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春号  Byトム猫

2013年09月16日
Skies of underdogs
トム猫



 クリストファーは叱られた。父親が大切にしていた置時計にイタズラをして、故障させてしまったのだ。彼は思いっきり殴られ、それから家の外へと放り出された。彼は途方に暮れて、家の前で座っていた。ぼんやりと月が動いていくのを眺めると、自分は家族に見捨てられたのだ、と思って悲しくなって、ひどく泣いた。泣き続けて、かなりの時間が経った頃、遠くから轟音が聞こえて、思わずそちらを見上げた。近くの空軍基地から戦闘機が飛んできたのだ。頭上を戦闘機が駆け抜けていく。明け方、空は白くなってはいたがまだ暗かった。その暗い空に輝く排気管の輝きは美しかった。彼は寒いのも悲しいのも忘れて、それを見つめていた。家の扉が開いたのはそれから十分後、彼の兄が開けたのだった。

《基地司令部よりソーサラー隊へ。所属不明機との距離、10マイル。所属不明機は依然、領空外へ向かって飛行している》
《ソーサラー1、了解。『ポーカー』、カメラの用意はできてるか?》
《こちらソーサラー2、万全です。あちらさんのハゲ頭まで写りますよ》
《よし、ばっちり写してやれ。いいか、ピンボケしないようにな》 
そこまで喋って、ソーサラー1―――エドワード『チキン』マクドネル大尉―――は話をやめた。所属不明機の姿が見えてきたのだ。
《機種は『メイ』だな。『ポーカー』、撮影会の時間だぜ》
『ポーカー』―――クリストファー『ポーカー』ダグラス少尉―――はカメラを持った。所属不明機をファインダーに入れてシャッターを切る。カシャ、という音がした(音がしたような気分になった、というのが正しいのではあるが)。フィルムを巻き取り、さらに別のアングルから何枚かを撮影する。
 《撮影完了。プロもびっくりの名写真ですよ。いっそ写真家に転向しようかな》
《なら、連中に連れて帰ってもらえ。連中、ポルノ写真だけはとびきりうまいぞ》
《基地司令部よりソーサラー隊へ。無駄話はいい。領空から離れている。そのまま監視を続けろ》
《ソーサラー1、了解》
クリスはカメラをしまった。司令部から帰還命令が出るまでエドワードとクリスは監視を続けた。監視といっても特にやることも無いので、結局は無駄話が始まる。
《おい、この間出たばっかりの映画見たか?》
《どの映画ですか? 『オペレーション・インポッシブル』の新作?》
《いやいや、ほら、セリーヌ・バルサンの……》
《あのね、隊長。俺はポルノ映画には興味ありませんよ》
《低俗なポルノ映画と一緒にするな。ありゃ高尚な恋愛映画だぜ》
エドワードが不機嫌に言う。しかし彼の見る映画というのは未成年には見せられないようなものばかりだ。彼が空軍にいるのは妻の目が届かないからだ、という噂が立っているほどである(そして恐らくそれは真実である)。
《なら今度の非番に奥さんと一緒に見たらどうですか?》
《おいおい、勘弁してくれ。あいつと見たらせっかくのセリーヌの身体の魅力が半減だぜ》
《今の発言、奥さんに報告ですね》
《こちら司令部、無駄口を叩くな》
《おい、勘弁してくれ! 頼む、それだけはやめてくれ!》
《さて、どうしましょうかね。俺が貸した本を返してくれれば考えますが……》
司令部からの指示を無視して会話を続ける。それまでの会話でも同様に司令部の制止を無視していたため、司令部の士官も我慢の限界だった。
 《こちら司令部! 繰り返す、無線を独占するな! 今の会話の録音テープを家族に送りつけるぞ! マクドネル大尉!》
 一瞬の沈黙を挟んでエドワードが答えた。
《『ポーカー』、私語はやめるんだ。いいか、隊長の命令だぞ》
 それから間もなく帰還命令が出て、2人は基地に帰還した。

  クリスは愛機、イーグルF・3の二一五四‐○七四番機から降りて垂直尾翼を眺めた。垂直尾翼に描かれた魔法使い―――エドワードの言葉を借りるなら、アホ面をしたウスノロバカの魔法使いが今日も変わらずニヤニヤと笑っている。部隊の者はこの魔法使いを「イディオット」と呼んでいた。クリスはこのイディオットが好きだった。この間抜けな顔をした魔法使いの気楽な雰囲気が好きだった。
「いつまでそのバカを眺めてるつもりだ。お前もバカになっちまうぞ。ほら、行くぞ。」
エドワードに急かされて司令部へ向かった。報告をするためだ。
近年、リーンシア共和国連邦は領空侵犯されることが増えてきている。そのほとんどは隣国のヴォセイト連邦の偵察機だった。そのため、司令部は最近はずっとピリピリしていた。いつ事が起こるか分からない。そのストレスのはけ口は下へと向かう。そのため、司令部への報告があまりに遅いとまたやかましいのだ。
「クリス、『ベア』だったでしょ? ほら、さっさと一〇〇ブクわたす!」
「おおっと、そりゃダメだ。お前が俺に一〇〇ブクわたすんだぜ。『メイ』だったからな」
クリスの同期で、同じ隊の隊員でもあるパトリシア・ノースロップ少尉が駆けてきた。その日の朝に二人はスクランブルが発生した時の所属不明機の機種を当てるという賭けをしていた。パトリシアは女性であるが、隊内では腕相撲で負けたことがないくらい、腕っ節は強い。学生時代は相当ヤンチャしていたらしい。
「嘘でしょ! 絶対『ベア』だって!」
「いやいや、嘘じゃないさ。トリッシュは賭けに弱いからな。写真を現像すれば分かるさ……」
 クリスは彼女にカメラを見せようとしてふと気付いた。カメラがない!
「隊長! カメラ、機体格納庫に置いてきました! 取りに行ってきます!」
「ほら見ろ、バカになっちまった!」
クリスは全力で駆け出した。廊下を曲がって、そこのドアを抜ければ機体格納庫だ。そのドアが開いて、ぬっと大きな体が出てきた。
「『ポーカー』、忘れ物だ。こいつが無いと司令部のやかましい連中にどやされるぜ。連中、今日は一段と機嫌が悪い。俺もさっきごちゃごちゃ言われた」
「サンクス、『パスタ』! ちょうど探していたところだった!」
クリスはカメラを受け取りながら言った。
「流石は『パスタ』。頼りになる」
「それはいいんだが、『パスタ』ってのいい加減止めてくれよ。いくらラットリー出身だからって安直すぎる……」
「サンキュー、『パスタ』! かっこいい!」
『パスタ』の言葉を無視しながらクリスは駆け出した。
「やれやれ」
『パスタ』の本名はカルロ・アエルマッキ。ラットリー共和国出身で、同国の空軍で整備兵をしていた。一年前から、リーンシア共和国連邦空軍に派遣されている。『パスタ』というのは、エドワードが名づけたものである。もちろん、ラットリー料理の定番、パスタからとられた。
「隊長! カメラ持ってきました!」
「よし、行くか!」
報告の後、無線を独占した件で司令部の面々に散々お小言を食らったのは、言うまでもないことである。実に二時間に及ぶ説教と言い訳の応酬をここに書いても読者の気分を害するし、私の体力も無駄に使うことになるので、割愛させてもらう。ただ、エドワードの妻に無線の内容を聞かれることは回避できたということはここで明言しておく。

