に希望を見出せていれば、こんなことにはならなかったのかも知れないな……」
 なんだか触れてはいけないトラウマを開いてしまったかのようだった。
「まあいいや、とりま美味しいのいただきまーす。ついでに汚らわしい能力あげますよー」
 意味不明すぎて思わず上を向きたくなる。ふと瞬きをする間に彼の姿は消え、代わりに首筋に鋭い痛み。があったような気もする。僕の意識はこのあたりでブラックアウトした。

「なー、レオーネ……」
「分かっている、すぐ行く」
 大槻賢治が得体の知れない若者に絡まれ意識を失った頃、互いをレオーネ、リンチェと呼び合う二人はその気配を察し、現場へ最速の方法で駆けつけた。
「確か奴は『桜木(さくらぎ)右京(うきょう)』といったな?」
「うん。ルルシェ・エグザエル率いる一味の中のエリス・アストレアが直接インストールした日輪庭園の副次的な能力、吸血により感情を喰う能力を使って平穏を乱している、とか」
「日輪庭園自体は他人の感情が色で見えるってだけの平和なものなんだが……むしろ奴らはこの副次的な能力をメインに研究していたんだろう」
「……確かにこれ、吸血鬼といえるけど私らヴァンパイアハンターの仕事かなあ」
「文句言うな。……たしかに分かるがな」
「わざわざヴァチカンの地下から逃げてきて、与えられた任務が意味分かんないよー……」
リオーネと呼ばれる男は黙ったままだった。おそらく彼自身もそう思っているからだろう。
「で、そいつらに十字架やら聖水やら銀の杭は効くわけ?」
「……さあな」
 実際のところ、十字架や聖水など、一般に知られる対吸血鬼の道具で戦えることなどほとんどない。だからリンチェのほうも冗談半分でいったのだろう、やれやれとため息をつく。
「まあ、会ってみて殴りかかれば分かることだね!」
 夜の街を飛ぶように移動する二つの影は、誰にも気づかれることなく任務にとりかかった。

 世界に虹色が渦巻いている。色がゆらありと揺れる様子を見ると、なぜだか心が満たされていく気がした。直前に何があったのかはほとんど思い出せない。精々首筋の痛み程度だ。ゆるゆると緊張の糸が解けてふわふわと体の周りの漂いだす。その動きに誘われて、また意識は深く潜ってしまった。

 陽はもうすっかり暮れて、あたりは暗く、どこか不気味な感じすらした。今日は親友のナギのうちで夕食を食べさせてもらうことになっていた。久しぶりだし、凄く楽しみなのだけれど、この夕闇をぼんやり眺めていると、突然ざわりと悪寒が走った。嫌な感じがする。でも……
「楽しい夕食が待ってるんだ、大丈夫大丈夫」
 小声で言い聞かせるようにしてナギの髪が揺れる背中を追いかける。親友との四年ぶりの再会だ、話したいことは山のようにあるのが普通だろう。だが、私たちの場合において、この四年間は空白に等しい。語ることなど何もない。なぜなら、ナギは事故によって植物状態、私はそれに絶望し、引きこもりの生活を送っていたからだ。語ることの出来るモノを、二人とも持っていないのだ。だから、黙って歩く。互いを支えあえるように、体温がほんのり伝わるくらいの近さで、今は寄り添っていたい。でもさっきまでは二人で仲良く喋っていたのに、私が大学を中退した後の話からはどちらも口が重くなり、黙りこくってしまった。重苦しい沈黙が夜の帳とともに降りる。だから、そんなときこそ互いの存在を直に感じられる距離が欲しかった。
 だけど、もうそれどころじゃなくなった。なにか。よくないことが起きている気がする。
「どうかした、コバ?」
 ナギが振り向いて怪訝そうに聞いてくる。
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れてるだけ……」
「大丈夫? 無理はしないで今からでも……」
「大丈夫大丈夫、ナギと一緒においしいご飯をご馳走になればすぐ元気になるよ!」
 微笑を無理にでも浮かべ、なんとかやりきる。周囲をそっと見渡すと、なんだか闇の密度が高いような、どろりとタールのような粘り気を感じる。大きな黒い塊がズズズと移動しているかのよう……
「コバー? 着いたよ、我が家!」
いつの間にやらナギの家の前だった。
「さ、あがってあがって。多分母さんたちビックリするよ~」
「う、うん。ありがと、久しぶりにきちんと挨拶しなくっちゃ」
「あれ、おかしいな。電気がついてない……出かけるなんて聞いてないけど……」
 ナギがドアに近づいて、ノブをがちゃがちゃと回す。鍵は閉まっていた。仕方なく、鍵を取り出そうとして、ナギの両手が赤いコートのポケットを探り出した。それを私は後ろからぼんやりと眺めていた。先ほどからの警戒心もすっかり忘れて無防備に。
 ふわり、と後ろから抱き締められた。いや、拘束されたというべきか。驚いて思わず声を出しそうになった口を黒い革手袋をした手に塞がれる。逃れようとしても、力が入らない。そういう風に拘束されているからだ、不自然なほど体が動かない。
「あったあった、鍵発見」
 ナギはなんにも気づかずに鍵を探り当て、鍵穴に差し込む。
「ごめんね、とりあえずあがってよ」
 がちゃりと鍵を回してドアを開けながらナギは言った。そして、ナギが振り向いた先には、いつもの闇しかなかったはずだ。私は闇に取り込まれるようにして、その場から跡形もなく消えた。しまいには、意識までもが闇に侵され、なにも分からなくなった――。
...
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春号  By林檎

2013年09月16日
No Title
林檎

『俺達の愛は、エンドレスだろ』
 くぅー、来た! もう、ヤバいわ、この漫画の主人公の彼。私もこんな恋こないのかなぁ。そう思って鏡で自分を見てみた。
私は、細くはないが決して太い方でもない。別に顔は不細工ではなく、髪はロングのストレートだ。でも、こんな特徴も何も無い私がモテるわけがない。そう思い、少し落ち込んだ。もう少し顔が可愛かったらモテたかも知れない。もう少し体が細かったら、もう少し鼻が高かったら…………こんなことを言っていてもきりがない。うわぁ泣きそう……。そうだ! 気分転換に犬の散歩にでも行こうかな。

*   *   *
 いつものように、ウォークマンを聞きながらのりのりで、愛犬のコロと歩いていた。そうしたら向こうから、私が好きな人圭(けい)であるがジョギングして来た。
「おう」
「よ、よう」
「って、可愛いなお前の犬! 名前は何て言うんだ?」
「コロだよ」
「へー、コロって言うんだ! 可愛いな!」
「ありがとう」
 犬を笑顔で撫でている圭が可愛いよ……。
「圭こそ、何してるの?」
「ジョギングかな?」
「へー」
「って、お前、ジャンプ読むの? 何か意外だなあ……。もっと、バリバリの少女漫画を読むと思っていたわ」
 その瞬間、私の顔がカーッと赤くなった。恥ずかしい。今、死ぬほど恥ずかしい。圭くんに会ってただけでさえドキドキしている。あれだよ、今週のジャンプは、私の好きな、かっこいいと思っている漫画の主人公を、表紙にしてしまった人が悪いんだから。
「こ、これは、このジャンプは、犬の散歩のついでにお兄ちゃんに買ってきてって言われたやつだよ」
「そんなこと言って、少年漫画が好きなんだろ、お前顔が赤いぞ」
「ち、違うよ」
 圭君と会ったからだよ、とは言わなかった。
「ふーん、そう言えば俺、明日のお前のチョコ滅茶苦茶楽しみにしてるから」
 そう言って去って行った。私は、その背中に向かって、
「絶対に、おいしいの作って見せるから、楽しみにしておけよ、ばーか」
*   *   *
 バレンタインがやってきた。緊張しすぎて眠れなかった。今日、私は、圭に告白するのだ。もう、やばいよ。授業中に上の空で、怒られた。
 そして、放課後がやってきた。呼び出すことは、恥ずかしくて出来なかった。けど、二人っきりになるおまじないをかけておいたから、それが効いたんだと思うんだ。今、誰もいない二人っきりの教室の中で、私は、ドキドキしながら、
「好きです……受け取って下さい」
 と言うと、長い沈黙が続いた。そして、圭が口を開いた。
「ごめん、いきなりすぎて……。ちょっと、考えさせて」
「う、うん」
 これって私ふられたのかも。ヤバいよ、泣きそうだよ。何か、空気が気まずくなったから、私はそそくさと帰った。
 次の日、圭君は返事を、くれなかった。その次の日も、またその次の日も……。
*   *   *
 返事をくれない日が続いて、ついにホワイトデーが来た。何かあったらいいなと思って、私は、二人きりになれるおまじないをかけた。そしてまた、バレンタインのときのように二人きりになった。
「な、なぁ」
「何?」
「あ、あのさ、バレンタインの時、チョコありがとう。すっげーおいしかった」
「ありがとう」
「でさ、その時の返事延ばしてごめん。俺、やっぱりお前のこと好きだ。付き合って下さい」
「いいよ」
 そのときどこからか、『俺たちの愛は、エンドレスだろ』と聞こえた気がした。
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春号  Byイルカ

