8月のある暑い日
妖怪腹黒
8月のある暑い日、僕は祭りに行くことを楽しみにしていた。学校から帰るときはすごくそわそわとしていたのではないかと思う。自分のいないところで楽しいことが行われているというような、焦りに似た感覚に支配されていた。委員会が終わり、帰ることができたのが7時過ぎだったからかもしれない。
家に帰るとすぐに着替えて出かけた。自分が普段帰ってからしばらくごろごろしてから宿題に取り掛かることを思ったら、少し笑ってしまった。
会場に着いたら、やはり屋台が立ち並び祭り特有の雰囲気を形成していた。僕は祭りのメインである夜の奉納演舞が見たかったので特に友達とは約束せずに一人で歩き回っていた。どうせ友達少ないし。
暗くなってきて、祭祀が始まった。まず神主が祝詞を唱え、それから雅楽の演奏が始まった。夏の暑い時期であるのに加え、四方に明々と焚かれた篝火によって異様な熱気が一帯を支配していた。
演舞も終わり人が引いていった後も僕はしばらく感動に浸っていた。
「やっぱりこれだよね」後ろから自分の考えていることと全く同じ言葉が聞こえてきたので驚いた。
振り返ってみると、浴衣を着た少女がいた。外見からするとおそらく小学生だろう。僕は同じ思いでいる人がいる嬉しさに、つい話しかけてしまった。
「君もそう思うか! どこが一番好きだった?」といきなり話しかける僕にその子はよく答えてくれたと思う。
ひとしきり雅楽と演舞について語り合った後、僕は多幸感に包まれていた。こんな可愛い女の子とこのような趣味について語り合えるなんて、と。
そしてついに「今日は一人で来たの?」と聞いた。
「うん。今日は一人で来たの。そんなことより屋台で何か食べない?」と聞かれたくなさそうに言われたので、僕はどうして浴衣の小学生が一人で、という疑問を飲み込んで二人で手を繋いで歩いていった。
「焼きイカ二本ください」そう耳の遠そうな屋台のおじいさんに告げたら案の定「二本?」と聞き返された。人間想定していたトラブルにはそう腹が立たないものだなぁと思いながら受け取った。
二人で屋台で買った焼きイカをもしゃもしゃ食べながら人の流れをぼーっと見ていた。
「夏だからかな、浴衣を着ている人が多いね」
「そうだね、私の浴衣どう? 結構すごいんだよ?」
「そういえばなかなか珍しい柄だねぇ。生地も今まで触ったことのない感触だ」
「祭りに遊びに行くときに着ていくためにってお父さんに作ってもらったの」「へぇ、君のお父さんはなかなか器用なんだねぇ」
「そうなの!」
嬉しそうに笑う彼女を膝の上に乗せておしゃべりしていた。道行く人々はあまりこちらに気を止めなかった。不審な中学生だと見られていないようだ。僕の私服もまだまだ捨てたものじゃないな、と一人満足していた。
時刻は十時になろうとしていた。
「いくらなんでもそろそろ帰らないと不味いんじゃないかい」と聞いてみたら
「じゃあ最後に、あっちの神社に寄って行きたいな」と僕の手を引っ張り歩き出した。
「知らない人と一緒に人気のないところに行かないほうがいいよ」と苦笑いしながら後をついていった。
彼女が僕を連れて行こうとしているのは、本殿ではなく、その傍にあるたくさんの神社のうちのひとつのようだった。
「あれ、何か楽の音が聞こえるよ、なんだろうね」
「いいから行こうよ」そういってなおも女の子は手を引っ張る。
やはりこの子は、いや本の読みすぎだろうか、と思っていると、急に視界が揺らいだ。空気が粘り気を帯びたように感じる。
自分は今、違う世界にいる。そう確信しつつ歩を進める。
目の前には色とりどりの光が踊り、これまでに聞いたことのない音楽が鳴っていた。僕は震えが止まらなかった。一秒でも長くこの光景、この音を脳裏に焼き付けておきたかった。それほどまでに感銘を受けたのだ。
「ありがと、おねえちゃん。今日は楽しかった。 でもおねえちゃんはおねえちゃんだからここまでだよ、ごめんね」
その声が聞こえた瞬間すべてが消えた。目の前にあるのはいつもの古ぼけた神社だった。
あの子は僕の妄想ではなく、本当に人ではなかったようだ。屋台のおじいさんや通行人の微妙な反応の訳が分かった。姉妹だと思われていたからではなく、僕が一人で変な事をしている奴だったんだね。
「神域は女人禁制ってか、畜生」そう罵りながらも僕はとても幸せな気分で帰り道を歩いた。
それから受験や就職など、ことあるごとにその神社には願掛けに来ている。
妖怪腹黒
8月のある暑い日、僕は祭りに行くことを楽しみにしていた。学校から帰るときはすごくそわそわとしていたのではないかと思う。自分のいないところで楽しいことが行われているというような、焦りに似た感覚に支配されていた。委員会が終わり、帰ることができたのが7時過ぎだったからかもしれない。
家に帰るとすぐに着替えて出かけた。自分が普段帰ってからしばらくごろごろしてから宿題に取り掛かることを思ったら、少し笑ってしまった。
会場に着いたら、やはり屋台が立ち並び祭り特有の雰囲気を形成していた。僕は祭りのメインである夜の奉納演舞が見たかったので特に友達とは約束せずに一人で歩き回っていた。どうせ友達少ないし。
暗くなってきて、祭祀が始まった。まず神主が祝詞を唱え、それから雅楽の演奏が始まった。夏の暑い時期であるのに加え、四方に明々と焚かれた篝火によって異様な熱気が一帯を支配していた。
演舞も終わり人が引いていった後も僕はしばらく感動に浸っていた。
「やっぱりこれだよね」後ろから自分の考えていることと全く同じ言葉が聞こえてきたので驚いた。
振り返ってみると、浴衣を着た少女がいた。外見からするとおそらく小学生だろう。僕は同じ思いでいる人がいる嬉しさに、つい話しかけてしまった。
「君もそう思うか! どこが一番好きだった?」といきなり話しかける僕にその子はよく答えてくれたと思う。
ひとしきり雅楽と演舞について語り合った後、僕は多幸感に包まれていた。こんな可愛い女の子とこのような趣味について語り合えるなんて、と。
そしてついに「今日は一人で来たの?」と聞いた。
「うん。今日は一人で来たの。そんなことより屋台で何か食べない?」と聞かれたくなさそうに言われたので、僕はどうして浴衣の小学生が一人で、という疑問を飲み込んで二人で手を繋いで歩いていった。
「焼きイカ二本ください」そう耳の遠そうな屋台のおじいさんに告げたら案の定「二本?」と聞き返された。人間想定していたトラブルにはそう腹が立たないものだなぁと思いながら受け取った。
二人で屋台で買った焼きイカをもしゃもしゃ食べながら人の流れをぼーっと見ていた。
「夏だからかな、浴衣を着ている人が多いね」
「そうだね、私の浴衣どう? 結構すごいんだよ?」
「そういえばなかなか珍しい柄だねぇ。生地も今まで触ったことのない感触だ」
「祭りに遊びに行くときに着ていくためにってお父さんに作ってもらったの」「へぇ、君のお父さんはなかなか器用なんだねぇ」
「そうなの!」
嬉しそうに笑う彼女を膝の上に乗せておしゃべりしていた。道行く人々はあまりこちらに気を止めなかった。不審な中学生だと見られていないようだ。僕の私服もまだまだ捨てたものじゃないな、と一人満足していた。
時刻は十時になろうとしていた。
「いくらなんでもそろそろ帰らないと不味いんじゃないかい」と聞いてみたら
「じゃあ最後に、あっちの神社に寄って行きたいな」と僕の手を引っ張り歩き出した。
「知らない人と一緒に人気のないところに行かないほうがいいよ」と苦笑いしながら後をついていった。
彼女が僕を連れて行こうとしているのは、本殿ではなく、その傍にあるたくさんの神社のうちのひとつのようだった。
「あれ、何か楽の音が聞こえるよ、なんだろうね」
「いいから行こうよ」そういってなおも女の子は手を引っ張る。
やはりこの子は、いや本の読みすぎだろうか、と思っていると、急に視界が揺らいだ。空気が粘り気を帯びたように感じる。
自分は今、違う世界にいる。そう確信しつつ歩を進める。
目の前には色とりどりの光が踊り、これまでに聞いたことのない音楽が鳴っていた。僕は震えが止まらなかった。一秒でも長くこの光景、この音を脳裏に焼き付けておきたかった。それほどまでに感銘を受けたのだ。
「ありがと、おねえちゃん。今日は楽しかった。 でもおねえちゃんはおねえちゃんだからここまでだよ、ごめんね」
その声が聞こえた瞬間すべてが消えた。目の前にあるのはいつもの古ぼけた神社だった。
あの子は僕の妄想ではなく、本当に人ではなかったようだ。屋台のおじいさんや通行人の微妙な反応の訳が分かった。姉妹だと思われていたからではなく、僕が一人で変な事をしている奴だったんだね。
「神域は女人禁制ってか、畜生」そう罵りながらも僕はとても幸せな気分で帰り道を歩いた。
それから受験や就職など、ことあるごとにその神社には願掛けに来ている。
噂の巫女
イルカ
――あなたはもう、逃げられない――
巫女は美しく、可憐に言った……
*嘘なる噂*
あぁ、眠い。何でこんなに眠いのだろう。催眠効果しか存在しない授業をしている教師が悪いし、こんなに丁度いい気温にする大自然も悪い。よって、俺は何一つ悪くなく、これが至って普通なのである。
という結論に達し、俺はもう一度、寝ようと机に突っ伏すと、面倒なことに隣の席の境(さかい)が話しかけてきた。
「なあ、この授業、異常なほどに眠たくならないか?」
ならば寝ろ。そして、永遠に俺の睡眠の妨げをするな。
と内心思ったが、こいつのせいでもう、目が覚めたので、一つ相手をしてやることにした。
「そうだな、お前に邪魔されなければ、いい睡眠を取れただろうな」
境は少し、不思議そうな顔をした。
「俺の言ったことに何か間違えがあったか?」
もう一度、皮肉をこめて言うと
「いや~、皮肉も毎日聞くと、慣れてくるもんなんだな~って」
「じゃあ、死んでろ」
「今日の今さっきまで、ただの皮肉屋だったのに、そんな、ド直球で言われると……」
なんだ? 心が痛むとか言うつもりか?
「ゾクゾクしちゃう♪」
「ここに、度し難い変態がいる」
「いやいや、冗談だよ! そんな、親友との友情を鋏で切断するみたいに、簡単に引かないでよ! というか、なんでそんなノミ並な音量?」
そろそろ、頃合かな。
俺の予測が的中し、黒板の方を向いていた教師が、振り返り、言った。
「おい、境、黙ることが出来ないんなら、出てってもらうぞ」
「へ? 俺だけ? 大和(やまと)は?」
「大和は喋ってないだろうが」
「大和、これを見越してたなああああああああ」
「境、五月蝿(うるさ)いぞ。もうお前廊下に出てろ」
催眠術が一斉に解けたように、教室中の皆が、笑った。
境は俺を恨みがましく言った。
「授業後、覚えてろよ」
おいおい、親友じゃあないのかよ。
と心で突っ込んでから、俺は欠伸をし、眠りに入った。
「今日の授業はここまでだ。ちゃんと、復習しておくように」
「あと、境は、この後すぐ職員室に来るように」
やっと、教室に入れるって顔をした境は、その言葉を聞き、けだるそうに方向転換した。
憐れな奴だ。
「大和、てんめぇえええええ」
五分後、戻ってきた境はまた、大声を挙げて言った。
「お前のせいで反省文三枚程書かされたじゃねぇか!」
反省文……三枚?
「よくそんな量、五分で書けたな」
九割本気で驚いていると
「もう、慣れたからな♪」
と異様なほどに爽快感溢れる笑顔で言った。
「ま、褒められた事じゃあないけどな」
「別にそんなことどうでもいいんだよ。それより、飯を食おう。もう腹がもたねえ」
そう言って、境は弁当を取り出し、食べ始めた。
「境、速過ぎだろ……」
さっき、食い始めたはずなのに、いつの間にか、食い終わっていやがった。境よ、喉に詰まっても知らんぞ、と思っていると
「……ごふぁ、ぐっ……」
案の定喉に詰まりやがった。茶を手渡すと、その茶を一気に飲み干し、咽(むせ)た。
「お前、バカだろ」
今の境を見れば、誰もが思うであろう感想を率直に言った。しかし、境は、認めたくないようで、無駄に色々、言い訳らしき戯言(たわごと)を約三分程話した。そして、いきなり思い出したかのようにこんなことを言ってきた。
「そういや、知ってるか? 毎年、開かれる夏祭りで変な噂が流れているのを」
「どういう、噂なんだ? それは」
「それがよ、夏祭りの開かれる神社にはある巫女がいるんだが、その巫女を見た奴が誰一人としていないらしいんだよ」
???
「どういうことだ? 巫女はいっぱいいるだろ?」
「いや、だからさ、ある巫女だって言っただろ? なんかさ、噂が一人歩きしてるみたいでさ」
なんだよ、それ、と思いつつも、噂だけが一人歩きしているって言うのは想像してみると、かなり、恐ろしく感じた。巫女を見た者は居ないはずなのに伝わっていく、薄気味悪さ。背筋が凍るようだった。
「で、その噂が何なんだよ? さすがに、怖いから確かめようとか、却下だぞ?」
「いや、ただ、噂が噂であり続けるために必要なことだろ?」
境はニヤリと、してやったり顔をして言った。要するにこれは、境が作り上げた嘘の噂ということだ。さっき、廊下を立たされたときの仕返しなのだろう。
「嵌められたか。そういや、夏祭り、もうすぐだな~。境、誰か誘って祭りに行くか?」
「誰かって女子か?」
「男同士で遊びに行くという思考は無いのな」
「男同士で行ってどうすんだよ! 其処此処にいるだろうはずのリア充共に囲まれて、楽しめると思うか? 答えは否! そんなもん、無理に決まっている!」
境の言い分も分からない訳ではないが、普通に男同士でも、面白いと思うけどな。『男子高校生の○常』みたいで。だが、やはり、女子がいないというのは少し、盛り上がりに欠けるだろう。
「それじゃあ、綾芽(あやめ)たち、誘おうぜ、境」
「なんで、俺が告って、この間、玉砕したばっかりの相手選ぶの? ドSなの?」
「文句言っても、そいつらしか俺ら、行動したこと無いんだから、諦めろ」
ここにいる境は入学式で木野綾芽(きのあやめ)という女子に一目ぼれしたらしく、運悪くこいつの隣の席だった俺が協力させられたのだ。境は共に過ごす時間が長ければ少しは好感度が上がるかも、と思ったらしい。その考えを以て入学してから二ヶ月くらいは綾芽たちと同じグループで過ごした。そして、境は我慢できず告って、見事に玉砕したというわけだ。
「まあ、お互い水に流して、友達からやればいいんじゃないか?」
「友達ならいい人か……」
境は玉砕した時の綾芽の返事を思い出したのか、遠い目をしていた。綾芽はおしとやかで、優しい、人間の鑑とも言うべき女子で、更に言うと顔はかなり、可愛い。まあ、一目ぼれするのも無理は無い。境は一応、立ち直ったが、今日まで綾芽と一度も話していないのだ。
五分後、境はやっと、過去から戻ってきた。
「まあ、俺も綾芽とこんなぎこちない関係は嫌だから、友人としてちゃんと、接し合ってみるかな」
「それじゃあ、綾芽と瑠璃(るり)、香子(きょうこ)を誘うってことでいいんだな?」
「大和、一応、一人忘れてやるなよ」
ああ、そうだった。境の恋に協力したのは俺ともう一人いたな。
「あと竹久(たけひさ)か?」
竹久はいわゆるゲーマー兼ヲタクというやつらしいが、俺はゲームをやり込むまではしないし、特に好きなアニメも無いので、話したことが無かった。あと、結構影が薄い。いつの間にっ、と思わされることが何度あったことか。
「それじゃ、この5人で夏祭り行くってのでいいな?」
「えっ、夏祭りですか? 別にいいですよ。瑠璃ちゃんも香子ちゃんも行けますよね?」
「瑠璃はいけますよ~」
「私も行けるわよ?」
「それじゃあ、夏祭りは今週の日曜だから、神社前に一四時集合でいいね?」
俺と境が女子三人に夏祭りのことを伝えると、周りも夏祭りを思い出したらしく、せわしなく誰かを誘い合ったりしていた。
*夏祭り?*
俺は夏祭りに来ているのだが、まさか、こんなことになろうとは思わなかった。
まず、俺、境、綾芽、香子、瑠璃、竹久の六人が神社前にほとんど同時に、着いたのだが、その後、神社の中に入ると例年の何倍いるんだ? と思うぐらい、人が異常なほど神社に集まっていたのだ。よく見てみると、そのほとんどが俺たちの学校の生徒だった。
俺たちが祭りの話をしていたことで夏祭りの印象が高まって、それが広まり、夏祭りに来たのだそうだ。
「にしても、すごい人数だよな、これ」
境はそう呟いた。確かに、俺たちが夏祭りの話をしていただけで、こんなに集まったのだとは思えないが……
「まあ、人が多ければ多いほど、祭りは楽しくなりますから別にいいんじゃないでしょうか?」
綾芽がそう言ったとき、俺は何かを、聞いた
風のように軽やかに
そして、
心に直接、話しかけてくるように
――あなたはもう、逃げられない――
という言葉を……
*巫女*
俺たちはもう、これ以上ないくらいに狂い騒いでいた。最初は普通の祭りのように騒いだり、遊んでいただけだった。しかし、ノリのいいお祭り男とでも言うのだろうか、そういう大人たちが、遊び疲れて休んでいた俺たちに何かの飲み物を一気飲みするようにはやし立てたのだ。それこそ、ただのノリで境たちはその何かを飲んだのだが、やはり、中身の分からないものだったのだから止めておけばよかったと俺は後悔した。まあ、俺は飲まなかったんだが……
その飲み物は酒だったわけだが、境とその他3人はべろんべろんに酔っていて、愚痴を話し合ったりしていた。これ、教師に見つかったらお終いだな、っていうレベルだった。
境と綾芽、香子と竹久、というセットで酔いつつも、色々と話し合っているようだった。その話の一部が聞こえてきた。
「だから、あのアニメはここがいいんでしょうが、ひっく」
どうやら、香子は竹久と同じくヲタクだったらしい。
他の学生も酒を飲んだ(?)らしく、いくつかの衝撃の事実が飛び交っていた。そして、あの穏やかな瑠璃はどこに行ったのだろう、と周りを見回すと……
酔っている学生たちに、崇められていた……
どういう経緯かは知らないが、瑠璃は酔っていても性格は変わっていないようで、おろおろと困っていた。
そして、酒を飲まなかった俺は酔っている友人たちの会話に入れないのは目に見えているので、この恐ろしい光景を眺めているだけだった。
「はて、どうしたもんかな」
さすがに、このまま一人で帰るのは気が引けるし、かといってあのまま友人たちを家に帰せば、両親の説教というものが待っている。そこまで考えたところで、
「よし、酔いが醒めるまで待ってるか」
という結論に達した。
そのとき、また、あの声が聞こえた。
――あなたはもう、逃げられない――
――ここは〝別離の社〟――
そのとき、俺の目には馬鹿騒ぎの光景は消えた……
そして、心に直接語りかけるような声は、音へと変化して言った。
「私は、〝離(り)の巫(み)女(こ)〟、情に流さるるは悪、を理とする社の守護者なり」
???
「あなたはもう、逃れることは出来ない、我の決めし運命に従うのみなり」
「どういうことだ?」
いきなりの展開に脳がついていけなかった。
状況を理解すべく、話を整理しようとしたが、声がそれをさせてはくれなかった。
「あなたは、私の決めた運命に従っていればいい、ってことよ」
さっきまでの堅苦しい言葉は消え、ただ、一人の女の子の声だけが響いていた。
俺は声のする方へ、目を向けると、そこに居たのは美しく、可愛らしい巫女だった。
巫女の頭上には紫色に染まった奇妙な鳥居があった。
「あなたは、誰なんですか?」
俺がそう聞くと
「私は、〝離の巫女〟よ。あなたをあなたの居た世界から別離させることが私の役目なの」
「何故? というか、どういう意味?」
俺は境のでっち上げの噂が本当になったのだと思った。
「理由としては、あなたは、この世界に合っていないから。意味としてはあなたは私と一緒にこの〝別離の社〟で一生を閉じるってことかしら。まあ、あなたが死んでも、私は永遠に生き続けるのだけれどね」
「もうちょっと、詳しく説明できない?」
「世界に合ってないから、私があなたの奇妙な力を抑えるって感じよ」
奇妙な力ってどういうことだろう? それについて、説明してもらおうと口を開きかけたが、目の前の巫女はそれを制した。
「あなたの質問はこれで終わり、もう、諦めなさい」
急過ぎて脳が停止しているような感覚に襲われた。
しかし、一つの、諦め切れるわけがないだろ、という感情が心の底から湧き出ていた。
「そんな意味の分からないことでこんな訳の分からない場所に閉じ込められて堪(たま)るか!」
俺は出口を見つけようと走り出そうとした。しかし、俺の体は動かなかった。巫女が俺の体に抱きついていたからだ。彼女の眼を見ると涙目だった。
「戻ろうとしないでよ!あなたは、その奇妙な力を使えば、戻ろうと思えば戻れるわ! でも、私を一人にしないで! 私は生まれたときからここに一人で居た記憶しかない。それでも、あなたのことだけは知っていた。ここ、〝別離の社〟は世界から人を引き離すための場所というよりは、永遠に触れることも出来ないで見るだけの世界に死ぬほど恋焦がれて過ごす空間なの。恋焦がれる世界において私の声が聞こえたのは、唯一あなただけなの! だから、私を一人にしないで! 一人にしないで! 一人に、一人に、一人にしないでよ……」
色々と分からないことが多くあったが、一つのことを決心するのには充分だった。
「じゃあ、一緒に俺の世界に来ないか?」
彼女の言うことから推測するに多分、そういうのも出来るのではないだろうか。
「え?」
彼女は涙で赤くした眼を見開いて、「そんなことが出来るの?」といったような顔をしていた。
「君はそうすることを望んでいるんだろう?」
彼女はもう一度泣きそうな顔でコクッと頷いた。
「じゃあ、行こう」
俺は彼女の手を取った。
*帰りに*
「おっ、戻ってこれたみたいだな」
あの子が無事にこの世界に居れているのか、確認しようと繋いでる手の方を見ると……
「っっっ」
「んっ、ありがとう」
彼女からキ、キスをされた。
彼女は顔を赤らめて感謝の言葉を告げた。
あの空間は暗闇だったので、彼女の黒髪はあまり分からなかったが、見てみると美しい黒髪で長髪だった。
そういえば、彼女が最初に言っていた、運命がなんたらっていうのは何か関係があったのだろうか?
「そういえば、最初のあれは?」
「ただのあなたを引き止めるための方便よ」
自分で言ってて恥かしくなったのか、赤かった顔にもっと、赤みがかかった。
「そういえば、この後どうするんだ?」
彼女は少し考えて言った。
「あなたと一緒に帰ってもいい?」
「いいに決まっているだろ」
俺も顔が赤くなっていたに違いない。
嬉しそうな顔をして、彼女は俺の数歩前を歩き、もう一つ思い出したかのように、付け足すように言った。
「あっ、私の名前は神社(かみやしろ)伊代(いよ)って言うの。」
(終)
イルカ
――あなたはもう、逃げられない――
巫女は美しく、可憐に言った……
*嘘なる噂*
あぁ、眠い。何でこんなに眠いのだろう。催眠効果しか存在しない授業をしている教師が悪いし、こんなに丁度いい気温にする大自然も悪い。よって、俺は何一つ悪くなく、これが至って普通なのである。
という結論に達し、俺はもう一度、寝ようと机に突っ伏すと、面倒なことに隣の席の境(さかい)が話しかけてきた。
「なあ、この授業、異常なほどに眠たくならないか?」
ならば寝ろ。そして、永遠に俺の睡眠の妨げをするな。
と内心思ったが、こいつのせいでもう、目が覚めたので、一つ相手をしてやることにした。
「そうだな、お前に邪魔されなければ、いい睡眠を取れただろうな」
境は少し、不思議そうな顔をした。
「俺の言ったことに何か間違えがあったか?」
もう一度、皮肉をこめて言うと
「いや~、皮肉も毎日聞くと、慣れてくるもんなんだな~って」
「じゃあ、死んでろ」
「今日の今さっきまで、ただの皮肉屋だったのに、そんな、ド直球で言われると……」
なんだ? 心が痛むとか言うつもりか?
「ゾクゾクしちゃう♪」
「ここに、度し難い変態がいる」
「いやいや、冗談だよ! そんな、親友との友情を鋏で切断するみたいに、簡単に引かないでよ! というか、なんでそんなノミ並な音量?」
そろそろ、頃合かな。
俺の予測が的中し、黒板の方を向いていた教師が、振り返り、言った。
「おい、境、黙ることが出来ないんなら、出てってもらうぞ」
「へ? 俺だけ? 大和(やまと)は?」
「大和は喋ってないだろうが」
「大和、これを見越してたなああああああああ」
「境、五月蝿(うるさ)いぞ。もうお前廊下に出てろ」
催眠術が一斉に解けたように、教室中の皆が、笑った。
境は俺を恨みがましく言った。
「授業後、覚えてろよ」
おいおい、親友じゃあないのかよ。
と心で突っ込んでから、俺は欠伸をし、眠りに入った。
「今日の授業はここまでだ。ちゃんと、復習しておくように」
「あと、境は、この後すぐ職員室に来るように」
やっと、教室に入れるって顔をした境は、その言葉を聞き、けだるそうに方向転換した。
憐れな奴だ。
「大和、てんめぇえええええ」
五分後、戻ってきた境はまた、大声を挙げて言った。
「お前のせいで反省文三枚程書かされたじゃねぇか!」
反省文……三枚?
「よくそんな量、五分で書けたな」
九割本気で驚いていると
「もう、慣れたからな♪」
と異様なほどに爽快感溢れる笑顔で言った。
「ま、褒められた事じゃあないけどな」
「別にそんなことどうでもいいんだよ。それより、飯を食おう。もう腹がもたねえ」
そう言って、境は弁当を取り出し、食べ始めた。
「境、速過ぎだろ……」
さっき、食い始めたはずなのに、いつの間にか、食い終わっていやがった。境よ、喉に詰まっても知らんぞ、と思っていると
「……ごふぁ、ぐっ……」
案の定喉に詰まりやがった。茶を手渡すと、その茶を一気に飲み干し、咽(むせ)た。
「お前、バカだろ」
今の境を見れば、誰もが思うであろう感想を率直に言った。しかし、境は、認めたくないようで、無駄に色々、言い訳らしき戯言(たわごと)を約三分程話した。そして、いきなり思い出したかのようにこんなことを言ってきた。
「そういや、知ってるか? 毎年、開かれる夏祭りで変な噂が流れているのを」
「どういう、噂なんだ? それは」
「それがよ、夏祭りの開かれる神社にはある巫女がいるんだが、その巫女を見た奴が誰一人としていないらしいんだよ」
???