「『ポーカー』、今日の飛行はもう無いよな?」
クリスに話しかけてきたのはフィリップ『スカイハイ』グラマン中尉。ソーサラー隊の三番機で、エドワードのことを最も良く理解している男(本人談)である。操縦技術は卓越しており、航空学校は首席で卒業した。その上、それを鼻にかけることもないので基地では人気者である。
「ええ、スクランブル待機も無いですし、訓練もありません。始末書は隊長の仕事ですしね」
「じゃあ、『リオン』も誘って、三人で飲みに行くか」
『リオン』はパトリシアのTACネームである。彼女が読んでいた漫画にライオンが登場していたことが由来だ(悪役だったが)。
「了解です。誘ってきますね」
「おっと、待った。あいつ、お前に100ブク払わされたんだよな。俺のおごりだと言っとけ」
「了解です! 行ってきます!」
パトリシアは夕食後、決まって機体格納庫にいた。パイプ椅子に腰掛けて、夜風に当たるのが最高に気持ちよかった。機体格納庫の扉から見えるのは満天の星空だった。こうしている間だけはすさんだ感情も消え失せ、穏やかな気持ちになれる。その日は寒かったので、そろそろ戻ろうか、と腰を上げたとき、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、トリッシュ。グラマン中尉が飲みに行かないか、だとさ」
その言葉を聞いて穏やかな気持ちはきれいに消え失せた。
「誰かさんのせいで財布が軽いのよ、行けないわ。誰のせいかは知らないけどね……」
「中尉のおごりだぜ」
「行くわ」
その後、カルロを車の運転手として駆り出して街の酒場まで向かった。もちろん、カルロから抗議があった。しかし、クリスの説得によってカルロは結局、運転手として働くことになってしまった。向かったのはフィリップの行きつけの店、『イムーバブル・スキットル』。店主はフィリップの幼馴染である。
「よお、マスター。いつもの頼むぜ。こいつらにも」
「ああ、フィルか。いつものって言われてもお前、いつも別々の物頼むじゃないか」
「後輩にいい格好したいっていう俺の気持ちを汲んでくれよ。いつものって格好良いじゃねえか」
「お前の気持ちなんて考えるだけ無駄だからな。ああ、いつも水は飲むから、お前は水でいいんだよな。お三方、何をお飲みに?」
「俺はバーボン……オールドレイヴンBIBで。割らなくていいです」
「じゃああたしは……」
パトリシアが注文しようとしたその時、嫌なダミ声が響いてきた。
「おいおい! フィリップじゃねえか! 久しぶりだな! え?」
その声の方向を向くと、海軍の制服を着た集団がいた。四人。全員、アヴィエイター(パイロットの海軍風の呼び方)らしい。フィリップはそちらを振り向かずに答えた。
「セバスキー少佐。相変わらずひどい声ですね。のど飴いります?」
「エドの野郎はどうした? ……何だ、お前らの隊には女がいるのか」
セバスキーがパトリシアをじろじろと眺める。パトリシアの表情は既に爆発寸前のものだった。フィリップはそれを見て、マズいと思った。暴れられたら手がつけられない。しかも相手は海軍の少佐。下手すれば全員が飛行資格を剥奪、なんて事態になりかねない。
「うちの隊に女がいて、それで何ですか。そんなに珍しいですか、女性が。まあ、艦にはいませんよね」
「なんで女なんかが飛行機乗りになってるんだってことだ。しかもどうだ、戦闘機隊だぜ、こいつらの部隊は。スチンソン少尉、どう思う」
 スチンソンと呼ばれた男は笑いながら答える。
「さあ、娼婦の考えることはよく分かりませんや。間違えたんでしょう、操縦桿とアレを……」
「何だと! てめえ、もう一度言ってみろ、クソ野郎!」
そう言ってパトリシアが飛びかかろうとする。それをクリスとカルロが慌てて止めた。パトリシアの拳にはいつの間にかハンカチが巻かれている。
「貴様、言っていい事と悪いことがあるだろう! 今すぐ謝れ! セバスキー少佐も、たとえ少佐だろうとウチの者を侮辱するなら容赦はしねえぞ!」
フィリップも既に襲いかかりそうな雰囲気でそう言い放つ。カルロはベルトを外して拳に巻いた。クリスはそっと三人の後ろに下がった。海軍の面々もそれぞれ構えている。臨戦態勢だ。店長がそこに割って入った。
「フィル、俺の店で騒ぎを起こしてくれるな」
「ああ……すまん。だが……」
「これだから空軍は。空軍は野蛮人の集まりだからな。マスター、こいつらを入れない方がいい。気づいたら店の金を盗られてるぜ」
流石にクリスもこれにはカチン、ときた。その瞬間、騒ぎを起こさず、恥をかかせてやる方法を思いついた。飛びかかろうとした三人をまあまあ、と必死に押さえてセバスキーに話しかけた。
「では、海軍はどうなんです?」
「あ? そりゃもちろん、賢い人間の集まりだ。俺たちには知識と知力が必要なんだ。少なくとも空軍のマヌケ共よりはな」
「では、一つ、『マヌケ』の私と勝負をしませんか。もし私が勝ったら、トリッシュにしっかりと謝ってもらいます。まあ、それでも殴られるかもしれませんがね。あと、こちらの言うことを一つ、聞いてもらいましょう。私が負けたら、こちらが言うことを聞きます。あとは、まあ、持ち金全部渡しましょう」
「あ? ……一体何で勝負するつもりだ」
「ポーカーなんか、どうでしょう」
クリスはそう言ってポケットからトランプを取り出した。
「ポーカーか。いや……いいだろう、受けてやる。だが、俺はポーカーが強いぜ。母艦の航空隊の中では一番だ」
「私は運が強いんですよ。面倒なので勝負は一回。だからチップは使いません。もちろん、勝負を降りてもいいですが、五回までとします。チップは使いませんから、コールやレイズもありません。選択肢は勝負するか、しないか。そして、手札を変えるか。いいですね?」
「ああ、構わないぜ。だが、俺が勝ったら本当に何でも言うことを聞くんだな?」
「ええ、約束ですから」
「じゃあ、そこの姉ちゃんに何をさせてもいいんだな? あんなことやこんなことをしちまうぜ? すぐそこに連れ込み宿もあるしな」
「ええ、約束ですからね。でも、今はどうやって勝つかを考えた方がいいんじゃないですか? 私は運が強いんですよ、とても。ああ、マスター。そこの食器棚の鏡を外せる?」
店主は鏡を外した。手札が見えないようにするためだ。
「カードはこのカード、バイサイクル。まあ定番でしょう。もちろん未開封です。確認してください」
セバスキーはカードの箱を手にとって調べた。封のシールは剥がれていない。つまり、まだ箱は一度も開けられていないということだ。イカサマを仕込むことはできない。