2013年09月16日
新釈高瀬舟(3)
イルカ

 *前回までのあらすじ*
 西暦三〇〇〇年のとある日、日本は地球から姿を消した……
 その後、犯罪者のための刑罰の一つに〟高瀬舟〟というものができた。その刑罰は異次元に続いていると思われる暗闇に罪人を送るというものだった。執行人である市ヶ谷樹(いちがやいつき)は、罪人菊宮(きくみや)四季(しき)を暗闇に送り出した。だが、執行人もいつのまにか暗闇の中へと吸い込まれてしまっていた。そのときから、執行人と罪人の奇妙な旅は始まったのである。

     *NPCの世界*
 じっとりと、へばりつくような湿気
 真夏日かのような暑さ
 そして、周りに広がるジャングル
 …………
 …………
 「俺たち、ここに来て、何日経った?」
 分かっていても、嫌な事実は知らない振りをするのが一番だと思う。しかし、横に並んで歩く四季は現実をはっきりと言った。
 「大体、六日くらいですね」
 俺はあからさまに嫌な顔で、これ以上ないほどの溜息をついた。
 そう、俺たちはあの地獄のような一面花だらけの空間から抜け出し、この空間に来た。この空間では前のときとは違い、食べ物も飲み物も存在していた(まあ、成っている木の実食べたり、川の水を飲んでいる程度だが)。
 しかし、この空間に来てから六日間、俺たちの前には一度たりとも、違う異次元空間へと繋がる〝暗闇〟が現れないのである。この空間で暮らしていくとしても飲み食いできるので生きていけるはずだ。しかし、時たま、大きな鐘の音が聞こえるのだから、聞こえる方へ行ってみようという気にはなるだろう。そういう理由から、鐘の鳴っている方向へと進んでみた。六日も経って結構、鐘に近づいているようには感じるが、人の気配は全くと言っていいほど皆無だった。
「どうなってんだよ、ここ。人もいないのかよ」
「まあ、この前のあの空間では人は死んでいましたし、ここにも人はいないと考えるのが妥当なんでしょうけど。鐘の音が聞こえるのですから、やはり、人はいるんでしょうね」
 そういえば、こいつとの会話ってなんか、機械としてるみたいだな、と思い、じっと見ていると、四季は少し顔を赤らめて言った。
「そんなにじっと見ないでくださいよ」
 四季と計八日くらい一緒に過ごしているが、いきなり態度が女の子らしくなったりするからこっちの調子が狂うのだ。いや、別に元々、可愛いし、振る舞い的にも女の子そのものなんだが、いつもは機械のような物言いなどから、硬さが少し目立つのだ。
 そうやって、四季のことについて考えていると、また、あの鐘の音が聞こえてきた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン
今日の朝と比べると鐘の音はずいぶん大きく聞こえた。
「結構、近づいてきたんじゃないか」
「そうですね……」
疲れているせいか、投げやりな返事が返ってきた。俺はもう少しで人と会えるのではないかという淡い期待を胸に、鐘の方へ一歩踏み出した。
二時間くらい歩いて、舗装された道路に出た。道往く人とも徐々にすれちがい始め、一時間後。
「おおっ、四季、街が見えてきたぞ!」  
街が見えてきたことへの嬉しさのせいか、四季の顔は少しほっとしているように見えた。今日中に街に着けるなんて、朝歩いていたときには思いもしなかったことだったからな。とりあえず、もう夕方だし、寝食のことを考えると、するべきことがあるだろう。
「とりあえず、宿を探すか」
俺と四季は宿がどこにあるのか、人とすれ違う度に聞いて回った。    
しかし、誰も宿の存在を知らなかった。いや、誰も知らなかったと言うよりは、聞いても見当違いの言葉が返ってくるのだ。例えば、宿の場所を聞くと、今日は広場で何かあるらしいだの、うちの息子が兵士に選ばれただの、訳の分からない返答をするのだ。最初は俺たちの質問が聞こえてなかっただけかと思い、もう一度聞いてみたりはしたが、やはり、一度目と変わりのない返答をするのだ。まるで、決まったセリフを話しているだけかのように……
住民の話を聞いても埒が明かないと思い、歩き回って、やっと宿を見つけた。意外なことに俺たちが金がないと知っても快く宿に泊めてくれた。さすがに二部屋は無理だったようで、四季と俺は同じ部屋に泊まることとなったが、今まで何も無かったこともあってか、四季からは何も言わなかった。森での野宿とは違い、ふかふかのベッドが「眠れ」と囁いている。意識は簡単に途切れた……
 翌朝、久しぶりに熟睡できたおかげで疲労もほぼ回復した。しかし、今俺がいるのはベッドではなく、ソファーだった。ベッドの方に目をやると四季が気持ちよさそうに眠っていた。あれ~、ベッドにダイブしたような、と回想に耽っていると、「女性を差し置いてベッドで寝ないでくださいね?」と書かれた紙が俺の腹部に置いてあった。四季、やっぱり女の子なんだよな~、と再確認して四季の方にもう一度、目をやる。未だに起きる様子がない四季はこれ以上ないほど無防備で男なら一度は襲いたくなりそうな可愛さだった。何で最初、こいつのこと男って思ったんだろ……。 
 時間は遡り、俺がまだ執行人として四季を暗闇に送ろうとしていたとき、四季は黒いローブのようなものを纏っていた。高瀬舟に乗っている間、一言、二言、話をしたが、返ってくる声はひ弱な少年でもありえそうな声だった。普通は少年より、女性って考えるはずなのに何故、あの時勘違いしたのだろう? 四季についての疑問は最初から多くあった。弟を殺したことに対して何の弁解もせず、弁護士も雇わず、無言を貫き通した。結果、最悪の刑に処されたわけだが、暗闇に送り出すとき、彼女は自己嫌悪していた俺に慰めの言葉、感謝の言葉を述べた。今まで何人も執行人として送り出してきた俺にとっては意外すぎるほどに意外なことだった。何故こんなにも思いやりのある人間が人を、それもたった一人の肉親であった弟を殺したのか。だが、今まで四季と一緒に過ごしてきて、ちょっとした予想があった。日本には様々な文学作品が古くからあって、その一つに「高瀬舟」という作品があった。作者はもう覚えてないが、話の内容は覚えている。弟が兄のためを想って自殺しようとし、兄が弟のためを想ってとどめをさすという話だったと思う。解釈は色々あるが俺はそれが美しい兄弟愛だとして今でもこの解釈を信じている。だからこそなのか、もしかして四季も……と思い始めたのだ。
 回想から現実に帰ると、四季も夢からの帰還を果たしていた。
 
 「とりあえず、街を散策して昨日の噛み合わない会話の正体を探ろうか」さっきまで可愛いとか考えてたからか、四季と顔を合わせられない。
「そうですね。……どうかしましたか?」
俺の不審に気がついたようで、俺の顔を覗き込んできた。
「っ……。いや、なんでもない。それより情報収集しないとな。ここがどんな世界もといどんな異次元なのか、知っておく必要があるしな」
つい目をそらしてしまう。顔覗き込まれただけで赤くなるとか、乙女かっ、俺は! こいつと一緒の部屋で泊まるのもう無理かもな。今までさえ可愛いやつだなって時々思ってたぐらいだったのに、今朝の寝顔の可愛さで四季を恋愛対象として見てしまいそうで怖い。
 そんなことを考えていた俺だったが、一方、四季は、「樹さん、どうしたんだろ。顔赤いけど風邪でも引いたのかな? 昨日の夜、無理やりベッドからソファーに移して寒かったのかも」とちょっとした罪悪感を抱いていた。
 宿の主人にお礼を言って宿を後にしようとすると、主人はまるで最初から決まっていたことのように出て行こうとする俺達に急いで忠告してきた。
「魔王には気をつけてくださいよ、旅人さん。一月前までは魔王はもう現れないって思っていたのに……」
「はあ、魔王……ですか」
「ええ、魔王です」
「……」
「……」
「……」
店主が作った緊迫感は、俺と四季の反応(沈黙)によってズタズタにされた。まあ、いきなり魔王とか言われても実感が沸かないし、しょうがないことなんだが……。とりあえず……魔王って何さ!
 「魔王は十年前に勇者***によって殺されました。それから十年間という長い平和が続きました。しかし、一ヶ月前、いきなり魔王が復活し魔物の軍勢を引き連れて我が国に侵攻しようとしてきたのです。そのとき姫殿下でありながら騎士長でも在らせられたフェミア殿下は最前線で戦っておられました。健闘はしたようですが、何せ、急なことでしたからその戦いは敗北に終わりました。そのとき騎士長であったフェミア様は勿論、多数の名高い騎士たちが捕虜とされてしまったのです」
と宿の主人はRPGのごとき長い長い話を終えた。
 一つだけ予想通りであった。この街は街ではなく、国であったということだ。
「やっぱり、ド○クエみたいに国は一つ一つ小さいんだな……。まあ、この街の……いや、この国の人たちがRPGみたいな反応しかしてこないから予想は着いていたが……」
「ドラ○エですか、懐かしいですね」
「四季はこんな古いゲームのこと分かるのか!?」
「ええ、マ○オとかポケ○ンも好きですね。弟と一緒にやっていたころを思い出します」
「…………」
今日一番の沈黙に俺は殺されるんじゃないかと思った。
「ま、まあ、それは置いといてこの世界がRPGの世界もといゲームの世界ってことが確信できたな」
「安易な考えですけど、大方合ってそうですね」
 弟の話は一瞬で断ち切ったせいか、鬱っぽい雰囲気にはならなかった。あまり、こいつに悲しんで欲しくないし、これからは気を付けよう。まあ、地雷がどこにあるか、分かったものではないがな。
「宿のご主人、忠告と情報をありがとう。ほら、四季こんな馬鹿みたいな話ほっといて、早く異次元につながる暗闇を探さないと……」
 俺は菊宮四季のことを大きく勘違いしていたようだ。
「樹さん、何言ってるんですか? 捕虜の話まで聞かされたらこれはもう、やるしかないでしょう。ほら、暗闇なんていつでも探せます。今はこの現状を楽しまな……コホン、困っている人を助けてあげなきゃいけないじゃないですか」
 四季……、割とゲーム好きなんだな、お前……。子供みたいにはしゃぐ四季も新鮮でこう、なんと言うか、しっかり者や天然のときと違って、何と言うかな……可愛すぎる!
 こうして、俺達の魔王討伐への旅は始まったのであった 完
                 
                   to be continued……
...
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叫び
希宮春風