「どういうことだ? 巫女はいっぱいいるだろ?」
「いや、だからさ、ある巫女だって言っただろ? なんかさ、噂が一人歩きしてるみたいでさ」
なんだよ、それ、と思いつつも、噂だけが一人歩きしているって言うのは想像してみると、かなり、恐ろしく感じた。巫女を見た者は居ないはずなのに伝わっていく、薄気味悪さ。背筋が凍るようだった。
「で、その噂が何なんだよ? さすがに、怖いから確かめようとか、却下だぞ?」
「いや、ただ、噂が噂であり続けるために必要なことだろ?」
境はニヤリと、してやったり顔をして言った。要するにこれは、境が作り上げた嘘の噂ということだ。さっき、廊下を立たされたときの仕返しなのだろう。
「嵌められたか。そういや、夏祭り、もうすぐだな~。境、誰か誘って祭りに行くか?」
「誰かって女子か?」
「男同士で遊びに行くという思考は無いのな」
「男同士で行ってどうすんだよ! 其処此処にいるだろうはずのリア充共に囲まれて、楽しめると思うか? 答えは否! そんなもん、無理に決まっている!」
境の言い分も分からない訳ではないが、普通に男同士でも、面白いと思うけどな。『男子高校生の○常』みたいで。だが、やはり、女子がいないというのは少し、盛り上がりに欠けるだろう。
「それじゃあ、綾芽(あやめ)たち、誘おうぜ、境」
「なんで、俺が告って、この間、玉砕したばっかりの相手選ぶの? ドSなの?」
「文句言っても、そいつらしか俺ら、行動したこと無いんだから、諦めろ」
ここにいる境は入学式で木野綾芽(きのあやめ)という女子に一目ぼれしたらしく、運悪くこいつの隣の席だった俺が協力させられたのだ。境は共に過ごす時間が長ければ少しは好感度が上がるかも、と思ったらしい。その考えを以て入学してから二ヶ月くらいは綾芽たちと同じグループで過ごした。そして、境は我慢できず告って、見事に玉砕したというわけだ。
「まあ、お互い水に流して、友達からやればいいんじゃないか?」
「友達ならいい人か……」
境は玉砕した時の綾芽の返事を思い出したのか、遠い目をしていた。綾芽はおしとやかで、優しい、人間の鑑とも言うべき女子で、更に言うと顔はかなり、可愛い。まあ、一目ぼれするのも無理は無い。境は一応、立ち直ったが、今日まで綾芽と一度も話していないのだ。
五分後、境はやっと、過去から戻ってきた。
「まあ、俺も綾芽とこんなぎこちない関係は嫌だから、友人としてちゃんと、接し合ってみるかな」
「それじゃあ、綾芽と瑠璃(るり)、香子(きょうこ)を誘うってことでいいんだな?」
「大和、一応、一人忘れてやるなよ」
ああ、そうだった。境の恋に協力したのは俺ともう一人いたな。
「あと竹久(たけひさ)か?」
竹久はいわゆるゲーマー兼ヲタクというやつらしいが、俺はゲームをやり込むまではしないし、特に好きなアニメも無いので、話したことが無かった。あと、結構影が薄い。いつの間にっ、と思わされることが何度あったことか。
「それじゃ、この5人で夏祭り行くってのでいいな?」
「えっ、夏祭りですか? 別にいいですよ。瑠璃ちゃんも香子ちゃんも行けますよね?」
「瑠璃はいけますよ~」
「私も行けるわよ?」
「それじゃあ、夏祭りは今週の日曜だから、神社前に一四時集合でいいね?」
俺と境が女子三人に夏祭りのことを伝えると、周りも夏祭りを思い出したらしく、せわしなく誰かを誘い合ったりしていた。
*夏祭り?*
俺は夏祭りに来ているのだが、まさか、こんなことになろうとは思わなかった。
まず、俺、境、綾芽、香子、瑠璃、竹久の六人が神社前にほとんど同時に、着いたのだが、その後、神社の中に入ると例年の何倍いるんだ? と思うぐらい、人が異常なほど神社に集まっていたのだ。よく見てみると、そのほとんどが俺たちの学校の生徒だった。
俺たちが祭りの話をしていたことで夏祭りの印象が高まって、それが広まり、夏祭りに来たのだそうだ。
「にしても、すごい人数だよな、これ」
境はそう呟いた。確かに、俺たちが夏祭りの話をしていただけで、こんなに集まったのだとは思えないが……
「まあ、人が多ければ多いほど、祭りは楽しくなりますから別にいいんじゃないでしょうか?」
綾芽がそう言ったとき、俺は何かを、聞いた
風のように軽やかに
そして、
心に直接、話しかけてくるように
――あなたはもう、逃げられない――
という言葉を……
*巫女*
俺たちはもう、これ以上ないくらいに狂い騒いでいた。最初は普通の祭りのように騒いだり、遊んでいただけだった。しかし、ノリのいいお祭り男とでも言うのだろうか、そういう大人たちが、遊び疲れて休んでいた俺たちに何かの飲み物を一気飲みするようにはやし立てたのだ。それこそ、ただのノリで境たちはその何かを飲んだのだが、やはり、中身の分からないものだったのだから止めておけばよかったと俺は後悔した。まあ、俺は飲まなかったんだが……
その飲み物は酒だったわけだが、境とその他3人はべろんべろんに酔っていて、愚痴を話し合ったりしていた。これ、教師に見つかったらお終いだな、っていうレベルだった。
境と綾芽、香子と竹久、というセットで酔いつつも、色々と話し合っているようだった。その話の一部が聞こえてきた。
「だから、あのアニメはここがいいんでしょうが、ひっく」
どうやら、香子は竹久と同じくヲタクだったらしい。
他の学生も酒を飲んだ(?)らしく、いくつかの衝撃の事実が飛び交っていた。そして、あの穏やかな瑠璃はどこに行ったのだろう、と周りを見回すと……
酔っている学生たちに、崇められていた……
どういう経緯かは知らないが、瑠璃は酔っていても性格は変わっていないようで、おろおろと困っていた。
そして、酒を飲まなかった俺は酔っている友人たちの会話に入れないのは目に見えているので、この恐ろしい光景を眺めているだけだった。
「はて、どうしたもんかな」
さすがに、このまま一人で帰るのは気が引けるし、かといってあのまま友人たちを家に帰せば、両親の説教というものが待っている。そこまで考えたところで、
「よし、酔いが醒めるまで待ってるか」
という結論に達した。
そのとき、また、あの声が聞こえた。
――あなたはもう、逃げられない――
――ここは〝別離の社〟――
そのとき、俺の目には馬鹿騒ぎの光景は消えた……
そして、心に直接語りかけるような声は、音へと変化して言った。
「私は、〝離(り)の巫(み)女(こ)〟、情に流さるるは悪、を理とする社の守護者なり」
???
「あなたはもう、逃れることは出来ない、我の決めし運命に従うのみなり」
「どういうことだ?」
いきなりの展開に脳がついていけなかった。
状況を理解すべく、話を整理しようとしたが、声がそれをさせてはくれなかった。
「あなたは、私の決めた運命に従っていればいい、ってことよ」
さっきまでの堅苦しい言葉は消え、ただ、一人の女の子の声だけが響いていた。
俺は声のする方へ、目を向けると、そこに居たのは美しく、可愛らしい巫女だった。
巫女の頭上には紫色に染まった奇妙な鳥居があった。
「あなたは、誰なんですか?」
俺がそう聞くと
「私は、〝離の巫女〟よ。あなたをあなたの居た世界から別離させることが私の役目なの」
「何故? というか、どういう意味?」
俺は境のでっち上げの噂が本当になったのだと思った。
「理由としては、あなたは、この世界に合っていないから。意味としてはあなたは私と一緒にこの〝別離の社〟で一生を閉じるってことかしら。まあ、あなたが死んでも、私は永遠に生き続けるのだけれどね」
「もうちょっと、詳しく説明できない?」
「世界に合ってないから、私があなたの奇妙な力を抑えるって感じよ」
奇妙な力ってどういうことだろう? それについて、説明してもらおうと口を開きかけたが、目の前の巫女はそれを制した。
「あなたの質問はこれで終わり、もう、諦めなさい」
急過ぎて脳が停止しているような感覚に襲われた。
しかし、一つの、諦め切れるわけがないだろ、という感情が心の底から湧き出ていた。
「そんな意味の分からないことでこんな訳の分からない場所に閉じ込められて堪(たま)るか!」
俺は出口を見つけようと走り出そうとした。しかし、俺の体は動かなかった。巫女が俺の体に抱きついていたからだ。彼女の眼を見ると涙目だった。
「戻ろうとしないでよ!あなたは、その奇妙な力を使えば、戻ろうと思えば戻れるわ! でも、私を一人にしないで! 私は生まれたときからここに一人で居た記憶しかない。それでも、あなたのことだけは知っていた。ここ、〝別離の社〟は世界から人を引き離すための場所というよりは、永遠に触れることも出来ないで見るだけの世界に死ぬほど恋焦がれて過ごす空間なの。恋焦がれる世界において私の声が聞こえたのは、唯一あなただけなの! だから、私を一人にしないで! 一人にしないで! 一人に、一人に、一人にしないでよ……」
色々と分からないことが多くあったが、一つのことを決心するのには充分だった。
「じゃあ、一緒に俺の世界に来ないか?」
彼女の言うことから推測するに多分、そういうのも出来るのではないだろうか。
「え?」
彼女は涙で赤くした眼を見開いて、「そんなことが出来るの?」といったような顔をしていた。
「君はそうすることを望んでいるんだろう?」
彼女はもう一度泣きそうな顔でコクッと頷いた。
「じゃあ、行こう」
俺は彼女の手を取った。
*帰りに*
「おっ、戻ってこれたみたいだな」
あの子が無事にこの世界に居れているのか、確認しようと繋いでる手の方を見ると……
「っっっ」
「んっ、ありがとう」
彼女からキ、キスをされた。
彼女は顔を赤らめて感謝の言葉を告げた。
あの空間は暗闇だったので、彼女の黒髪はあまり分からなかったが、見てみると美しい黒髪で長髪だった。
そういえば、彼女が最初に言っていた、運命がなんたらっていうのは何か関係があったのだろうか?
「そういえば、最初のあれは?」
「ただのあなたを引き止めるための方便よ」
自分で言ってて恥かしくなったのか、赤かった顔にもっと、赤みがかかった。
「そういえば、この後どうするんだ?」
彼女は少し考えて言った。
「あなたと一緒に帰ってもいい?」
「いいに決まっているだろ」
俺も顔が赤くなっていたに違いない。
嬉しそうな顔をして、彼女は俺の数歩前を歩き、もう一つ思い出したかのように、付け足すように言った。
「あっ、私の名前は神社(かみやしろ)伊代(いよ)って言うの。」
(終)
2 後編
***
始まりの終わりの、続き。
***
名探偵らしく嘘を暴きたいと思う。名探偵の彼女と同じ容姿を持つのなら、というこの感情は、果たして正しいのだろうか。
嘘。同室になった奴は、あの時間の中で多大な量のそれを書き続けていた。例えばあたしのこと、今のこと、過去のこと。それを逐一洗っていくのは愚かな事この上ないから、重要なそれだけを日の目に晒そう。
まず最初に断っておくが、あたしはヘリオスだ。本編と全く雰囲気が違うではないか、という非難をする者には哀れみの目を向けることにしよう。貴方は世界の常識を知らないで生きてきたようだ。知らないのか? 真実はいつも一つであるが、それを見た人間の感情は無数にあるのだ。それに、一人の人間の内面と外見が違うのはもう先の書き手が証明している。あの言動でこの感情、と何度驚いたことか。まあ、書いていることが真っ赤な嘘であるから、もしかしたらそれもそうかもしれない。でも、そんなことはあたしの知るところではない。
話が逸れた。もうあまり時間が無いから、重要なところだけを告げることにしよう。
要点だけを絞ると、書き手とあたしは同じ容姿ではなく、そして、こいつが書いたような「いかにも」小説くさい会話をしたことなど一度もない。むしろあたしの容姿は「名探偵」と呼ばれる彼女と同じであり、こいつとの共通点なんて性別とルームメイトである事ぐらいだ。どこからそんな発想が出てきたのかが不思議で仕方が無い。小説家ぶって私と自分という一人称を併用すれば面白くなるんじゃないか、なんて自己満足による嘘だと推測するが、どれもこれも失敗だと思う。まあ、言ってもこんなの、ただの古びたノートに成り下がる運命しか用意されていない手記だし、こいつの好きにさせてやっても良いところだが、さすがにここまでいくと注意書きを挟まなければ、という気分になる。忙しいのに、あたしは何をしているのだか。
いや、完全に外れていた訳ではない。ここであたしの長い過去を語ることは控えておくが、確かあたしは昔、こいつの顔を真横で眺めたことがあるはずなのだ。よくわからない液の中にいた時、必死になって開かない目を開けたら見えた景色に、こいつの顔があった。あたしと同じように細い筒に入っていて、眼を閉じたこいつが何体も並んでいた。少しの間しか見れなかったが、目に映った光景があまりにも強烈過ぎて六年経った今でも覚えている。ここから考えるに、あたしは元々こいつと同じ容姿で、ちょっとごにょごにょあった時に今のもの――ようは名探偵の彼女――になったようだ。
内輪話になって真に申し訳ない。でも、読書なんて特異な趣味を持たれるお方なら別にいいか。読者なんていつも登場人物達の生活をのぞくプライバシーの侵害者であるのだから、きっとこんな下世話以下の話にも興味を持たれるだろう。
そんなあなたに朗報だ。今までの話は嘘八百の羅列だと今述べたが、ここから先、本編に戻った後のものは全てあたしの修正が入っている。明らかに嘘の部分は書き直して、そしてあたしにとって都合の悪いことは書き換えてある。だから、安心して先に進んで欲しい。肩すかしを食らうことはもう無くなって、信用にすがりながらページを読むことができるのだ。これはもう、十分な奇跡だろう?
***
開かなかった。
すすり泣く声はドアに手をかけた途端に消えてしまった。
出オチですまないが、ドアを押した瞬間、感じたのは鍵がかかったそれ特有の手ごたえと、消えてしまった疾走感の残り風だ。
「あれ……。おかしいわね……」
そう首を傾げながら言った後、ヘリオスは自分にドアノブを譲った。そしてその感想がさっきの奴だ。
「いや、まあ、当然、ですよね……」
「なんでよ」
強い口調に少し怯んだが、
「いくら寮室であれど、鍵ぐらい掛けておきますよね、普通。しかも今、夜ですよ。話しこんでいる間に時間が経っていること、忘れていたんですか。自分たちも鍵は掛けてきましたよね」
と言い返す。常識だ。
「そういえば、そうね。ちょっと混乱してて忘れてたわ。あ、後鍵かけて来てないから」
あっさり開き直ると、ヘリオスはくるりと身を翻して自分を見る。
「帰りましょ。作戦会議よ」
焦りすぎてたみたいね、と続けた直後、すたすたと自分の部屋へと歩いていく。自分は自分勝手なこいつにぶつぶつと文句を言いながらその後ろに続いた。さっきまで真紅に輝いていた廊下の絨毯が急にくすんで見えた。
数歩足を進めるとすぐに自分の部屋についたけれど、先に到着していたヘリオスはなぜか部屋の中に入っていない。
「あの……、どうして入らないんですか?」
ヘリオスは気難しそうな表情をして唇をいじっていて、自分が言葉を発した後も黙ったまま、ただじっとドアノブを見つめているだけだった。
「ドアノブに、何かついているんですか……?」
恐る恐るそう言ってもやっぱり口を開いてくれず、その代わりにか、唇に当てていた指を扉に向けた。
自分はヘリオスとドアを一巡した後、体からあふれ出す無言の命令に仕方なく従って、冷えたドアノブを回した。
回らなかった。
*
「困ったことになったわね」
誰もいない廊下に座りこみ、腕を組んでそう言うヘリオスの姿からは一抹の不安も感じられず、ただ一人走り出した自分の心が馬鹿らしく思えてきた。
「なんでそんな冷静なんですか」
「焦る事も無いでしょ。開かないものは開かない。あんた、そんな性格だったっけ?」
余裕のある声でそう言われると、焦りが収まると同時に妙に苛立つのは気のせいか。
「とりあえず、状況は、鍵をかけていないのに鍵がかかって入れない、ってところかしら」
「なんか軽そうですね……。別に、自動ロックなんていうハイテク機能が備わっているわけでも無さそうですし、これってやっぱり……」
自分がそこで口ごもると、彼女は悪びれもなく
「だれかが鍵を閉めた、ってことね。全く、入学初日にやることかしら」
とあっさり言ってしまい、似合わないため息をついた。
自分はただ呆然と立ち尽くしながら壁にもたれ、何も映らない天井を眺めているだけだった。いつまでも星空である外の光をうけて、鈍い蒼に染まったそれは、眺める度に濃さを増しているように思える。その時間の間に自分の考えはどんどん悪い方向に向かっていき、犯人は誰だとか彼女の部屋に行かなければよかったとか、というか隣は本当に彼女なのか、元よりなんでこんな物騒な学校に入ってしまったんだといった、今となってはどうしょうもなくて、言っても仕方のないことを永遠に毒づいていた。
「どうする?」
「えっ、えっ?」
一人白昼夢に浸っている時に突然尋ねられてしどろもどする自分を脇目に、ヘリオスはもう一度深く溜息をつく。
「だから、どうするって、この状況。何かできることある?」
「できることって言われても……」
何も思いつかない。ただ自分にできることと言えば、段々と黒に近づいていく天井をぼーっと見ることだけだ。そのブラックホールに似た模様に自分の意識が吸い取られていくようで、アイデアの欠片もあったもんじゃない。
「何もないの? 想像力のない子ね。作家か何か見習ったら?」
はあーあ、こんな調子じゃ朝までずっとこれよ、とさっきの言葉の説得力を根こそぎ奪っていく言葉を続け、やっぱりヘリオスも打破する方法を見つけられていないことに気付く。何処までも閉塞感の夜中。そういえば、今は何時だろう。教えてくれる太陽はないし、チャイムも鳴らないから全く分からない。何もかもが不便すぎる。朝になって気象時間になったら誰か助けてくれるだろうけど、それまで待ちぼうけはきつい。でも今の時間に誰かの部屋に行くのも何だかはばかられる。初対面の人間にそんな事を訊く度胸はない。
どうしようか、と二人分の溜息が混じるいつか。その廊下に、吹くはずのない風がその二人の頬をかすめた。奇妙なことに実体のあった感触に驚いて、自分とヘリオスはその進む先を思わず追った。
かさり、と何かが落ちる音が小さくすると、無言でそこに向かい走り出した。足音は計らずとも二つある。あまり離れていない所にあったそれは、蒼の空間のなかで白が怪しい色に染まった紙飛行機だった。
「紙飛行機って……」
「今時無いわよね、こんなの。どこから飛ばしたのかしら」
ヘリオスの呟きと共に視線を飛んできた方向に向ける。そこには同じような部屋の扉が並ぶ壁と、同じように窓が並ぶ壁で挟まれた廊下が少し続いているだけで、人影も何もなく、直角に折れた角の先にも誰かがいる気配はしなかった。
「窓から……、はないですよね」
「さあ、どうかしら。分からないけれど、誰かが飛ばしたことは確かね。……、とりあえず開けてみましょうよ。ヒントになるものが隠れてるかも知れないし。なんか誘導されてる気がしないでもないけど」
確かに作為的な臭いはするけれども、それと引き替えにしてでも早く部屋に入りたい。そう思って小学生でも作れそうな紙飛行機を勢いよく開き、しわくちゃになった紙をのばして星明かりにかざしてみる。
「よの……かねが……?」
何てなんて、と隣にいたヘリオスものぞき込み、意味の分からぬ文章を二人して読む。星と非常灯だけだと二人の影で読みにくい。
「よのなか、ね、かおかお金……、何これ、怪文?」
そこには下手な字でこんな文が殴り書きされていた。
世の中ね、顔かお金かなのよって子の三番目が上と右に二つ移動したらDancingってわけ。
まるで急いで書いたみたいな、女とも男とも似つかない字。女子寮に男子がいることはできないから、たぶん女なんだろうけど。
「訳が分からないわ。何なのよこれ。書いた人病んでるのかしら。心配になるわ」
「そこですか。むしろ自分たちの心配をした方が良いんじゃないですか……?」
「それもそうね。でも面白そうじゃない。なんか暗号じゃないの、これ」
怪文を目にして面白そうに言うヘリオスの神経がおかしい。気味悪そうに見る自分の視線を感じていないのか、その後も自信満々に続けていく。
「うろ覚えなんだけど、確かこういう暗号の解き方ってあったのよね」
「そんなのあるんですか?」
初耳だ。ミステリーとして成立するには何かいろいろルールが必要なことは数年前に調べたが、暗号の解き方もあるのか。
「うーんと、火であぶって文字をうかばせるとか、反対から読むとか、そんなんだったはずなんだけど……」
適当すぎる。
「さかさまに、ですか」
「そう。上から読むと訳が分からないけど、下から読むと意味を成す、みたいな」
例えば、ね、と言いながら、胸ポケットからシャープペンシルを取り出し、広げた紙飛行機になにやら文字を書き出した。
「何書いてるんですか?」
「ま、見てみなさいよ」
言われるままに見てみると、無駄に整った字で「るまやあとこのうのき」という、訳の分からない文章が書かれていた。
「これを上から読むと……、読みにくいから飛ばすわ」
「さっきから適当すぎますよ」
「まあいいじゃない。とりあえず下から読んでみてよ、これ」
あまりにも強く言われたので、しぶしぶ読み上げてみる。
「きのうの、こ、と、あやま、る……? 昨日のこと謝る?」
「そう。上から読むと変な文で、下から読むと意味の通る文に成る。結構王道の説き方なんだけどね」
そう言って自信満々に頷いてから、また何やら紙に書き出す。さっきよりも長い時間を要するようで、書く手はとても忙しそうに動く。
「できた。ちょっと、これ見て頂戴」
そう言って差し出したのは、元の文面の下に書かれたひらがなの羅列だった。
「こうすると分かりやすいでしょ」
今にも鼻歌を歌いだしそうな勢いで言い切り、
「ほら、読んでみなさいよ」
と、その紙を自分の鼻先まで突きつける。それを受け取ってよく見てみると、あの仮名文は怪文を基にしたものらしかった。
――よのなかね、かおかおかねかなのよってこのさんばんめがうえとみぎにふたついどうしたらだんしんぐってわけ
読みにくくなっただけのような気がするけれども、確かに逆に読むには楽な気がする。
「けわてっ、ぐんしんだら、たしうどいつた、ふにぎみとうえがめん……ばんさんのこてっ、よのなかねか、おかおかねかな、のよ……?」
口に出して読んでみても、全く意味のある文になっている気がしない。ただ読みにくいだけの嫌がらせだ。
「こんなのが意味あるんですか?」
「うーん……。区切ってみたらどうかしら」
「区切る?」
不思議がる自分を背にしながら、ヘリオスはしゃがみこんで何やら書き加えているようだ。
「ほら、こうすれば」
そう言いながら自分に見せたのは、送られてきた怪文に記号がちょっと付け加えられているものだった。
――よのなかね、かおかおかねかなのよ\ってこのさんばんめが\うえとみぎに\ふたついどうしたら\だんしんぐってわけ
相変わらず訳が分からないが、逆さに読み上げてみることにする。
「けわてっぐんしんだ、らたしうどいつたふ、にぎみとえう、がめんばんさのこてっ、よのなかねかおかおか、ねかなのよ……?」
さっきより些か読みやすくは成っているが、でもやっぱり意味がわからない。自分が何も気付いていない中、今のでヘリオスは何か分かったようだ。その印に、今までで一番鋭い目と口調で
「ちょっともう一回言って、最後の言葉」
こう言い放ち、そのせいでさらに冷えた空気に背筋を震わせながら自分はそれに従う。
「よのなかねかおかおかねかなのよ、ですよね、ってあっ……!」
閃いた。
「そう、これ、上から読んでも下から読んでも同じ言葉になるやつよ。あたしの見方は当たってたってわけね」
嬉々の声が混じる返答に、思わず自分もくすりと笑い声をこぼした。
「すごいですね。どうしてこんな風に考え始めたんですか?」
「勘よ、勘」
鋭いにもほどがある。
「たしか、こういう文章って〝回文〟って呼ばれてますよね」
誰かがそう言っていたような気がする。〝新聞紙〟の文章版のようなもののはずだ。
「そんな感じだったかしら」
生返事を返しながらまたヘリオスは何かを書き加えている。
「また何を書いているんですか?」
「今のを付け足してるのよ」
ほら、と例の紙を差し出してきた。
――世の中ね、顔かお金かなのよ(=回文)って子の三番目が上と右に二つ移動したらDancingってわけ。
「ちっちゃいですね」
「まあ、自分たちが分かればいいだけだからいいじゃない。それより、後は他の文を解けばいいだけなのよね。だったら早くしましょうよ」
「確かにそうですね。早くこの廊下とおさらばしたいですし」
この状況は少し楽しいが、それは夜の人間特有の、奇怪な心理状態が魅せる幻のような気がする。とりあえず、朝になって誰かと鉢合わせすることだけは避けたい。恥ずかしいにも程がある。
「じゃあ、つべこべ言わずに考えてよ。これは解決したけど、まだ他のところが残ってるじゃない」
「そうですね。……、三番目っていうのはどれなんだと思いますか」
自分がそう尋ねると、不機嫌そうに、
「今、考えてって言ったじゃないの」
と渋い顔をされた。仕方ないので頭の中で文をぐるぐると回してみることにする。世の中ね、顔かお金かなのよ。この三番目は「な」。でもこれじゃあ五十音表の右には行けても、上には行けない。
「右と上は五十音表のような気がするけど、三番目がどうもね」
どうやらヘリオスも同じような事で悩んでいるようだ。
「な、だと上に行けないですからね。じゃあ違う所と言われても……」
「特にない、わね」
さっきはすぐに解けたのに、と零すヘリオスを少し可哀想に思いつつ、自分もその当事者で在ることを思い出して止める。
三番目。怪文の中の三番目は「な」の一つだし、他のもの、と言われても見当が付かない。自分が分からなくて悶々としているなか、ヘリオスが小さくあっ、と声を出した。
「何か分かったんですか?」
「『かいぶん』よかい(、、)ぶん(、、)」
「回文がどうかしたんですか?」
訳が分からないからそう訊くと、鈍いわねえと呆れた調子で返された。
「だから『かいぶん』の三番目を上と右に二つ移動するのよ」
言われた通りに考えてみると、この語の三番目は「ぶ」。これを上に二つ移動させると「ば」になる。そしてそれを右に二、移動させると……、
「『かいだん』よ、階段!」
自分が回答に辿り着くのとヘリオスがそう叫んだのはほぼ同時だった。
「ようは『世の中~移動したら』までは階段を表していた、ってことね!」
「そうみたいですね。でも、まだ残っていますよ」
残っている単語を指さしながら言った。
「Dancing、ダンシング、ね」
でもまあ、ここまで来たんだし何とかなるんじゃない、と早くも楽観的になったヘリオスはその語の通り、踊るように無人の廊下を一人でくるくると回りながら、ふらふらと歩いて行った。
「ちょっと、何処行くんですか」
焦る自分を尻目に、余裕そうな雰囲気をまき散らしながら
「階段に決まってるでしょ」
とふてぶてしく答え、足取りを止めず進み続ける。
「って、まだDancingの意味分かって無いじゃないですか! そんなので大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。もう分かってるし」
「分かってるんですか!」
なら早く言ってくれればいいのに。自分一人だけ答えが分からないままなんて不憫すぎる。
「むしろ分からないことに驚きだけどー? 階段でダンシング、踊りとくればもう一つしかないでしょー」
「階段で踊りって……、もしかして踊り場ですか?」
だいせいかーい、と茶化しながらまたヘリオスはくるくると回り出した。回っているのに足はちゃんと階段の方へ向かっているところが憎い。自分達がいる所に階段は一つしかなくて、さっき紙飛行機が飛んできた角を曲がった突き当たりがそれだ。ここからほんの数メートル程の距離しか離れていない。
「階段の踊り場に、何があると思いますか?」
気になってみたので尋ねてみることにした。魔法の道具みたいな洒落たものは置いていないはずだけれども、ちょっと面白いものだと少しうれしい。
「まあ、それは行ってみてからのお楽しみでいいんじゃない? 急がなくても逃げないしね」
人間よりずっといいわ、と何だか大人びた言葉を付け足しながら角を曲がる。もう少しで問題の階段だ。
「ねえ、こんな話があるんだけど」
「何ですか?」
もう一歩で一段目に足をかける瞬間、ヘリオスは語り出した。
「階段の踊り場の由来は、色々なものあるって話。聞いたことない?」
「無いですけど……」
興味もなかったので調べてみたことさえない。
「そう。あたしが聞いたのは、昔西洋のドレスを着た婦人が踊り場を通ったとき、その服の裾がまるでダンスを踊る時みたいにふわりと舞ったから、っていうのと、心臓の鼓動を踊りと呼んで、階段を上がる度に上がるそれの休息場として設けられたから踊り場、と呼んだという説があるのよ。学術的には前者の方が有力とされているようだけれど、あたしは後者の方が好きだわ」
「何故ですか?」
自分だったら、信用できる方を信じるし、好きになるだろう。
「だって逆じゃない? 今のあたし達と。あたし達の場合は踊り場にどきどきする物があるけれど、他の人達にとってはそこが休みの場所だなんて、逆説的で魅力的じゃない?」
「確かにそうですね」
ヘリオスの言う通り、いつもは呼吸を整えることさえ在る場所へ向かうのに、一段一段上っていく度に平常以上に心臓が高鳴っていることがはっきりとわかる。
「さあて、何が待っているのかしらね」
そう言いながら、ヘリオスは最後の段、つまり踊り場のところに足をかけた。
一体何があるのだろうか。そう思いながら自分も一歩遅れて足を進ませる。自分も最後の一段を踏んだとき、ヘリオスは踊り場でしゃがんで何かを拾っていた。自分が急いで駆け寄るとヘリオスは同時に立ち上がり、拾った物を掌に乗せて差し出した。
「鍵……、ね。それも一番万能な奴」
そう紹介された鍵、マスターキーは星明かりを反射しながら無機質に光り、それを見ながらヘリオスはさっきとは打って変わった、無表情のまま呟く。
「さあ、これで何をさせようと言うのかしらね。名探偵(、、、)さん(、、)」
***
拾った鍵で開けた部屋には、数時間前とほとんど変わったところがない様子だった。開けっ放しのカーテンと、廊下と同じ真紅の絨毯。ただ一つ変わった所といえば、飾り気のない勉強机に置かれた二枚の置手紙があることぐらいだ。
ヘリオスは自分がそのことに気づくやいなや、一人机に駆けつけていった。何をするんですか、と訊くよりも早く手紙に目を通し、そのうちの一枚を上着のポケットにしまった。
「ちょっ、何を」
「あんたには関係ないことよ。それよりも」
「関係ないって、」
「だからそうだ言ってるでしょ。それより、あんたに必要なのはこれよ」
関係ない理由をはぐらかして偉そうに手を差し出しながら言うヘリオスに苛々した気持ちをぶつけようかと思ったが、視線は勝手にその手の中の手紙に注がれる。
「隣室で待つ……。名探偵からよ」
沸騰寸前の脳内に冷水が目と耳から注がれたような感覚。背筋にも流れ出したそれのおかげで一気に冷静になった。名探偵? ということは彼女が犯人なのか? そういえば、その手紙の筆跡は三年前の彼女と同じだ。
「勿論行くわよね?」
もうその台詞は疑問というより命令に近かったが、数時間前と同じ答えを返す。
「ええ、行きますよ」
予感はしていた。この学校にいる知り合いなんて彼女しかいないし、自分の部屋の鍵を閉めれるのは隣室にいる人ぐらいにしかできない。でも、何故彼女はこんなことをしたのだ。そのことを直接尋ねに行かねばならない。
「そう。なら早い方がいいわね。行きましょう。今すぐに」
ほら、と繋ぐように手を自分の方に向け、ヘリオスは不敵に笑った。その表情に何故か緊張が緩み、自分は口元を綻ばせながら手を重ねた。
*
冷たいドアノブ。触れた瞬間その温度に驚いて、ぱっと手を離してしまった。そんな自分を見て少し訝しそうにヘリオスは眉を上げたが、すぐに視線を扉のほうへ向けた。
もう一度、マスターキーを鍵穴に挿しなおし、深呼吸をしてドアノブを回す。扉を押すと、さっきみたいな詰まる感覚は微塵もなく、すっと風を切るようにあっさりと開いた。
その風に乗るように、ヘリオスは自分よりも先に部屋の中に入っていき、それに続いて自分も部屋の中に入る。足音以外に物音はせず、ただ蒼に染まり冷えた空気が体に纏わりつくだけだ。
「ご招待ありがとうございます名探偵さん」
「招待なんて、した覚えはないけれど」
勉強椅子にもたれ座りながら偉そうに言う彼女は、目に嗚咽の残骸をためながらも三年前と変わらぬ眼光でヘリオスを睨み、そのクローンであったヘリオスも同じ気迫で彼女に迫っている。
「とんだ冗談ね。わざわざ置き手紙を残していったじゃないの」
「ああ、あれのこと」
ちょとした忘れ物を思い出したみたいな、軽い調子で自分が犯人だとあっさり認めて、彼女はこちらの方に顔を向けて言い放つ。
「あれは招待じゃないわ。脅迫、っていうのよ。知らない?」
片目だけだった方がまだましだ。両方の目で見られると、いくらそれが充血しているといえども逃げ腰になってしまう。しかも言動が言動だ。三年前の自分はどうやってこの人と会話をしていたのだ。何だかヘリオスが神々しく思えてくる。
「幽霊みたいね」
ぽつりとヘリオスが呟く。いや、この表現は少し可笑しいか。この場にいる全員に聞こえるように言ったのだから、もっと別の言葉を当てはめた方が良いかも知れない。
「何よ、幽霊って」
眉をひそめて彼女は尋ね、そんなことも分からないの、と鼻で笑いながらヘリオスは答える。
「見えないところでこそこそと事を進めて、最後に実は幽霊の仕業でしたー、って良くあるでしょ、怪談話で。それと同じ事を貴方はしているのよ」
「例えが微妙すぎるわよ。何か他になかったの?」
「いいじゃないの、それぐらい」
同じ声と同じ口調で言い争われると聞いている方が混乱する。
「で、貴方はこんな事を話すためにわざわざこの部屋に来たんですか」
しびれを切らして口を出した。こんな無意義な会話を聞くぐらいなら、今すぐベッドに飛び込んで寝る方がよっぽど良い。
「それもそうね。忘れてたわ」
「貴方が全て悪いんでしょ」
ヘリオスの腑抜けた発言に彼女がそう言い返し、もう一度言葉を発そうと口を開くと、同じ形にヘリオスも唇を動かしていた。
『貴方が生まれてきたから』
二人の同じ声が重なり、同じ言葉を響かせた。その瞬間、思い通りだというように口角をにやりと上げる者と、目を見開いて二の句が告げられなくなってしまった者に二つに分かれ、蒼く冷たい空間に陰と陽の光りが舞ったように見えた。
「分かるわよ、それぐらい。だってあたしは、」
「貴方だから」
驚いたのもつかの間、今度はあたしの番よと言うかのように、彼女はヘリオスの言葉の続きを難なく言った。そして悪役じみた笑みを浮かべながら
「やっぱり。そうみたいね」
と意味の分からない言動をする。その一言が持っていた糸につながったようで、ヘリオスも同じように口角を上げ、自分一人を蚊帳の外に追い出す。
「あの、意味が分からないんですけど……」
「話した筈なんだけど。それも、あんたが、あたしに」
ヘリオスはそう呆れかえったようにそう言うと、こう続けた。
「過去を話したでしょ、さっき。クローン人間の写真が送られてきた、って自分で言っていたじゃない。それがこいつ――、『名探偵』のクローンって訳。思い出した?」
話が飛びすぎている。とりあえず、言われるままに昔送られてきたファックスの一枚目を思い出してみる。たしかあの子は、艶々とした髪と、開けば妖艶な光を携えるだろう目、唇を持ったフランス人形の如く整った容姿をしていた。それを一つひとつ彼女に重ねて見ると……。
「本当だ……」
何故今まで気がつかなかったのだろうか。目を閉じて夢想ふける彼女とあのときの少女の外見は完璧に一致する。
「何を話しているの」
自分が悩み事と別れると、今度は彼女が疑問に出会ったようだ。その様子を見ながらヘリオスは意地汚い笑みを浮かべて言い放つ。
「貴方の話よ。名乗れない(、、、、、)名探偵の、貴方の話よ」
その言葉に彼女はびくっと肩を上げ、思いっきりヘリオスを睨み付けた。瞬間空気が凍りつき、一人訳の分からない自分をまた置いていく。
「何を、」
「黙ってて」
ヘリオスに強く遮られて出かけた言葉をひっこめる。この部屋の主導権は彼女ではなくヘリオスに握られてしまったようだ。
「貴方はずっと名探偵だったんでしょ? 知ってるわ。こいつといた三年前以前から、そしてその後もずっと、貴方は名探偵であり続けた」
違う? と全くそう思っていない風にヘリオスは脅しをかけて、彼女は聞きたくないと主張するように顔の角度を変え、自分達に横顔を見せる体勢になった。
「昔、言ってたわよね。名探偵は存在してはいけない。それは楽園を壊す悪役だからだと。だけど、私は違う。存在意義をちゃんと見つけ、ちゃんと受け入れられたと、自慢げに言ってたわよね。でも本当は違った」
何故ヘリオスがその会話を知っているのか、と疑問に思って思い出した。確かこいつは、あの三年前の記憶を持っていると話していた。あの話は本当だったのか。
「貴方は、本物の悪役になっていた」
初耳だ。あれは例えの一種だと思っていたのに、現実にあったことだったのか。本当に、と彼女の方に視線をやると、彼女は肯定するように静かに天井を見上げていた。
「考えてみればそうじゃない。人間関係を壊す人は誰から見ても不必要で邪魔でしょ。考えてみたことなかった?」
少しの沈黙の後、またヘリオスが口を開いて自分に話を振った。
「え……、いや、無い、です、けど……」
急な話題で着いていけず、しどろもろになりながら答える。あの時は自分のことだけを考えて行動していたので、彼女の言葉に嘘があるなど考える暇など無かったはずだ。
「無いの? つくづく生ぬるい子ね。それで生きていくつもり?」
自分を馬鹿にしながらそう言うと、もう一度彼女の方に向き直ってまたヘリオスは口を開く。
「とにかく、貴方は嫌われた。名探偵と名乗るまえから、その後もずっと」
「ずっと?」
あの事件のとき、彼女はとてもクラスに馴染んでいるように見えたけれど、それも違うのか?