「確認した。問題ないぜ」
「では、開封します。見ていてください。……ジョーカーを除きます。いいですね」
 除いたジョーカーをテーブルの端に置く。
「シャッフルします」
 クリスは馴れた手つきでカードをシャッフルした。
「一応、俺にもシャッフルさせてくれるよな」
「もちろん。それくらいの権利は当然のものです」
クリスはセバスキーにカードの束を手渡した。クリスはセバスキーの手元をじっと見つめる。
「おい、どうしてそんなにジロジロと見つめるんだ? まさか、俺がイカサマでもすると思っているのか?」
「用心には用心を重ねる必要がありますからね。飛行機と一緒ですよ。少しでも違和感を感じたら、予備機に乗る。射撃前には後ろを振り向く。もっとも、勇猛果敢な海軍さんはそんな真似しないのかもしれませんね」
  セバスキーは黙ってシャッフルしたカードの束をテーブルの真ん中に置いた。
クリスはポケットからコインを取り出す。
「ディーラーはこのコインで決めましょう。表が出たら私、裏が出たら少佐……」
「いや、逆だ。表が俺で裏が貴様だ」
「構いません。どうせ確率は変わらないですから。では、投げます」
ピン、とコインを弾き、手の甲に落とす。クリスが左手の甲に被せた右手を開けようとした瞬間、セバスキーが止めた。
「いや、やっぱり裏が俺だ。表が貴様」
「投げた後ではずるい気もしますが……まあ構いませんよ。では、開けます」
コインは表。ディーラーはクリスだ。
「心が広い方が得をしたようですね。まあ、得というほど得ではないんですが。イカサマをするならともかく」
「……いや、やっぱりディーラーは無関係の奴がやるべきだ」
クリスはニヤリとして言った。
「この店の中のどこに無関係の人がいるんですか? 我々とあなた方、そしてマスターのみ。他のお客さんはいません。マスターはグラマン中尉のご友人ですから、公平とは言い難いです。そもそもディーラーが決まった後でそれは無いでしょう」
セバスキーは黙って煙草に火をつけた。
「イカサマなんてしませんよ。しなくても勝てます。今日は特にツイてる。トリッシュとの賭けにも勝った」
そう言いながらクリスはカードを配った。
「五枚ありますか?」
「ああ、間違いない。五枚だ」
「では、ゲームを始める前に。観客が気になりますね。向こうの席に行ってもらいましょう。お互いに手札を隠すべきです」
クリスが指差した先の席にそれぞれの人間が座った。既に喧嘩が始まりそうな雰囲気である。パトリシアに至ってはナイフを手に握っている。
「いや、誰かイカサマを見張る奴が必要だ。それぞれ、お互いの隊の人間を見張り役に出そう」
「なるほど、それは確かに一理ありますね。トリッシュ、セバスキー少佐がイカサマをしないよう、見張ってくれ。くれぐれも殴りかからないようにな」
「言っとくが、イカサマを指摘してイカサマじゃなかったら、それも勝負を降りた回数のカウントに入れるぜ。そうだな・・・おい、ケニー。お前、この兄ちゃんを見張ってろ」
「了解です」
パトリシアと、ケニーと呼ばれた若い男が、近くの席に座る。もちろん、手は見えない。セバスキーとクリスが同時に自分の手札を見た。
「どうします? 棄権しますか、それとも勝負しますか。もちろん、ドローしてもかまいません。イカサマさえしなければね」
「勝負しよう。手札は変えなくていい。このままで勝負するぜ」
クリスは思わずニヤリとした。
「私も、ドローはしません。このままで勝負します」
「よし、いいだろう。手札を……」
クリスがそれを止め、パトリシアとケニーをじろ、と見た。二人とも首を振った。
「どうやら二人とも、イカサマの気配すら捉えなかったようですね。まあ、私はイカサマなんてしてませんが」
「いや、俺もしないぜ。……えらく自信満々だな、ロイヤルストレートフラッシュが決まったか?」
「まさか。……あなたはフルハウスですね。間違いない。あなたの手札はフルハウスだ」
  セバスキーの顔色が変わった。セバスキーの手札はフルハウスなのだ。セバスキーは何故見破られているか分からなかった。そして、見抜いた上で棄権していないということは、クリスの手札はフルハウスに勝てるカードに違いないのだ。
「まあ、開いたらわかるでしょう」
セバスキーの顔色が更に変わって、完全に真っ青になった。
「ストレートフラッシュです。流石にロイヤルストレートフラッシュとは行きませんでしたが。ほらね、ツイてる」
「……あ、有り得ない! ドローせずにストレートフラッシュなんて! 俺の手札を言い当てるなんて! イカサマしたな! 貴様!」
「ケニー君ケニー君、俺は一度でもイカサマをしたかね? 君の目玉はそれを捉えたかね? ほんのちょっとでも、その気配があったかね?」
「い、いいえ……全く。全くおかしなところはありませんでした。というより、手札を見て、そして相手に見せる以外の動作をしていないので……」
 真っ青だったセバスキーの顔が土気色になった。
「配った時にイカサマを……」
「皆が見てるんですよ。無理です。一人じゃない。七人です」
セバスキーは机をバン、と叩いた。山札が崩れる。反論できない。
「さて、約束は守ってもらいましょうか。まず、トリッシュに謝る。そしてこちらの言うことを聞く。ほら、四人で。並んで。トリッシュはそこに座っていいですよ」
「お前ら……並べ。約束は約束だ。守らなきゃならん」
 パトリシアが椅子から立ち上がった。
「別に謝らなくてもいいわよ。どうせ上辺だけの言葉だし。マスター、店の扉を開けて。おい、そのまま並んでろよ、じっと……」
マスターはよく分からない、といった顔をしながら、言われるままに扉を開けた。よく分からないのはクリスやフィリップ、カルロも同じだった。
「トリッシュ、何をするつもりだ?」
トリッシュは無言で、スチンソンの方へと歩いて行った、そして蹴り飛ばした!
「うわ、痛え!」
カルロが叫んだ。なるほど、確かに痛そうな鈍い音がした。スチンソンは吹っ飛んでいった。トリッシュは、店の外まで吹っ飛んでそこでうずくまっているスチンソンに蹴りを入れている。スチンソンは頭を守ろうと必至だが、その手の隙間から的確に蹴りを入れているのだ。
「当然、だな。セバスキー少佐、覚悟しといた方がいい。『リオン』はああなると俺や隊長でも手がつけられない。さっき飛びかかろうとした時に謝っておけばああはならなかったんだが」
既に血の気を失ったセバスキーの顔が更に白くなった。目には明らかに恐怖の色が浮かんでいる。残りの二人もまた、ガタガタと震えだしている。パトリシアはスチンソンの腕をひねりあげている。既におかしな方向に曲がっている。