 僕には好きな女の子がいた。
 名前は楠(くすのき)柚(ゆず)葉(は)。
 長くて艶のある黒髪を持ち、大きな瞳が可愛らしく、桃色の唇だった。体は細く、日に焼けていないため肌が白かった。
 同じクラスには一度もならなかったけれども、部活が丁度同じだったのだ。
 クラブが終わると、よく二人で学校前の喫茶店に入って、好きな飲み物を飲みながら勉強したり、クラブのことで話し合った。特に付き合っていたわけではなかったが、女の子の中では特別仲が良かった。告白はしなかった。
 彼女に好意を抱いたのは初めて会った時。一目惚れだった。
 クラブの入部届けを担任に渡しに行った時に偶然、鉢合わせたのだ。彼女の手には僕の入部届けに書いてあるクラブの名前と同じクラブの名前が書かれており、心の中で喜んだ。
 そんな僕が好きだった、いや、今も好きでいる彼女に会う約束ができた。ものすごく嬉しい。会う日がとても楽しみだ。もう、夜も眠れないくらい。まぁ、ちゃんと寝てたけど。


 地元の最寄り駅に着くと、待ち合わせの噴水がある駅前の公園に移動した。公園の周りに立っている桜は既に満開だった。風に煽られると、花びらが散り、ひらひらと宙を舞っていた。
「おぅい。瀬南(せな)くん」
 桜の木を見上げていると、公園の入り口の方から声が聞こえた。柚葉の声だ。気持ちが高揚していく。
 振り返って、声の方を見ると柚葉が走ってきていた。
 長かった髪はショートカットになり、顔に薄く化粧をしていた。服はスモークピンクのワンピースに黒のニーソックス、茶色のショートブーツだった。可愛いと素直に思う。心臓が高鳴る。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫、さっき着いたとこだし。髪、切ったんだな」
「うん、そうなの。大学入る前にイメチェンするために切ったんだ」
「へぇ、似合ってるな」
「へへへ、ありがとう」
 柚葉は照れながら笑った。
「んじゃ、行こうか」
「うん」
 僕らは久しぶりにあのカフェに行こうと思い、歩き出す。
二羽の雀も僕らの様に留まっていた木から飛び立っていった。


 カフェは全く変わっていなかった。
 高校のときに六十歳を超えていたマスターは今も元気そうだった。
「注文は何にする?」
「カプチーノとカフェモカ一つずつお願い。あ、私はサンドイッチも」
「俺はランチセット追加で」
 注文を済ませ、背もたれに体を預ける。
「よく、覚えてたな。俺がここで飲むの」
「まぁ、週二日もここに一緒に通ってれば、覚えるよ」
「コーヒー飲めるようになったんだ」
「うん。大学行き始めてから急に飲めるようになった」
「市販のカフェオレも飲めなかったのにな」
「うぅ、苦いって言ってたの覚えてる」
 昔の自分の顔真似をして柚葉が笑った。
「変わったな。柚葉」
「そう?」
「見た目も、中身も。前はもっと落ち着きがなかったというか。活発だったよ」
「まぁ、大学生になって子供っぽいのから脱却したかったからね」
「じゃあ、俺がやったぬいぐるみは捨てたのか?」
 さっきマスターが置いていったカフェモカを啜る。
 高一の時の誕生日に可愛いものが好きだった柚葉に渡したものだ。確か、ペンギンのキャラのものだったはず。
「捨ててない。捨てられないよぉ。思い入れがあるし」
「それは、嬉しいね」
「あれ、ぎゅってするのに丁度良いんだよ?」
 柚葉はぬいぐるみをぎゅっとするまねをした。直ぐにぬいぐるみの像が想像できるのだから相当、見た記憶があるんだな。
「高二のときに柚葉の家に遊びに行ったときも、同じ事言ってたな」
「そうだっけ? 覚えてない」
 首をかしげる。
「はい、サンドイッチとランチセットお待ち」
「ありがと、マスター」
「ありがとうね」
 会話が途切れたところで丁度、料理が運ばれてきた。
「うまそう」
「お腹ぺこぺこだよ、私」
「じゃぁ、食べますか」
「うん」
「「いただきます」」

 食事を平らげ、カフェモカのお代わりをして、僕らはまた喋り始めた。
「あぁ、うまかった」
「そうだね」
「卒業しても来てたのか? ここ」
「うん。月に二回くらいは。大学遠いからね」
「俺は全くだったな。その前にこっちに帰ってきてもなかったし」
「確かにそうだね。二年ぶりかな?」
「多分そう」
「音沙汰もなかったから、どこかで死んでるんじゃないかって、皆言ってたよ」
「ははは、色々忙しかったんだよ。色々と」
「メールしたのに」
「悪い、返信するの忘れてた」
「ひっどぉい」
「けど、そっちも半年前から連絡なかったな」
「瀬南くんがメアド変えた所為だよ」
「変更のメール送ってなかったか?」
「着て無いよ」
「じゃあ、どうやってこの前メールしてきたんだ?」
「裕也くん聞いたの。書店でたまたま会ったから」
「へぇ、あいつまだここにいたんだ」
「大学なったら海外に行くって張り切ってたのにね」
 昔のことや今のことを話し合っていて笑顔が耐えなかった。会う前の緊張はいまや存在しない。存分に笑って、笑って、笑って話し続けた。
 こういうのを幸せというのかな。

 気付けば、五時前になっていた。そろそろ行かないと、帰りの電車に乗り遅れてしまう。
「そろそろ帰んないと」
「えぇ、残念。実家に泊まって一泊すれば良いのに」
「明日、サークルで遊びに行くんだよ。泊まりで鎌倉の方に」
「へぇ、いいなぁ。私も遊びに行きたい」
「来るか?」
「残念ながら、明日は大学の大事な講義があるのです」
「そりゃ、残念だな」
 席を立って、会計を済ませてカフェを出る。
「ごちそうさまでした」
「どうも」
「こういう時は男が払わないと」と思って勘定はすべて僕が払った。気分が良いな。
「駅まで見送ってあげる」
 駅の方に歩き始めた。別れの時間が迫ってくるのを感じた。


 駅の改札につき、切符を買う。
「それじゃ、帰るわ」
「……」
「どうした?」
「いやぁ、一応、言っておこうかなと思う事がありまして」
「何?」
「いや、ちょっと言いにくいんだけど」
「?」
「私ね。高校のとき、ずっと瀬南くんのこと好きだったんだよ」
 柚葉は照れながら僕に告げる。
「えっと、今、何て?」
 思考が凍りついた。驚きに驚いた。
「意外だった?」
「うん。物凄く」
 僕は首を縦に振る。自然と自分の顔が赤くなっているのに気付いた。
「赤くなってるぅ」
「柚葉だってそうだろ」
「えへへ」
 甘い空気が僕らの周りに漂っていた。
「俺、も。柚葉が好きだった」
 何と無く吊られて、僕も口にする。
「うん、知ってたよ」
「マジで?」
「うん。職員室の前で会った時から」
「嘘ん!」
 まさか、知られているとは思わなかった。ビックリして、恥ずかして、僕の顔がさらに赤くなった。
「瀬南くん分かり易いもん」
「うぅ」
 俺の高校生活は何だったんだと思った。告白してりゃ、上手くいったのかよ!
「柚葉、言ってくれよ」
「いやだよ。告白は男の人からして欲しいもん」
「くそぅ」
「今更悔やんでも仕方ないじゃん」
「そうなんだけど」
「ドンマイ」
 柚葉はしゃがみ込んだ僕の肩に手をぽんと置いて、笑った。
「…・・・なぁ、柚葉」
「何?」
「告白って今も有効?」
「え?」
「だから、今、付き合ってって言ったら。付き合ってくれる?」
 最後の俺の青春の運を使い切るつもりで聞いてみた。
「さぁ、どうでしょう?」
 柚葉はとぼけた様な声を出す。
 僕は告白しようと、心に決め顔を上げる。
「俺は、柚葉が好きだよ。だから、付き合って欲しい」
 まっすぐ、柚葉の目を見て僕は言った。恥ずかしさを勇気に変えるのは大変だ。
「へへ、ありがと」
 柚葉は笑った。満面の笑みだった。今日、いや、今までに見た彼女の笑顔の中で一番、綺麗で可愛かった。ずっと、傍にいて欲しいという思いがこみ上げてくる。
「返事、聞かしてくれるかな?」
「……うん、良いよ」
 柚葉は立ち上がった。吊られて僕も立ち上がる。正面を向き、僕と柚葉はお互いのことを見た。
 気のせいだろうか、柚葉の目が潤み始めているのは。
「ありがとう。嬉しい。ホントに嬉しいよ」
 柚葉の目から涙が溢れ出す。
 柚葉は自分のワンピースの裾で涙を拭う。