「そう、ずっと。クラスに溶け込んだように見えたのは、あの一瞬だけ。みんな遠慮してたんじゃないの? こいつの言葉を借りると……、そうね、〝転校生の前でいきなり修羅場なんて〟、ってことなんじゃない」
「あれを修羅場って言わないんですか」
疑問と驚きの混じる言葉に、ヘリオスは失笑を漏らしながら言う。
「それで修羅場なら、世の中で起こる殆どの喧嘩がそれにあたってしまうわよ。何、あんた、頭の中にお花畑でもあるの?」
「いや、無いですけど……」
ホントに? と懐疑の目を向けたが、すぐにそれは論点じゃないわねと話を本筋へと戻す。
「要するに、名探偵というものは依頼があって、お客さんがあっての職業なのよ。なのに貴方はその基本的なルールすら脱している。そんな人は名探偵と名乗ってはいけない――、いや、名乗れないのよ」
「でも」
まだこいつの肩を持つのかと睨(ね)めつけながら、
「大体、いくら自称だからといっても限度があるでしょ。しかも、名探偵なんて、驕(おご)りすぎにも程があるわ。そんな人、誰も名探偵と認めない」
そう吐き捨て、もう一度彼女の様子を見る。さっきよりも幾分視線が上がった気がするが、それでも何も言葉を発しない。
「それに、歴史に名を残した名探偵達は、変な人として嫌われていても、一応認められて頼られている。それは何故か知ってる?」
「いえ……」
「実力があるからよ。覆しようのない実績の前にひれ伏すの。だから彼らは生きて行ける」
そこで言葉を切り、続く言葉の強さを証明するかのように大きな息継ぎをした。
「でも、貴方は違う。貴方にはそんな実力なんてものはないわ。あるのは取り繕った謎と、自分で作った回答だけ」
一番触れてはいけないところにヘリオスはずかずかと踏み込んでいく。その先に何があるかを全く気にせずに進んでいく姿は雄々しいのか愚かしいのか。
「でも、自称ですよね。なら何でも良いんじゃないんですか」
彼女の弁明を思い出して言う。確か自分はそれで納得したはずだ。
「別にあたしはいいのよ。貴方が名探偵だろうが何だろうが知った事じゃないわ。でも、貴方は放っておかれることを、望んでなんかいないでしょ?」
そう言って見つめる先には、一人世界から切り離されたように佇む彼女が、ほんの少しだけ笑みを漏らす姿があった。
「望んでいる……、んですか?」
確認するように彼女をちらりと見ると、さっきより大きく笑みが咲いていた。
「だから貴方は自分に分かるようにこの謎を作った」
さっき解いた紙飛行機を手にしながらヘリオスはそう言った。
「でも、何で隣の部屋にヘリオスがいるって分かったんですか?」
「さっき言ったじゃないの。廊下で彼女に会ったって。そんな容姿の同じ人を見たら、なかなか忘れられないわよ」
「でも、もしあなたと会っていなかったらどうするんですか。暴いてもらう人がいなくなりますよ」
自分の発言を鼻で笑いけなしてヘリオスは続ける。
「そんなの、あんたや他の人にも分かりそうな謎にすれば良いだけじゃない。これは解く人が作者と同じ頭を使っているのとほぼ同じだから、渾身の謎を用意することが出来ただけのことだしね」
「そうなんですか……?」
返事なんか帰ってくるはずもないと思っていたが、ダメ元で彼女に尋ねてみた。すると以外にも彼女は小さく首を縦に傾げ、肯定の意志を見せた。……、でも、何故だ? 何故、解いてもらいたかったのだ?
「名探偵って、ずっと他人の謎を解かないと行けないでしょ。それが望まれようがそうでないかは別として、使命として存在するの。でも、貴方はそうしているうちに、罪悪感と戦わねばならぬ事になった」
「罪悪感?」
そんなの、感じたら止めれば良いだけの話なのに。誰も強制も望みもしない事を続ける意味は無いと思うのだが。
「人の邪魔をして生きて行くことは本当に良いのかどうか、とか色々悩んで、結局は続ける事しか選べない。そんな自分に嫌気も差した」
確かに、嫌われることは結構エネルギーのいる行動だ。それを大勢の人から受けたのならそう思っても仕方が無い。でも、
「じゃあ何で止めないんですか?」
「あんたがいるからよ。あんたみたいな人が、いるからよ」
即答だった。その声の主はヘリオスではなく彼女で、なんだか悲痛と苦悩が混じったような音程。
「少しぐらい……、あたしがいることで救われたみたいな顔をする人がいるから……」
「続けるしかなかった」
嗚咽で遮られた彼女の言葉の続きを紡ぎ出すのはヘリオスで、その声もさっきより落ち着いて、語りかけるような口調になっていた。
「事実を知ることは大体の人にとっては不幸なこと。でも、現実を変な方向に見ている人にとって、真実を告げる名探偵は必要不可欠な存在と言える。そういうことよね」
静かに頷く彼女を見てヘリオスは満足そうに笑みを浮かべ、言う。
「で、あなたはどっちなの? 暴かれて良かったの、悪かったの?」
その問いに彼女は答えずただ天井を見上げているだけで、その頬には筋が一つ、入っていた。
「あ、そうそう」
突然、ヘリオスが明るくこちらに身を翻しながら言った。
「え、あの……、何ですか?」
このシリアスシーンをぶち壊すのかと呆れつつ訊くと、
「あたし、これから出かけなきゃならないの」
そう言って軽く名刺を出すような素振りで自分に見せたのは、もう一枚の置き手紙だった。
「人形劇、開幕のお知らせ……?」
「そう。あたし、これに出なくちゃならないから」
だって最初に言ったでしょう、あたしは人形だって、とさっきのことなどまるでなかったかのように言ってのける。
そのままヘリオスは部屋から立ち去ろうとするので慌てて引き留める。
「え、ホントに行くんですか」
「行くわよ。決まってるじゃない」
文句があるなら言いなさいよと目が言っているので、ここはそれに遠慮せず乗らせていただく。
「じゃあ、最後に一つ、訊かせてください」
「いいわよ」
あっさりと許可を得て少し拍子抜けしたが、今回は引かない。ずっと疑問に思っていたことがあるのだ。
「なんで、貴方の名前はギリシャ神話の太陽神が由来なのに、あなたは北欧神話の話ばかりするんですか?」
気にかかっていたことだ。ラグナロクもヘイムダルも、神話ということ以外には「ヘリオス」に共通点はない。それなのに何故、ずっとそんな話ばかりをしたのか。帰ってきた返答は自分の考えの遙か先を行くものだった。
「憧れてるから、かしら」
「憧れ?」
「北欧神話には終わりがあって、その後にもう一度始まりが来る。だらだらと終わりが来ないあたしの話より、ずっと綺麗。綺麗なものに憧れるのは普通でしょ?」
憧れなんて言葉がこの人の口から出るとは想像していなかった。
「それだけ? なら、行くわ」
「えっ、ちょっ、待っ」
扉の方に歩き出したヘリオスが急に此方に身を翻し、まっすぐに自分の目を見る。その手にはあの手紙ともうひとつ、一冊のノート、それも、自分が過去を記したものがあった――。
「あたしとしたことが、一番大切なことを忘れてたわ。やっぱり、最後はこれでなくちゃ」
そう言って背筋を伸ばし、驚く自分を見ながら子供みたいに大きな声で言った。
「左様なら」
3
***
神は何を望みしか。
***
お姉ちゃんは、今日も帰ってきません。
私は最後に頼まれた洗い物をしながら考えます。お姉ちゃんがいなくなった日から、今日でもう千九十日が経ちました。カレンダーはめくる事も出来ないまま、壁にぶらさがったままです。もうそろそろ捨てようかと思いますが、ごみ箱は他のもので一杯で隙間など在りません。それに、三年ぐらい前からごみを回収してくれるおじちゃんもいなくなりました。みんな、何処へ行ったのでしょうか。
そう考えている間にもう夜です。最近は北風が強くなってきて、夜の帳も早く落ちてくるようになりました。もしかしたら冬が近いのかも知れません。
早く雨戸を閉めなければと窓際によっていくと、何だかガラス越しに黒く動く丸いものがみえました。そういえば、と思いました。確かお姉ちゃんはこう言っていました。カラスとか猫とか言う野生動物は庭の野菜を食べてしまう悪い奴だから、見かけたらすぐに追い払いなさい、と。だから賢いわたしはこうするのです。
窓を開け、息を思いっきり吸い込んで、それを勢いよくはき出して叫びにします。
「出ていけーーーーーーーー!」
あんまり大きな声だったので、私も思わず耳をふさいでしまうほど家の中で反響していきました。それが止んで恐る恐る目を開けると、そこには黒く丸っこいものが尻餅をついている姿がありました。
「お、お姉ちゃん!?」
その姿をじっと凝視してみると、見慣れたお姉ちゃんにそっくりな顔をしていました。黒い長髪は三年前と同じ様に、星空の光を受けてつやつやと輝いており、黒々と大きな目が短い間隔で瞬(しばたた)いていました。
「え……。お姉ちゃん……?」
お姉ちゃんは訳が分からないと言うように首を傾げ、私は裸足のまま家の中から飛び出し、お姉ちゃんに駆け寄りました。
「お姉ちゃん今までどこ行ってたんですか心配したんですから!」
私の三年間の思いの堰が一気に崩れたように一息で言ってしまいました。そんな私を見てお姉ちゃんは一言、呟きます。
「あんた……、誰?」
*
お姉ちゃんとそっくりなお姉、じゃないです女の子はヘリオスと名乗りました。そして自分は人形だと語ります。訳が分かりません。
「要はあたしには行かなければならないところがあるの。それにあたしは貴方のお姉ちゃんなんかじゃないわ」
全く、こんな所で誰に間違われているのかしら、と呆れた風に続けました。しかし、私にはその言葉の意味が理解できませんでした。お姉ちゃんと完璧に同じ声で言われても、説得力なんてありはしません。
「でも、貴方はお姉ちゃんと全く同じ見てくれですよ」
「それでも違うわよ。いったいどんな人なのよ、『お姉ちゃん』って」
社交辞令のような質問です。それに少し苛立ちながら、私はお姉ちゃんのことを思い出してみます。
「お姉ちゃんは名探偵ですよ。みんなに嫌われていて、でも目がとても純粋で綺麗な、私の本物のお姉ちゃんにそっくりな人です」
私がそう言い切ると、またヘリオスの目が大きく見開かれました。そして口の中をもごもごと動かし、時々「名探偵」や「彼女」、またお姉ちゃんの名前も聞こえました。
「お姉ちゃんを、知っているんですか?」
尋ねると、ヘリオスは困ったような笑みを浮かべながら
「知ってるも何も、さっきまで一緒にいたわ」
と答えました。
「一緒に、ですか? 貴方が?」
「そう。変な巡り合わせね」
「巡り合わせ、ですか」
その言葉を胸の内で反駁してみます。巡り合わせ。とてもいい響きです。
「巡り合わせって、いいですね」
「良いって、」
何がよと訊くヘリオスに、優しい私はちゃんと答えてあげます。
「本物のお姉ちゃんと別れちゃった後、私はとても悲しんだんです。でも、この家に来ると同じ容姿の名探偵のお姉ちゃんに会えて、私は全然悲しくなくなりました。もう一人お姉ちゃんができたみたいで、嬉しくて。だからずっとお姉ちゃんって呼んだんです。そして今、貴方に、お姉ちゃんと同じ貴方に出会えました」
これを、素敵と呼ばずなんて言うのですか、と格好よくまとめると、ヘリオスは圧倒されたように身を逸らして、その体制がしばらく続いた後、急にふっとやわらかく微笑みました。
「ねえ」
「何ですか?」
いきなり変わった態度に少し動揺しながら、ヘリオスの顔を眺めます。
「あの足跡を通って、まっすぐ行きなさい」
指を指しながらそう言って、もう一度、やわらかな笑みを浮かべました。指指す先には一人分の足跡が、砂埃の上に続いていました。
「お姉ちゃ、じゃないヘリオスも、一緒に……?」
私が尋ねると、ヘリオスは静かに首を振りました。
「何で、ですか? なぜ一緒に来てくれないんですか?」
「だから、あたしには行かなければならない場所があるのよ。言ったでしょ?」
そうヘリオスが言い終わると同時に、大きな音が遠くでしました。驚いて振り返ると、足跡の方向にある空に、大きな花火が咲いていました。
「あの場所。あそこに行きなさい。きっと、そこに貴方は行かなければならないわ」
「でも……」
不安げに下を向く私の肩に手を置き、優しい声でヘリオスは語り掛けます。
「あれは、貴方の旅立ちへの手向けの花よ。安心して行きなさい」
そう言って潤む私の目をじっと見つめて、私は花火の上がっている方向を見るために振り返ります。その瞬間、ヘリオスが私の肩を勢いよく押しました。
「えっ!?」
突発的に起こった出来事に反応することができず、よろける私を見てヘリオスはまた笑います。
「さようなら」
後姿を見せながら言い捨て、ヘリオスは前へ進みだします。それも、私が進めといわれた方向と逆に、です。文句を言おうと思いましたが、何だか言ってはいけないような雰囲気に、口を開くことができませんでした。
もう一度、咲き誇る花火に目をやります。あれから止まること無く咲き続けても、いつかは消えてしまうのでしょうか。
儚いこと、泡沫のこと。花火といって思い浮かぶものはその二つだとお姉ちゃんは言っていました。でも、そうじゃない、と今となって思います。この光は、遠くに届く程強く、激しく咲き乱れています。それに泡沫や儚いなんて言葉を当ててはいけないのです。
そう、これは、皆への花なのです。私だけの手向け花ではなく、ヘリオスだけのものでもなくて、ここにいる、全ての道へ進みだしたものへの花束なのです。
そう思いながら、一歩、踏み出しました。足の裏のひんやりとした感覚が、この先の道を示しているような気がしました。もう一歩、一歩、踏みしめて歩き出します。
そのゆったりとした緊張感に乗せ、呟きました。
――進む道に、幸と手向けの花あれ。
うたかた花火。完。
back
***
始まりの終わりの、続き。
***
名探偵らしく嘘を暴きたいと思う。名探偵の彼女と同じ容姿を持つのなら、というこの感情は、果たして正しいのだろうか。
嘘。同室になった奴は、あの時間の中で多大な量のそれを書き続けていた。例えばあたしのこと、今のこと、過去のこと。それを逐一洗っていくのは愚かな事この上ないから、重要なそれだけを日の目に晒そう。
まず最初に断っておくが、あたしはヘリオスだ。本編と全く雰囲気が違うではないか、という非難をする者には哀れみの目を向けることにしよう。貴方は世界の常識を知らないで生きてきたようだ。知らないのか? 真実はいつも一つであるが、それを見た人間の感情は無数にあるのだ。それに、一人の人間の内面と外見が違うのはもう先の書き手が証明している。あの言動でこの感情、と何度驚いたことか。まあ、書いていることが真っ赤な嘘であるから、もしかしたらそれもそうかもしれない。でも、そんなことはあたしの知るところではない。
話が逸れた。もうあまり時間が無いから、重要なところだけを告げることにしよう。
要点だけを絞ると、書き手とあたしは同じ容姿ではなく、そして、こいつが書いたような「いかにも」小説くさい会話をしたことなど一度もない。むしろあたしの容姿は「名探偵」と呼ばれる彼女と同じであり、こいつとの共通点なんて性別とルームメイトである事ぐらいだ。どこからそんな発想が出てきたのかが不思議で仕方が無い。小説家ぶって私と自分という一人称を併用すれば面白くなるんじゃないか、なんて自己満足による嘘だと推測するが、どれもこれも失敗だと思う。まあ、言ってもこんなの、ただの古びたノートに成り下がる運命しか用意されていない手記だし、こいつの好きにさせてやっても良いところだが、さすがにここまでいくと注意書きを挟まなければ、という気分になる。忙しいのに、あたしは何をしているのだか。
いや、完全に外れていた訳ではない。ここであたしの長い過去を語ることは控えておくが、確かあたしは昔、こいつの顔を真横で眺めたことがあるはずなのだ。よくわからない液の中にいた時、必死になって開かない目を開けたら見えた景色に、こいつの顔があった。あたしと同じように細い筒に入っていて、眼を閉じたこいつが何体も並んでいた。少しの間しか見れなかったが、目に映った光景があまりにも強烈過ぎて六年経った今でも覚えている。ここから考えるに、あたしは元々こいつと同じ容姿で、ちょっとごにょごにょあった時に今のもの――ようは名探偵の彼女――になったようだ。
内輪話になって真に申し訳ない。でも、読書なんて特異な趣味を持たれるお方なら別にいいか。読者なんていつも登場人物達の生活をのぞくプライバシーの侵害者であるのだから、きっとこんな下世話以下の話にも興味を持たれるだろう。
そんなあなたに朗報だ。今までの話は嘘八百の羅列だと今述べたが、ここから先、本編に戻った後のものは全てあたしの修正が入っている。明らかに嘘の部分は書き直して、そしてあたしにとって都合の悪いことは書き換えてある。だから、安心して先に進んで欲しい。肩すかしを食らうことはもう無くなって、信用にすがりながらページを読むことができるのだ。これはもう、十分な奇跡だろう?