「セバスキー少佐。あなたの度胸、正直言って驚きました。ポーカーじゃない、トリッシュに喧嘩を売ったことですよ。アメフト用のマウスピース、すぐそこのスポーツ用品店で売ってるんで買ってきましょうか?」
「いや、クリス、もうダメだ。歯型を取ってる間にトリッシュは少佐殿に襲いかかるぜ。ほら、入ってきた」
  セバスキーは扉の方を振り向いた。セバスキーの目に飛び込んできたのは、右腕と左脚が明らかに異常な方向に曲がっているスチンソンだった。顔がよく見えないが、少なくとも血で真っ赤になっていることは確かだ。地面には血だまりが出来ている。パトリシアがどんどん近づいてくる。この女、後先の事を考えないのか。軍の上層部まで動くような問題になるかもしれないんだぞ。
「セバスキー。何でも言うことを聞くのよね? じゃあ上着を脱げ。帽子も」
セバスキーは言われるがままに上着と帽子を脱いだ。
「あたしも軍人の端くれ、階級が上の人間を殴ったりするわけにもいかない。でも、今のあんたは階級章も何もない。少佐だなんて分からない。分かるはずがない。私は喧嘩を売ってきた『ただの薄汚いダミ声のオッサン』を殴るだけ」
フィリップはそれを聞いておもわず呟いた。
「ひええ、セバスキーおじさんに神のご加護があらんことを……」
セバスキーの身体は吹っ飛んで、スチンソンのすぐ隣に落ちた。セバスキーはスチンソンの顔を見て、ゾッとした。白目を向いて、泡を吹いている。鼻は完全に変な方向に折れ曲がっている。
「なるほど、パイロットになった意味が分かったぜ」
 パトリシアはごく普通の家庭に生まれ育った。兄弟はいない、一人っ子だ。小さな頃は素直で皆に可愛がられた子供だった。
 中学生の時、一年生だっただろうか、同級生が集団で無視したり、靴箱の靴を盗んだりするようになった。いわゆるイジメである。ある日、パトリシアはその集団に囲まれ、そして財布を盗られた。パトリシアは自分の中で何かが切れる音を聞いた。グループの中心にいた女の子を、パトリシアは無意識の内に殴っていた。もちろん、中学一年生の、しかも女子の腕力だから大したことは無いのだが、それでも十分な衝撃として受け止められた。だが、逆恨みされ、そして、他校の生徒までもがパトリシアに喧嘩を吹っかけるようになっていった。同時に、パトリシアの周辺にも味方ができていった。気づけば、毎日が喧嘩の日々だった。
高校生になり、ついに警察に捕まった。理由は喧嘩ではなく、喫煙。何だかんだで釈放された後、偶然見かけた空軍の人員募集ポスターを見て、その足で役場に向かった。喧嘩続きの生活にうんざりしていたのである。もちろん、認められるはずがない。それが生来の負けず嫌いな性格に火を点けたのだ。それはもう必死に勉強して、空軍士官学校に入ったのだ。
ただ、彼女の凶暴な性格は勉強しようが空軍士官学校に入ろうが部隊配属されようが全く変わらなかった。どうやらこれも生来の性格だったらしかった。
「ところで『ポーカー』、どうしてセバスキーの手札がフルハウスだって分かったんだ? いや、そもそもどうしてあんなに勝ちを確信してたんだ?」
クリスはニヤリとして、トランプを広げた。そして、それを再び束にして、混ぜた。
「トリッシュ、カットしてみな」
トリッシュがカードの束を混ぜる。
「一番上のカードはスペードのジャック。二番目はスペードの6。三番目はダイヤの2」
 トリッシュが上からめくっていくと、確かにその通りのカードが出てきた。
「す、すげえ。どうして分かるんだ?」
「あたし、ちゃんと混ぜたわよ?」
「ご存知の通り、俺の趣味は手品。トランプは四歳の頃から触ってます。指の感覚だけで枚数を数えることができるんです。そして、最初に広げた時に並び順を覚えれば、シャッフルした後の並び順も分かります」
三人はぽかん、とした。
「いや、確かにそれができるとして、そのあとに『リオン』も混ぜてたじゃないか」
「パッと見て、どこのカードが何枚、混ぜられているかは分かりますよ。トリッシュみたいにぎこちない混ぜ方だったら、特にね」
「じゃあ、それで順番が分かったとして、どうやって思い通りの手札を作るんだ。まさか、図柄を変えられるわけじゃないだろう」
クリスはカードの束を手にとった。
「一番上のカードは、スペードのジャック」
束の一番上のカードを表に向けて三人に見せる。
「中尉、カードをそっちにやりますよ。よく見ててください」
 クリスはスッとカードを滑らせて、フィリップの方へ出した。
「今のカード、束の一番上のカードだったでしょう?」
「ああ、確かに一番上のカードだった」
 フィリップは自信を持って答えた。間違いない。
「でも、そのカードはハートの5ですよ」
 フィリップがそっと裏返すと、確かにそれはハートの5だった。
「ほ、本当に図柄を変えたのか! いやいや、しかし……だが本当に一番上のカードだった!」
 「……いや、これはそう見せかける『技術』ですね。そうだろ、クリス」
「流石は『パスタ』。よくわかってる」
クリスは、一番上からカードを配っていると見せかけて、実は別の場所から、思い通りにカードを配っていたのだ。
「お前、あれだけ散々言っといて実は自分がイカサマしてたのかよ。しかし、これをやるにはディーラーになる必要がある。それはどうやったんだ。コイントスもイカサマなのか?」
「有名なイカサマですけど、手のひらで押さえた後に表裏を変えることができるんですよ。コロッとね。コインは凹凸がありますから、表裏の判別もできますし。いくら賭ける面を変えても、ディーラーになるのは俺だったんですよ」
「ひどーい……」
「トリッシュに言われたくはない。まあ、あれですよ。『イカサマはばれなきゃイカサマじゃない』んです」
フィリップは笑いながらクリスの背中をバン、と叩いた。
「やりやがったな、流石だ! この大悪党め!」
「ほめてるのか、けなしてるのかイマイチ分からないんですけど・・・」
「ほめてるよ、イカサマ師!」 
「気分がいいから、全員分、あたしのおごり! 特にクリス! 飲めっ! MVP!」
パトリシアがサッと何枚かの紙幣を取り出した。見れば、いつもの財布ではない。セバスキーの名前が書かれている。
「お前、盗ってきたのか? 流石にマズイんじゃ……」
「いや、セバスキーのクズが『これで許してください』って言うから、これを貰って、顔面蹴っ飛ばしてきた」
三人の男たちはこの時、絶対にパトリシアに逆らわない事を決心したのだった。