「けど、瀬南くんとは付き合えないかな」
 泣きながら柚葉はそういった。断られた。
「どうして」
「多分、私といると瀬南くんは悲しくなっちゃうから」
「何で、そう思うんだよ」
 断られたことには何も感じなかった。別に良かった。しかし、彼女の目が寂しそうに見えたので僕は心配になった。
「理由は、言えない。言ったら、瀬南くん。優しいから、……」
 柚葉は続きを告げなかった。
 何が悲しくて彼女は泣いているのか僕には分からない。
「ごめんね」
 柚葉は後ろを向いて、小走りに走っていった。
 追いかけなきゃと直ぐに思うが、僕には追いついてもかける事ができる言葉がなかった。悔しかった。大人しく帰れと、僕の中の何かが告げている。薄情な奴だと思ったが、これが僕の今の最善だった。

 一年が経とうとしていた。
 桜の蕾はピンク色に染まって今にも咲きそうだった。
「何なんだよ。これ」
 僕の元に柚葉の訃報が届いた。訃報の事が書かれていた手紙を持っていた手が奮え、ついには紙をくしゃくしゃにしてしまった。

 僕は叫んだ。

 だが、彼女に声は届かなかった。

No Title
風船犬キミドリ

 私は職業柄、よく人に抱きつかれる。力いっぱい抱きしめられたり、撫でられたり。時には踏まれたり叩かれたり投げ飛ばされたりと悲惨な目に遭うこともある。だが、私は悲鳴を上げるどころかまったく声を発さない。黙ってされるがままを貫く。それが私という存在がある意味だからだ、それこそが生き様。そんなわたしだが、相手に好意、時には嫌悪を覚えるくらいは勝手だろう。美人な女性に抱きつかれればやはり嬉しいし、役得だと内心にやついている時だってある。しかし、悲しいかな私から動くことは許されていない。ただされるがまま、それが私だ。いくら心を通わせたくとも、無理なのである。鼻水をたらした汚らしい子どもや、化粧のけばけばしいメスに抱きつかれようと拒めないというのはとんでもなく辛いが、脂ぎった中年男性にハグされることに比べればいくらかマシというものか。
 毎日抱きつかれ、目の前で泣き喚かれ、床を引きずりまわされることもしばしば経験しつつも、私はこの職を辞められない。なぜなら、私は運命を信じるからだ。この職で運命の人を待っているのだ。
 ある日、妙に甘ったるい匂いの男連れの女が男に私をねだりながら去った後、一人の少女が現れた。シルバーグレーで肩辺りまで伸びたさらさらの髪とそれより少し濃い色の瞳、ふっくらと白くて柔らかそうな肌。少し頬の辺りが朱に染まっているのが可愛らしい。手には古ぼけてはいるがつややかな毛並みを保ったベージュ色のウサギのぬいぐるみ。とても丁寧に扱われてきたのだろう、羨ましい。
 私の黒い瞳と、彼女のダークグレーの瞳がぱちりと合う。ああ、ついにきた。と、そう思った。
「おっきなくまさん」
少女がかわいらしい声で私を形容する。そしてちょこちょこと小さな足で私に歩み寄り、おずおずと小さな手で私の手に触れる。
「ふわふわで、あったかいね、くまさん」
 おお、と感嘆の声を小さくあげ、ぱむぱむと私の手を両手で挟むように叩いた。私はというとこの少女の存在に今まで出会ったどんな人間よりも惹かれ、その無垢な瞳に吸い込まれそうになっていた。ああもし私が喋ったり動いたりすることを許される身だったら!
「くまさん、ふわふわ。おともだちだよ、みーちゃん」
 そういって少女は手に持っていたウサギのぬいぐるみを私の隣に並べた。ちらりと盗み見ると、ウサギは私に知的な光をたたえたつぶらな目で視線をよこし、私の立場に対しての同情と、今立場を共有している一体感とを伝えた。幸せなやつだ、このウサギは。
 少女はしばらく私と「みーちゃん」で遊んだ。時間を忘れたように少女の身の丈ほどもある私と、少女の小さな手におさまるようなウサギのぬいぐるみを戯れさせ、心底楽しそうな表情をしていた。
「ゆうー? あ、いたいた」
 しばらくして、少女の母親らしき人物が彼女を探して現れた。
「あ、おかあさんだ」
 ゆう、と呼ばれた少女は声のしたほうを見て呟いた。そこには嬉しさと寂しさが感じられた。きっと、私との別れが嫌なのだろう。そして、きっと少女が思っている以上に私も少女と別れたくなかった。
「ぬいぐるみで遊んでたの? 大きなくまさんねえ」
「そうなの! みーちゃんのおともだちなんだよ。……もう、帰らなきゃいけないの?」
 少女の瞳が不安げに潤むのを見て、母親も少し考え込む。
「ええ、お父さんがもう少ししたら来るはずだから、そうしたら帰らなきゃいけないわ。まだ、遊び足りないの?」
「うーん……いいや、おうちの子たちでもあそべるもん」
「いい子ね、ゆう。あ、お父さんが来たわよ。帰りましょうか」
「うん。そうだ、今日のおやつはなあに?」
 少女は、両親について店を出て行った。「みーちゃん」を忘れずに胸に抱いて。「みーちゃん」が最後にこちらによこした視線はとても気の毒そうだった。
 少女が店から出て行って、しばらくしても私の心は萎えたままだった。もともと動くはずのない身体がどうしようもなく重くて仕方がなかった。せっかくの運命が、消えていった。なんのために今まで虐げられてきたのか。私にもう、救いはない。
 彼女の感触が、まだ残っている。彼女の体温が、体臭が、まだ感じられるそのうちに。ああ、早く死んでしまいたい。元より命はないけれど、これ以上彼女以外の情報を私に与えないでくれ。あの少女が、わが生涯の全てだったのだ。ああ、もし神がいるならば、なんて悪趣味、なんて残虐なのだろう。信ずるものは救われる? 馬鹿を言え、すくわれるのは足元だけだ。そしてその躓きは致命傷となる。よろめいた先は、絶望の淵だった――

 暗くなった店内。命なき人形にすら生々しさを感じられる気がする夜更け。生き生きと月光に照らされるぬいぐるみの中に、巨大な屍が転がっていた。長年つやつやと輝きをたたえていた黒いボタンの目はくすみ、優しく触れるものを包み込んでいた豊かな毛並みは薄汚れて、触れてもちくちくと力なく拒絶を表すばかりになっていた。朝になれば、はたから見る分には何事もなかったかのように棚に並べられるその布で出来たかわいらしいクマは、ただ涙を流すことすら許されないのであった。それを知るのは店内に並ぶ数多の人形と、ひとつのウサギのぬいぐるみだけだった。
...
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うさぎさんの憂鬱
さつき

「いってきまーす!」
階下で、元気に走っていく足音と声が聞こえた。その、いつもとは全然違う元気な声に違和感を覚えつつも、そろそろかな、とボクはむくりと起き上がる。目を瞬かせ、ぼんやりした視界に目をならせる。いつも通り、ボクは窓際にあるおもちゃの木椅子に座っていた。うーん、と伸びをすると腕の関節をつなぐ糸がみしみしいう。
ばんっ
突如ドアが開き、入ってきたのはこの家に住む女の子の母親だ。若干嬉しそうなのは女の子の態度が変わったからなのか。とりあえず、彼女は人間だから、よもやボクが動いて言葉をしゃべるだなんて思っていないだろう。びっくりされて恐れられて、そこらに捨てられてしまうのは御免なので、立ち上がりかけていたボクは慌てて椅子に座りなおした。なんとか間に合って母親にはバレなかったものの、先ほどみしみし言っていた糸がぶちっとちぎれた。痛みは感じないが、きっとこれを繕ってもらうまで動きは制限されるだろう。何かを探している様子の母親が気づいてくれないかな、とちらちら視線を送るが全く気づいた様子はなく、お目当てのレースをあしらったピンクのハンカチを探し当てて女の子を追いかけていってしまった。まあ、もう彼女らがここに戻ってくることはないだろう。ボクは今度こそ、安心して椅子を立った。
 てくてくてく。昨日まで女の子は春休みだったから、ボクはずっと動けないでいた。ストレスも溜まっていたから、久しぶりにこの部屋を縦断するのは昨日から楽しみにしていたのだ。
 てってけてってけ。つい、足取りも軽くなるというものだ。スキップをすると、ボクの耳はひょこひょこ揺れる。あの女の子が幼いころは、シュシュだのリボンだので耳をひとまとめに縛られて大変だったのだが、中学生にもなった今はむしろほったらかされすぎてそれはそれで寂しい。
 そんなことを考えながら部屋の真ん中、蛍光灯の光が一番明るいところまで時間をかけてたどり着く。昔、ここで見上げて明るい蛍光灯の光に目をやられ、命からがら木椅子に逃げ帰ったことがあるので、上を見ないようにしながら、あたりを見回す。新たな家具が増えていたら、とりあえず調査をせねばならない。
 ボクがこうして部屋を闊歩するのには理由がある。それは、新たな居場所の捜索だ。木椅子はいかんせん居心地が悪い。まあ、同じ態勢でいても居心地がいいところなんてないのだろうけど、探す分には自由だろう。
 ふと、たんすの下から二段目の引き出しに新しい傷がついているのを見つけて歩み寄る。感触を確かめようと手を伸ばすが届かない。いつもなら適当なところで諦めるのだろうが、さわやかな春の陽気に惑わされたのか、ボクはたんすとの戦闘を続けていた。
――と、そのとき、ボクの右腕に嫌な感触が伝わる。
もしや、とすぐさま右腕を確認すると、予想通りだった。先ほどちぎれた糸の周りも、連鎖反応を起こしてちぎれてしまっていた。今、ボクの右腕は糸一本でかろうじてつながっている状況だ。
 ボクは今までの経験から考えた。あの女の子は今日始業式だ。ということは、おそらく午前中に帰ってくるのだろう。とすると、あと三十分くらいで彼女は帰ってくる。そんな彼女がボクのこの有様を見たら、きっといぶかしむだろう。そんな些細なことでボクが動けることを悟られてはならない。
――これは、自分で傷を治すしかないじゃないか。ついでにたんすの傷も見れたら万々歳だろう。