***
開かなかった。
すすり泣く声はドアに手をかけた途端に消えてしまった。
出オチですまないが、ドアを押した瞬間、感じたのは鍵がかかったそれ特有の手ごたえと、消えてしまった疾走感の残り風だ。
「あれ……。おかしいわね……」
そう首を傾げながら言った後、ヘリオスは自分にドアノブを譲った。そしてその感想がさっきの奴だ。
「いや、まあ、当然、ですよね……」
「なんでよ」
強い口調に少し怯んだが、
「いくら寮室であれど、鍵ぐらい掛けておきますよね、普通。しかも今、夜ですよ。話しこんでいる間に時間が経っていること、忘れていたんですか。自分たちも鍵は掛けてきましたよね」
と言い返す。常識だ。
「そういえば、そうね。ちょっと混乱してて忘れてたわ。あ、後鍵かけて来てないから」
あっさり開き直ると、ヘリオスはくるりと身を翻して自分を見る。
「帰りましょ。作戦会議よ」
焦りすぎてたみたいね、と続けた直後、すたすたと自分の部屋へと歩いていく。自分は自分勝手なこいつにぶつぶつと文句を言いながらその後ろに続いた。さっきまで真紅に輝いていた廊下の絨毯が急にくすんで見えた。
数歩足を進めるとすぐに自分の部屋についたけれど、先に到着していたヘリオスはなぜか部屋の中に入っていない。
「あの……、どうして入らないんですか?」
ヘリオスは気難しそうな表情をして唇をいじっていて、自分が言葉を発した後も黙ったまま、ただじっとドアノブを見つめているだけだった。
「ドアノブに、何かついているんですか……?」
恐る恐るそう言ってもやっぱり口を開いてくれず、その代わりにか、唇に当てていた指を扉に向けた。
自分はヘリオスとドアを一巡した後、体からあふれ出す無言の命令に仕方なく従って、冷えたドアノブを回した。
回らなかった。
*
「困ったことになったわね」
誰もいない廊下に座りこみ、腕を組んでそう言うヘリオスの姿からは一抹の不安も感じられず、ただ一人走り出した自分の心が馬鹿らしく思えてきた。
「なんでそんな冷静なんですか」
「焦る事も無いでしょ。開かないものは開かない。あんた、そんな性格だったっけ?」
余裕のある声でそう言われると、焦りが収まると同時に妙に苛立つのは気のせいか。
「とりあえず、状況は、鍵をかけていないのに鍵がかかって入れない、ってところかしら」
「なんか軽そうですね……。別に、自動ロックなんていうハイテク機能が備わっているわけでも無さそうですし、これってやっぱり……」
自分がそこで口ごもると、彼女は悪びれもなく
「だれかが鍵を閉めた、ってことね。全く、入学初日にやることかしら」
とあっさり言ってしまい、似合わないため息をついた。
自分はただ呆然と立ち尽くしながら壁にもたれ、何も映らない天井を眺めているだけだった。いつまでも星空である外の光をうけて、鈍い蒼に染まったそれは、眺める度に濃さを増しているように思える。その時間の間に自分の考えはどんどん悪い方向に向かっていき、犯人は誰だとか彼女の部屋に行かなければよかったとか、というか隣は本当に彼女なのか、元よりなんでこんな物騒な学校に入ってしまったんだといった、今となってはどうしょうもなくて、言っても仕方のないことを永遠に毒づいていた。
「どうする?」
「えっ、えっ?」
一人白昼夢に浸っている時に突然尋ねられてしどろもどする自分を脇目に、ヘリオスはもう一度深く溜息をつく。
「だから、どうするって、この状況。何かできることある?」
「できることって言われても……」
何も思いつかない。ただ自分にできることと言えば、段々と黒に近づいていく天井をぼーっと見ることだけだ。そのブラックホールに似た模様に自分の意識が吸い取られていくようで、アイデアの欠片もあったもんじゃない。
「何もないの? 想像力のない子ね。作家か何か見習ったら?」
はあーあ、こんな調子じゃ朝までずっとこれよ、とさっきの言葉の説得力を根こそぎ奪っていく言葉を続け、やっぱりヘリオスも打破する方法を見つけられていないことに気付く。何処までも閉塞感の夜中。そういえば、今は何時だろう。教えてくれる太陽はないし、チャイムも鳴らないから全く分からない。何もかもが不便すぎる。朝になって気象時間になったら誰か助けてくれるだろうけど、それまで待ちぼうけはきつい。でも今の時間に誰かの部屋に行くのも何だかはばかられる。初対面の人間にそんな事を訊く度胸はない。
どうしようか、と二人分の溜息が混じるいつか。その廊下に、吹くはずのない風がその二人の頬をかすめた。奇妙なことに実体のあった感触に驚いて、自分とヘリオスはその進む先を思わず追った。
かさり、と何かが落ちる音が小さくすると、無言でそこに向かい走り出した。足音は計らずとも二つある。あまり離れていない所にあったそれは、蒼の空間のなかで白が怪しい色に染まった紙飛行機だった。
「紙飛行機って……」
「今時無いわよね、こんなの。どこから飛ばしたのかしら」
ヘリオスの呟きと共に視線を飛んできた方向に向ける。そこには同じような部屋の扉が並ぶ壁と、同じように窓が並ぶ壁で挟まれた廊下が少し続いているだけで、人影も何もなく、直角に折れた角の先にも誰かがいる気配はしなかった。
「窓から……、はないですよね」
「さあ、どうかしら。分からないけれど、誰かが飛ばしたことは確かね。……、とりあえず開けてみましょうよ。ヒントになるものが隠れてるかも知れないし。なんか誘導されてる気がしないでもないけど」
確かに作為的な臭いはするけれども、それと引き替えにしてでも早く部屋に入りたい。そう思って小学生でも作れそうな紙飛行機を勢いよく開き、しわくちゃになった紙をのばして星明かりにかざしてみる。
「よの……かねが……?」
何てなんて、と隣にいたヘリオスものぞき込み、意味の分からぬ文章を二人して読む。星と非常灯だけだと二人の影で読みにくい。
「よのなか、ね、かおかお金……、何これ、怪文?」
そこには下手な字でこんな文が殴り書きされていた。
世の中ね、顔かお金かなのよって子の三番目が上と右に二つ移動したらDancingってわけ。
まるで急いで書いたみたいな、女とも男とも似つかない字。女子寮に男子がいることはできないから、たぶん女なんだろうけど。
「訳が分からないわ。何なのよこれ。書いた人病んでるのかしら。心配になるわ」
「そこですか。むしろ自分たちの心配をした方が良いんじゃないですか……?」
「それもそうね。でも面白そうじゃない。なんか暗号じゃないの、これ」
怪文を目にして面白そうに言うヘリオスの神経がおかしい。気味悪そうに見る自分の視線を感じていないのか、その後も自信満々に続けていく。
「うろ覚えなんだけど、確かこういう暗号の解き方ってあったのよね」
「そんなのあるんですか?」
初耳だ。ミステリーとして成立するには何かいろいろルールが必要なことは数年前に調べたが、暗号の解き方もあるのか。
「うーんと、火であぶって文字をうかばせるとか、反対から読むとか、そんなんだったはずなんだけど……」
適当すぎる。
「さかさまに、ですか」
「そう。上から読むと訳が分からないけど、下から読むと意味を成す、みたいな」
例えば、ね、と言いながら、胸ポケットからシャープペンシルを取り出し、広げた紙飛行機になにやら文字を書き出した。
「何書いてるんですか?」
「ま、見てみなさいよ」
言われるままに見てみると、無駄に整った字で「るまやあとこのうのき」という、訳の分からない文章が書かれていた。
「これを上から読むと……、読みにくいから飛ばすわ」
「さっきから適当すぎますよ」
「まあいいじゃない。とりあえず下から読んでみてよ、これ」
あまりにも強く言われたので、しぶしぶ読み上げてみる。
「きのうの、こ、と、あやま、る……? 昨日のこと謝る?」
「そう。上から読むと変な文で、下から読むと意味の通る文に成る。結構王道の説き方なんだけどね」
そう言って自信満々に頷いてから、また何やら紙に書き出す。さっきよりも長い時間を要するようで、書く手はとても忙しそうに動く。
「できた。ちょっと、これ見て頂戴」
そう言って差し出したのは、元の文面の下に書かれたひらがなの羅列だった。
「こうすると分かりやすいでしょ」
今にも鼻歌を歌いだしそうな勢いで言い切り、
「ほら、読んでみなさいよ」
と、その紙を自分の鼻先まで突きつける。それを受け取ってよく見てみると、あの仮名文は怪文を基にしたものらしかった。
――よのなかね、かおかおかねかなのよってこのさんばんめがうえとみぎにふたついどうしたらだんしんぐってわけ
読みにくくなっただけのような気がするけれども、確かに逆に読むには楽な気がする。
「けわてっ、ぐんしんだら、たしうどいつた、ふにぎみとうえがめん……ばんさんのこてっ、よのなかねか、おかおかねかな、のよ……?」
口に出して読んでみても、全く意味のある文になっている気がしない。ただ読みにくいだけの嫌がらせだ。
「こんなのが意味あるんですか?」
「うーん……。区切ってみたらどうかしら」
「区切る?」
不思議がる自分を背にしながら、ヘリオスはしゃがみこんで何やら書き加えているようだ。
「ほら、こうすれば」
そう言いながら自分に見せたのは、送られてきた怪文に記号がちょっと付け加えられているものだった。
――よのなかね、かおかおかねかなのよ\ってこのさんばんめが\うえとみぎに\ふたついどうしたら\だんしんぐってわけ
相変わらず訳が分からないが、逆さに読み上げてみることにする。
「けわてっぐんしんだ、らたしうどいつたふ、にぎみとえう、がめんばんさのこてっ、よのなかねかおかおか、ねかなのよ……?」
さっきより些か読みやすくは成っているが、でもやっぱり意味がわからない。自分が何も気付いていない中、今のでヘリオスは何か分かったようだ。その印に、今までで一番鋭い目と口調で
「ちょっともう一回言って、最後の言葉」
こう言い放ち、そのせいでさらに冷えた空気に背筋を震わせながら自分はそれに従う。
「よのなかねかおかおかねかなのよ、ですよね、ってあっ……!」
閃いた。
「そう、これ、上から読んでも下から読んでも同じ言葉になるやつよ。あたしの見方は当たってたってわけね」
嬉々の声が混じる返答に、思わず自分もくすりと笑い声をこぼした。
「すごいですね。どうしてこんな風に考え始めたんですか?」
「勘よ、勘」
鋭いにもほどがある。
「たしか、こういう文章って〝回文〟って呼ばれてますよね」
誰かがそう言っていたような気がする。〝新聞紙〟の文章版のようなもののはずだ。
「そんな感じだったかしら」
生返事を返しながらまたヘリオスは何かを書き加えている。
「また何を書いているんですか?」
「今のを付け足してるのよ」
ほら、と例の紙を差し出してきた。
――世の中ね、顔かお金かなのよ(=回文)って子の三番目が上と右に二つ移動したらDancingってわけ。
「ちっちゃいですね」
「まあ、自分たちが分かればいいだけだからいいじゃない。それより、後は他の文を解けばいいだけなのよね。だったら早くしましょうよ」
「確かにそうですね。早くこの廊下とおさらばしたいですし」
この状況は少し楽しいが、それは夜の人間特有の、奇怪な心理状態が魅せる幻のような気がする。とりあえず、朝になって誰かと鉢合わせすることだけは避けたい。恥ずかしいにも程がある。
「じゃあ、つべこべ言わずに考えてよ。これは解決したけど、まだ他のところが残ってるじゃない」
「そうですね。……、三番目っていうのはどれなんだと思いますか」
自分がそう尋ねると、不機嫌そうに、
「今、考えてって言ったじゃないの」
と渋い顔をされた。仕方ないので頭の中で文をぐるぐると回してみることにする。世の中ね、顔かお金かなのよ。この三番目は「な」。でもこれじゃあ五十音表の右には行けても、上には行けない。
「右と上は五十音表のような気がするけど、三番目がどうもね」
どうやらヘリオスも同じような事で悩んでいるようだ。
「な、だと上に行けないですからね。じゃあ違う所と言われても……」
「特にない、わね」
さっきはすぐに解けたのに、と零すヘリオスを少し可哀想に思いつつ、自分もその当事者で在ることを思い出して止める。
三番目。怪文の中の三番目は「な」の一つだし、他のもの、と言われても見当が付かない。自分が分からなくて悶々としているなか、ヘリオスが小さくあっ、と声を出した。
「何か分かったんですか?」
「『かいぶん』よかい(、、)ぶん(、、)」
「回文がどうかしたんですか?」
訳が分からないからそう訊くと、鈍いわねえと呆れた調子で返された。
「だから『かいぶん』の三番目を上と右に二つ移動するのよ」
言われた通りに考えてみると、この語の三番目は「ぶ」。これを上に二つ移動させると「ば」になる。そしてそれを右に二、移動させると……、
「『かいだん』よ、階段!」
自分が回答に辿り着くのとヘリオスがそう叫んだのはほぼ同時だった。
「ようは『世の中~移動したら』までは階段を表していた、ってことね!」
「そうみたいですね。でも、まだ残っていますよ」
残っている単語を指さしながら言った。
「Dancing、ダンシング、ね」
でもまあ、ここまで来たんだし何とかなるんじゃない、と早くも楽観的になったヘリオスはその語の通り、踊るように無人の廊下を一人でくるくると回りながら、ふらふらと歩いて行った。
「ちょっと、何処行くんですか」
焦る自分を尻目に、余裕そうな雰囲気をまき散らしながら
「階段に決まってるでしょ」
とふてぶてしく答え、足取りを止めず進み続ける。
「って、まだDancingの意味分かって無いじゃないですか! そんなので大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。もう分かってるし」
「分かってるんですか!」
なら早く言ってくれればいいのに。自分一人だけ答えが分からないままなんて不憫すぎる。
「むしろ分からないことに驚きだけどー? 階段でダンシング、踊りとくればもう一つしかないでしょー」
「階段で踊りって……、もしかして踊り場ですか?」
だいせいかーい、と茶化しながらまたヘリオスはくるくると回り出した。回っているのに足はちゃんと階段の方へ向かっているところが憎い。自分達がいる所に階段は一つしかなくて、さっき紙飛行機が飛んできた角を曲がった突き当たりがそれだ。ここからほんの数メートル程の距離しか離れていない。
「階段の踊り場に、何があると思いますか?」
気になってみたので尋ねてみることにした。魔法の道具みたいな洒落たものは置いていないはずだけれども、ちょっと面白いものだと少しうれしい。
「まあ、それは行ってみてからのお楽しみでいいんじゃない? 急がなくても逃げないしね」
人間よりずっといいわ、と何だか大人びた言葉を付け足しながら角を曲がる。もう少しで問題の階段だ。
「ねえ、こんな話があるんだけど」
「何ですか?」
もう一歩で一段目に足をかける瞬間、ヘリオスは語り出した。
「階段の踊り場の由来は、色々なものあるって話。聞いたことない?」
「無いですけど……」
興味もなかったので調べてみたことさえない。
「そう。あたしが聞いたのは、昔西洋のドレスを着た婦人が踊り場を通ったとき、その服の裾がまるでダンスを踊る時みたいにふわりと舞ったから、っていうのと、心臓の鼓動を踊りと呼んで、階段を上がる度に上がるそれの休息場として設けられたから踊り場、と呼んだという説があるのよ。学術的には前者の方が有力とされているようだけれど、あたしは後者の方が好きだわ」
「何故ですか?」
自分だったら、信用できる方を信じるし、好きになるだろう。
「だって逆じゃない? 今のあたし達と。あたし達の場合は踊り場にどきどきする物があるけれど、他の人達にとってはそこが休みの場所だなんて、逆説的で魅力的じゃない?」
「確かにそうですね」
ヘリオスの言う通り、いつもは呼吸を整えることさえ在る場所へ向かうのに、一段一段上っていく度に平常以上に心臓が高鳴っていることがはっきりとわかる。
「さあて、何が待っているのかしらね」
そう言いながら、ヘリオスは最後の段、つまり踊り場のところに足をかけた。
一体何があるのだろうか。そう思いながら自分も一歩遅れて足を進ませる。自分も最後の一段を踏んだとき、ヘリオスは踊り場でしゃがんで何かを拾っていた。自分が急いで駆け寄るとヘリオスは同時に立ち上がり、拾った物を掌に乗せて差し出した。
「鍵……、ね。それも一番万能な奴」
そう紹介された鍵、マスターキーは星明かりを反射しながら無機質に光り、それを見ながらヘリオスはさっきとは打って変わった、無表情のまま呟く。
「さあ、これで何をさせようと言うのかしらね。名探偵(、、、)さん(、、)」
***
拾った鍵で開けた部屋には、数時間前とほとんど変わったところがない様子だった。開けっ放しのカーテンと、廊下と同じ真紅の絨毯。ただ一つ変わった所といえば、飾り気のない勉強机に置かれた二枚の置手紙があることぐらいだ。
ヘリオスは自分がそのことに気づくやいなや、一人机に駆けつけていった。何をするんですか、と訊くよりも早く手紙に目を通し、そのうちの一枚を上着のポケットにしまった。
「ちょっ、何を」
「あんたには関係ないことよ。それよりも」
「関係ないって、」
「だからそうだ言ってるでしょ。それより、あんたに必要なのはこれよ」
関係ない理由をはぐらかして偉そうに手を差し出しながら言うヘリオスに苛々した気持ちをぶつけようかと思ったが、視線は勝手にその手の中の手紙に注がれる。
「隣室で待つ……。名探偵からよ」
沸騰寸前の脳内に冷水が目と耳から注がれたような感覚。背筋にも流れ出したそれのおかげで一気に冷静になった。名探偵? ということは彼女が犯人なのか? そういえば、その手紙の筆跡は三年前の彼女と同じだ。
「勿論行くわよね?」
もうその台詞は疑問というより命令に近かったが、数時間前と同じ答えを返す。
「ええ、行きますよ」
予感はしていた。この学校にいる知り合いなんて彼女しかいないし、自分の部屋の鍵を閉めれるのは隣室にいる人ぐらいにしかできない。でも、何故彼女はこんなことをしたのだ。そのことを直接尋ねに行かねばならない。
「そう。なら早い方がいいわね。行きましょう。今すぐに」
ほら、と繋ぐように手を自分の方に向け、ヘリオスは不敵に笑った。その表情に何故か緊張が緩み、自分は口元を綻ばせながら手を重ねた。
*
冷たいドアノブ。触れた瞬間その温度に驚いて、ぱっと手を離してしまった。そんな自分を見て少し訝しそうにヘリオスは眉を上げたが、すぐに視線を扉のほうへ向けた。
もう一度、マスターキーを鍵穴に挿しなおし、深呼吸をしてドアノブを回す。扉を押すと、さっきみたいな詰まる感覚は微塵もなく、すっと風を切るようにあっさりと開いた。
その風に乗るように、ヘリオスは自分よりも先に部屋の中に入っていき、それに続いて自分も部屋の中に入る。足音以外に物音はせず、ただ蒼に染まり冷えた空気が体に纏わりつくだけだ。
「ご招待ありがとうございます名探偵さん」
「招待なんて、した覚えはないけれど」
勉強椅子にもたれ座りながら偉そうに言う彼女は、目に嗚咽の残骸をためながらも三年前と変わらぬ眼光でヘリオスを睨み、そのクローンであったヘリオスも同じ気迫で彼女に迫っている。
「とんだ冗談ね。わざわざ置き手紙を残していったじゃないの」
「ああ、あれのこと」
ちょとした忘れ物を思い出したみたいな、軽い調子で自分が犯人だとあっさり認めて、彼女はこちらの方に顔を向けて言い放つ。
「あれは招待じゃないわ。脅迫、っていうのよ。知らない?」
片目だけだった方がまだましだ。両方の目で見られると、いくらそれが充血しているといえども逃げ腰になってしまう。しかも言動が言動だ。三年前の自分はどうやってこの人と会話をしていたのだ。何だかヘリオスが神々しく思えてくる。
「幽霊みたいね」
ぽつりとヘリオスが呟く。いや、この表現は少し可笑しいか。この場にいる全員に聞こえるように言ったのだから、もっと別の言葉を当てはめた方が良いかも知れない。
「何よ、幽霊って」
眉をひそめて彼女は尋ね、そんなことも分からないの、と鼻で笑いながらヘリオスは答える。
「見えないところでこそこそと事を進めて、最後に実は幽霊の仕業でしたー、って良くあるでしょ、怪談話で。それと同じ事を貴方はしているのよ」
「例えが微妙すぎるわよ。何か他になかったの?」
「いいじゃないの、それぐらい」
同じ声と同じ口調で言い争われると聞いている方が混乱する。
「で、貴方はこんな事を話すためにわざわざこの部屋に来たんですか」
しびれを切らして口を出した。こんな無意義な会話を聞くぐらいなら、今すぐベッドに飛び込んで寝る方がよっぽど良い。
「それもそうね。忘れてたわ」
「貴方が全て悪いんでしょ」
ヘリオスの腑抜けた発言に彼女がそう言い返し、もう一度言葉を発そうと口を開くと、同じ形にヘリオスも唇を動かしていた。
『貴方が生まれてきたから』
二人の同じ声が重なり、同じ言葉を響かせた。その瞬間、思い通りだというように口角をにやりと上げる者と、目を見開いて二の句が告げられなくなってしまった者に二つに分かれ、蒼く冷たい空間に陰と陽の光りが舞ったように見えた。
「分かるわよ、それぐらい。だってあたしは、」
「貴方だから」
驚いたのもつかの間、今度はあたしの番よと言うかのように、彼女はヘリオスの言葉の続きを難なく言った。そして悪役じみた笑みを浮かべながら
「やっぱり。そうみたいね」
と意味の分からない言動をする。その一言が持っていた糸につながったようで、ヘリオスも同じように口角を上げ、自分一人を蚊帳の外に追い出す。
「あの、意味が分からないんですけど……」
「話した筈なんだけど。それも、あんたが、あたしに」
ヘリオスはそう呆れかえったようにそう言うと、こう続けた。
「過去を話したでしょ、さっき。クローン人間の写真が送られてきた、って自分で言っていたじゃない。それがこいつ――、『名探偵』のクローンって訳。思い出した?」
話が飛びすぎている。とりあえず、言われるままに昔送られてきたファックスの一枚目を思い出してみる。たしかあの子は、艶々とした髪と、開けば妖艶な光を携えるだろう目、唇を持ったフランス人形の如く整った容姿をしていた。それを一つひとつ彼女に重ねて見ると……。
「本当だ……」
何故今まで気がつかなかったのだろうか。目を閉じて夢想ふける彼女とあのときの少女の外見は完璧に一致する。
「何を話しているの」
自分が悩み事と別れると、今度は彼女が疑問に出会ったようだ。その様子を見ながらヘリオスは意地汚い笑みを浮かべて言い放つ。
「貴方の話よ。名乗れない(、、、、、)名探偵の、貴方の話よ」
その言葉に彼女はびくっと肩を上げ、思いっきりヘリオスを睨み付けた。瞬間空気が凍りつき、一人訳の分からない自分をまた置いていく。
「何を、」
「黙ってて」
ヘリオスに強く遮られて出かけた言葉をひっこめる。この部屋の主導権は彼女ではなくヘリオスに握られてしまったようだ。
「貴方はずっと名探偵だったんでしょ? 知ってるわ。こいつといた三年前以前から、そしてその後もずっと、貴方は名探偵であり続けた」
違う? と全くそう思っていない風にヘリオスは脅しをかけて、彼女は聞きたくないと主張するように顔の角度を変え、自分達に横顔を見せる体勢になった。
「昔、言ってたわよね。名探偵は存在してはいけない。それは楽園を壊す悪役だからだと。だけど、私は違う。存在意義をちゃんと見つけ、ちゃんと受け入れられたと、自慢げに言ってたわよね。でも本当は違った」
何故ヘリオスがその会話を知っているのか、と疑問に思って思い出した。確かこいつは、あの三年前の記憶を持っていると話していた。あの話は本当だったのか。
「貴方は、本物の悪役になっていた」
初耳だ。あれは例えの一種だと思っていたのに、現実にあったことだったのか。本当に、と彼女の方に視線をやると、彼女は肯定するように静かに天井を見上げていた。
「考えてみればそうじゃない。人間関係を壊す人は誰から見ても不必要で邪魔でしょ。考えてみたことなかった?」
少しの沈黙の後、またヘリオスが口を開いて自分に話を振った。
「え……、いや、無い、です、けど……」
急な話題で着いていけず、しどろもろになりながら答える。あの時は自分のことだけを考えて行動していたので、彼女の言葉に嘘があるなど考える暇など無かったはずだ。
「無いの? つくづく生ぬるい子ね。それで生きていくつもり?」
自分を馬鹿にしながらそう言うと、もう一度彼女の方に向き直ってまたヘリオスは口を開く。
「とにかく、貴方は嫌われた。名探偵と名乗るまえから、その後もずっと」
「ずっと?」
あの事件のとき、彼女はとてもクラスに馴染んでいるように見えたけれど、それも違うのか?
「そう、ずっと。クラスに溶け込んだように見えたのは、あの一瞬だけ。みんな遠慮してたんじゃないの? こいつの言葉を借りると……、そうね、〝転校生の前でいきなり修羅場なんて〟、ってことなんじゃない」
「あれを修羅場って言わないんですか」
疑問と驚きの混じる言葉に、ヘリオスは失笑を漏らしながら言う。
「それで修羅場なら、世の中で起こる殆どの喧嘩がそれにあたってしまうわよ。何、あんた、頭の中にお花畑でもあるの?」
「いや、無いですけど……」
ホントに? と懐疑の目を向けたが、すぐにそれは論点じゃないわねと話を本筋へと戻す。
「要するに、名探偵というものは依頼があって、お客さんがあっての職業なのよ。なのに貴方はその基本的なルールすら脱している。そんな人は名探偵と名乗ってはいけない――、いや、名乗れないのよ」
「でも」
まだこいつの肩を持つのかと睨(ね)めつけながら、
「大体、いくら自称だからといっても限度があるでしょ。しかも、名探偵なんて、驕(おご)りすぎにも程があるわ。そんな人、誰も名探偵と認めない」
そう吐き捨て、もう一度彼女の様子を見る。さっきよりも幾分視線が上がった気がするが、それでも何も言葉を発しない。
「それに、歴史に名を残した名探偵達は、変な人として嫌われていても、一応認められて頼られている。それは何故か知ってる?」
「いえ……」
「実力があるからよ。覆しようのない実績の前にひれ伏すの。だから彼らは生きて行ける」
そこで言葉を切り、続く言葉の強さを証明するかのように大きな息継ぎをした。
「でも、貴方は違う。貴方にはそんな実力なんてものはないわ。あるのは取り繕った謎と、自分で作った回答だけ」
一番触れてはいけないところにヘリオスはずかずかと踏み込んでいく。その先に何があるかを全く気にせずに進んでいく姿は雄々しいのか愚かしいのか。
「でも、自称ですよね。なら何でも良いんじゃないんですか」
彼女の弁明を思い出して言う。確か自分はそれで納得したはずだ。
「別にあたしはいいのよ。貴方が名探偵だろうが何だろうが知った事じゃないわ。でも、貴方は放っておかれることを、望んでなんかいないでしょ?」
そう言って見つめる先には、一人世界から切り離されたように佇む彼女が、ほんの少しだけ笑みを漏らす姿があった。
「望んでいる……、んですか?」
確認するように彼女をちらりと見ると、さっきより大きく笑みが咲いていた。
「だから貴方は自分に分かるようにこの謎を作った」
さっき解いた紙飛行機を手にしながらヘリオスはそう言った。
「でも、何で隣の部屋にヘリオスがいるって分かったんですか?」
「さっき言ったじゃないの。廊下で彼女に会ったって。そんな容姿の同じ人を見たら、なかなか忘れられないわよ」
「でも、もしあなたと会っていなかったらどうするんですか。暴いてもらう人がいなくなりますよ」
自分の発言を鼻で笑いけなしてヘリオスは続ける。
「そんなの、あんたや他の人にも分かりそうな謎にすれば良いだけじゃない。これは解く人が作者と同じ頭を使っているのとほぼ同じだから、渾身の謎を用意することが出来ただけのことだしね」
「そうなんですか……?」
返事なんか帰ってくるはずもないと思っていたが、ダメ元で彼女に尋ねてみた。すると以外にも彼女は小さく首を縦に傾げ、肯定の意志を見せた。……、でも、何故だ? 何故、解いてもらいたかったのだ?