  翌々日のことだった。観測所から所属不明機が一機で飛行しているという報告を受け、ソーサラー隊は四機でスクランブル発進した。そこまではまだ『よくあること』だった。あえて普段と違うことを挙げるならば、副司令が機体格納庫にいたくらいであった。だが、異常なことではない。副司令はよく散歩をしていたからだ。
ソーサラー隊の四機は所属不明機に接近した。クリスはカメラを構えた。
《『ポーカー』……写真取る必要もないぜ。ありゃ友軍機だ》
《『青鮫』……なんでこんなところに一機でいるんですかね》
『青鮫』はリーンシア空軍きってのエースパイロットで、トマホーク紛争、ユーストリア戦争といった戦争で大活躍したパイロットである。エドワードとはユーストリア戦争で同じ基地に配属されていた旧知の仲である。
《ブルーシャーク1。応答しろ……おい?》
《隊長、無線の調子が悪いですよ。こっちの問題ですかね》
 雑音が混ざって聞こえる。かなり聞き取りにくい。
《こちらもだ。『リオン』、そっちはどうだ》
《あたしもです。一体何が……あ、『青鮫』が》
くるり、と『青鮫』の機体が旋回した。クリスはそれを目で追った。『青鮫』の機体はまだ量産体制に入っていない、最新型の戦闘機であるブラックウィドウⅡF・1である。旋回性能が非常に高く、あっという間にソーサラー隊の後ろに潜り込んだ。
《機位を失したのか? だったら、最寄りの飛行場まで誘導するぜ。ここからだったら……》
《ありがとう、エド。でも、その必要はない》
 その瞬間、思わずクリスは左にブレイクした。
《散開しろ! チクショウ、何のつもりだ、トニー! てめえ!》
エドワードの機体から火が出ている。射撃したのは間違いなく『青鮫』だ。
《さあ、俺にもさっぱりわからん。二機目だ。パラシュートの用意はできたか?》
「グラマン中尉! 右旋回を! ああ!」
フィリップの機体と『青鮫』が曳光弾の黄色い光で結ばれた。そして、火を噴いた。プロペラが外れ、主翼に突き刺さる。
《二番機、次はお前だ……何でもイカサマ師らしいからな、落としたつもりにならないよう気をつけなければ》
クリスはスロットルレバーと操縦桿を突っ込んで、一気に急降下した。マイナスGがかかり、クリスの身体は浮き上がってキャノピーに頭をぶつけ、酸素マスクの中には胃の内容物がぶちまけられた。恐らく、機体の制限荷重を超過しているだろう。だが、空中分解する方が幾分かはマシだ。炎上するよりは……
機体の横を曳光弾が走っていく。ラダーペダルを左に踏み込み、機を横滑りさせて、弾をかわす。高度計が今まで見たこともないような勢いで回転していく。もう操縦桿を起こさなければ、水面に激突する。しかし、その引き起こしの瞬間は相手にとっては最も絶好のチャンスとなる。どうしたものだろうか。
迷っている間にもぐんぐん高度は下がる。もう迷っている時間はない。思い切り操縦桿を引くと、機体の各部からミシミシという音が聞こえた。視界が急激に真っ暗になる。全身に力を込めて頭に何とか血を登らせる。それでも意識は飛んで行きそうになる。
  ダダダッと水面に白い水柱が立っているのが後方確認用のミラーに映った。しかし、後ろに『青鮫』は見えない。今の白い水柱はパトリシアがクリスを助けるために撃った援護だった。
《もう相手をしている時間が無い。今の援護射撃、的確だった。流石はエドの教え子だな。二番機、基地に戻ったら機体の整備をしてもらえ。桁がひん曲がってるはずだ。そこまで持つかは分からないが……
『青鮫』はそれだけ言い残し、そのまま東へ向かって飛んでいった。《こちら基地司令部! 応答しろ、ソーサラー隊!》
《こちらソーサラー2。手短に報告します》
十分後、基地司令部からの無線が聞き取れるようになった。どうやら電波障害になってからずっと呼びかけていたらしい。クリスはようやく回復した無線で基地司令部に事態を報告した。『青鮫』が単機で飛行していたこと。エドワードとフィリップが撃墜され、パラシュートで脱出したこと。『青鮫』が撃墜したこと。東へ飛んでいったこと。
《分かった。そのまま真っ直ぐ戻ってこい。こっちもちょっと大変なことになってるんだ。滑走路は大丈夫だ》
《何が起こったんです?》
《戻ってきたら分かる》
クリスはその言葉に首を傾げながらもパトリシアを引き連れ、基地へ針路をとった。ようやく基地の滑走路が見えてきた時、思わずクリスは安堵のため息をもらした。滑走路に進入する最中にふと見ると、機体格納庫が一棟、大きく破壊されている。どうやら爆発によるものらしい。
《『リオン』、小滑走路に着陸してくれ。着陸の時に事故が起こるかも》
《了解》
予想通りに、クリスの機体が接地した瞬間、右主翼がベキッと折れた。「ひん曲がった」桁が折れたらしい。右主脚を失った機体は右に大きく傾き、右主翼の折れた部分を地面に擦りながら進んでいった。擦っている部分からは火花が出ている。主翼には燃料タンクがある。引火するんじゃあないか、とクリスはヒヤリとした。右主翼が機体の重さに負けて曲がっていき、ついにプロペラが地面に擦った。そこで一気に機体は減速し、ようやく止まった。
「おい、大丈夫か! 怪我は?」
「大丈夫だよ……悪い」
走り寄ってきた整備員に助けてもらって、機体からはい出る。手の甲に切り傷があるが、大した事はない。整備員がハンカチで血を止めてくれた。
「あの格納庫、何があったんだ」
「工作員……てところか。格納庫を爆破したあと、司令部の無線機も破壊しようとしてたらしい。それを無線手が止めたんだが銃撃戦、工作員は意識不明だ。無線手は腕を撃たれたが、後遺症の心配はないらしい。で、その工作員ってのが、カーチス副司令なんだ」
「何だって! なんでだ!」
思わず、クリスが彼の胸ぐらを掴んだ。整備員は息が止まり、顔が真っ赤になりながら答えた。
「箝口令が敷かれてる。お前らも基地の外には出るな。あと、息が……」
掴んだ手を離して、クリスは考え込んだ。どうして副司令が破壊工作を行い、『青鮫』が自分たちに攻撃をしかけてきたのか。つながりがあるはずだが、全く見えてこないのだ。
(続く)