 時間がないので、ボクはすぐに作業に取り掛かった。この部屋の裁縫道具の場所なら既に知っている。すててててっと小走りで窓際の木椅子に戻る。木椅子の上に立てば、裁縫道具の入った小さいカラーボックスに手が届くのだ。お目当てのものを取り出したボクは、それをひとつひとつ床に広げる。針はなんとか取り出せたが、針山や糸切り鋏などは、即興で作った簡易てこを使ってやっと箱の中から引きずり出すことができた。既に左腕が筋肉痛なのは、若いと喜ぶべきなのかひ弱だと落ち込むべきなのか。
 そして、ボクは針に糸を通し、いざ、右腕にそれを突き刺した。
「いったぁ!?」
ボクの右腕を痛みが襲う。あの女の子の母親に繕ってもらうときは全然痛くないのに、なぜ痛いのだろうか。しかも針はボクの皮膚を貫通していった。しまった、玉結びを忘れていた。
 再びこの痛みを味わうのは嫌だが、仕方がないので再び針を刺す。痛い。けど、我慢してどんどん針を進めていく。痛い。母親の手つきは見慣れている。痛い。だから、うまくやっているつもりだった。痛い。痛い、痛い、痛い――

 その一時間後、部屋の真ん中には糸に絡まって身動きが取れないでいるボクを抱えて立っている女の子がいた。彼女は、ボクの姿を見るなりこう言った。
「慣れないことはしちゃダメだよ? いくら私がいなくても」
そして、その顔に憫笑を浮かべた。ボクの体を動揺が走る。
 彼女は、間違いなく知っている。ボクが実は動けることを知っている……!
 ボクは焦ったが、とりあえず動かずに様子を見ることにした。彼女はじっとボクの顔を見つめ、そして言った。
「慣れないことしたって失敗するんだよ、人間も、人形も、おんなじ」
彼女の口元は相変わらず憫笑をたたえたままだったが、その目だけはどこか悲しさを浮かべていたようだった。
しかしボクはそれをはっきり確認できないまま、その声を最後に、意識を失った。
続く?
...
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冬のある日
壱潟満幸

 だるい。
 高校に入学してからずっと、授業終わりに感じるこの感覚。特に、数学や英語が来るとどっと出てくる。
 終礼が終わり、椅子を上げ机を前に押していると前方から声がした。
「ねぇ、川木(かわき)さん」
 顔を上げると眼鏡の少年、鷹橋(たかはし)康太(こうた)が笑いながら立っていた。
「今日、部活に顔出せる?」
 活動日になるといつも、彼はこう言いに来る。迷惑な奴だ。
 私は一応、文化研究部に入部しているが、入ってから二回くらいしか顔を出していない幽霊部員だ。高二になって以来、部員が高一を合わせて四人しかいない、小規模なものになった。活動内容はとにかく文化を調べて、それについての新聞を出すというものだ。だから、私は原稿を部長である鷹橋に出すだけで部室に顔を出すことはない。顔を出す必要がないから。
「頼むよ。副部長の受け継ぎができてないんだって。君が来ないから」
「別に、一年にやらせれば良いじゃん」
「それは無理なんだって、松本がダメって言うから」
 松本というのは文化研究部の顧問で教えてるのは世界史。一年のときに態度で注意された記憶がある。最終的に口論となり、滅多打ちにした記憶がある。教師相手に何やってんだって感じだよな。傍から見ると。
「ったく。何で、あいつが」
「君が本格的な幽霊部員じゃないからじゃないかな? 原稿、毎回ちゃんと出してくれてるし、クオリティ高いし」
 態度が気に入らないからじゃないのか? と思ったがどうやら違うらしい。そんなたいした原稿だした記憶ないんだけど。
「この前のゆるキャラの記事なんて松本、嬉々として読んでいたよ。何か、ゆるキャラのかわいさについて熱く書いてたけど、可愛らしいものとか好きなの?」
 話が逸れ始めた。何なんだコイツ。
「別に、好きとかそういうのじゃない」
 鞄を取って、出口の方に歩き出す。後から鷹橋が付いてくる。鬱陶しい。
「用事でもあるの?」
「別に、関係ないでしょ」
「ないなら出てきてくれよ。後輩たち、君の顔見たことないって言うほど来てないのに」
「私は行かない。それだけ」
 もう、早くどっか行けよ。
 苛苛して奥歯を噛む。怒鳴ったら何かややこしくなりそうだから我慢するしかない。
 歩く速さを速めても、背の高いこいつは軽く付いてきやがる。ストーカー扱いして叫んでやろうかと思ったときもあるが、なんかそれは違う気がしてやることはなかった。
「頼むからぁ! 来てくれよう!」
 手を合わせて、頭を深く下げる鷹橋は滑稽だと思う。全く、変な奴がいる部活に入っちゃったな。
「無理」
「お願い」
「無理」
「お願いします」
「無理」
「お願いいたします」
「無理」
「土下座するから」
「しなくて良い!」
「何でも命令聞くから!」
「……」
 物凄くひいた。地球の反対にいけるほど。もう、嫌だ。こいつ。
「……わかったよ。仕方ないな」
 ついに私が折れてしまった。押し強すぎるんだよこいつ。折れてしまった自分に舌打ちする。
「ホントか?」
「……うん」
 キラキラと光っている彼の目を見て思わず顔を逸らす。
「よっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 鷹橋は叫んだ。私は驚き、二、三歩後ろに下がった。気狂い怖い。
「よし、直ぐに行こう! 時間がもったいないからな!」
「あ」
 鷹橋はいきなり私の手を取ると、走り出した。私はそれに仕方なく付いていく。
 たく、もう。
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レインボーロード
林檎

「うわっ、みてみてゆりちゃん、おおきいにじだー」
その女の子は、ゆりという親友に呼びかけた。
「どこどこ?」
ゆりは必死に虹を探した。
「あそこだよ、あそこ!」
「みっけ! スゲー! あのにじわたってみたいねー」
ゆりは、そんな些細な、でも、幼い子には大きな夢を口にした。
「みかもわたりたいー! いっしょにいつかわたろうよ!」
「いいよ、やくそくね! ぜったいだよ」
そう言ってゆりとみかは指きりげんまんをした。

      *       *       *

昨日、美加(みか)という親友が塾の帰りに事故に遭った。相手が居眠り運転をしていたのが原因だ。そのせいで美加は今、病院のICUにいる。私にはいまいち、美加が事故に遭って生死の境をさまよっているという実感が湧かないんだ。今日学校を休んだのだって、病欠でしょ? みたいな感じ。いつも傍にいた親友が急にいなくなるかもしれないんだよ! そんなの信じられるわけ――――――
「ないじゃん」
なんとなく口に出して、石を川に投げた。
今日は、朝から雨が降っている。でも朝は小降りだったから、傘を置いて出てきた。だって、雨はすぐ止むと思ったもん。なのに下校時刻になっても降っている。仕方が無いから美加の置き傘を借りてしまった。
私はこれから、今日の連絡とか宿題とかを美加の家に届けないといけない。
いつもは習い事があるから無理だけど、こういう時は、「一番仲の良い子が届ける」っていう雰囲気だし。そんなことを思っていると美加の家についた。でも家には誰も居ない。何回インターホンを押しても誰もでない。
気付いたら、雨は止んでいた。やっほー雨止んだ! って心の中で叫び、美加の傘を畳もうとしたら急に後ろから、
「優里(ゆり)ー」
って、飛びつかれた。まさかと思って後ろを見たら、そこに居たのは美加だった。
      *       *       *
その日も、いつもどおり塾の帰りに駅で友達と分かれた後、本を読みながら家まで歩いていたんだ。でも今まで一度も物にぶつかったことが無かった。だけど何故か急に明るくなって顔を上げたら、いきなり車のクラクションの音がして……その後は覚えていない。何か「バイタル」とか、「骨が折れちゃってるな」とか何とか夢のBGMに医療ドラマの音声が聞こえてきたような……。
次に目が覚めたら、あの日、クラクションが聞こえた所を境に向こう側は、綺麗なお花畑で、いろんな食べ物や本などがたくさんあってまるで、天国みたいだった。
「うおー!」
とか、
「凄っ!」
と言いながら、後一歩で、お花畑に入れるってところで、後ろから
「行くなっ! 戻って来い!」
 という声が聞こえて、その声がとても悲しそうだったから、取りあえず引き返したら……。
 次に目が覚めたら、前の方に私の家が在った。そして、インターホンを押している優里も。私は嬉しくなり、
「優里ー」
と叫んだ。そして優里に飛びつき、驚いた優里を見て、出てきた言葉は何故か、
「何で、傘さしてるのよ! 雨降ってないじゃん!」
 こう言ってしまった。うっ、やばいと思って上を見ると、とても大きい虹を見つけた。
「みてみてー、優里! 大きい虹が在るよ!」
「えっ、どこどこ?」
「そこだよ!」
「あっ、本当だ! 大きいね!」
「あの虹、渡れたら良いのに」
「何馬鹿なこと言ってるのよ。虹は、光の屈折でできるものだから渡れないよ。でも……。昔、本当にそんな約束したかも!」
「えっ、覚えててくれたの?」
「うん、一応ね」
「やばい、凄く嬉しい!」
「せめて、嘘で良いから、虹の足元ぐらいは間近で見たいよね」
「私も、そう思うー」
「じゃあさ、見に行こうよ、足元を。なんか、あそこの池辺りから来てるみたいだよ」
「うん」
 私達は歩いていった。虹って言うのは、普通上から見たら円に見えるので、間近で見られるわけが無いと思っていた。