「名探偵って、ずっと他人の謎を解かないと行けないでしょ。それが望まれようがそうでないかは別として、使命として存在するの。でも、貴方はそうしているうちに、罪悪感と戦わねばならぬ事になった」
「罪悪感?」
そんなの、感じたら止めれば良いだけの話なのに。誰も強制も望みもしない事を続ける意味は無いと思うのだが。
「人の邪魔をして生きて行くことは本当に良いのかどうか、とか色々悩んで、結局は続ける事しか選べない。そんな自分に嫌気も差した」
確かに、嫌われることは結構エネルギーのいる行動だ。それを大勢の人から受けたのならそう思っても仕方が無い。でも、
「じゃあ何で止めないんですか?」
「あんたがいるからよ。あんたみたいな人が、いるからよ」
即答だった。その声の主はヘリオスではなく彼女で、なんだか悲痛と苦悩が混じったような音程。
「少しぐらい……、あたしがいることで救われたみたいな顔をする人がいるから……」
「続けるしかなかった」
嗚咽で遮られた彼女の言葉の続きを紡ぎ出すのはヘリオスで、その声もさっきより落ち着いて、語りかけるような口調になっていた。
「事実を知ることは大体の人にとっては不幸なこと。でも、現実を変な方向に見ている人にとって、真実を告げる名探偵は必要不可欠な存在と言える。そういうことよね」
静かに頷く彼女を見てヘリオスは満足そうに笑みを浮かべ、言う。
「で、あなたはどっちなの? 暴かれて良かったの、悪かったの?」
その問いに彼女は答えずただ天井を見上げているだけで、その頬には筋が一つ、入っていた。
「あ、そうそう」
突然、ヘリオスが明るくこちらに身を翻しながら言った。
「え、あの……、何ですか?」
このシリアスシーンをぶち壊すのかと呆れつつ訊くと、
「あたし、これから出かけなきゃならないの」
そう言って軽く名刺を出すような素振りで自分に見せたのは、もう一枚の置き手紙だった。
「人形劇、開幕のお知らせ……?」
「そう。あたし、これに出なくちゃならないから」
だって最初に言ったでしょう、あたしは人形だって、とさっきのことなどまるでなかったかのように言ってのける。
そのままヘリオスは部屋から立ち去ろうとするので慌てて引き留める。
「え、ホントに行くんですか」
「行くわよ。決まってるじゃない」
文句があるなら言いなさいよと目が言っているので、ここはそれに遠慮せず乗らせていただく。
「じゃあ、最後に一つ、訊かせてください」
「いいわよ」
あっさりと許可を得て少し拍子抜けしたが、今回は引かない。ずっと疑問に思っていたことがあるのだ。
「なんで、貴方の名前はギリシャ神話の太陽神が由来なのに、あなたは北欧神話の話ばかりするんですか?」
気にかかっていたことだ。ラグナロクもヘイムダルも、神話ということ以外には「ヘリオス」に共通点はない。それなのに何故、ずっとそんな話ばかりをしたのか。帰ってきた返答は自分の考えの遙か先を行くものだった。
「憧れてるから、かしら」
「憧れ?」
「北欧神話には終わりがあって、その後にもう一度始まりが来る。だらだらと終わりが来ないあたしの話より、ずっと綺麗。綺麗なものに憧れるのは普通でしょ?」
憧れなんて言葉がこの人の口から出るとは想像していなかった。
「それだけ? なら、行くわ」
「えっ、ちょっ、待っ」
扉の方に歩き出したヘリオスが急に此方に身を翻し、まっすぐに自分の目を見る。その手にはあの手紙ともうひとつ、一冊のノート、それも、自分が過去を記したものがあった――。
「あたしとしたことが、一番大切なことを忘れてたわ。やっぱり、最後はこれでなくちゃ」
そう言って背筋を伸ばし、驚く自分を見ながら子供みたいに大きな声で言った。
「左様なら」
3
***
神は何を望みしか。
***
お姉ちゃんは、今日も帰ってきません。
私は最後に頼まれた洗い物をしながら考えます。お姉ちゃんがいなくなった日から、今日でもう千九十日が経ちました。カレンダーはめくる事も出来ないまま、壁にぶらさがったままです。もうそろそろ捨てようかと思いますが、ごみ箱は他のもので一杯で隙間など在りません。それに、三年ぐらい前からごみを回収してくれるおじちゃんもいなくなりました。みんな、何処へ行ったのでしょうか。
そう考えている間にもう夜です。最近は北風が強くなってきて、夜の帳も早く落ちてくるようになりました。もしかしたら冬が近いのかも知れません。
早く雨戸を閉めなければと窓際によっていくと、何だかガラス越しに黒く動く丸いものがみえました。そういえば、と思いました。確かお姉ちゃんはこう言っていました。カラスとか猫とか言う野生動物は庭の野菜を食べてしまう悪い奴だから、見かけたらすぐに追い払いなさい、と。だから賢いわたしはこうするのです。
窓を開け、息を思いっきり吸い込んで、それを勢いよくはき出して叫びにします。
「出ていけーーーーーーーー!」
あんまり大きな声だったので、私も思わず耳をふさいでしまうほど家の中で反響していきました。それが止んで恐る恐る目を開けると、そこには黒く丸っこいものが尻餅をついている姿がありました。
「お、お姉ちゃん!?」
その姿をじっと凝視してみると、見慣れたお姉ちゃんにそっくりな顔をしていました。黒い長髪は三年前と同じ様に、星空の光を受けてつやつやと輝いており、黒々と大きな目が短い間隔で瞬(しばたた)いていました。
「え……。お姉ちゃん……?」
お姉ちゃんは訳が分からないと言うように首を傾げ、私は裸足のまま家の中から飛び出し、お姉ちゃんに駆け寄りました。
「お姉ちゃん今までどこ行ってたんですか心配したんですから!」
私の三年間の思いの堰が一気に崩れたように一息で言ってしまいました。そんな私を見てお姉ちゃんは一言、呟きます。
「あんた……、誰?」
*
お姉ちゃんとそっくりなお姉、じゃないです女の子はヘリオスと名乗りました。そして自分は人形だと語ります。訳が分かりません。
「要はあたしには行かなければならないところがあるの。それにあたしは貴方のお姉ちゃんなんかじゃないわ」
全く、こんな所で誰に間違われているのかしら、と呆れた風に続けました。しかし、私にはその言葉の意味が理解できませんでした。お姉ちゃんと完璧に同じ声で言われても、説得力なんてありはしません。
「でも、貴方はお姉ちゃんと全く同じ見てくれですよ」
「それでも違うわよ。いったいどんな人なのよ、『お姉ちゃん』って」
社交辞令のような質問です。それに少し苛立ちながら、私はお姉ちゃんのことを思い出してみます。
「お姉ちゃんは名探偵ですよ。みんなに嫌われていて、でも目がとても純粋で綺麗な、私の本物のお姉ちゃんにそっくりな人です」
私がそう言い切ると、またヘリオスの目が大きく見開かれました。そして口の中をもごもごと動かし、時々「名探偵」や「彼女」、またお姉ちゃんの名前も聞こえました。
「お姉ちゃんを、知っているんですか?」
尋ねると、ヘリオスは困ったような笑みを浮かべながら
「知ってるも何も、さっきまで一緒にいたわ」
と答えました。
「一緒に、ですか? 貴方が?」
「そう。変な巡り合わせね」
「巡り合わせ、ですか」
その言葉を胸の内で反駁してみます。巡り合わせ。とてもいい響きです。
「巡り合わせって、いいですね」
「良いって、」
何がよと訊くヘリオスに、優しい私はちゃんと答えてあげます。
「本物のお姉ちゃんと別れちゃった後、私はとても悲しんだんです。でも、この家に来ると同じ容姿の名探偵のお姉ちゃんに会えて、私は全然悲しくなくなりました。もう一人お姉ちゃんができたみたいで、嬉しくて。だからずっとお姉ちゃんって呼んだんです。そして今、貴方に、お姉ちゃんと同じ貴方に出会えました」
これを、素敵と呼ばずなんて言うのですか、と格好よくまとめると、ヘリオスは圧倒されたように身を逸らして、その体制がしばらく続いた後、急にふっとやわらかく微笑みました。
「ねえ」
「何ですか?」
いきなり変わった態度に少し動揺しながら、ヘリオスの顔を眺めます。
「あの足跡を通って、まっすぐ行きなさい」
指を指しながらそう言って、もう一度、やわらかな笑みを浮かべました。指指す先には一人分の足跡が、砂埃の上に続いていました。
「お姉ちゃ、じゃないヘリオスも、一緒に……?」
私が尋ねると、ヘリオスは静かに首を振りました。
「何で、ですか? なぜ一緒に来てくれないんですか?」
「だから、あたしには行かなければならない場所があるのよ。言ったでしょ?」
そうヘリオスが言い終わると同時に、大きな音が遠くでしました。驚いて振り返ると、足跡の方向にある空に、大きな花火が咲いていました。
「あの場所。あそこに行きなさい。きっと、そこに貴方は行かなければならないわ」
「でも……」
不安げに下を向く私の肩に手を置き、優しい声でヘリオスは語り掛けます。
「あれは、貴方の旅立ちへの手向けの花よ。安心して行きなさい」
そう言って潤む私の目をじっと見つめて、私は花火の上がっている方向を見るために振り返ります。その瞬間、ヘリオスが私の肩を勢いよく押しました。
「えっ!?」
突発的に起こった出来事に反応することができず、よろける私を見てヘリオスはまた笑います。
「さようなら」
後姿を見せながら言い捨て、ヘリオスは前へ進みだします。それも、私が進めといわれた方向と逆に、です。文句を言おうと思いましたが、何だか言ってはいけないような雰囲気に、口を開くことができませんでした。
もう一度、咲き誇る花火に目をやります。あれから止まること無く咲き続けても、いつかは消えてしまうのでしょうか。
儚いこと、泡沫のこと。花火といって思い浮かぶものはその二つだとお姉ちゃんは言っていました。でも、そうじゃない、と今となって思います。この光は、遠くに届く程強く、激しく咲き乱れています。それに泡沫や儚いなんて言葉を当ててはいけないのです。
そう、これは、皆への花なのです。私だけの手向け花ではなく、ヘリオスだけのものでもなくて、ここにいる、全ての道へ進みだしたものへの花束なのです。
そう思いながら、一歩、踏み出しました。足の裏のひんやりとした感覚が、この先の道を示しているような気がしました。もう一歩、一歩、踏みしめて歩き出します。
そのゆったりとした緊張感に乗せ、呟きました。
――進む道に、幸と手向けの花あれ。
うたかた花火。完。
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2 中編
***
書き手が真実を語ることの奇跡を、思い知るべきだ。
***
「過去を語りましょうよ。そうね、それがいいわ」
いきなり現れた私は、そう言うとスカートのプリーツを気にしながら部屋に備え付けられた椅子に座り、足を組んだ。
外は変わらず回る満天の星。
それと同じように、自分の頭の中で混乱が踊る。
「あんたから、って言うのも酷だわね。こういうのは言い出しっぺが先にやるべきものだもの。分かった」
自分は何も話していないのに、勝手に自己完結させた私は艶めかしく口角を上げ、笑った。その声が全く自分と同じにも拘わらず、全然違う余韻を残すそれに、少しの目眩を覚えた。
その間。ぐるぐると回る意識の中で自分は私に出会う前の日々を走馬灯の様にめくり、また気分が悪くなる。
彼女の居ない平穏な日々が続いて、また今日もそうなると思っていたのに。
「じゃあ、始めるわ」
彼女は、そんなことを許しはしないようだ。
*
これでは何が何だか分からない。自分で読んでそうなのだから、全くの他人である読者諸君には分かるはずはないだろう。誠に申し訳ない。まあ、こんなぼろの日記をほじくり返そうなんていう変わった趣味のお方だ。これぐらい、目をつぶってくれるだろう。
三年前、自分は彼女と出会い、自称事件に巻き込まれたが、詳細を書くことは控えておく。前項を読んでいただければ済む話だ。
問題なのはその後。私と出会うその前。別に空白にしておけば良いような気もするが、一応、書いておくことにする。
自分は彼女と出会った後、また転校した。いや、違う星に移住して否応無く学校も変わった、と書く方が正しい気がする。世界戦争が勃発したのだ。
宣戦布告されたのは、彼女と出会った直後、木枯らしが吹き荒れる冬の日だった。冷たく刺さる北風と五月蝿いテレビの音が手を組んで自分の耳を殺しに来たのかと思った記憶がある。実際、戦争というものは敵国から「殺人鬼が送られてくる」と言い換えても良いぐらいだから、この表現はあながち間違ってもいない気もするけれど、人に殺されるのと音にそうされるのだったらどちらが惨めか分かりそうなものだ。
話を戻そう。突然の布告に大人たちは驚いたものの、火事場の馬鹿力というかなんと言うか、国民を戦の火の手から救い、かつ勝敗もつくという得策を思いついた。それが今現在の状況である地球を戦場とし、民間人を別の星へ移住させるというもので、そうするための準備期間として三年間の年月を国民に与えた。移住すると会えなくなる人とかに会っておけとか、地球で死にたいなら今のうちに死んでおけ、と言いたかったのだという風に自分は解釈しているが、本当の所は知らない。その後の地球の様子を詳細に書くことは控えておく。と、いうより本当に知らず、またこの事については別の誰かが記していそうな気がするのだ。
もちろん自分は移住した。拒否権などないし、自分の一生を鉛球に捧げることなんぞ御免だった。他の人々も同じ意見で、その中に彼女も含まれていた。
かくして、地球には戦争を行う人と物だけが残り、戦場と化した地上に生える草木は無く、完全な荒野となったのだ。
そして、移住先の星である。そこでは小さな諍いさえ起こらず、ことは順調に進んでいる。移住する前に綿密に計画が練られたからか、未だに不満の声は出ず、人々は平穏に暮らしている。いや、自分以外は。
可笑しくないか、といつも思っていた。なぜ皆この状況に疑問を持たないのか。何故、受け入れるのか。星空しか広がらない頭上、離れる人々、変わりすぎる環境。なのに、皆、納得して受け入れている。何故だ?
ざわつく心を抱えながら、とりあえず日々を送った。新たな学校へ通うまでの短い準備期間があり、自分は黙々とその時間を消費していった。両親に勝手に決められた学校は、またあの時と同じ寮制だった。何か可笑しな予感がしなかったといえば嘘になるが、そこまで気にすることは無いと軽く流してしまった。
そして、そんなこんなで学校へ行く日は来た。入学式やそういう行事独特の興奮に辺りは包まれていたが、一人、冷めた心で出席する自分の頭の中にそれは入ってこず、代わりに彼女のようなルームメイトではないようにという願望がずっと渦巻いていた。無駄骨以外の何物でもない。
式が終わった後、自分は寮室に向かった。ずんずんと進むにつれて重くなる足が、やっぱりこの後待ち受けていることが良くないことであると告げていた。まあ、今更何を言っても仕方が無いのだけれど。
嫌々開けた扉の向こうに広がった景色は、前の学校とまったく同じ内装で、窓からは見飽きた星空が広がっていた。誰もいない室内はがらんとしていて、なぜだか見ていると心がさらに空になるような気がした。そんな光景に嫌気がさし、ふうっと溜め息を吐いた瞬間。後ろのドアが勢いよく開け放たれた音がして、自分の体は反射のようにびくんとはねた。驚いて振り返ると、自分ぐらいの体型の女がいて、その姿を見た途端、自分はもう一度目を見開くことになる。
だってその容姿は、“私”と呼ぶに相応しく完璧に、自分と同じだったのだから。
こうして私と自分は出会い、話は冒頭へ戻るのである。
*
昔々私はクローン人間として生まれ、しかるべき月日が経った後人形となり、今此処にいる。
そういう何処かで読んだことがあるような話を延々と聞かされ、自分の気分は最高に悪かった。
さっきまで見ず知らずの赤の他人だった人の過去なんか聞いて、何処が面白いのだ? 同情をもらいたいのか? と、いうか内容に信憑性がなさ過ぎる。クローン人間が人形になるとかあり得ない。意味が分からない、そもそも人形って何だと昔と同じく心の中で毒づいていると、
「何? 文句でもあるの?」
それを見透かしたように私がすかさず突いてくる。ええ、大ありですよ、と言えないのは何故か。
「まあいいわ。どうせ、あたしの話を聞くのが退屈で退屈で仕方が無いんでしょ? 分かるわ、それぐらい」
無言の返答を察し、私はもう一度にやりと笑う。
「同じ顔を持つ相手よ? 分からないはずが無いでしょ」
「な、何で分かるんですか?」
そう腑抜けた声で自分が答えると、私はふふふ、と気に障る笑声を漏らしてから続けた。
「どんな感情の時にどんな表情をするか。それが筒抜けって事でしょ? 顔面が同じって事は。同じ筋肉に司令が行くんだもの。分からないはず無いじゃない」
あんたはそんな事も分からない馬鹿なの? とむかつく一言も添えて。
「しょ、初対面で言うことじゃないですよね」
「初対面? あんた正気で言ってるの? だったら、本当にあんたは馬鹿ね。三年前と何も変わらない。いくらあたしでも、こんな事、初めて会った人には言わないわよ。同じ顔を持っている、そして旧知の仲――これはちょっと違うわね――、会った記憶がある、あんただから言ってるのよ」
この意味、わかる? と意味深に輝く目が続けていて、気味が悪い。
少しの静寂の間に記憶の糸を辿ってみたけれど、自分と同じ顔を持つ人とは会ったことがない。そんなものを持つ人なんて、見たら忘れるはずがないから、本当に自分と私は初対面なのだろう。じゃあ、誰なのだ?
「分からないの? これだけヒントを落としているのに? ホント、あんたってつくづく馬鹿ね」
そう言いながらやれやれという風に私は椅子を離れ、すぐ近くにあるベッドに腰を下ろした。
「どうしたら分かるかしら。うーんと、分かった」
少しも考えてないようにそう言って、また意地悪そうに笑う。そして次の瞬間、自分の書き記したくないような――と言いながらすでに書いている――三年前の、彼女と自分しか知らない事件を、立て板に水のように喋りだした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。何を話してるんですか、っていうか何で」
「何で、って言われたら『さあ』って答えるしかないんだけど。あんたと“彼女”が出会ったときの記憶をもっているから、としか言えないわ」
「……、えっ?」
今、私はなんと言ったのだ。
「正直、自分でもよく分からないんだよね。さっき話した記憶が元々あって、人形にされたときに“彼女”とあんたの云々がぶちこまれた、と解釈してるんだけど。分かる?」
分からないよね~、と馬鹿にしたように言いながら私は思いっきりのびをし、そのままベッドに倒れ込んだ。
癪だが、私の話が全く理解できない。つまり私はクローン人間でありながらオリジナルの記憶を持っていて、その後人形にされて彼女と自分の事件のあらましを埋め込まれた、ということなのか。まとめるとさらに奇怪だ。
「ねえ」
さっきの元気は何処へ行ったのかというぐらい、低く疲れたような声で話しかけられて、少し驚いた。
「あんたは“地球が五分前にできました”って仮説、知ってる?」
「知ってるって……。話飛びすぎですよ」
「まあいいじゃない。で、知ってるの?」
「い、一応。地球が五分前にできた、という仮説を否定することは誰にもできない、ってやつですよね」
昔本で読んだ記憶がある。が、その話と今の会話の共通点がさっぱりわからない。
「そういうこと。あたしの頭の中は、そういうもの」
「そういうものって……」
「どれが最初で、どれが今で、どれが元々で、っていうこと全てがあやふやで、不安定。確証が無くて、本当が、分からない」
意味が分からないですよ、と言いかけたが、辞める。すやすやと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてきたからだ。
言いたいことだけ言って、こっちの返答は聞かない。なんて都合の良い奴なのだ。しかもそれが自分と同じ顔で、そして中身が彼女で。滑稽にも程がある。
ざわざわと五月蠅い心を抱えながら、自分は重たい鞄から一冊のノートを取り出した。ぱらぱらとページをめくると、いつでも三年前の時間が戻って来るようで感慨深い。
その白紙のページに、今日在ったことを書き記していく。
もうお察しだろうが、それが、これである。
***
夢を見た。呪いだと思った。自分が過去を語らなかった罰だ。
「朝って気がしないわね。星空は、夜に少し見上げるためにあったことがようやく分かったわ」
隣でのびをしながらそう言う私に、早口で伝える。
「分かった話せば良いんですよね話しますよ」
「ど、どうしたの……?」
寝起きでまだ頭が働いていないのか、昨日よりものんびりとした口調でそう言われても、一方的に過去は自分の中で暴走し続ける。
「昨日話さなかった祟りが来たんですよ」
きっと意味不明な言葉として私の目に映っているに違い無い。
「はぁ?」
「話しますよ自分の過去。話せば去ってくれるはずです」
*
自分が私に話したのは、悪夢の話だ。もうとんでもない色に塗りつぶされてしまったそれを、内側から絞り出すように言葉にしていった。
彼女に会う前、自分は何もかも全て諦めていた。別に彼女が自分を良い方向に変えたわけではない。諦めることを諦めるきっかけになっただけだ。
そうなる前。諦める前、自分は何をしていたのかと言えば、今よりももっと社交的で前向きに日々を送っていた。いや、どちらも「そうならねばならなかった」と言う方が適切である。別に自分は好きでそうなったのではない。肩書きが社長令嬢――それも大企業の――であったため、会社に、社長に恥をかかせないように「感じの良い娘」でいなければならなかっただけだ。貼り付けただけの笑顔と偽物の性格。それらを振り回してご機嫌を取り、同じような地位の自称淑女達と世間話を交わし、何の面白味も無い日々を送っていた。
そんな生活の中、自分の気をもっとも悪くしていたのは、会社が何をしているのかを全く教えてもらえないことだった。そのことを何度か抗議しようと思ったが、どうせ説き伏せられるのがオチだし、と諦め言わなかった。実際、弟が訊きにいったら顔に痣を作って帰ってきたから、それは絶対に触れてはならない機密だったのだろう。
いや、知らされていなくてよかったと今は思う。父母の判断は適正だった。まあ、先に教えてもらった方がショックは小さかったと考えないこともないが、そこは本題ではないだろう。
ある日、一本の電話が入った。今でもよく覚えているが、両親も弟もいない冬の日の午後のことだった。枯れ木の短い陰が部屋中に入り込み、鳴り響く固定電話を指差していた。ルルルル、と継続して鳴る音を早く止めたくて、電話のある部屋に向かい、受話器を取った。
「もしもし」
自分がそう出ても、相手は何も言わなかった。間違い電話かな、と思ってもう一度ふざけた様に繰り返した。
「もしもーし」
「これはこれは。お元気なお嬢さんだ」
渋くしゃがれた声がいきなり聞こえてきて、びっくりして受話器を耳から遠ざけた。低い男の声。明らかに大人だ。
「えっ、どなた、ですか……?」
「おっと、これは失礼。子供といえど淑女(レディ)であるのに、名乗らずに話を続けようとは、無礼にも程がある。こんなふがいないわたくしをお許しください。だがしかし、それは無理なお話」
相手は少しおどけた様にそう答えて、ひとつ、咳払いをした。
「お嬢さん、これから話すことは親御さんに言ってはいけないよ。言ったらどうなるか、分かっているかい?」
脅しだ。どう考えても、どんなやさしい口調で話していても、今、この人は自分を恫喝している。
「君のご両親に恨みがあるんだよ。そのとばっちりをお嬢さん――君に受けてもらおうという魂胆なんだ。そんな相手に名を名乗るほど、私は慈悲深い人間ではないからねえ」
ふふっ、と気味の悪い薄笑いが続いて、さっきのようにこの声を遮断しようとしたけれども、自分の身体は膠着していて何もできなかった。
「君は知っているかい? 君の父母は何をして毎日食べているのか、その方法」
「い、いいえ……」
尻すぼみになっていく返事に、自分の性格が全て表れている。切ってしまえば良かったのにと思うが、今の自分が同じ状況になってもそうできる自信がない。
「そうだろう。そんな事を子供に教えるようだったらもっと卑劣な叩き方ができるんだけどねえ。まあいい。待っていなさい。そこで三分ほど、待っていなさい」
そう言って相手は黙り、自分はただその場で呆然と立ち尽くすしか無かった。
嫌な時間ほど長く感じると言うが、その通りである。自分にとってその瞬間は、即席麺が出来上がるタイミングを通り過ぎ、冷めて不味くなるまでにかかる時間ほど長く感じられた。
突如、ジジジ、と無機質な機械音が響き、足下に紙が一枚落ちてきた。何だろうと思い拾ってみると、そこには艶々とした髪と、開けば妖艶な光を携えるだろう目、唇を持ったフランス人形の如く整った容姿の人が何かの液に浸っている様子が写っていた。
「そろそろ届いた頃合いだろう。お嬢さんは、その写真の意味が分かるかい?」
いきなり仕事を中断していた受話器が機能を取り戻し、からかっているのか試しているのか微妙な声が放出された。
「いいえ……。全く、分からない、です」
「やはりそうか。……、お嬢さんは『クローン人間』って言葉を知っているかい?」
「な、名前、ぐらいなら……」
おどおどと答える自分の後に、耳元の声は余裕を持って響く。
「そうだろう。もうそんな物は一般常識と化しているんだからね。おや、名前だけということは、その本質を知らない、ということかい」
それは困った物だねえ、と相手は思ってもいないことをさらりと言ってのけ、続ける。
「お嬢さんにも分かるように言い換えると、元の人の双子を他人が作り出す、ということになる訳なんだけれども。理解できたかい?」
「はい……」
元からそんな事は知っていた、と言えなかったのは何の所為か。
「この話から分かっただろう。その子は、その物はクローン人間で、作ったのは君の両親だよ。故にオリジナルはこの地球のどこかにいる。此処までは別に悪いことじゃ無い」
「えっ?」
何故だ。この人はこれを使って自分に脅しをかけているはずじゃ無かったのか。
「昔、いや、大昔ならそれは大罪だった。大罪といっても、宝くじを当てるか、十年ぐらいの日々を棒に振ったら許されるぐらいの重さだけどね。ま、普通に考えて、人徳外れの大馬鹿者として世間から疎外され、社会生活が送れないほど人権を損害されるぐらいの痛手は負うだろうけど」
まあ、そこは重要じゃないね、と結構重大なことを全くそうでないかのように男は言った。
「でも、今は違う。どこかの誰かが考えついたかも分からないような理由で、政府は、世界はそれを肯定したんだ。何か分かるかい? 分からないよねえ」
馬鹿にするような言葉の後、クツクツと気に障る嗤い声が続いて、さらに苛々した。
「それを戦争に、兵器として使うようになったんだ。いや、まだ使っていないけれども、そういう使用目的がある事に気付いた、と言う方が正確だねえ。人間じゃ無い、『物』として見られるもの同士を戦わせるのだったら、最悪の人権侵害と呼ばれる戦争も、誰も被害を受けないただのゲームと化す、ということだ。だって彼らには元々人権なんて存在しないのだから」
「でも……、双子だったらその二人の思考回路は全然違うし、それに、クローンって言ってもオリジナルとは別人ですよね……。なら、人権はあるんじゃないですか」
「それは私に言ってもらっても困るねえ。過去の人達が決めた結論だから、文句を言うなら彼らに言いなさい。多分、彼らはそれに、“人が人を作ることの何処が悪い。突き詰めていけば自然な妊娠と科学的に人を生み出すということに何も違いは無いじゃないか。後、作った者がその物の価値を決めるのだから、俺らが物と言えば物だ”という理由を付けたような記憶があるけれど、外見が同じ人を人工的に作り出すのとオリジナルの顔を持った人を生み出すのとでは、月とすっぽんほどの差がある気がするね。でも、今重要なのはそこじゃない。別の所だ。その発言は逃げにしか取れないけれど、いいのかい?」
どこが良くて、どの辺りが逃げなのかがさっぱりだが、とりあえず、そこは流しておくことにした。
「今までの話は“ただクローン人間を作るだけなら罪にはならない”と昔の人が決めた、という、ただそれだけの話だ。でも、君の両親はそれ以外の罪を犯しているんだよ」
冷たく低く響く余韻に、背筋から首筋に悪寒が走った。と、同時にもう一度、暗い床に一枚の紙が落ちてきた。
「見てごらん。見てみなさい、それを、じっくりと」
言われる前から嫌と言うほど見ていた。じっと懇願するようにどこかを見つめる瞳。何か透明な筒の様な物を背景に立ち映る姿は、どこからどう見ても。
「君だろう。そこに立っているのは、君と同じものだ」
紙を拾った瞬間取り落とした受話器は冷酷に事実を告げ、高笑いするように続ける。
「本当に君と同じかどうか確かめるため、それにも電話を掛けてみたよ。私が無言でいると、さっきの君みたいにふざけた調子で『もしもーし』なんてぬかしやがった。それに、もう電話に出られた事自体がその証明になる。生まれたての赤ちゃんが受話器を持って話すなんて、あり得る訳が無いじゃないか」
男がそう言った声の下からもう一枚、地獄絵が送られてきた。
「そうそう、さっきの子もそうだけど、今送ったものも同じ、オリジナルの記憶を持ったクローンだ」
*
「それが弟のクローンだった、ってわけね」
私は百も承知の事実を確認するようにそう言った。
「な、何で分かるんですか」
何度目か分からない台詞を自分が伝え終わったら、私の顔はくるりと晴天に変わる。
「これ、確認だったのよ。あたしがあんたの記憶を持っているということが正しいのか、試していたの」
「え……、えっ」
外見以外に、中身まで一緒なのか。いや、それでは何故彼女と自分の過去を知っていたのだ。
「あたしはあんたの過去も、“彼女”の過去も知っている。これで、疑問とはおさらばでしょ?」
無理がありすぎる。それで同意する人は思考回路がこいつと同じようにぶっ飛んでいる人に違い無い。
「あたしの名前はヘリオス。人形よ。よろしく」
脈絡を堂々と無視して私は名乗った。それに則って自分の名を口にしかけると、
「あんたは言わなくていい」
と遮られた。意味が分からずに少しむっとした顔で私――もといヘリオスを見ると、
「人間相手に名前を訊くなんて、失礼にも程があるわ。だって、あなたたちは個性があるから、識別するための名前なんていらないもの」
「はあ?」
さっきから話が逸れっぱなしだ。名前を名乗らなくて良い理由なんてあるのか。と、いうか自分に付いているのを全否定されたのと同じではないのか。
「名前っていうものは、識別するためにあるんでしょ。誰が誰だか分からないから、名前を付けて区別する。それは、個性がない物に付けるためにあるのよ」
「個性がないって、人間に名前は付いていますよ」
話がずれているが、一応気になったところを言ってみた。
「それは名前の必要性が無いことを忘れているだけよ。一人ひとり別の中身と外見を持っていることを本当は分かっているはずなのに、名前を付けた所為でごっちゃになってしまっているだけ。そんなものが無くても生活できるのに」
「訳分かりませんよ」
「要はあんた達に名前は必要無い。それはあたし達人形とかのものだ、と言いたいわけ」
そんなことも分からない馬鹿なの、と高飛車に言って、ヘリオスは立ち上がり、仁王立ちの姿勢になった。
「何て偉そうな恰好しているんですか」
「何よ、文句在るの?」
「理論的の対局にある話を聞かされて、しかも途中で話を逸らされて苛々しない人はいませんよ。それに、人形って何ですか人形って」
「人形の説明なんている?」
「いりますよ」
心底不思議に思っている様な口調で尋ねるヘリオスに、何を言っているのだと呆れながら返事をした。
「したつもりでいたんだけどな。してなかったっけ」
「してませんよ。一体、誰に話したんですか」
「自分がされたからした気になってただけか。分かった。話せば良いんでしょ、話せば」
そういって渋々話し出したが、話はすぐに遮られてしまう。
ヘリオスが口を開くと同時に、計ったように隣の壁が鈍い音を出した。その直後に鋭い悲鳴が発され、自分たちの鼓膜を激しく震わし、立っていたヘリオスは驚いて尻餅をつき、自分は目を見開いてその声が出された方を見た。見えるのは真っ白な壁だけだが、何故か自分にはそれが少し暗い色に染まっている様に見えた。外に広がる漆黒の空の所為なのだろうか。
「行きましょう」
すくっと立ち上がった後、凛とした声でヘリオスは言った。
「隣の部屋、彼女よ」
「そうなんですか?」
「この部屋に入ってくるとき、向こうが隣の部屋に入る所を見たもの。間違いないわ」
宣言するように言い終わると、くるりと身を翻して自分の方を見た。
「ねえ、ヘイムダルって人、知ってる?」
「い、いいえ」
この緊急時に何を言い出すのだ。
「知らないか。じゃあ、ラグナロクは?」
「確か、北欧神話で世界の終わりの日、ですよね」
「そう。ヘイムダルって人がそれを告げたのだけれども、まあ、そこは重要じゃないの」
じゃあ何故言ったと言いたいが、これ以上話が長くなっても困る。
「冬が三度訪れ、人は息絶えた。その後、太陽と月が飲み込まれ、彼はそれを告げなければならなくなった。ね、これを言い換えると何になると思う?」
「知りませんよ。とにかく行きましょうよ」
こんな脈絡が崩壊している話を聞くよりかは、悲鳴の聞こえた彼女の部屋に行きたかった。
「まあ、ちょっと待って。そんなに急いでも状況が変わるわけでは無いんだから。あたしは、太陽が無くなってしまったから、ようは朝が来なくなったから、と解釈してみるの」
「だからなんだって言うのですか。別に今、ラグナロクが来た訳ではないんですから、そんな話、しなくて良いんじゃないんですか」
とりあえず、隣の部屋に行きたい。
「違うの。今、ラグナロクが来ているのよ。丁度、隣の部屋に」
「ええっ?」
何故見てもいない隣室の状況が分かるのだ。超能力者でも無いくせに。
「さっきの悲鳴がその笛となり、“彼女”の元にラグナロクは訪れているのよ」
「何を言っているんですか。幻影が見えるのなら精神安定剤でも飲んでください。とりあえず、行きましょうよ」
「彼女は、今、終わったのよ。そんなところ、見たい?」
この場に及んで、まだそんな事を言っているのか。馬鹿ではないのか。
「行きたくないなら、自分一人で行きますよ」
「違うんだってば、あたしが言いたいことは。そうじゃ無くって、ラグナロクの後には太陽が必要だから、それになってやろうっていう話なのよ」
「だから訳が判りませんって」
さすがにむかつき、はき捨てるように言っても、ヘリオスは話をやめようとしない。
「何でそんなに急かすのよ。別に急がなくても朝は来ないわ。だって、あの部屋には太陽が無いもの」
苛々する。そして勝手に外に出られない自分の足にも苛々する。
「ふざけないで下さい。行きますよ」
「自分の名前はギリシャ神話の太陽なのよ」
「だからどうだって言うんですか」
「はあ。もういいわ」
さも仕方が無いように話を切ったヘリオスは、そのまま足を扉の方に向け、自分も慌ててその後に付いていった。重たい扉を開けると、誰もいない冷たい廊下が広がっていて、吹くはずのない風が足下をかすっていった錯覚までし、その冷たさが苛々を消していく気がした。ヘリオスが一歩踏み出すのに続けて、自分も廊下に出て行く。数歩で辿り着いた隣室のドアから、すすり泣きのような声が漏れだしていた。
「開けるわよ」
その声が合図になった。
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***
書き手が真実を語ることの奇跡を、思い知るべきだ。
***
「過去を語りましょうよ。そうね、それがいいわ」
いきなり現れた私は、そう言うとスカートのプリーツを気にしながら部屋に備え付けられた椅子に座り、足を組んだ。
外は変わらず回る満天の星。
それと同じように、自分の頭の中で混乱が踊る。
「あんたから、って言うのも酷だわね。こういうのは言い出しっぺが先にやるべきものだもの。分かった」
自分は何も話していないのに、勝手に自己完結させた私は艶めかしく口角を上げ、笑った。その声が全く自分と同じにも拘わらず、全然違う余韻を残すそれに、少しの目眩を覚えた。
その間。ぐるぐると回る意識の中で自分は私に出会う前の日々を走馬灯の様にめくり、また気分が悪くなる。
彼女の居ない平穏な日々が続いて、また今日もそうなると思っていたのに。
「じゃあ、始めるわ」
彼女は、そんなことを許しはしないようだ。
*
これでは何が何だか分からない。自分で読んでそうなのだから、全くの他人である読者諸君には分かるはずはないだろう。誠に申し訳ない。まあ、こんなぼろの日記をほじくり返そうなんていう変わった趣味のお方だ。これぐらい、目をつぶってくれるだろう。
三年前、自分は彼女と出会い、自称事件に巻き込まれたが、詳細を書くことは控えておく。前項を読んでいただければ済む話だ。
問題なのはその後。私と出会うその前。別に空白にしておけば良いような気もするが、一応、書いておくことにする。
自分は彼女と出会った後、また転校した。いや、違う星に移住して否応無く学校も変わった、と書く方が正しい気がする。世界戦争が勃発したのだ。
宣戦布告されたのは、彼女と出会った直後、木枯らしが吹き荒れる冬の日だった。冷たく刺さる北風と五月蝿いテレビの音が手を組んで自分の耳を殺しに来たのかと思った記憶がある。実際、戦争というものは敵国から「殺人鬼が送られてくる」と言い換えても良いぐらいだから、この表現はあながち間違ってもいない気もするけれど、人に殺されるのと音にそうされるのだったらどちらが惨めか分かりそうなものだ。
話を戻そう。突然の布告に大人たちは驚いたものの、火事場の馬鹿力というかなんと言うか、国民を戦の火の手から救い、かつ勝敗もつくという得策を思いついた。それが今現在の状況である地球を戦場とし、民間人を別の星へ移住させるというもので、そうするための準備期間として三年間の年月を国民に与えた。移住すると会えなくなる人とかに会っておけとか、地球で死にたいなら今のうちに死んでおけ、と言いたかったのだという風に自分は解釈しているが、本当の所は知らない。その後の地球の様子を詳細に書くことは控えておく。と、いうより本当に知らず、またこの事については別の誰かが記していそうな気がするのだ。
もちろん自分は移住した。拒否権などないし、自分の一生を鉛球に捧げることなんぞ御免だった。他の人々も同じ意見で、その中に彼女も含まれていた。
かくして、地球には戦争を行う人と物だけが残り、戦場と化した地上に生える草木は無く、完全な荒野となったのだ。
そして、移住先の星である。そこでは小さな諍いさえ起こらず、ことは順調に進んでいる。移住する前に綿密に計画が練られたからか、未だに不満の声は出ず、人々は平穏に暮らしている。いや、自分以外は。
可笑しくないか、といつも思っていた。なぜ皆この状況に疑問を持たないのか。何故、受け入れるのか。星空しか広がらない頭上、離れる人々、変わりすぎる環境。なのに、皆、納得して受け入れている。何故だ?