夏号 By白狐

2012年06月30日
夏色果実

                            白狐  
 

 その日、神社は大勢の人でごった返していた。

 参道には色とりどりの縁日の屋台が並び、楽しそうな笑い声や、安い玩具笛の音が鳴り響いていた。

 道に面している大鳥居の根元に、小柄な浴衣の少女の姿があった。

 彼女の名は向島有栖(むこうじまありす)という。親友と夏祭りに行く約束をし、待ち合わせをしているのであった。

 有栖は今年で高校二年生になる。クラスではどちらかというと目立たないほうで、友達を作るのも苦手。悪く言えば周りから置いてけぼりを食らっているような少女だった。

 そんな有栖にも、親友と呼べる友達がいた。

               ◇

 それは同じクラスの小鳥遊優佳(たかなしゆうか)という少女だった。

 彼女は、容姿端麗かつ明るくて、それでいて元気すぎるというほどでもなく、笑顔の素敵な子で、男女ともに人気があった。

 そう、有栖とは全く反対に。

 有栖が優佳と知り合ったのは高校に入ってからだった。中学時代からも友達を作るのが下手だった有栖に、本当の友達と言える子はいなかった。かといって苛められているほどだったかというとそうでもない、まさに中途半端の状態に、彼女はいた。有栖は、そんな状態に自分がいることに対して、ひどく悩んでいた。