      *       *       *

 虹の足元に着いた。その池は丁度、古墳の横にあって大きい。池からは本当に、虹の足が出ている。信じられなかった。いつもは濁っている池の水まで澄んでいた。
「えっ、嘘っ」
「すごーい」
驚きで私達は、池のほとりで立ち竦んでいた。最初に沈黙を破ったのは美加だった。
「渡ってみようよ」
「えっ!」
 虹なんて渡れるわけないし、それに、虹の足元までは水の上を歩かないといけない。
「渡ってみようよ!」
「……」
「私、先に行っちゃうよ」
と言って美加が、虹の足元まで歩き始めた。私は、水の上に立ったら確実に落ちると思って、美加を引き止めようと追いかけた。
「あっ、ちょっ、待ってよ。水の中に落ちちゃうよ!」
 と言い必死に追いつき美加の肩に手をかけた。
「もう、危ないじゃん」
「大丈夫だって、今現に水の上に立ってるじゃん」
私は嘘だと思って下を見た。有り得ない、水の上だよね! もしかしたら、本当に虹を渡れる気がする。
「何ぼーっと立ってるの。虹、渡るよ!」
「う、うん……」
私は美加の横でゆっくり足を踏み出した。あっ、やばい、渡れる。
そんな私の横で心の声が聞こえたみたいに、
「当たり前じゃん」
 と言った。そしてゆっくりと虹の上を歩いていった。
 すると途中で、お花畑が見えて来た。凄く綺麗だったその中に、この世の娯楽全てが入っていた。でも、何かが違う、私がまだ行く所ではない、まだ行けない、そう思った。だから私は、
「駄目、そこから先に行ってはダメ、美加」
「えっ、何で?」
「何か良くわからないけれど、とにかく駄目だよ」
 それでも行こうとする美加に、イライラして私は美加の手を掴んで、虹を全速力で走って戻った。やばい、虹が消えてきてる。いつなくなるか分からない虹をとにかく必死で走った。
 やっと地面に着き、転がり込んだ。そうしたらいつの間にか、美加が居なくなっていた。そのときは気が付かなかったけれど、美加は最初から、病院に居たらしい。

       *       *       *

 その後、美加の意識が奇跡的に戻った。         Fin.
...
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オールドワイズマン
尾月幾徒



 名無し'これって、もう打っても大丈夫なんですか?
 万屋 'ああ、大丈夫だよ。君と僕以外だれも見れない。安心して
話してごらん?
 名無し'分かりました。
 名無し'私、好きな人がいるんです。数年前から。それでも、まあ付き合えたら幸せだなー、とかなんとなく好きだったんです。
 名無し'いえ、本当は友達のように思ってただけなのかもしれません。それを好きだと勘違いして。
 名無し'私、友達少なかったので。
 名無し'それでそんな気持ちのまま最近になって、その好きな人に彼女ができたっていう噂を聞いたんです。
 名無し'それを聞いたときびっくりしました。彼女ができたっていうことにではなくて、そのことを聞いて凄く残念がっている自分に。
 名無し'聞いたときはよかったんです。驚いただけでしたから。でも、時間がたてば経つほど彼のことをどんどんすきになって。
 名無し'それで、私、なんだかおかしくなってきたんです。
 名無し'彼のことつけまわして写真を撮ったり、枕を彫刻刀で切り裂いたり、色々変なことをし始めたんです。
 名無し'ヤンデレっていうらしいです。
 名無し'それでそのヤンデレ行為が、最近どんどんエスカレートしてきたんです。
 名無し'このままだと私、犯罪に手を染めてしまいそうでこわいんです。
 名無し'お願いします。どうにかヤンデレ行為を止める方法を教えて下さい。
 万屋 '話は大体理解したよ。それで質問なんだが、君の話を聞いているとまるで他人事ように話すね。それがまず妙に感じたのと
 万屋 'そんなことをする人間が何故僕に相談に来たのかというのが、わからない。
 万屋 '普通、そういう人間は正気を保っていないからね。人に相談しようなんて思わないものだが。
万屋 'それともそれは他人事のように話すのとなにか関係があるのかい?
 名無し'私はときどき、突発的におかしくなるんです。
 名無し'いつもは普通なんですけど、時々すごく彼の彼女が憎くなったり、彼に会いたくなったり。
 万屋 'なるほど。つまりは発作みたいなものか。
 万屋 'じゃあまた質問だけど、その普通のときは彼のことが好きかい?
 名無し'嫌いではない、と思います。好き、でもないと思います。多分。

ここで万屋と名乗った少女はキーボードから手を離した。
よくある話だ、と薄暗いリビングの中で一人パソコンに向かいなが
思った。
「さて」
呟きながら腕を組む。もう返事を返す気はない。
(この子も、恐らくつまらない人間なんだろう)
ならせめて騙されたとわかったときになんと書き込むか、見せてもら
おう。

   ***

 「悪趣味だ」
話を聞き終えて、腕を組みながら俺は少女――識常(しきじょう)京華(きょうか)と名乗った
少女に言った。
都内の喫茶店、平日の昼間、雨雲がよく見える窓際の席に腰まで伸
びた黒髪とセーラー服が目を惹く女子高生らしき少女と向かい合っている。傍からみたら学校をサボった女子高生と二十歳くらいの無職の男が何かを話しあっているように見えるだろう。
ものすごく目立っているが仕方ない。
「悪趣味、ねえ」
識常は噛みしめるように言い直してから、続ける。
「まあ、君がどういう感想かはさておき、君は僕にどうして欲しいん
だい?」
「決まってるだろう。万屋と名乗って人の悩みを聞くだけきいて放置
するのをやめろ。俺の方の“何でも屋”に苦情が来てるんだよ」
は?、と識常は今までの微笑んでいるような嘲笑しているような顔
を崩し豆鉄砲でもくらったかのような顔になった。
「苦情って君の何でも屋のサイトにかい?」
ああ、というと識常はため息をついた。
「お門違いもいいところだねぇ……。ていうかどんな苦情が来るんだい? 話を聞かれただけで無関係の人間にいちゃもんをつけるほど嫌だったのかい?」
「人に興味本位で聞いて欲しくない話だってあるだろう。で、どうなんだ。止めるのか、止めないのか」
 コーヒーを半分ぐらいまで飲んでから識常は返す。
「止めないさ」
「何故?」
 識常は窓の外に視線をむけた。つられて見てみるが雨が降っており傘をさして歩道を歩いている人が一人居ただけだった。
「気にならないかい? あの人がこれから何をしにどこへ向かっているのか」
「……いや、全然」
 視線をこちらに戻す。
「僕は、とても、気になる。だから知りたいんだよ」
「だから、ネットで人の悩みを聞くのか」
 返事は無いが、おそらく合っているのだろう。
「つまりは好奇心だ。しかし恐らく、君が思っているより遥かに強い欲望なんだ。私にとっては」
「だからってやっていいことと悪いことがあるだろ」
「そうは言ってもねぇ、誰だって意外とやってることだぜ? 昔、僕は交通事故を間近で見たことがあったんだが、瀕死の人間が目の前に居て真っ先に携帯電話をとりだした人間がいて、通報するのかと思ったんだが見ていてびっくり、カメラを起動させて写真を撮り始めたんだよ。しかも一人じゃなかった。そういう野次馬根性丸出しのことはみんな気づいていないだけで結構やってるぜ? 大体、今日君が僕に直接会おうって持ちかけてきたのも、僕がどういう人間か気になったからじゃあないのかい? 忠告だけならネットでも出来たわけだし」
 それを言われると、弱い。興味があったから直接会う提案をしたという一面はあった。
「僕は倫理の観点からは非難されるかもしれないが、違法なことはしていない。まして、人から聞いた悩み事をネットで中傷しているわけでもない。己の知識欲を満たすためだけに動いている。それを止める権利や筋合いを君は持っているのかい?」
 無い。まったく持っていない。こうなればネットで人の悩みを聞くだけ聞いて無視する人間がいると呼びかけるしかないだろう。俺が黙っていると識常はコーヒーを飲み干し、立ち上がるのかと思いきやベルを押した。やってきた店員に、コーヒーをもう一杯注文した。
「?」
 これ以上彼女がここに留まる理由があるのだろうか。外を見てみるが雨はやんでおり、雨のせいではなさそうだ。
「ところで聞きたいんだが、何故君はいい歳して何でも屋なんて商売をしているんだい? 普通に就職とかできなかったのかい?」
 いきなり何を言い出すんだ。だが、なんとなく答えてしまった。
「一応、何でも屋は仕事だからな? 普通の」
「そうでもないだろう。厚生労働省に申告していないんだろ? 書類上では無職なんだし」
 確かにそうだが。
「何でも屋は俺の祖父の代から続けてることだ。だから自然と俺もそうなりたいって思ってたな」
「だけど、噂に聞くところ随分と安い、雀の涙よりも少ない料金で仕事を引き受けてるらしいじゃないか」
「お金欲しさにやってるわけじゃないからな。お金に振り回されないだけのお金があればいい」
 識常はコーヒーを少し飲み、それきり視線をカップに向けたまま黙り込んでしまった。
 何だ? 何か気を悪くしたのだろうか。別にそこまで気を使う必要などないのだが、だんまりを決め込まれてしまったらどうすればいいのか分からない。
 だが、識常の言葉で沈黙は破られる。
「生きがいはないのか? 生きているという実感が得られるときは」
 意味を咀嚼するのに数秒を要したが、すぐに返す。
「わからないな」
 また識常は黙るが、今度の沈黙は長くは続かなかった。
「ああ、分からない」と識常。
「何が?」
「君がだよ。最初はただの偽善者かとも思っていたんだが、話していてどうにも違和感を感じる。……気持ち悪いな、君は。僕は自分の好奇心を満たすためにネットだけではなくリアルでも様々な人間に出会ってきたが、それでも君ほどわからない人間は初めて見たよ」
そうだ、と識常は言う。
「僕を、君の何でも屋で雇ってもらえないだろうか」
 話題転換が急すぎる。また、意味を理解するのに数秒を要したが、返す。
「なんでだ?」
「分からないからだ。だからもっと近くで観察したい」
 まるで告白のワンシーンみたいだな、と思った。
「断る」
「何故?」
「なんでお前を雇わなきゃならないんだ。理由が無い」
そうか、と識常は黙考した後
「じゃあ、雇ってくれるならネットでの万屋を止めよう」
 今度は俺が黙考する番だった。そしてすぐに返した。
「分かった」
 識常は驚いた顔をして、意外だと言った。しかしそれは俺にとっては意外でもないことだった。識常の目的が俺の観察だと分かっている以上そう遠からず辞めるのは目に見えている。ならばさっさと受けて万屋を止めさせるのが良いだろう。辞めた後にまた万屋を始めないとも限らないが、何故か識常が嘘をつくのは考えられなかった。
 そして、何気なく窓の外を見てみると、空に虹がかかっていた。気づけば、日が差しており人通りも増えていた。そして、俺は無意識に口を開いていた。
「虹は日の光だけじゃなくて雨の残滓も無いと出来ないんだよな……」
 識常も、何を考えているのか口を開かない。
 沈黙が続いたが、虹はすぐに消えていった。そして俺は残ったコーヒーを飲み干し、勘定を済まして店を出た。その間、識常は店に残ったままずっと虹のあった場所を見続けていた。