ざわつく心を抱えながら、とりあえず日々を送った。新たな学校へ通うまでの短い準備期間があり、自分は黙々とその時間を消費していった。両親に勝手に決められた学校は、またあの時と同じ寮制だった。何か可笑しな予感がしなかったといえば嘘になるが、そこまで気にすることは無いと軽く流してしまった。
そして、そんなこんなで学校へ行く日は来た。入学式やそういう行事独特の興奮に辺りは包まれていたが、一人、冷めた心で出席する自分の頭の中にそれは入ってこず、代わりに彼女のようなルームメイトではないようにという願望がずっと渦巻いていた。無駄骨以外の何物でもない。
式が終わった後、自分は寮室に向かった。ずんずんと進むにつれて重くなる足が、やっぱりこの後待ち受けていることが良くないことであると告げていた。まあ、今更何を言っても仕方が無いのだけれど。
嫌々開けた扉の向こうに広がった景色は、前の学校とまったく同じ内装で、窓からは見飽きた星空が広がっていた。誰もいない室内はがらんとしていて、なぜだか見ていると心がさらに空になるような気がした。そんな光景に嫌気がさし、ふうっと溜め息を吐いた瞬間。後ろのドアが勢いよく開け放たれた音がして、自分の体は反射のようにびくんとはねた。驚いて振り返ると、自分ぐらいの体型の女がいて、その姿を見た途端、自分はもう一度目を見開くことになる。
だってその容姿は、“私”と呼ぶに相応しく完璧に、自分と同じだったのだから。
こうして私と自分は出会い、話は冒頭へ戻るのである。
*
昔々私はクローン人間として生まれ、しかるべき月日が経った後人形となり、今此処にいる。
そういう何処かで読んだことがあるような話を延々と聞かされ、自分の気分は最高に悪かった。
さっきまで見ず知らずの赤の他人だった人の過去なんか聞いて、何処が面白いのだ? 同情をもらいたいのか? と、いうか内容に信憑性がなさ過ぎる。クローン人間が人形になるとかあり得ない。意味が分からない、そもそも人形って何だと昔と同じく心の中で毒づいていると、
「何? 文句でもあるの?」
それを見透かしたように私がすかさず突いてくる。ええ、大ありですよ、と言えないのは何故か。
「まあいいわ。どうせ、あたしの話を聞くのが退屈で退屈で仕方が無いんでしょ? 分かるわ、それぐらい」
無言の返答を察し、私はもう一度にやりと笑う。
「同じ顔を持つ相手よ? 分からないはずが無いでしょ」
「な、何で分かるんですか?」
そう腑抜けた声で自分が答えると、私はふふふ、と気に障る笑声を漏らしてから続けた。
「どんな感情の時にどんな表情をするか。それが筒抜けって事でしょ? 顔面が同じって事は。同じ筋肉に司令が行くんだもの。分からないはず無いじゃない」
あんたはそんな事も分からない馬鹿なの? とむかつく一言も添えて。
「しょ、初対面で言うことじゃないですよね」
「初対面? あんた正気で言ってるの? だったら、本当にあんたは馬鹿ね。三年前と何も変わらない。いくらあたしでも、こんな事、初めて会った人には言わないわよ。同じ顔を持っている、そして旧知の仲――これはちょっと違うわね――、会った記憶がある、あんただから言ってるのよ」
この意味、わかる? と意味深に輝く目が続けていて、気味が悪い。
少しの静寂の間に記憶の糸を辿ってみたけれど、自分と同じ顔を持つ人とは会ったことがない。そんなものを持つ人なんて、見たら忘れるはずがないから、本当に自分と私は初対面なのだろう。じゃあ、誰なのだ?
「分からないの? これだけヒントを落としているのに? ホント、あんたってつくづく馬鹿ね」
そう言いながらやれやれという風に私は椅子を離れ、すぐ近くにあるベッドに腰を下ろした。
「どうしたら分かるかしら。うーんと、分かった」
少しも考えてないようにそう言って、また意地悪そうに笑う。そして次の瞬間、自分の書き記したくないような――と言いながらすでに書いている――三年前の、彼女と自分しか知らない事件を、立て板に水のように喋りだした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。何を話してるんですか、っていうか何で」
「何で、って言われたら『さあ』って答えるしかないんだけど。あんたと“彼女”が出会ったときの記憶をもっているから、としか言えないわ」
「……、えっ?」
今、私はなんと言ったのだ。
「正直、自分でもよく分からないんだよね。さっき話した記憶が元々あって、人形にされたときに“彼女”とあんたの云々がぶちこまれた、と解釈してるんだけど。分かる?」
分からないよね~、と馬鹿にしたように言いながら私は思いっきりのびをし、そのままベッドに倒れ込んだ。
癪だが、私の話が全く理解できない。つまり私はクローン人間でありながらオリジナルの記憶を持っていて、その後人形にされて彼女と自分の事件のあらましを埋め込まれた、ということなのか。まとめるとさらに奇怪だ。
「ねえ」
さっきの元気は何処へ行ったのかというぐらい、低く疲れたような声で話しかけられて、少し驚いた。
「あんたは“地球が五分前にできました”って仮説、知ってる?」
「知ってるって……。話飛びすぎですよ」
「まあいいじゃない。で、知ってるの?」
「い、一応。地球が五分前にできた、という仮説を否定することは誰にもできない、ってやつですよね」
昔本で読んだ記憶がある。が、その話と今の会話の共通点がさっぱりわからない。
「そういうこと。あたしの頭の中は、そういうもの」
「そういうものって……」
「どれが最初で、どれが今で、どれが元々で、っていうこと全てがあやふやで、不安定。確証が無くて、本当が、分からない」
意味が分からないですよ、と言いかけたが、辞める。すやすやと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてきたからだ。
言いたいことだけ言って、こっちの返答は聞かない。なんて都合の良い奴なのだ。しかもそれが自分と同じ顔で、そして中身が彼女で。滑稽にも程がある。
ざわざわと五月蠅い心を抱えながら、自分は重たい鞄から一冊のノートを取り出した。ぱらぱらとページをめくると、いつでも三年前の時間が戻って来るようで感慨深い。
その白紙のページに、今日在ったことを書き記していく。
もうお察しだろうが、それが、これである。
***
夢を見た。呪いだと思った。自分が過去を語らなかった罰だ。
「朝って気がしないわね。星空は、夜に少し見上げるためにあったことがようやく分かったわ」
隣でのびをしながらそう言う私に、早口で伝える。
「分かった話せば良いんですよね話しますよ」
「ど、どうしたの……?」
寝起きでまだ頭が働いていないのか、昨日よりものんびりとした口調でそう言われても、一方的に過去は自分の中で暴走し続ける。
「昨日話さなかった祟りが来たんですよ」
きっと意味不明な言葉として私の目に映っているに違い無い。
「はぁ?」
「話しますよ自分の過去。話せば去ってくれるはずです」
*
自分が私に話したのは、悪夢の話だ。もうとんでもない色に塗りつぶされてしまったそれを、内側から絞り出すように言葉にしていった。
彼女に会う前、自分は何もかも全て諦めていた。別に彼女が自分を良い方向に変えたわけではない。諦めることを諦めるきっかけになっただけだ。
そうなる前。諦める前、自分は何をしていたのかと言えば、今よりももっと社交的で前向きに日々を送っていた。いや、どちらも「そうならねばならなかった」と言う方が適切である。別に自分は好きでそうなったのではない。肩書きが社長令嬢――それも大企業の――であったため、会社に、社長に恥をかかせないように「感じの良い娘」でいなければならなかっただけだ。貼り付けただけの笑顔と偽物の性格。それらを振り回してご機嫌を取り、同じような地位の自称淑女達と世間話を交わし、何の面白味も無い日々を送っていた。
そんな生活の中、自分の気をもっとも悪くしていたのは、会社が何をしているのかを全く教えてもらえないことだった。そのことを何度か抗議しようと思ったが、どうせ説き伏せられるのがオチだし、と諦め言わなかった。実際、弟が訊きにいったら顔に痣を作って帰ってきたから、それは絶対に触れてはならない機密だったのだろう。
いや、知らされていなくてよかったと今は思う。父母の判断は適正だった。まあ、先に教えてもらった方がショックは小さかったと考えないこともないが、そこは本題ではないだろう。
ある日、一本の電話が入った。今でもよく覚えているが、両親も弟もいない冬の日の午後のことだった。枯れ木の短い陰が部屋中に入り込み、鳴り響く固定電話を指差していた。ルルルル、と継続して鳴る音を早く止めたくて、電話のある部屋に向かい、受話器を取った。
「もしもし」
自分がそう出ても、相手は何も言わなかった。間違い電話かな、と思ってもう一度ふざけた様に繰り返した。
「もしもーし」
「これはこれは。お元気なお嬢さんだ」
渋くしゃがれた声がいきなり聞こえてきて、びっくりして受話器を耳から遠ざけた。低い男の声。明らかに大人だ。
「えっ、どなた、ですか……?」
「おっと、これは失礼。子供といえど淑女(レディ)であるのに、名乗らずに話を続けようとは、無礼にも程がある。こんなふがいないわたくしをお許しください。だがしかし、それは無理なお話」
相手は少しおどけた様にそう答えて、ひとつ、咳払いをした。
「お嬢さん、これから話すことは親御さんに言ってはいけないよ。言ったらどうなるか、分かっているかい?」
脅しだ。どう考えても、どんなやさしい口調で話していても、今、この人は自分を恫喝している。
「君のご両親に恨みがあるんだよ。そのとばっちりをお嬢さん――君に受けてもらおうという魂胆なんだ。そんな相手に名を名乗るほど、私は慈悲深い人間ではないからねえ」
ふふっ、と気味の悪い薄笑いが続いて、さっきのようにこの声を遮断しようとしたけれども、自分の身体は膠着していて何もできなかった。
「君は知っているかい? 君の父母は何をして毎日食べているのか、その方法」
「い、いいえ……」
尻すぼみになっていく返事に、自分の性格が全て表れている。切ってしまえば良かったのにと思うが、今の自分が同じ状況になってもそうできる自信がない。
「そうだろう。そんな事を子供に教えるようだったらもっと卑劣な叩き方ができるんだけどねえ。まあいい。待っていなさい。そこで三分ほど、待っていなさい」
そう言って相手は黙り、自分はただその場で呆然と立ち尽くすしか無かった。
嫌な時間ほど長く感じると言うが、その通りである。自分にとってその瞬間は、即席麺が出来上がるタイミングを通り過ぎ、冷めて不味くなるまでにかかる時間ほど長く感じられた。
突如、ジジジ、と無機質な機械音が響き、足下に紙が一枚落ちてきた。何だろうと思い拾ってみると、そこには艶々とした髪と、開けば妖艶な光を携えるだろう目、唇を持ったフランス人形の如く整った容姿の人が何かの液に浸っている様子が写っていた。
「そろそろ届いた頃合いだろう。お嬢さんは、その写真の意味が分かるかい?」
いきなり仕事を中断していた受話器が機能を取り戻し、からかっているのか試しているのか微妙な声が放出された。
「いいえ……。全く、分からない、です」
「やはりそうか。……、お嬢さんは『クローン人間』って言葉を知っているかい?」
「な、名前、ぐらいなら……」
おどおどと答える自分の後に、耳元の声は余裕を持って響く。
「そうだろう。もうそんな物は一般常識と化しているんだからね。おや、名前だけということは、その本質を知らない、ということかい」
それは困った物だねえ、と相手は思ってもいないことをさらりと言ってのけ、続ける。
「お嬢さんにも分かるように言い換えると、元の人の双子を他人が作り出す、ということになる訳なんだけれども。理解できたかい?」
「はい……」
元からそんな事は知っていた、と言えなかったのは何の所為か。
「この話から分かっただろう。その子は、その物はクローン人間で、作ったのは君の両親だよ。故にオリジナルはこの地球のどこかにいる。此処までは別に悪いことじゃ無い」
「えっ?」
何故だ。この人はこれを使って自分に脅しをかけているはずじゃ無かったのか。
「昔、いや、大昔ならそれは大罪だった。大罪といっても、宝くじを当てるか、十年ぐらいの日々を棒に振ったら許されるぐらいの重さだけどね。ま、普通に考えて、人徳外れの大馬鹿者として世間から疎外され、社会生活が送れないほど人権を損害されるぐらいの痛手は負うだろうけど」
まあ、そこは重要じゃないね、と結構重大なことを全くそうでないかのように男は言った。
「でも、今は違う。どこかの誰かが考えついたかも分からないような理由で、政府は、世界はそれを肯定したんだ。何か分かるかい? 分からないよねえ」
馬鹿にするような言葉の後、クツクツと気に障る嗤い声が続いて、さらに苛々した。
「それを戦争に、兵器として使うようになったんだ。いや、まだ使っていないけれども、そういう使用目的がある事に気付いた、と言う方が正確だねえ。人間じゃ無い、『物』として見られるもの同士を戦わせるのだったら、最悪の人権侵害と呼ばれる戦争も、誰も被害を受けないただのゲームと化す、ということだ。だって彼らには元々人権なんて存在しないのだから」
「でも……、双子だったらその二人の思考回路は全然違うし、それに、クローンって言ってもオリジナルとは別人ですよね……。なら、人権はあるんじゃないですか」
「それは私に言ってもらっても困るねえ。過去の人達が決めた結論だから、文句を言うなら彼らに言いなさい。多分、彼らはそれに、“人が人を作ることの何処が悪い。突き詰めていけば自然な妊娠と科学的に人を生み出すということに何も違いは無いじゃないか。後、作った者がその物の価値を決めるのだから、俺らが物と言えば物だ”という理由を付けたような記憶があるけれど、外見が同じ人を人工的に作り出すのとオリジナルの顔を持った人を生み出すのとでは、月とすっぽんほどの差がある気がするね。でも、今重要なのはそこじゃない。別の所だ。その発言は逃げにしか取れないけれど、いいのかい?」
どこが良くて、どの辺りが逃げなのかがさっぱりだが、とりあえず、そこは流しておくことにした。
「今までの話は“ただクローン人間を作るだけなら罪にはならない”と昔の人が決めた、という、ただそれだけの話だ。でも、君の両親はそれ以外の罪を犯しているんだよ」
冷たく低く響く余韻に、背筋から首筋に悪寒が走った。と、同時にもう一度、暗い床に一枚の紙が落ちてきた。
「見てごらん。見てみなさい、それを、じっくりと」
言われる前から嫌と言うほど見ていた。じっと懇願するようにどこかを見つめる瞳。何か透明な筒の様な物を背景に立ち映る姿は、どこからどう見ても。
「君だろう。そこに立っているのは、君と同じものだ」
紙を拾った瞬間取り落とした受話器は冷酷に事実を告げ、高笑いするように続ける。
「本当に君と同じかどうか確かめるため、それにも電話を掛けてみたよ。私が無言でいると、さっきの君みたいにふざけた調子で『もしもーし』なんてぬかしやがった。それに、もう電話に出られた事自体がその証明になる。生まれたての赤ちゃんが受話器を持って話すなんて、あり得る訳が無いじゃないか」
男がそう言った声の下からもう一枚、地獄絵が送られてきた。
「そうそう、さっきの子もそうだけど、今送ったものも同じ、オリジナルの記憶を持ったクローンだ」
*
「それが弟のクローンだった、ってわけね」
私は百も承知の事実を確認するようにそう言った。
「な、何で分かるんですか」
何度目か分からない台詞を自分が伝え終わったら、私の顔はくるりと晴天に変わる。
「これ、確認だったのよ。あたしがあんたの記憶を持っているということが正しいのか、試していたの」
「え……、えっ」
外見以外に、中身まで一緒なのか。いや、それでは何故彼女と自分の過去を知っていたのだ。
「あたしはあんたの過去も、“彼女”の過去も知っている。これで、疑問とはおさらばでしょ?」
無理がありすぎる。それで同意する人は思考回路がこいつと同じようにぶっ飛んでいる人に違い無い。
「あたしの名前はヘリオス。人形よ。よろしく」
脈絡を堂々と無視して私は名乗った。それに則って自分の名を口にしかけると、
「あんたは言わなくていい」
と遮られた。意味が分からずに少しむっとした顔で私――もといヘリオスを見ると、
「人間相手に名前を訊くなんて、失礼にも程があるわ。だって、あなたたちは個性があるから、識別するための名前なんていらないもの」
「はあ?」
さっきから話が逸れっぱなしだ。名前を名乗らなくて良い理由なんてあるのか。と、いうか自分に付いているのを全否定されたのと同じではないのか。
「名前っていうものは、識別するためにあるんでしょ。誰が誰だか分からないから、名前を付けて区別する。それは、個性がない物に付けるためにあるのよ」
「個性がないって、人間に名前は付いていますよ」
話がずれているが、一応気になったところを言ってみた。
「それは名前の必要性が無いことを忘れているだけよ。一人ひとり別の中身と外見を持っていることを本当は分かっているはずなのに、名前を付けた所為でごっちゃになってしまっているだけ。そんなものが無くても生活できるのに」
「訳分かりませんよ」
「要はあんた達に名前は必要無い。それはあたし達人形とかのものだ、と言いたいわけ」
そんなことも分からない馬鹿なの、と高飛車に言って、ヘリオスは立ち上がり、仁王立ちの姿勢になった。
「何て偉そうな恰好しているんですか」
「何よ、文句在るの?」
「理論的の対局にある話を聞かされて、しかも途中で話を逸らされて苛々しない人はいませんよ。それに、人形って何ですか人形って」
「人形の説明なんている?」
「いりますよ」
心底不思議に思っている様な口調で尋ねるヘリオスに、何を言っているのだと呆れながら返事をした。
「したつもりでいたんだけどな。してなかったっけ」
「してませんよ。一体、誰に話したんですか」
「自分がされたからした気になってただけか。分かった。話せば良いんでしょ、話せば」
そういって渋々話し出したが、話はすぐに遮られてしまう。
ヘリオスが口を開くと同時に、計ったように隣の壁が鈍い音を出した。その直後に鋭い悲鳴が発され、自分たちの鼓膜を激しく震わし、立っていたヘリオスは驚いて尻餅をつき、自分は目を見開いてその声が出された方を見た。見えるのは真っ白な壁だけだが、何故か自分にはそれが少し暗い色に染まっている様に見えた。外に広がる漆黒の空の所為なのだろうか。
「行きましょう」
すくっと立ち上がった後、凛とした声でヘリオスは言った。
「隣の部屋、彼女よ」
「そうなんですか?」
「この部屋に入ってくるとき、向こうが隣の部屋に入る所を見たもの。間違いないわ」
宣言するように言い終わると、くるりと身を翻して自分の方を見た。
「ねえ、ヘイムダルって人、知ってる?」
「い、いいえ」
この緊急時に何を言い出すのだ。
「知らないか。じゃあ、ラグナロクは?」
「確か、北欧神話で世界の終わりの日、ですよね」
「そう。ヘイムダルって人がそれを告げたのだけれども、まあ、そこは重要じゃないの」
じゃあ何故言ったと言いたいが、これ以上話が長くなっても困る。
「冬が三度訪れ、人は息絶えた。その後、太陽と月が飲み込まれ、彼はそれを告げなければならなくなった。ね、これを言い換えると何になると思う?」
「知りませんよ。とにかく行きましょうよ」
こんな脈絡が崩壊している話を聞くよりかは、悲鳴の聞こえた彼女の部屋に行きたかった。
「まあ、ちょっと待って。そんなに急いでも状況が変わるわけでは無いんだから。あたしは、太陽が無くなってしまったから、ようは朝が来なくなったから、と解釈してみるの」
「だからなんだって言うのですか。別に今、ラグナロクが来た訳ではないんですから、そんな話、しなくて良いんじゃないんですか」
とりあえず、隣の部屋に行きたい。
「違うの。今、ラグナロクが来ているのよ。丁度、隣の部屋に」
「ええっ?」
何故見てもいない隣室の状況が分かるのだ。超能力者でも無いくせに。
「さっきの悲鳴がその笛となり、“彼女”の元にラグナロクは訪れているのよ」
「何を言っているんですか。幻影が見えるのなら精神安定剤でも飲んでください。とりあえず、行きましょうよ」
「彼女は、今、終わったのよ。そんなところ、見たい?」
この場に及んで、まだそんな事を言っているのか。馬鹿ではないのか。
「行きたくないなら、自分一人で行きますよ」
「違うんだってば、あたしが言いたいことは。そうじゃ無くって、ラグナロクの後には太陽が必要だから、それになってやろうっていう話なのよ」
「だから訳が判りませんって」
さすがにむかつき、はき捨てるように言っても、ヘリオスは話をやめようとしない。
「何でそんなに急かすのよ。別に急がなくても朝は来ないわ。だって、あの部屋には太陽が無いもの」
苛々する。そして勝手に外に出られない自分の足にも苛々する。
「ふざけないで下さい。行きますよ」
「自分の名前はギリシャ神話の太陽なのよ」
「だからどうだって言うんですか」
「はあ。もういいわ」
さも仕方が無いように話を切ったヘリオスは、そのまま足を扉の方に向け、自分も慌ててその後に付いていった。重たい扉を開けると、誰もいない冷たい廊下が広がっていて、吹くはずのない風が足下をかすっていった錯覚までし、その冷たさが苛々を消していく気がした。ヘリオスが一歩踏み出すのに続けて、自分も廊下に出て行く。数歩で辿り着いた隣室のドアから、すすり泣きのような声が漏れだしていた。
「開けるわよ」
その声が合図になった。
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うたかた花火。
1
*
昔、あたしは人間だった。
そして今は、人形。
誰かに操られ、ふらふらと。
*
「ほんと邪魔だねえ、こいつら」
「どこかのお偉いさんの子だか知らないけど、こっちのことも考えてほしいよ」
何かわからない濁った液ごしに聞こえてくる声は、いつものように不機嫌そうな女二人の声だった。生まれてからその声だけが、あたしのただひとつの外の情報を知る手段となっており、未来永劫そうなる筈だ。
不機嫌な女たちの会話はまだまだ続く。
「大昔に栄華を誇った貴族とか?」
「それでこの年齢はないでしょ。でも、ほんと邪魔ね。」
「まあ、いくら邪魔でも、どけられないことが一番の問題点よね」
「そうよね。クローン人間でも、人間だからね」
「人間?」
その後耳障りな笑い声が聞こえて、
「人間、人間ねえ。『命は大切にしましょう』っか。ふふふっ」
と、言った。その言葉に対する返事は無く、代わりに甲高い笑い声が続き、あたしの不快感を募らせる。その後も女たちの笑い声はやむことを知らずに、ずっと鳴り響いていた。
ここは無意味な会話に精を出す女たちの溜まり場だ。そしてまた、クローン人間の保管場所ともなっている。とある国の端っこを買い占めて作ったそうで、一応国家機密となっているらしい。
らしい、というのはあたしじゃない誰かが知っていることだから。あたしが生まれてからしたことは、ただあたしの元になった人間(彼女)の記憶を辿ることだけだ。オリジナル(彼女)は随分と色々な事を知っていたので、あたしは何もできないこの空間で退屈することはなかった。ただ、退屈しないだけであって楽しいわけではない。辛い事、悲しいこと、苦しいこと。別にあたしが行った事ではないとある罪に関する罪悪感。もちろん、それらの感情を知っている方がいい、ということは分かる。でも、それは自分が経験して感じないと意味がない。人の感情をたどっても、あたしの心はただその事柄の汚点だけを知る。きっと、まともな人間なら否定するような事実であろう。
なーんて。もう女たちの声が聞こえなくなるのに気付かないくらい、珍しく真面目なことを考えて暇を潰していると、いつもと違う軽快な足音二つに邪魔をされ、あたしは考えを止めなければならなくなった。目を開けることは周りに満たされている液が邪魔で出来ないから、走ってくる人が誰か分からないけれども、おそらくいつも文句を言っている女たちが戻ってきたのだろう。彼女らはなんだかんだ言って一番ここに来るのだ。他の足音なぞ聞いたことがない。
あたしの勘は当たったようで、いつもの女の声が耳に突き刺さるように入った。でも、さっきのような不機嫌な声とは打って変わって弾んだ、いかにも少女らしい声になっていた。
やった、と一人が叫んで
「私たちの仕事が一人減る!」
と、別の声が同じく興奮した声で続けた。
「出荷の通達! 一生でこんなにうれしいことはないよ。善からほど遠いような人を見れるなんて……。本当に勤めてて良かった」
「そうよね。本当にそう思うわ。大人になってからは善の行いも、最悪のそれも見たことはなかった。ずーっと少し悪意がある、表向きは正当な行為をする人たちしかいなくて。ほんと、面白くなかった。でも、やっと面白い日がやってきたわ! 習ったけれども実行したことがない仕事もやれるし。私たちは最高の幸せ者ね」
言葉の使う用途を間違えているが、嘘であることなんか考えられないほどに口調はハイテンションだった。いつの間に溜飲が下がったのだろうか。そんな感情、少し分けてほしい。
「えーっと、出荷するのは……っと」
「ちょっと、忘れたの? これよ。商品番号三番」
その何気ない言葉に、あたしは、というより『商品番号三番』という棚に置かれた『商品』たちは一斉に鳥肌が立った。
売られるのは、あたしたちだ。出荷されるのは、あたしたちだ。周りの空気から、きっとみんなそんなことを思っている。
そんなこととは知らずに、女たちは無情にも話をたのしそうに続ける。
「どうやって決める? あみだ?」
「今はあいにく、紙がないのよ。もうこれは適当にするしかないね。どれにしようかな……」
昔々に覚えた記憶をたどるように、あたしたちの運命を決めてゆく。氷と熱湯のような温度差は、ただ不安を煽る事しかしない。その不安は、外の世界へ出れなかった時の絶望に向かっている。生憎、人に運命を決められたぐらいでへこたれる神経は持っていない。あたし達が恐れるのは、希望を見た後に押し寄せる絶望。そして、これ以上光が押し寄せることのない確信。全ての物事が怖いのだ。
「これだっ!」
幼少期に帰ったような無邪気な声は、“子供が残酷だ”という言葉が正しいことを一言で証明した。
「出荷するのは、三番(ヘリオス)! あともう一回指が動いてたら三番(ジュピター)だったんだけど、まあ、いいわ」
***
トラックの振動が鬱陶しい。ラジオから流れる声が、地球に人間がいられる日は後三日だ、と伝えている。石畳の道とトラックが喧嘩をしていても、町の騒々しさには敵わない。静かにしているとその音は耳をふさぎたくなるはずなのに、町の人々の「売りつくし!」とか「最後のお別れの歌」みたいな個人の大切な雑音にかき消されてゆく。
運転席の男は何も言わず、後部座席には人がいないみたいに振舞う。喧騒に耳を傾けることにも飽き、今は一生懸命ラジオの音を聞くようにする。
「あと三日の日々をどう過ごすのか、町の人に聞いてきました」