「周りはあんなに楽しそうなのに、どうして私だけ……」

 そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る日々が続いた。

              ◆

 それが高校生になってから、何の間違いか奇跡か優佳という親友、いや、有栖からみれば大親友ができたのである。

 ただし向こうから話しかけてくれるのを待っているばっかりで、有栖自らが話しかけるようなことはほとんどないのであった。

 それでも世間一般の女子高生が交わす会話ぐらいは交わし、休みの日は一緒に遊びに行くほどの仲になり、いつも一緒にいるようになった。

 最初のうち有栖は、ずっとベッタリ一緒にいると優佳に嫌がられるのではないかと思い、それを恐れていた。

               ◇

ある日の放課後の教室で二人きりになったのを見計らって、有栖は思い切って優佳にそのことを聞いてみた。

「優佳、私がずっとついてきているけど、嫌じゃない?」

「えっ、そんなことないよ。私は親友を大切にするから。私も有栖みたいな友達ができて嬉しいし」

 そういって優佳は微笑した。

 その時であった。その言葉を聞き、またその時のやさしい優佳の笑顔を見た有栖は、自分の胸の内に味わったことのない何か特別な感情がゆらゆら沸き起こってくるのを感じた。

 本来優佳相手では起こるはずもない、何か特別な感情。

 甘酸っぱいようなみずみずしいような、変な気分だった。



 例えるならば、そう、採りたての新鮮なレモンの果汁のような。



               ◆

「遅れてごめん!」

 そう言って、間もなく優佳はやってきた。

 ずっと走っていたのだろう。肩で息をして、息を切らしていた優佳であったがそれでもあまり疲れているようなそぶりを見せていなかった。

 それよりも優佳は浴衣がこの上なく似合っていた。年頃の少女のあざやかさが出ており、それでいて、大人の艶があった。いつもの制服姿も瀟洒な感じがして良いと有栖は思っていたが、浴衣がこんなに似合うとは思っていなかった。

「遅いよ、まったく」

 表面上そういいながらも、内心有栖は優香に夢中であった。

 顔を上げてまじまじとその姿をとらえることができない。そうしようとすると頬や胸が熱くなり、苦しくなりそうだった。それを気付かれるのも嫌で、有栖は下を見ていた。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 有栖は自分に言い聞かせた。優佳は自分の友達だ。しかも、女だ。

そんな関係じゃない。だからもっと、自然に付き合うべきだ。

 そうは言ってみたものの、強すぎるその思いを押さえつけておくことは難しかった。

「浴衣、似合ってるね。すごく可愛いよ」

 思い切ってそう言ってみた。

「えっ、そうかな、有栖もすごく似合ってると思うよ」

 思いがけない言葉が返ってきて、有栖の胸は高鳴った。しかし、動揺を悟られないように有栖は慎重になった。これ以上優佳に心配をかけたくないと思ったのである。

                ◇

「ねえ、金魚すくいしない?」

 返事が終わらないうちに、優佳は二人分の紙製の網と小さなタライを調達していた。

「私、これ得意なんだよねえ」

 そう言って優佳は水面近くにいた金魚を素早く採っていった。

「私は苦手だなあ」

 そうこうしているうちに決断力のない有栖の網は破れ始めていた。せっかく優佳がさせてくれているのだから、一匹ぐらいは採りたいと思って急いで網を振り回したが上手くいかない。そうして、ついに網は破れてしまった。

「あーあ」

 その間にも、優佳は金魚を採り続け、結局二十匹近い金魚が優佳のタライに収まることになった。

「すごーい、優佳、金魚すくい上手いんだね」

 しかし優佳は、金魚を持って帰ることはせず、全部戻していた。

「金魚だってさあ、やっぱり元からいた仲間とずっといたほうがいいでしょ、それに私、生き物の世話とか絶対さぼっちゃうし」

そういいながら優佳は微笑んだ。

              ◆

その後、二人は色々なことをして遊んだ。射的や、綿あめやリンゴ飴を食べたり。短い時間だったが充実していた。

有栖は本当に楽しかった。色々なことがあり、そのたびに優佳が微笑んで、そのたびに胸が熱くなった。楽しいけれど胸の内は複雑だった。

本殿の方へ歩きながら、有栖は聞いてしまった。

「優佳はさ、好きな男の子とかいるの?」

 聞いた後でここでもし優佳が居るよと言ったらどうしようかと思った。そういう意味では我ながら危険な質問だと有栖は思った。

 ヤバい、地雷を踏んでしまったかもしれない。

 しばしの沈黙があった、ように思えた。

 ようやく、優佳の口から言葉が漏れた。

「いないよ」

 一瞬有栖は嬉しかった。でもそれは安心できるようなものではないと有栖は分かっていた。そもそも私が優佳を好きということは、本来ありえてはならないことなのだ。しかし。そういった葛藤をしていると。

「有栖、ちょっとここでは言えない話があるの。二人きりではないと言えないからさ。ちょっと、来てよ」

 優佳はそう言って有栖の手を握り、駆け出した。

「えっ」

 有栖は訳が分からなかった。

              ◇

 訳が分からないまま、いつのまにか二人は鎮守の森の大きな杉の木の下にいた。

 そうして優佳が放った言葉。

「私、有栖のことが好きなの。好きで好きでどうしようもなくて。でもそれを悟られたくなくて。ずっと冷静を装っていた……」

 有栖は自分の中に沸いていた酸っぱい感情がぐつぐつ音を立てて、理性を溶かしていくのを感じていた。でもなぜか安心できていた。 

なあんだ、向こうもそうだったんだ。それなら。

「優佳、私もだよ」

 そう言って有栖は、そっと優佳の背に手を伸ばした。



「んっ……」



 嗚咽の声を漏らしながら、優佳は体の力を抜いた。



 有栖の口のなかに、優佳のにおいが広がった。



 甘い時が流れた。

もう彼女は私のものだ。






                         