   ***

 築六十年の木造アパートに帰宅し、電気をつけ、そのまま畳に敷きっぱなしの布団に倒れこむ。識常と別れた後、その足で何軒か本屋をはしごしたので、外は日が落ちていた。
(拍子抜けっていうんだろうな)
 識常が指摘したとおり人の悩みを聞くだけ聞いて放置する、という人間に好奇心を働かせて会いに行ったのは確かなのだが、同時にタチの悪い人間であることも予想していた。それは、ネットでの万屋の評判を鵜呑みにしてしまったからなのだが、実際に会ってみてそこに悪意が無くただ知りたいというだけだった事に、用心していた心がなんだか空回りしたように感じた。
(だからといって許されていいことではないと思うが)
 しかし、自分もまた万屋ではなく識常個人に興味を持ったからこそ、あっさりと雇用を承諾してしまったのかもしれない。自分の学習の無さにため息をついた。
とりあえず、雇うことに関して識常と話さなければならない。ネットを使えばすぐに識常と話せるだろう。起き上がるのも面倒くさくなって、ノートパソコンを畳にこすり付けるように手元に引き寄せ、電源をいれた。
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世界と僕
妖怪腹黒

貴方にとって世界は厳しいだろうか、それとも優しいだろうか。
僕にとっては常に世界は優しかった。
小学校高学年頃から、挫折したことがない。
少し勉強すれば、必ず満点に近い点数を取れた。
少し練習すれば、どんな習い事でもすぐに出来るようになった。
大抵の人は自分と話すことを快く思うし、異性ともそれなりに話せる。
ただ、色恋とはあまり縁がなかった。何故か「その気」が起きなかった。
 僕はそれがただの幸運だと思っていた。「たまたま」僕が恵まれているのだと。少々の才能を持って生まれただけの一般人だと。でもそうではなかった。それを知ったのは高校二年の冬だった。

 その日僕は寒さに身を縮めながら家から駅まで歩いていた。しかし、ぐにゃり、と視界が歪んだ。正確には世界が歪んだ。
 思わず屈み込んで立ち上がったら、目の前に少女が浮いていた。それも巫女服の。
「なんだこれは、ついに僕は二次元に脳が浸食されて幻覚か何かを見ているのだろうか」
 そんなことをごにょごにょ呟いて後ずさる僕を見ながら悲しそうに少女は口を開く。
「遂に……この時がやって来てしまいました……」
 この声、この容姿、確かに見覚えがある。
「君はもしかして、僕が小学校に入る前に会ったことがあるのじゃないか?」
 そう口にしながら、今までなぜか私の脳内を掠りもしなかった幼少期を次々と思い出す。
「実家の近くにある、山奥の神社だ。山の奥にひっそりと建っていて、夏休みに帰っただけの、一緒に外遊びをする友達がいなかった僕以外は誰も近づかないような場所だった」
 堰を切ったように僕の口から言葉が流れ出る。
「そうだ、そこでいつも僕と遊んでくれた女の子がいた。とってもさびしげな眼が、幼い僕には何か儚い宝石に見えたんだ」
 いきなり脳内に情報が流れ込む。僕は少女を眼前にして独白を続ける。
「君と一緒に帰ったことは無かった。お別れを言った後こっそり付いて行ったことがあるけれど、いつの間にか消えてしまっていたね。どんなにお願いしても寂しそうな顔をして首を振って、絶対に家には来てくれなかったね」
 ここで一息ついて、少女の眼を見る。
「君は、僕の友達で、僕の神様だね」
 少女は今よみがえった通りの寂しげな顔で答える。
「はい、そうです。あなたが小さいころ一緒に遊んで、神社と神体である山が取り壊されてからはあなたに憑いて護ってきたkrdfvjです」
 彼女の名前は、自分の口ではとても発音できないようなものだった。人の自意識が保たれ得るこの世のものではない、喩えるならば「球面においてのマイナスπ角形」のような、そんな音だった。でも僕の頭には彼女の名前として意味を持ってはっきりとその音は流れ込んできた。
「私は今まであなたをあらゆる面で加護してきました。あなたの不幸を悉く排除してきました。でももうすぐできなくなります。あなたを守るために、私やその護りを思い出させないように、思い当たらないようにする力すらもう消えました」
「僕を、僕を護るために君は力をすり減らしてしまったのかっ」
「いいえ、違います。あなたを護るというのはむしろ私の存在理由でもあったのですよ。精神的にもそうですが、それよりも、私が存在するための力はあなたを護ることに由来するようになっていったのですから」
 僕はそこで、叫んでしまったことに気づいて辺りを見回したが、誰もいない。
「ああ、神域というものです。これくらいは、私の最後の一片が消えるまで保てますよ。私の存在とほぼ同義ですもの」
そう言って微笑んだ後、続ける。
「私は、神と呼ばれる、いえかつて呼ばれたモノです。地球と人類の無意識の集合体の意志によって生まれた一種の現象なのです。ですので、本来ならば、いくらお互いが好きになったといえ個人に付いていって憑いてしまうわけにはいかないのが私、であるはずでした。ええ、あと二百年も前なら幾ら好きでもあなたに憑いて行くことは私を規定する力そのものが許さなかったでしょう」
ここまで話して少女は悲しそうに僕の眼を見る。僕は、彼女の次の言葉が予想されて呼吸が詰まる。
「現代になって、あなたに会う頃には人類の無意識の集合体である「世界」は変質していました。もはや「世界」は神を求めてはいないのです。少なくともこの日本においては。だから近代では出来なかった、神代の業である、人との遊びがあなたと出来たのです。私達「神」の存在という定義が薄れていくのと共に私達を規定する力も薄れていったからです」
 少女は私を抱きしめる。
「同じ神々が存在を消滅する中、私は神体を失っても存在を残しました。なぜなら加護し祈願される人が一人であってもいたからです。そうです、あなたです。あなたのために私の記憶を排除してもそれは変わりませんでした。しかし、それももう限界です。いまや神は求められるものではなく進歩と合理の妨げとなるモノでしかないのです。長くてもあと二年しか私は存在して貴方を加護できません」
少女はそう言って僕の胸に顔を埋めて震える。
「ああ、僕はこうやって忘れていたことが不思議なくらい君が好きだった。幼少期の一番大切な想いを、君の力とはいえ忘れることができるなんて。今思い返してもあれほど純粋で強力な想いは抱いたことはない」
少女は顔を上げて言う。
「ええ、私も、そのような存在ではなかったとはいえ、日本において生成されてから二千余年間、こんなに人を想ったことはありませんでした。だからこそ、あなたの為という存在理由で存在の力を保ち得たのでしょうけど」
 僕はふと思いついたことを口にする。
「そういえば、色恋には縁がなかったけど、君が遠ざけていたのかな?」
 少女は真っ赤になってまた僕の胸に顔を埋める。
「聞かないでください……」
あまりにも愛おしく感じたので、僕は表現する方法が分からなかった。その感情をゆっくりと頭を撫でて漏れ出させる。
「たとえそれが人類の無意識の総意だとしても、僕という意識の総意で打ち負かして見せよう。僕は今まで君を通して世界に護られてきた、でもそれがなんだというのだ。僕はその恩を仇で返そう。たとえ世界の、神意の地上代行者が現れて阻んだとしてもそれを乗り越え君を蘇らせる」
 そう決意と共に呟いた。そして、あと二年も無い時間を少しでも幸せに一緒に過ごしたいとただ願った。
 そして研鑽を積んで世界を打ち負かす。
 はずだった。
 結局、大学受験までは彼女は存在していたから、私の絢爛たる才能は損なわれていなかった。もちろん大学も不自然なまでに素晴らしく思い通りの場所に入った。
 それからしばらくして彼女は消えた。彼女の間隔からすればまだもう少しは存在していられるという事だったから、別れを告げる暇も無かった。
 僕は自分が如何に今まで才能に、庇護に頼っていたかを思い知らされた。僕は本当は守ってもらわなかったら何もできない「一般人」だった。今まで自分のことを指して言っていた「一般人」ではなく、心のどこかで見下しながらつぶやく「一般人」が本当の自分の姿だと知った。僕は結局挫折しきった。明らかに諦めた。
 心が折れてからは楽だった。身の丈に合わないほどの高い学歴を元になんとなく就職して、家庭を持って、三十年が過ぎていた。年齢と共に心身の衰えを感じたが、僕は満足していた。
 世界がずれた。
 ある日、すべてが崩壊した。会社は頸になった。家庭は崩壊した。
 「世界」曰く「お前の最後の加護の煌きが消え去るのを待っていた。もう敵対する豚にやる餌は無い」そうだ。
 結局僕の意志は彼女の洗脳にも、彼女の後任のにも、世界相手には自由にならないようだ。彼女に申し訳ない。僕がそれなりにでも幸せに生きるのが彼女の願いであることはわかっている。でも僕はもう疲れた。もう一度だけ、最後だから、裏切ることを許してほしい。
 そう呟いて私は飛んだ。
...
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餞別
ざっきー☆