やけに落ち着いた女の声の後に、興奮しきった老人の声が続く。この年になるまで生きていてよかった、死に別れた妻にも見せてやりたい、とか。さっきの人と同じようなことを喋っているな、と思う。
少しラジオの音が途切れると、またあたしの日常が終わったときを思い出す。
三番(ヘリオス)、と女は叫んだ。震え出した身体が、呼ばれた名は自身を指していると告げ、抜け出せないはずの世界から、訳の分からない不自由な日常から逃げ出せることに素直に喜んでいた。ただ、本当に出たいのかも分からない、不安。そんな感情が体中を駆け巡った。
そんなあたしの気持ちなど露知らず、女たちはせっせと出荷する準備をしだした。鼻歌まで歌いだして、いつものけだるい雰囲気とは間逆だった。なぜそんな風に上機嫌になれるのか不思議で仕方がない。いつもの機嫌と今のそれ。どちらが本当か教えてほしいものだ。
「えっと、『迎えに来るので郵便を手配する必要はない』って、なにそれ! いつもトラックの運転手の顔を見るのが楽しみなのに~。こいつはだめだ、とか今日はイケメン、とか」
「まあまあ。出荷することのほうが嬉しいんだから、それは日常の幸せとしておいておきなさいよ。私としてはその発注した人が気になるのよ。悪を語る人が善良そうな見た目をしていたらいいし、逆でも面白いし」
気楽な会話の合間にも、機械音は鳴り響く。そのうちにあたしの体は重力に引き寄せられ、カツン、という音と同時に鈍い衝撃がはしった。と、気付いた時にはあれやこれやと物事が進んでいっていた。目を始めて開けた喜びとか、最初に吸った空気とか、そんなことに思いをはせる隙など与えてくれない。きっと女達の頭には“斟酌”なんて言葉は無いんだろう。薄情なやつだと今になって思うが、その感想も何か場違いな気がしてきた。
「次のニュースです。この国が移住先の星でどうなるのか」
ラジオがまた話し出した。そのとたん、男は車のエンジンを切り、ぷつっという音を最後に残して機械の音は消えた。車内は生きているものの音が支配した。ただ気まずい空気がながれ、さらに居心地の悪い空間になってしまった。
あたしはどうしていいのか分からず、ただひたすらに外の景色を見ることにした。外は殺風景なコンクリートの道が永遠に近い長さで広がり、さっきまでラジオの電波が届いていたのが不思議なぐらいで何だか怖い。止まった車の隣には深緑の蔓が絡まった、近代的な道路には不釣合いな洋館が建っていて、それもまたあたしの恐怖を増していく。レンガ造りのそれは、明らかに何百年の歴史を持っていて、歴史の本に載っていそうな風貌だった。
「降りるぞ」
と青年らしい声で小さく命令する。思考を一旦止めて、ドアを開ける。ひゅうっと短い音をたてて、秋なのに冬のような(これはあたしの元の人(彼女)が持っていた記憶からの推測だが)風がドアーマンの代わりをした。男はあたしのことなんかいないみたいに、一人でスタスタと洋館へ歩いていた。あわてて後を追うと、小石に躓(つまづ)きそうになった。歩き始めの子供みたいで、なんだか情けない。
重い扉は鍵がかかっておらず、開けるのに無駄に力が必要だった。男が赤い顔をして、うんうん唸りながらノブを引っ張っているのを見ていると、なんだか手伝わなくてはいけない気がした。あたしも一緒にしようとすると、男は泣き出しそうな顔になりながら、ただ黙々と作業を続けた。
ようやく扉が開くと、中から薬品と木材のにおいが漂ってきた。それは記憶の中、誰かが“絶望”と言っていた色に似ていて、気持ちが悪い。あたしが顔をしかめても男は無視して一人、二階へと歩いていく。なんだか見ていてイライラする光景だが、過去の日常にいた人たちもこんなものだった。こんなものか、と呟いてすすけた赤絨毯をみる。
「おい、早く来い。言うべきことがある」
上から、豆粒みたいな人が言う。鬱陶しい、と大声で言ってみたくなる。話? 出荷された物(・)に話すことなんてあるの? 足音に怒りをぶつける。無駄だ、無駄だ。口にできない感情は溜まっていく。違う日常は、こんなものだ。どうせ、良くなんてならないんだ。
まあ、後々このときの感情を振り返ってみるとおかしく、愉悦なんだけど。すべてを変えてくれる瞬間はまだ訪れていなかっただけ。男には謝らなければならないだろう。それくらい、その後の言葉は強烈だった。
そう、黒かったものを白に、ただの雑音(ノイズ)を美しい歌に変えるみたいに。
魔法みたく、華やかに。
おとぎ話(フェアリーテール)は、始まった。
※
「お前には言わなければならないことがある」
よほど緊張しているのか、男の声はガタガタ震えていた。イライラは緊迫した相手の空気に消されてしまい、あたしにできることはただ黙って話を聞くことしかない。男は少し間を開け、口を開いた。
「俺は今から君を人間から人形に作り変えようと思う」
「は?」
耳に入ってきたのは、訳の分からない単語の羅列。どうしたら、そんなおかしな文章ができる? 教えてほしいものだが、男はそのまま続ける。
「人形は、人の形と書く。ようは、人の形になればそれは人形、dollと言っていいものになる。これは、俺の人形の定理だ。いいか?」
なんて言っていいのか分からないので、素直にうなずく。
「俺はこの辺では名の通った人形師だ。主に人形劇の人形を作っている。あまり見ないのか? ああ、君は外に出たことが無いのか。まあいい。君がよく知っているであろう劇作家――、少なくても君のオリジナルは知っていただろうシェイクスピアは“この世界はこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者に過ぎぬ”と言った。でも、俺はそうじゃないと思う。この世界は、人形劇の舞台なのだ。人は皆人形で、何も知らないままに操られ舞台に上がっては下がりを繰り返す。皆自分の意志だと思い込んで演じている滑稽な人形達だ。操る物を“神”と人々は呼び、崇める。俺は、そんな世界が大っ嫌いだ」
男はそう強く言い、一つ咳払いを入れて続けた。
「別に、俳優女優が嫌いだというわけではない。人形劇の方がこの世界にぴったり来るような気がしただけだ」
「話を戻そう。急がなければならないから、余分な説明はなしでいく。俺の、過去の話を聞いてくれ」
「この世界もすでに人形劇であると考えるようになった俺は、もう、人が生きている時点で人形を作る意味が無いような気がし出した。でも、俺には人形を作るほかに何の取り柄もなく、仕事もない。元々人形作りだけで生計を立てることも難しいのに、今この手を止めてしまえば確実に俺は飢え死ぬ。そんな時に」
「地球から人類が離れる案が出た」
オリジナル(彼女)の記憶をたどってそう言う。男の年齢は二〇代半ばほど。地球を離れる案が出たのは三年前。職を手にするには適した年齢だろう。それに、この男の気の迷いを無くすにはそれ相応の(少し大きすぎるかもしれないが)事といえばそれくらいしか思い浮かばなかった。
いつのまにか最初の疑問が頭から離れていることに気がつかずに、あたしは男の話をじっと聞いていた。次は? どうなったんだ?
「そうだ。お前は三年、生きていないのか。不思議な感じがするな。まあいい、話を続けよう。二度も話が逸れてしまった。
そう、三年前。地球を離れることがあれよあれよと決定し、今日から見ると――、そう、明後日に別の星へ行くことになってしまった。強制的に、だ。仕事を持つ者は向こうに行っても同じ職を持てるように手配すると言われ、人形作りをやめるにも辞められなくなった」
男はあたしの目を見ながらそう言うが、焦点はもっと奥のほうに合っていて、遠い記憶をあたしの目に移しているようだった。すべてを飲み込んでいくしかすべが無かった昔の自分を、あたしの瞳を通して思い出しているのだろうか。人の気持ちは、よくわからない。
少しの間をおいて、また男は昔の話を語りだす。
「ならば、と俺は考えた。地球を離れるのなら、これはいい区切りになる。この憂鬱を地球にいる間に消し去り、向こうでは新しいことに挑戦しようとな。単純だろ? でも、複雑に考えるよりは楽だ。三年間、ベストを尽くすことに集中すればいいだけだからな。
と、そんなこんなで俺はある計画を執行することにしたのだ」
「それは?」
すぐにあたしが問うと、男は呆れたようにため息を吐いた。
「少しはもったいぶらせてくれないか? その顔は待ってくれなさそうだ。残念」
男はそう言ったにも拘らず、なかなか次の言葉を言おうとしなかった。変なところでこだわる人だ。
十秒ほど間をおいて、目を泳がせながらやっと、男は口を開いた。
「最後の五十日間は一日一体ずつ人形を作ること。それまでの時間は一日に一体人形を作れるほどの実力をつける。――材料は、自分の挙げられる有機物。もちろん、人間もだ」
「……」
何も言うことができない。人から波乱万丈と言われる過去を持つオリジナル(彼女)だって、ここまで衝撃的な話は聞かなかっただろう。男は今、何といったのだ? 人間? 材料? それならあたしがここにいることの意味は……?
「クローン人間の存在は、テレビのニュースで知った。そこに出た会社とその社長の名前を見たとき、俺は父から聞いた言葉を思いだしたのだ。父は病に倒れたとき、『不当な値段で商売をしたことがある』と言った。その会社の社長に、だ。犯罪行為であることは明白。俺はそれを理由にそいつを脅して、人形の材料になる人体を二体得ることに成功した。それが君と、もう一人だ」
「もう、一人……?」
「そうだ。十日、いや九日だったか。それぐらい前に作った。残念ながらそれは、成長が途中で止まる、不老不死の人間以外の何者でもない、クローン人間に似すぎた人形になってしまった。これでは人形とはいえないと思い、そいつは孤児院に送った。
そのことはすごく後悔している。だから、君の時にはそんなことはしないと誓おう。これは破らない。絶対に」
「具体的に、何をするの?」
あたしがそう聞くと、真剣な面持ちで男は答える。
「オリジナルとまったく違う容姿を与える。そして不老不死にし、人形劇が開演する日に地球に戻ってもらう。それだけだ。記憶も、君が今もっている思考回路も変わらない。」
「もし、もし私がNoと答えたら?」
私が真剣にそう言うと、男は軽く天気の感想を言うような調子で
「そりゃあ、ほかのを仕入れるだけさ。君以外の、ね。」
と、気だるい空気に悪夢の歌を響かせた。
***
「人生最後の地球で見る空としては、文句なしだ」
そう言って、男は水彩絵の具で塗りつぶしたように晴れた空を見上げ
た。時折吹く風に温かな色に塗られた葉が舞い、石畳の道に色を付け足
してゆく。一昨日通った道だ。トラックとは喧嘩をしたいらしいが、あたしの足には特に興味は無いらしく、ただ道としての役割を果たすだけ。まあ、一昨日働いたんだしね、と心も何もないはずのものに言う。返事が返ってこなくても、何か言わなければとてもいていられない沈黙がそこにはあった。
「でも、ありきたりすぎる気もするが。曇天とか、大荒れの日みたいな方が記憶に残りそうなものなのに」
「人が地球に何かものが言えるぐらい偉いわけがないでしょ。人を出荷するなんて考えを思い起こす時点で愚かなのに。まあ、もし気を使ってくれるとしても、一昨日の時点で多くの人間は違う星へ向かっているから、人間の存在に気がつかないんじゃないですか?」
「そういえば、そうだな」
今気付いたかのようにそう言いだすので、思わず噴き出してしそうになった。人々は最後の時を静かに過ごすことにしたようで、時折流れる憂鬱そうな洋楽がその気持ちに拍車を駆けてゆく。散々壊したくせに。散々貶したくせに。手にあったものが消えたのが悔しいのか、皆しんみりとしている。とんだ無節操だと嘲り笑いたいところだが、それよりも男の言葉に答えるほうが先決だ。
「でもまあ、あたしが最初にこの街で見る空としては上出来ですね。ありきたりすぎて、どんなにヘタな絵を見ても思い出せそうです」
意地悪くあたしがそう言うと、男はその言葉が帰ってくることを見透かしていたように答える。
「そうだな。でも、これでお前も最後だぞ。人類が合法に地球で生活する間に、ここにいられるのは、これが最後だ」
「……。えっ……?」
話されたこととは真逆ではないのか。驚いて男の目を見ると、何が面白いのか知らないが男は、薄く笑って続ける。
「俺は別に、すぐに人形劇を開くとは言ってない。三日じゃなくて、何年か人を見ておかなければ、完璧な人形になれる訳がないだろ。と、言うことで」
そう言って、男は振り返り右手をあたしに差し出した。どういうつもりなのか全く検討がつかず、何もできずにいると、追い討ちをかけるように男は
「来るんだろ?」
と、囁くように言った。
もちろん答えは決まっていたし、どう言えばいいのかも分かったけれど、あたしは、ただ。
どこへ続くのか明白な、この道を進むことにしたのだった。
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1
*
昔、あたしは人間だった。
そして今は、人形。
誰かに操られ、ふらふらと。
*
「ほんと邪魔だねえ、こいつら」
「どこかのお偉いさんの子だか知らないけど、こっちのことも考えてほしいよ」
何かわからない濁った液ごしに聞こえてくる声は、いつものように不機嫌そうな女二人の声だった。生まれてからその声だけが、あたしのただひとつの外の情報を知る手段となっており、未来永劫そうなる筈だ。
不機嫌な女たちの会話はまだまだ続く。
「大昔に栄華を誇った貴族とか?」
「それでこの年齢はないでしょ。でも、ほんと邪魔ね。」
「まあ、いくら邪魔でも、どけられないことが一番の問題点よね」
「そうよね。クローン人間でも、人間だからね」
「人間?」
その後耳障りな笑い声が聞こえて、
「人間、人間ねえ。『命は大切にしましょう』っか。ふふふっ」
と、言った。その言葉に対する返事は無く、代わりに甲高い笑い声が続き、あたしの不快感を募らせる。その後も女たちの笑い声はやむことを知らずに、ずっと鳴り響いていた。
ここは無意味な会話に精を出す女たちの溜まり場だ。そしてまた、クローン人間の保管場所ともなっている。とある国の端っこを買い占めて作ったそうで、一応国家機密となっているらしい。
らしい、というのはあたしじゃない誰かが知っていることだから。あたしが生まれてからしたことは、ただあたしの元になった人間(彼女)の記憶を辿ることだけだ。オリジナル(彼女)は随分と色々な事を知っていたので、あたしは何もできないこの空間で退屈することはなかった。ただ、退屈しないだけであって楽しいわけではない。辛い事、悲しいこと、苦しいこと。別にあたしが行った事ではないとある罪に関する罪悪感。もちろん、それらの感情を知っている方がいい、ということは分かる。でも、それは自分が経験して感じないと意味がない。人の感情をたどっても、あたしの心はただその事柄の汚点だけを知る。きっと、まともな人間なら否定するような事実であろう。
なーんて。もう女たちの声が聞こえなくなるのに気付かないくらい、珍しく真面目なことを考えて暇を潰していると、いつもと違う軽快な足音二つに邪魔をされ、あたしは考えを止めなければならなくなった。目を開けることは周りに満たされている液が邪魔で出来ないから、走ってくる人が誰か分からないけれども、おそらくいつも文句を言っている女たちが戻ってきたのだろう。彼女らはなんだかんだ言って一番ここに来るのだ。他の足音なぞ聞いたことがない。
あたしの勘は当たったようで、いつもの女の声が耳に突き刺さるように入った。でも、さっきのような不機嫌な声とは打って変わって弾んだ、いかにも少女らしい声になっていた。
やった、と一人が叫んで
「私たちの仕事が一人減る!」
と、別の声が同じく興奮した声で続けた。
「出荷の通達! 一生でこんなにうれしいことはないよ。善からほど遠いような人を見れるなんて……。本当に勤めてて良かった」
「そうよね。本当にそう思うわ。大人になってからは善の行いも、最悪のそれも見たことはなかった。ずーっと少し悪意がある、表向きは正当な行為をする人たちしかいなくて。ほんと、面白くなかった。でも、やっと面白い日がやってきたわ! 習ったけれども実行したことがない仕事もやれるし。私たちは最高の幸せ者ね」
言葉の使う用途を間違えているが、嘘であることなんか考えられないほどに口調はハイテンションだった。いつの間に溜飲が下がったのだろうか。そんな感情、少し分けてほしい。
「えーっと、出荷するのは……っと」
「ちょっと、忘れたの? これよ。商品番号三番」
その何気ない言葉に、あたしは、というより『商品番号三番』という棚に置かれた『商品』たちは一斉に鳥肌が立った。
売られるのは、あたしたちだ。出荷されるのは、あたしたちだ。周りの空気から、きっとみんなそんなことを思っている。
そんなこととは知らずに、女たちは無情にも話をたのしそうに続ける。
「どうやって決める? あみだ?」
「今はあいにく、紙がないのよ。もうこれは適当にするしかないね。どれにしようかな……」
昔々に覚えた記憶をたどるように、あたしたちの運命を決めてゆく。氷と熱湯のような温度差は、ただ不安を煽る事しかしない。その不安は、外の世界へ出れなかった時の絶望に向かっている。生憎、人に運命を決められたぐらいでへこたれる神経は持っていない。あたし達が恐れるのは、希望を見た後に押し寄せる絶望。そして、これ以上光が押し寄せることのない確信。全ての物事が怖いのだ。
「これだっ!」
幼少期に帰ったような無邪気な声は、“子供が残酷だ”という言葉が正しいことを一言で証明した。
「出荷するのは、三番(ヘリオス)! あともう一回指が動いてたら三番(ジュピター)だったんだけど、まあ、いいわ」
***
トラックの振動が鬱陶しい。ラジオから流れる声が、地球に人間がいられる日は後三日だ、と伝えている。石畳の道とトラックが喧嘩をしていても、町の騒々しさには敵わない。静かにしているとその音は耳をふさぎたくなるはずなのに、町の人々の「売りつくし!」とか「最後のお別れの歌」みたいな個人の大切な雑音にかき消されてゆく。
運転席の男は何も言わず、後部座席には人がいないみたいに振舞う。喧騒に耳を傾けることにも飽き、今は一生懸命ラジオの音を聞くようにする。
「あと三日の日々をどう過ごすのか、町の人に聞いてきました」
やけに落ち着いた女の声の後に、興奮しきった老人の声が続く。この年になるまで生きていてよかった、死に別れた妻にも見せてやりたい、とか。さっきの人と同じようなことを喋っているな、と思う。
少しラジオの音が途切れると、またあたしの日常が終わったときを思い出す。
三番(ヘリオス)、と女は叫んだ。震え出した身体が、呼ばれた名は自身を指していると告げ、抜け出せないはずの世界から、訳の分からない不自由な日常から逃げ出せることに素直に喜んでいた。ただ、本当に出たいのかも分からない、不安。そんな感情が体中を駆け巡った。
そんなあたしの気持ちなど露知らず、女たちはせっせと出荷する準備をしだした。鼻歌まで歌いだして、いつものけだるい雰囲気とは間逆だった。なぜそんな風に上機嫌になれるのか不思議で仕方がない。いつもの機嫌と今のそれ。どちらが本当か教えてほしいものだ。
「えっと、『迎えに来るので郵便を手配する必要はない』って、なにそれ! いつもトラックの運転手の顔を見るのが楽しみなのに~。こいつはだめだ、とか今日はイケメン、とか」
「まあまあ。出荷することのほうが嬉しいんだから、それは日常の幸せとしておいておきなさいよ。私としてはその発注した人が気になるのよ。悪を語る人が善良そうな見た目をしていたらいいし、逆でも面白いし」
気楽な会話の合間にも、機械音は鳴り響く。そのうちにあたしの体は重力に引き寄せられ、カツン、という音と同時に鈍い衝撃がはしった。と、気付いた時にはあれやこれやと物事が進んでいっていた。目を始めて開けた喜びとか、最初に吸った空気とか、そんなことに思いをはせる隙など与えてくれない。きっと女達の頭には“斟酌”なんて言葉は無いんだろう。薄情なやつだと今になって思うが、その感想も何か場違いな気がしてきた。
「次のニュースです。この国が移住先の星でどうなるのか」
ラジオがまた話し出した。そのとたん、男は車のエンジンを切り、ぷつっという音を最後に残して機械の音は消えた。車内は生きているものの音が支配した。ただ気まずい空気がながれ、さらに居心地の悪い空間になってしまった。
あたしはどうしていいのか分からず、ただひたすらに外の景色を見ることにした。外は殺風景なコンクリートの道が永遠に近い長さで広がり、さっきまでラジオの電波が届いていたのが不思議なぐらいで何だか怖い。止まった車の隣には深緑の蔓が絡まった、近代的な道路には不釣合いな洋館が建っていて、それもまたあたしの恐怖を増していく。レンガ造りのそれは、明らかに何百年の歴史を持っていて、歴史の本に載っていそうな風貌だった。
「降りるぞ」
と青年らしい声で小さく命令する。思考を一旦止めて、ドアを開ける。ひゅうっと短い音をたてて、秋なのに冬のような(これはあたしの元の人(彼女)が持っていた記憶からの推測だが)風がドアーマンの代わりをした。男はあたしのことなんかいないみたいに、一人でスタスタと洋館へ歩いていた。あわてて後を追うと、小石に躓(つまづ)きそうになった。歩き始めの子供みたいで、なんだか情けない。
重い扉は鍵がかかっておらず、開けるのに無駄に力が必要だった。男が赤い顔をして、うんうん唸りながらノブを引っ張っているのを見ていると、なんだか手伝わなくてはいけない気がした。あたしも一緒にしようとすると、男は泣き出しそうな顔になりながら、ただ黙々と作業を続けた。
ようやく扉が開くと、中から薬品と木材のにおいが漂ってきた。それは記憶の中、誰かが“絶望”と言っていた色に似ていて、気持ちが悪い。あたしが顔をしかめても男は無視して一人、二階へと歩いていく。なんだか見ていてイライラする光景だが、過去の日常にいた人たちもこんなものだった。こんなものか、と呟いてすすけた赤絨毯をみる。
「おい、早く来い。言うべきことがある」
上から、豆粒みたいな人が言う。鬱陶しい、と大声で言ってみたくなる。話? 出荷された物(・)に話すことなんてあるの? 足音に怒りをぶつける。無駄だ、無駄だ。口にできない感情は溜まっていく。違う日常は、こんなものだ。どうせ、良くなんてならないんだ。
まあ、後々このときの感情を振り返ってみるとおかしく、愉悦なんだけど。すべてを変えてくれる瞬間はまだ訪れていなかっただけ。男には謝らなければならないだろう。それくらい、その後の言葉は強烈だった。
そう、黒かったものを白に、ただの雑音(ノイズ)を美しい歌に変えるみたいに。
魔法みたく、華やかに。
おとぎ話(フェアリーテール)は、始まった。
※
「お前には言わなければならないことがある」
よほど緊張しているのか、男の声はガタガタ震えていた。イライラは緊迫した相手の空気に消されてしまい、あたしにできることはただ黙って話を聞くことしかない。男は少し間を開け、口を開いた。
「俺は今から君を人間から人形に作り変えようと思う」
「は?」
耳に入ってきたのは、訳の分からない単語の羅列。どうしたら、そんなおかしな文章ができる? 教えてほしいものだが、男はそのまま続ける。
「人形は、人の形と書く。ようは、人の形になればそれは人形、dollと言っていいものになる。これは、俺の人形の定理だ。いいか?」
なんて言っていいのか分からないので、素直にうなずく。
「俺はこの辺では名の通った人形師だ。主に人形劇の人形を作っている。あまり見ないのか? ああ、君は外に出たことが無いのか。まあいい。君がよく知っているであろう劇作家――、少なくても君のオリジナルは知っていただろうシェイクスピアは“この世界はこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者に過ぎぬ”と言った。でも、俺はそうじゃないと思う。この世界は、人形劇の舞台なのだ。人は皆人形で、何も知らないままに操られ舞台に上がっては下がりを繰り返す。皆自分の意志だと思い込んで演じている滑稽な人形達だ。操る物を“神”と人々は呼び、崇める。俺は、そんな世界が大っ嫌いだ」
男はそう強く言い、一つ咳払いを入れて続けた。
「別に、俳優女優が嫌いだというわけではない。人形劇の方がこの世界にぴったり来るような気がしただけだ」
「話を戻そう。急がなければならないから、余分な説明はなしでいく。俺の、過去の話を聞いてくれ」
「この世界もすでに人形劇であると考えるようになった俺は、もう、人が生きている時点で人形を作る意味が無いような気がし出した。でも、俺には人形を作るほかに何の取り柄もなく、仕事もない。元々人形作りだけで生計を立てることも難しいのに、今この手を止めてしまえば確実に俺は飢え死ぬ。そんな時に」
「地球から人類が離れる案が出た」
オリジナル(彼女)の記憶をたどってそう言う。男の年齢は二〇代半ばほど。地球を離れる案が出たのは三年前。職を手にするには適した年齢だろう。それに、この男の気の迷いを無くすにはそれ相応の(少し大きすぎるかもしれないが)事といえばそれくらいしか思い浮かばなかった。
いつのまにか最初の疑問が頭から離れていることに気がつかずに、あたしは男の話をじっと聞いていた。次は? どうなったんだ?
「そうだ。お前は三年、生きていないのか。不思議な感じがするな。まあいい、話を続けよう。二度も話が逸れてしまった。
そう、三年前。地球を離れることがあれよあれよと決定し、今日から見ると――、そう、明後日に別の星へ行くことになってしまった。強制的に、だ。仕事を持つ者は向こうに行っても同じ職を持てるように手配すると言われ、人形作りをやめるにも辞められなくなった」
男はあたしの目を見ながらそう言うが、焦点はもっと奥のほうに合っていて、遠い記憶をあたしの目に移しているようだった。すべてを飲み込んでいくしかすべが無かった昔の自分を、あたしの瞳を通して思い出しているのだろうか。人の気持ちは、よくわからない。
少しの間をおいて、また男は昔の話を語りだす。
「ならば、と俺は考えた。地球を離れるのなら、これはいい区切りになる。この憂鬱を地球にいる間に消し去り、向こうでは新しいことに挑戦しようとな。単純だろ? でも、複雑に考えるよりは楽だ。三年間、ベストを尽くすことに集中すればいいだけだからな。
と、そんなこんなで俺はある計画を執行することにしたのだ」
「それは?」
すぐにあたしが問うと、男は呆れたようにため息を吐いた。
「少しはもったいぶらせてくれないか? その顔は待ってくれなさそうだ。残念」
男はそう言ったにも拘らず、なかなか次の言葉を言おうとしなかった。変なところでこだわる人だ。
十秒ほど間をおいて、目を泳がせながらやっと、男は口を開いた。
「最後の五十日間は一日一体ずつ人形を作ること。それまでの時間は一日に一体人形を作れるほどの実力をつける。――材料は、自分の挙げられる有機物。もちろん、人間もだ」
「……」
何も言うことができない。人から波乱万丈と言われる過去を持つオリジナル(彼女)だって、ここまで衝撃的な話は聞かなかっただろう。男は今、何といったのだ? 人間? 材料? それならあたしがここにいることの意味は……?