春号 By白狐

2012年05月02日
ある風景

白狐



 春らしい日差しが、あたり一面を包み込んでいた。

 私は国道に面した小奇麗なカフェから、精算を済まして出て行った。白い陽光がまだおぼつかない若葉の並木を蹴散らしていた。

 季節の変わり目ということなのか、どうも気分が重い。毎年この時期はいつもこうなのであった。新しい学年、新しい仕事場。もう二十歳半ばを過ぎている私は、物心ついたころからどうもこの季節が苦手であった。

 そんなことを心の片隅で転がしながら、何気なしに駅前の繁華街のほうへ歩みを進めていった。

 先ほど飲んだ朝のコーヒーの苦い味が、まだ口の中で濁っている。それが嫌で、誰も見ていないのを確認してから路地裏の路上にペッと痰を吐いた。             

              ◇

 古ぼけた、相当前にもう公開が終わっている映画のポスターが剥がれかかりながらトタン屋根の下の掲示板に張ってあった。錆びついたブリキの機械部品がそこらじゅうに転がっている。今日は休日なので、商店街のシャッターも締まりっぱなしだ。店主たちはこんな街をとうに見捨てて、どこか素晴らしいところへバカンスにでも行っているのだろう。

 無秩序な街の、無秩序な風景。もう何年前からもずっとそうだ。高度経済成長の時代に働きすぎた街の疲れが、このような地方都市の路地裏にはっきりと表れている。

 だがしかし、そんな街のすっかりくたびれ果てた風景は、なかなかどうして私は嫌いではなかった。

              ◇

 確かにもっと発展した近代風の街がいいと他人は言うだろう。

 パキッとしたビルや、その他の建造物がまるで森林の木々のように肩を寄せ合っているような、そんな都市。地下には縦横無尽に地下鉄が張り巡らされ、毎朝人々は寿司詰めになったまま送り出されるそんな世界。

 私も高校時代まではそんな都市に住んでいたのだ。休日には友人たちとゲームセンターやカラオケ、映画館に出かけるような日々。それはそれでとても楽しかったし、私の大切な思い出だった。私も『現代っ子』のうちに入るのだろうが、そんな便利すぎる生活は私にはつまらなかった。

 どこに行っても少しも変わらない風景。人、人、人の波。

 現代の人間社会で生活していく以上、そういうことは全て我慢していかなければいけないことなのであろう。

 

 私は、わがまま人間である。

 

 そんなくだらない妄想は本来この辛い季節にはあまりしたくないのだが、することもないので休日はついつい考えてしまう。

 私も周りの人々がやっているように、休日はバカンスに出かけるべきなのかもしれない、最近そう思うようになった。

 だが私に言わせてみれば、それは周りに振り回されているだけなのである。それは自分を見失っていることで、現代人はみなその傾向があるような気がする。

 日常のひとこまひとこまにも、十分面白いものがあるのに。やっぱりそういうものとはっきり向かい合うのは都会では無理だとも思う。だから仕方ないのかもしれない。

               ◇

 そうこう言っているうちに、町を抜けて、丘の大きな公園へ向かう道に差し掛かっていた。

 この公園からは、天気のいい今日のような日には、、美しい太平洋を見ることができる。そんな風景があるというのも、私がこの街へ来た理由の一つである。

 私は海が好きだ。少年時代に見ていた海は、都会の工場の煙にまみれた油だらけの海であった。

 そんなことだから、この街に来て初めて見た海はテレビの中の海よりもずっと綺麗だった。

               ◇

 公園に近づくにつれ、何かの香りが押し寄せ始めた。

 花の匂いだということまでは見当がつく。だがそれ以上のことは何もわからない。

 噂と香りは似ている。

 実際その人物や物、場所がどんなものなのか分からないのに押し寄せてくる。

 どちらもいいものも悪いものもあるし、その結果に裏切られる時もあればそうでない時もある。

 いままでもそうだった。

 例えばこの街の噂。この街に行くことを親族や友達に言ったら、だいたいの人がさびれているだの、何もない田舎だのとめちゃくちゃに言っていた。

 だが来てみたら、私にはぴったりの、いい気持ちの街であった。

               ◇

 この街に来たばかりの頃のことを思いながら歩いていると、ついに公園の前に来た。

 公園の中には、まだ早いのか、私以外は誰もいないようだ。

 ゆっくりと公園の中に入り、いつもの丘に登っていく。 

 いつもの、と言ったが、その表現は適当でないかもしれない。何故なら、冬は仕事のためにずっと家の中にこもっていたからである。

 丘の頂上に上り詰めた私は、思わずわっと声を上げた。

 丘の上にはみごとに満開になった桜の木があった。

 そしてそれに見合った、豊満でふくよかな花の香り。

 全てが感動的に調和しており、私一人でいることが申し訳なくなるぐらいであった。

 それにしても、どうして私はこの木の存在に気付かなかったのだろうか。

 そうだ、きっと春がこの公園に桜の木を挿入したのだ。

 そうしていると下からの風に乗って街の音が上がってくるのが分かった。

 それと同時に海の匂いも上がってくるのも分かった。

 その海の匂いが、桜の花のにおいと混じって、何とも言えない香りになっていた。

 胸の中に転がっていた重い気分はもうどこかにすっかり消えてしまっていた。

 何故だか分からないがこれからに希望が持てる気がした。