「そんなことで食べていけるか! だめだ!」
 直後、ガンッ、と俺の頭と視界が激しく揺れた。意識と視界が同時に真っ白になったと思うと、気づけば俺は床に大の字になっている。
「…………つ……」 
親父が怒鳴っている中俺はゆっくりと身体を起こした。
体中が痛む。
ここまで怒っている親父は俺でさえも見たことがなかった。
「俺の人生だああぁ!」
 俺がここまで声をはりあげているのは親父もはじめて見たのだろう。
親父は少し目を見開いたかと思うとまた手を上げた。
「馬鹿野郎!」
 歩はいつも温厚な親父が自分を殴っていることが考えられなかった。
「うわああああああああぁ」
この後のことは余り覚えていない……。
 ただ……むなしさだけが残っている。
 何を言ったって親不孝になることがわかっていたからだった。

 どうしてこうなったのか。はっきり言って俺が聞きたいぐらいだった。
 ほんの少し前まで、いつもどおりのんきに新聞読んでたのに!

 俺、綾川(あやかわ)歩(あゆむ)は高校生活も最後の年になり、本格的に進路をかんがえなければならない頃だった。
 俺は高校3年間美術部に所属していた。
 絵はそんなに上手くなかったが、イラストやデザインは子供の頃から好きだった。
 当時、俺はあるデザイナー兼写真家の作品に夢中になっていた。
 マスコミに登場するような有名人ではなかったが、デザイン集や写真集は俺にとってとても魅力的で宝物のようなものだった。
 ある時、その人が東京のデザインスクールで授業を開講していると知り、俺は狂喜した。
 その学校に入学したら、憧れの人に会えるだけでなく、直接授業を受けられるのだ! この瞬間、俺の希望は決定した。
 俺は早速高校の進路相談前に両親に自分の希望を言った。しかし、親父は俺の話を聞くや否や猛反対で、聞く耳を持たなかった。
 なぜここまで反対されるのかこの時はまったくわからなかった。
 そんなこんなで親子喧嘩が始まったわけだが……。
 それでも自分の希望を譲らない俺を見た親父は俺を怒鳴り続けていた。
 そんななか親父がいないとき母は俺に話してくれた。


自分で決める


「歩には水産業会社を経営している親戚のおじさんがいるでしょう」
「ああ」
 主に魚のすり身や蒲鉾を作っては町に出荷している小さな会社だ。
「案外流行っているのは知っているでしょう?」
「ああ」
「おじさんは会社の規模を大きくしようと考えているの、それでお父さんはね、歩が高校を卒業したらそこに就職させるという口約束をしてあるの」
「え?」
 びっくりだった……そんなことが決められていたなんて……
 しかし俺をもっとびっくりさせたのはこのあとの母の言った言葉だった。 
「それにいずれ会社が大きくなったら、将来の幹部や重役に歩は確実になれるらしいわ」
 人生がここでおおきく変わる、そんな気がした。
 俺は夏休みなどで時々、そのおじさんの工場で手伝いをしていた。おじさんは良い人だし、俺も海や釣りは好きなほうだ。
「歩にとっては悪い話ではないはずよ、堅実な仕事だし間違いはないと思うわ、そんなデザイナーのはなしよりはね……」
 母はそう心配げに俺を見た。

 それでも俺の気持ちは変わることはなかった。

 母の話があってからも俺と親父の親子喧嘩は止むことはなかった。
 そのうち母は折れたのだが親父はいっさい俺の話を聞かなかった。
 デザインスクールの出願期限ぎりぎりの日……
 親父は、
「勝手にしろ!」
「勝手にするよ!」
 その日から俺は一切親父と話さなかった。
 俺が親不孝しているようで胸が痛んだが、デザインの道こそ自分の道だと決心した。
 結局、親父は怒ったままで…………。

「仕送りは一切しない! 金はださん!」

 これは流石に面食らった。
「アルバイトするよ!」
 一応こう言い張ったがなんたって遠く離れた東京での初めての一人暮らし、強がったが、内心は不安でいっぱいだった。


 親父が俺にくれた物


 東京に発つ日、俺は大きなバッグを持ち駅に向かった。
「………………………………」
 駅に向かっている間も全く話さず……。
 それに俺は親父の顔も見なかった。
 ホームで母からいろいろ注意を聞いていると、出発の直前、父が何かを差し出した。
「ほれ」
本屋の封筒だった。
「?」
「新幹線は長いだろ、新聞と雑誌を入れている」
「あ、あぁ」
 それだけ言うと、親父は背を向けて階段を下りて帰っていった。
「もう……」
母は困った顔をしながら俺に囁いた。
「あとでお母さんが生活費入れてあげるからね」
「いいよ、無理しなくて。自分でがんばるからさ」
 俺は半分意地になっていた。
出発のベルが鳴り俺は手を振った……。
 母は泣いてるのか笑っているのかわからない表情をした。
 母は手を振っている。
 俺も手を振りながら、親父の姿を探した……。
 やっぱりホームにはいない……。
 まったく、見送りぐらいはしてくれてもいいじゃないか。俺は腹立ちまぎれに席に着いた。
 出発後、見慣れていた風景が後ろに飛んでいくかのように離れていった。
 弁当を食べてしまうと、すぐにやることがなくなってしまった。
 しばらく外の風景を眺めたり、コーヒーを飲んだりしたのだが、ふと親父から新聞と雑誌をもらったのを思い出した。
 本屋の封筒を破って新聞を開くと、ぽとりと何かが床に落ちた。
「…………?」
 それは親父が大切によく使っていた銀色の物入れだった。
 開けると中から長方形の冊子があった。
 表には俺の名前が印字されてあり、大きく「○○銀行」の文字が……。
 中を開いて目を見張った。
「そ、そんな………………」
 俺が一度も見たことがないような大金が貯金されていた。
 通帳にはメモ用紙があった。
 そっけなく「一年分」とだけ書いてあった……。
 俺は茫然としながら車窓の風景に目をやった。
 もうとっくに故郷の町を離れていた。
電車が規則正しく俺の体を揺らす。なんだか笑ってしまうような、悲しいような複雑な気持ちだった。
 胸が苦しいような不思議な感情があふれ出てきた。
 気づくと、さっきから飛ぶように後ろに走る景色が、にじんで見えた。

*******************************
 
 あれからもう十年がたつ。あの時のことに触れようとすると、親父は
「もういい」
としか答ええてくれない。
 口で伝えるのもいろいろ照れくさくていまだにしっかりと感謝を伝えられていない。
 そのうちメッセージカードを送ろうと思っている。

 そう、その時僕が作ったオリジナルデザインカードで。

    完
...
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イェーガー

2013年09月16日
イェーガー作

ざっきー☆

2013年09月16日

尾月幾徒

2013年09月16日

ミスターブシドー

2013年09月16日
ミスターブシドー作

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