「クローン人間の存在は、テレビのニュースで知った。そこに出た会社とその社長の名前を見たとき、俺は父から聞いた言葉を思いだしたのだ。父は病に倒れたとき、『不当な値段で商売をしたことがある』と言った。その会社の社長に、だ。犯罪行為であることは明白。俺はそれを理由にそいつを脅して、人形の材料になる人体を二体得ることに成功した。それが君と、もう一人だ」
「もう、一人……?」
「そうだ。十日、いや九日だったか。それぐらい前に作った。残念ながらそれは、成長が途中で止まる、不老不死の人間以外の何者でもない、クローン人間に似すぎた人形になってしまった。これでは人形とはいえないと思い、そいつは孤児院に送った。
そのことはすごく後悔している。だから、君の時にはそんなことはしないと誓おう。これは破らない。絶対に」
「具体的に、何をするの?」
あたしがそう聞くと、真剣な面持ちで男は答える。
「オリジナルとまったく違う容姿を与える。そして不老不死にし、人形劇が開演する日に地球に戻ってもらう。それだけだ。記憶も、君が今もっている思考回路も変わらない。」
「もし、もし私がNoと答えたら?」
私が真剣にそう言うと、男は軽く天気の感想を言うような調子で
「そりゃあ、ほかのを仕入れるだけさ。君以外の、ね。」
と、気だるい空気に悪夢の歌を響かせた。
***
「人生最後の地球で見る空としては、文句なしだ」
そう言って、男は水彩絵の具で塗りつぶしたように晴れた空を見上げ
た。時折吹く風に温かな色に塗られた葉が舞い、石畳の道に色を付け足
してゆく。一昨日通った道だ。トラックとは喧嘩をしたいらしいが、あたしの足には特に興味は無いらしく、ただ道としての役割を果たすだけ。まあ、一昨日働いたんだしね、と心も何もないはずのものに言う。返事が返ってこなくても、何か言わなければとてもいていられない沈黙がそこにはあった。
「でも、ありきたりすぎる気もするが。曇天とか、大荒れの日みたいな方が記憶に残りそうなものなのに」
「人が地球に何かものが言えるぐらい偉いわけがないでしょ。人を出荷するなんて考えを思い起こす時点で愚かなのに。まあ、もし気を使ってくれるとしても、一昨日の時点で多くの人間は違う星へ向かっているから、人間の存在に気がつかないんじゃないですか?」
「そういえば、そうだな」
今気付いたかのようにそう言いだすので、思わず噴き出してしそうになった。人々は最後の時を静かに過ごすことにしたようで、時折流れる憂鬱そうな洋楽がその気持ちに拍車を駆けてゆく。散々壊したくせに。散々貶したくせに。手にあったものが消えたのが悔しいのか、皆しんみりとしている。とんだ無節操だと嘲り笑いたいところだが、それよりも男の言葉に答えるほうが先決だ。
「でもまあ、あたしが最初にこの街で見る空としては上出来ですね。ありきたりすぎて、どんなにヘタな絵を見ても思い出せそうです」
意地悪くあたしがそう言うと、男はその言葉が帰ってくることを見透かしていたように答える。
「そうだな。でも、これでお前も最後だぞ。人類が合法に地球で生活する間に、ここにいられるのは、これが最後だ」
「……。えっ……?」
話されたこととは真逆ではないのか。驚いて男の目を見ると、何が面白いのか知らないが男は、薄く笑って続ける。
「俺は別に、すぐに人形劇を開くとは言ってない。三日じゃなくて、何年か人を見ておかなければ、完璧な人形になれる訳がないだろ。と、言うことで」
そう言って、男は振り返り右手をあたしに差し出した。どういうつもりなのか全く検討がつかず、何もできずにいると、追い討ちをかけるように男は
「来るんだろ?」
と、囁くように言った。
もちろん答えは決まっていたし、どう言えばいいのかも分かったけれど、あたしは、ただ。
どこへ続くのか明白な、この道を進むことにしたのだった。
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2 前編
***
残念だ。非常に残念だ。無慈悲で薄情な人だと思っていたのに、と意味のない嘆きを宙に吐き出して前を向く。にやっと、整った口角が上がり一言。
「左様なら」
***
あれは秋の終わり、木枯らしが吹き始める頃合いだった。
自分は確か青春真っ盛りといわれる年齢で、そしてそれを楽しんでいなかったはずだ。全てが自分を傷つけて、何もかもに意味がないと思っていた。懐旧するのも恥ずかしい、思い出すべきでない過去となっているそのとき。自分は、彼女と出会った。
彼女と出会い、恋に落ち、今現在の自分になるという非常にありふれた話ではない。そんな優しい現実はない。だって自分は、彼女から絶望や凄愴な感情ばかりを知ったのだから。
彼女と初めて会ったのは、同室となった寮の部屋の中だ。自分は転校生で、たまたま一人だった彼女の部屋に入ることになった。寮室の中、たどたどしく自己紹介をし「はいそれじゃあこれから貴方達はルームメイトね」と教師に言われた後、彼女の目に浮かんだ絶望の様な色を、今でも覚えている。
「私の城を、よくも荒らしに来たわね」
凛とした声で、彼女はそう言った。バタンと扉が閉まった直後のことだった。艶々とした髪と、妖艶な光を携えた目、唇。フランス人形の如く整った容姿の人からそんなことを言われるなんて、と驚いたものの、どこかで自分は納得していた。やっぱり、自分とはこんな存在なのだ。いない方が良い、疎まれる存在。ああ、そうか、と考え込んで何も返さない自分を見て何を思ったのかは分からないが、彼女は、
「まあ良いわ。話は明日。それがあんたのベッドだから」
と吐き捨てるように言って、さっさと彼女の寝床に潜り込んでいった。
自分は、何も分からず言われるままに、寝心地の良さそうなベッドに倒れ込んだ。長旅の後に睡眠は必須。これはいつも変わらない法則だから。
違うな、目を開けた後からだ、本題は。
目を開けたとき最初に映ったのは、うるさく吠える目覚まし時計と、女王様の如く足を組んでベッドの柵に座る彼女の姿だった。
「遅い」
心底不機嫌そうな声でそう言うと、つかつかと自分の前に歩み出してまた一言。
「阿呆」
その顔には、見るだけで反吐が出そうなぐらいお前なんか嫌いだとはっきりと書いてあり、握りしめている手を見ると、恐れをなして静かになった時計の針が一直線に並んでいた。長針は……、四を示している。と、いうことは、まさか、短針は……。
恐る恐る彼女の顔を見てみた。冷たい汗がこめかみを流れる。
「十時二十分」
完全なる、遅刻だ。
*
「とんだ度胸の持ち主がおいでなさったようで」
唇から零れる嫌味は、着実に自分の心に刺さって、反論する気力を削いでいく。話は制服に着替えてからと言いたいのだろうか。彼女は自分に背を向け、勉強をし始めた。とりあえず、寮室を見ながら着替えよう。
昨日はすぐ眠ったので全く見ていなかったのだが、どうやらこの部屋、やたらと豪華であるようだ。自分が寝ていたベッドの布団はふかふかしているし、高そうな木で作られているし。敷かれている絨毯も濃い深紅で、落ち着いた高級感を醸(かも)し出している。そしてそれに何故か釣り合う勉強机。他に何もないのに、これだけで十分と言わせてしまう空気が流れている、そんな場所。自分には、全く似合わない所だ。
「似合わないわね」
はっと気がつくと、彼女がこちらを見ていた。こちらの心を除いたかのような発言に、何故か背筋が凍った気がした。
「そ、そうですか……」
「全くもって、そうね。まあ、それは良いわ。まず、自己紹介を」
「え?」
この人のリズムについて行けない。自己紹介って、昨日したじゃないか。
「大人の前で本音が言えるわけ無いでしょ。名前はいいわ。この前散々聞いたから。そうね……、職業とか」
「職業……?」
「そう、何か無いの? 面白いこと」
職業と言われても、一学生が愉快な仕事をしているわけがない。一番無難な回答を。
「が、学生、です」
「はっ、つまんな」
鼻で笑われてしまった。では、貴方は何か面白い職を手にしているのかと若干の憤慨を感じていると、彼女はそれを見透かしたかのようににやりと嗤い、言った。
「あたし? あたしはね……、そう」
息継ぎの間が、煩わしくて、憎い。彼女の口が再び開くのは、ラグナロクを告げられた者達と自分が同じ気持になったときだ。そんな場違いで無駄に壮大な例えが、なんだか不思議としっくりくる。
「――“名探偵“ってところかしら」
*
「め、名探偵ぃ、です、か」
少女は一人混乱の最中だった。それを見たもう一人は、それを楽しむかのように高慢な笑みを浮かべ、言う。
「そうよ。どう、面白いでしょう」
「あ、はい、面白い、です。はい」
どんな言葉を並べたら、この人は喜ぶんだろう。それと同時に、訳の分からない単語に興味がいき、結局虻蜂取らずの中途半端で、少女は何も言わない。そして、またその混乱の輪を加速させようと、もう一人は混沌(カオス)の糸で言葉を編んでいく。
「そう。信じてないのね。じゃあ、証明してみましょう」
「え……、えっ? 別に、信じて無いとか、そういう事じゃなくて」
「いいの。やってあげる。あたしがやりたいだけだから」
「そ、そうですか。なら、お願い、します」
少女の言葉を聞いたもう一人は、不敵に口角を上げた。そして、大きな目玉をぐるりと一回転させてから、
「じゃあ、一週間」
と、またしても悪役じみている、どうやっても名探偵なんかが言う口調じゃない風に言い、続けた。
「一週間以内に起こる事件を解決してあげる」
「え?」
意味不明だという風に目を見開く少女を、やはり面白そうにもう一人は見る。その目の異様なまでの輝きが、この言葉が冗談ではないことを示して、少女の背筋に悪寒が走る。
「そうすれば、信じてもらえるかしら」
嘘だ、と思う。事件なんて起こらないし、起こるはずがない。自分が転校生だともてはやされ、またいつものように飽きられるだけ。少女は呪文のようにそれを繰り返し、重たい足を持ち上げながら教室へ向かう。どうせ自分はこれから典型的な自己紹介をして、最初の一時間ぐらいは「わ~、転校生? なんて名前? どこから来たの?」なんていう質問攻めで、自分がどう答えて良いか分からずしどろもどろしている間に皆離れていくんだ。そして自分一人孤独に本を読んでいる。そんな二時間後の姿が想像できて、少女は溜息を吐く。まあ完璧に当たっていて、こんな想像、ただの感傷だと言えないのだが。
「ねえ、どう思う、これ」「ええっ、これって、あの……」「そうよ、絶対言っちゃ駄目だから」「えっ、でも……」「いい、約束破らないと絶交だから」「うん、分かった。言わない」「あ、何してるの?」「い、いや、何も。それより、それ、可愛いね」「そう? ありがと~」「高いんでしょ、それ」「ううん、それがね、これ、安かったの」「そうなの?」
隣の席の会話に耳をそばだててみると、何だか不穏な空気のする会話が飛び交っていた。その話の腰を折ったのは見知らぬクラスメイトで、彼女と誰かは慌てて話をそらした。面白くない。もう一度本に視線を戻す。隣の席に彼女が座ったことを、少し喜んだ自分は馬鹿だった。やっぱり、誰も話しかけて来ない。唯一無二の友である小説は、いよいよ核心に迫ったらしく、切羽詰まった様子がひしひしと伝わってくる。探偵役が、犯人に追い詰められ、生きるか死ぬかの窮地に立たされている。和気藹々とした隣の集団とは全く違うと、少女は一人、考えていた。
「ねえ、聞いた?」「何を?」「例のあの件のことよ。知らない?」「うん、初耳」「ええっ、そうなの? じゃあ、教えてあげる。えっとね、」「あっ、何話してるの?」「えっ、ああ、ううん、何でもないよ。それよりさ」
盗み聞き二日目。また、いいところで邪魔が入った。小説は相変わらず修羅場で、読んでいてつらい。慟哭と悲鳴の嵐だ。よくよく考えると、昨日から一ページしか進んでいない。隣席の会話とは間逆だ。中々佳境に入らない。話をそらす侵入者は、狙ってこんなことをしているのだろうか。少女はページをめくりながら考える。〈さっさと話しやがれ!〉小説の中の住民は叫んだ。その通り。小さな呟きは、騒音の教室の中、誰にも伝わらずに、消えていった。
気付いた。今日は水曜日で、あの日は日曜日だったのだ! うわー、もっとゆっくり寝ても大丈夫だったのにと落胆しても、それを気にする程人間ができている者はいない。無慈悲で利己的が鉄板だと言わんばかりの冷たさが、この教室の談笑を作っている。優しさなんて、古い。転校生なんて、ニュースバリューがなくなれば、ただの空気だ。まあ、今日は少し事情が違って、注目されないのだが。
「ちょっと、なによそれ!」
甲高い叫び声が教室中を駆け巡り、居心地の悪い静寂をもたらす。さすがの少女も、これには驚き、現場を見た。顔を朱に染めながら罵声を次々と浴びせる者と、それに反論し、叫ぶ者。どちらも月並みな言葉ばかりで、水掛け論はひたすら続く。周囲の者はただひたすらその光景を見る部外者となり、それを止めようとはしない。内心は興味津々なのだが、ずっと見ていると不審に思われるので、少女は本を読む。それはよくあるミステリーのようなもので、栞を挟んでいる場所は、丁度犯人と対峙している所だ。一昨日から読み始めて、半分のところで止まっている。昨日、辛すぎて読むのをやめたからだ。
「知ってるわよ! あんた、私のこと、ずっと、ずっと」
隣席の罵詈雑言をBGMにしながら、少女はページをめくる。
「あんただってそうじゃない! あたしに内緒で、よくもあんな事を」
「お互い様ね。あなたは私の秘密をばらす。私はあなたの」
「あんたはあたしとあいつの縁を切ろうと行動をした!」
「そうよ! それが何? それが、それが、何だって言うのよ!」
辺りを切り裂く声の後、よく教育されたチャイムが鳴り響いた。本を閉じる音が小さく続く。今日は収穫。少女は思う。隣の話が発展した。毎日重い沈黙がのしかかる寮室に、久々に会話が生まれるかもしれない。日曜日の謎の宣言以来、彼女は全く口を開かない。会話の生まれない場所で二人なんて、地獄以外の何物でもない。
「今日は見ておきなさい。今日、事件を解決してあげる」
「事件、ですか?」
朝、少女が眠気眼を擦っていると、突然もう一人が口を開いた。
「そう。もう、起こっているの、分かるでしょう?」
「い、いや、分かりませんでした」
「嘘。ずっと話し聞いてたでしょ、あんた。休み時間、本一ページも読めてなかったよね」
気付かれていた。軽く衝撃を受けた少女を、もう一人は見逃さない。
「やっぱり。まあ、これで作戦成功って訳だけど」
「えっ?」
「種明かしは事件が解決してから。これ、探偵の法則(ルール)ね」
そう言い放つと、もう一人はスタスタと先に部屋を出て行った。どうやら、木曜日には本当に雷の神が住んでいるらしい。ということは、今からは豪雨ということなんだろう。そこからどんな風に天気が変わるのか。それは名探偵である彼女の采配次第であるのだ。そんなことは鈍い自分でも分かると考えながら、少女は制服に袖を通し、重い寮室の扉を閉め、教室へ向かう。寮と学校までの道のりは、ただひたすら赤い絨毯に沿って歩くだけ。階段を上っては下りて、ただ道の思うままに進んでいくと、陰鬱な場所に辿り着くのだ。
「ようは、貴方は嘘を暴かれて恨んでいて、貴女は恋仲を引き裂かれてイラッときたと」
「そうよ」「そう」
「でも、可笑しくない、これ?」
「何処が?」「何処がよ」
「もう、因果応報の法則で、これは相殺されているんじゃないの?」
「嘘っ。そんな筈無いじゃない。こんな奴と同じ訳がないでしょ!」
「そうよ。全然違うわ! 一緒にしないでよ!」
「いや、だから同じだって。目には目を歯には歯を精神で、罪には罪を。両方とも、相手を陥れようとしている、ってことで共通だし。それに」
「それに?」「それに何よ」
「迷惑なの。教室内でいざこざ起こされて、それを聞く苦痛を、あなたたち、知らないでしょ」
『うっ』
「皆、平和が好きなの。知ってるわね。それを乱す者は、どうなるか、分かってる?」
『……』
「分かった?」
目の前で繰り広げられる応答は、めまぐるしく形を変え、最後はこじつけの大団円の形をとったようだ。いや、違う。こんなもの、丸く収まったなんて言えるわけがないのだ。
ふっと、何か視線を感じると思い、少女はもう一人の方を見た。案の定、二つの目がこちらを向き、なにやら意味深な光を放っていた。その、なにやら物騒なことを考えていそうな瞳を見て、少女は嫌な予感しかしなかった。そんな感覚を背中に引き連れながら一日を過ごし、少女はそれを振り払おうとしながら、教室から自室へ向かう。
「遅かったわね」
いつもより何倍も重たい扉を開けると、もう一人が数日前に会ったときと同じく足を組み、女王様の如く偉そうに待っていた。
*
「種明かし、楽しみじゃなかったの?」
彼女は自分が否定する事なんて、これっぽちも考えていないらしい。何処からその自信はわいてくるのだろうか。不思議だが、そこは重要ではない。とりあえず、話を聞くことが先決だ。
「えっと、いや、ちょっと用事が……」
「まあ、そんな事はどうでもいいの。とりあえず、言ってみてよ、あんたの推理。いっつも一人でやってるから、他人の言葉なんて聞いたことないの。だから」
「は、はあ……」
推理、だと。そんな洒落たことなんか心得たことはないし、第一、素人がそんな簡単にできるものでもないのに、彼女は何を言っているのだ。とりあえず、今読んでいる本からそっくりそのまま抜き出してみる。
「えっと、つまりあなたは……、自作自演の名探偵です」
昨日読んだ場面を思い出す。えっと、確か、あれは自分が仕掛けた事件を解いていることがばれて、名探偵が窮地に立たされた所だ。
「彼女たちに口論を起こさせ、その仲裁を行った。それを解決と呼びました」
やっぱり、自分は探偵には向かない。こんな一番盛り上がらなければならない推理シーンで、二回しか口を開かないなんて、失格だ。
そんな事を考えていても、この部屋には何も声が生まれない。それに驚き彼女を見ると、なにやら恰好はそのままで、難しそうに腕を組み、口をへの字にしていた。
「あれっ、ばれ、ばれちゃってた……?」
小さな声で、詰まりながら言うその言葉に、さっきまでの威厳みたいなものは感じられなかった。いや、それよりも。
「合って、たん、です、か」
「うん……」
「し、小説のあらすじを、そのまま言っただけなんですけど……」
「うん……」
しばし沈黙。まさか当たっているとは思っていなかったし、それは彼女もそうだろう。自分はこんな下らないことを明らかになんかしたくなくて、ただ、会話を続けたいだけなのだ。えっと、と昨日読んだ本では、どんな風にここから続けていたんだろうか。かすかな記憶をたどる。そして、思い当たる。
「ど、動機は、何ですか」
名探偵らしくなく、これで合っているのだろうかと不安になりながら言ってみる。きっと、これが王道だ。そんな自分の感情なんか気にせずに、彼女は答える。
「動機……、それ、あたしが言おうとしていたんだけどな。うーん、そうね。簡単に言うと、“退屈だった”ってことかしら」
うーん、合ってるかなー、と妙に余裕のある声で続ける。
「例えると、教室はね、ベッドなの。数々の悪意をスプリングとマットレスにして、その上に真っ白な嘘のシーツを掛ける。あたし達はそこに寝転んで、偽物の善と平和と戯れる。下にある真っ黒なものを見ないように、ね。ずっと寝てるだけだから、何の変化も起こらない」
でもね、と彼女が続けたその瞬間、自分の頬に細いすきま風が擦れた。
「人間って、寝てるだけでも、汗をかくものじゃない? そこから動かないあたしたちのそれはたまり続けて、いつかはシーツが透けるほどになる。そうなると、折角隠していた真っ黒なものが露見して、あー残念ってワケ。勿論、それはそれで面白いんだけど、面倒くさいんだよね、後始末が。全部透けてしまったら、もうそれは洗って干してひき直さないといけない。安心な寝床から一旦出ないといけない」
彼女はそう言い終わると何故か大きな窓を全開にし、冬の冷気を部屋に招き入れる。ばたばたとはためくカーテンを背景に、彼女の語りは続く。
「でも、それは嫌でしょ? ただでさえ冷たい冬の風にあたるのも嫌いなのに、刺さるもの、傷つけるものが一杯な世界なんて出たくない。あんたもそうでしょ?」
窓の外へ向かって言う彼女に、何を返して良いのか分からない。でも、何だかそれが彼女の真意のような気がする。多分、気付かれなかったのだ。彼女が暗躍して、平和を作っていることを。皆、自分たちの平穏を精一杯舐め回すことに集中していて、誰かがそれを支えている事なんて知らないし、気付かない。彼女が名探偵と名乗ったのは、それに気付いて欲しかったのだ。探偵役は、必ず注目され、感謝されるものだと相場は語っているから。きっと、彼女は褒めてもらいたかったのだ。何故だか、今、その糸がつながった。吹きすさぶ北風のおかげだろうか。
「名探偵は、嘘を暴く者でしょ? 本来、それはこの平和には存在してはいけない。何故なら嘘のシーツを取り去ってしまったら、この空間は崩れ落ちてしまうから。でも」
すう、と息を吸う音が響く。
「完璧に剥がすのじゃなくて、少しずつ、少しずつそのシーツの端々を千切り取って、新しい布に取り替えていくのはどうだろうか、とあたしは考えた」
そう言いながら、彼女は身を翻し、まっすぐ自分を見る。
「そうすれば、退屈なときに少しの刺激が加えられて、有意義な時間を過ごせるし、この楽園の平穏も保たれ、名探偵は存在を許される。一石三鳥の方法ってわけ。」
「わ、分かりません。あなたの例えが、わかりません」
思ったままに口に出せない自分が、今日は特に憎い。言ってやればいいのに。あなたのそれは所詮自己満足で、誰の役にも立っていない。そうばっさり言い切りたいのだが、いつもの理由以外とまた別の何かが、それを阻止している。その代わりに、言うはずの無かった言葉がぽろりと口から出る。
「でも、あなたは探偵の定義(ルール)からは大きく外れています。探偵役は犯人になってはいけないんですよ」
だから今読んでいる本はミステリーとは書けないのだ。探偵役が犯人となる小説は邪道で、ある意味存在不可能だ。犯人でもある彼女は本来、名探偵と名乗ってはいけないのだ。
「でも、それは小説業界だけの話でしょ? それに、これは小説じゃないし、第一、これが文になったところで、読者はこの回答を導き出せる訳がないの。あたしは何処にもヒントを落としていないから。その時点で推理小説として崩壊している。それに、あたしは他人の定義(ルール)に縛られるつもりはないの。自分が思う法則(ルール)にのっとって動くだけ。自称なんだし、自由にさせてよ」
「は、はあ」
不意に、やんでいた風が一気に窓から吹きすさんだ。彼女の長い髪が舞い、月明かりがそれを映し出す。いつの間にか日は沈み、電気を付けていなかった室内は月光だけが灯となった。その微かな光に導かれ、自分は彼女の瞳を見つめる。唇の形をした影がにやりと笑い、暗闇に言葉を響かせる。先ほどまでと打って変わって、明るい口調で彼女は言う。
「どう、楽しかった? この事件、どうだった?」
「どうって……。分かりません。この事件があったから自分はクラスに馴染めなかったのかもしれないし、これのおかげで他人の人格を理解した気もします」
「ふっ。あんたはそう言う言葉を選ぶのね。なるほど」
ふうん、と馬鹿にしたように納得する素振りを見せてから、
「でも、それはあんたが悪いんじゃないの?」
と、自分の痛いところを突いてくる。さっきまでは自分の首に優しく巻かれていた彼女の言葉の布が、一気に殺意を剥き出しにして、自分の首を絞めてきたようだ。
「えっ?」
「あんたがもし、本なんか読んでなくて、笑顔でクラスメイトの陳腐な質問に答えていたら、あのいざこざの中、誰かと笑い合っていたかも知れない。もし、何かを聞いていたら、少しはあの場の空気は変わっていたかもしれない。『転校生の前で、いきなり修羅場なんて』みたいな、ね」
言われてみて、なんだかすぐにそんな光景が目に浮かんだ。
「実現不可能って訳ではないでしょ? あたしが“名探偵”なんてことを信じるよりもずっと簡単。どうしてあんたはそうしなかったのかしら」
そう言われれば、と思う。そう言えば、何故自分は本を読んだのだろうか。それが安全だから? いつもそうしていたから? そこに深い意味は、在るのだろうか。するするっと首の布が取り払われ、自分の髪の毛がばさあっと風になびき、首筋に冷たい空気が通った。
「つまりは、そういうことよ。この事件の真意は、そういうこと」
「あたし(名探偵)が解決したのは、」
最後は決め台詞らしく、彼女は指を鳴らして、言った。
「あんたの事件ってわけ」
***
何故今自分がこんな思い出話を書き出したのかというと、今現在の状況を把握するためだ。只今、自分は困惑している。今までで一番、状況が掴めていないと言っても過言ではないだろう。
自分はまだ学生だ。なんといったって、まだこの「名探偵」と会って三年しか経っていないのだ。あの時自分は中学生で、今は高校生だ。あの会話以来、なぜだか少数のクラスメイトと仲良くなることができ、新入生を見て馬の骨だと馬鹿にできるぐらい学校にも馴染んだ。よって、自分が悩んでいるのは人間関係がギクシャクしているとかそんなのではない。もしそうだったら、この過去を思い出して書いたこれは、ただの自己憐憫を誘う、自己中心的な物でしか無くなる。そうじゃない。過去をそんなものに使うほど、自分は暇でも馬鹿でもない。そうじゃなくて、この回想録の使い道は、もっと大きな事件を整理するためだ。そのためには過去を、自分以外の目線で彼女を見つめてみる必要があったのだ。まあ、最後の方はリアルが急激に忙しくなり、最も重要なところが駄文になってしまったが。
いま、自分はあの時と同じ制度の学校に通っているから、今も寮で、ルームメイトと部屋を共同で使っている。
問題なのは、そのルームメイトなのだ。
そいつは彼女以上にやっかいで、不可解な謎を抱えている。
だって、そいつの外見は自分と全く(、、)同じで、そして――。
内面は、微々たる差異もないほど、完璧に。
彼女だったのだから。
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***
残念だ。非常に残念だ。無慈悲で薄情な人だと思っていたのに、と意味のない嘆きを宙に吐き出して前を向く。にやっと、整った口角が上がり一言。
「左様なら」
***
あれは秋の終わり、木枯らしが吹き始める頃合いだった。
自分は確か青春真っ盛りといわれる年齢で、そしてそれを楽しんでいなかったはずだ。全てが自分を傷つけて、何もかもに意味がないと思っていた。懐旧するのも恥ずかしい、思い出すべきでない過去となっているそのとき。自分は、彼女と出会った。
彼女と出会い、恋に落ち、今現在の自分になるという非常にありふれた話ではない。そんな優しい現実はない。だって自分は、彼女から絶望や凄愴な感情ばかりを知ったのだから。
彼女と初めて会ったのは、同室となった寮の部屋の中だ。自分は転校生で、たまたま一人だった彼女の部屋に入ることになった。寮室の中、たどたどしく自己紹介をし「はいそれじゃあこれから貴方達はルームメイトね」と教師に言われた後、彼女の目に浮かんだ絶望の様な色を、今でも覚えている。
「私の城を、よくも荒らしに来たわね」
凛とした声で、彼女はそう言った。バタンと扉が閉まった直後のことだった。艶々とした髪と、妖艶な光を携えた目、唇。フランス人形の如く整った容姿の人からそんなことを言われるなんて、と驚いたものの、どこかで自分は納得していた。やっぱり、自分とはこんな存在なのだ。いない方が良い、疎まれる存在。ああ、そうか、と考え込んで何も返さない自分を見て何を思ったのかは分からないが、彼女は、
「まあ良いわ。話は明日。それがあんたのベッドだから」
と吐き捨てるように言って、さっさと彼女の寝床に潜り込んでいった。
自分は、何も分からず言われるままに、寝心地の良さそうなベッドに倒れ込んだ。長旅の後に睡眠は必須。これはいつも変わらない法則だから。
違うな、目を開けた後からだ、本題は。
目を開けたとき最初に映ったのは、うるさく吠える目覚まし時計と、女王様の如く足を組んでベッドの柵に座る彼女の姿だった。
「遅い」
心底不機嫌そうな声でそう言うと、つかつかと自分の前に歩み出してまた一言。
「阿呆」
その顔には、見るだけで反吐が出そうなぐらいお前なんか嫌いだとはっきりと書いてあり、握りしめている手を見ると、恐れをなして静かになった時計の針が一直線に並んでいた。長針は……、四を示している。と、いうことは、まさか、短針は……。
恐る恐る彼女の顔を見てみた。冷たい汗がこめかみを流れる。
「十時二十分」
完全なる、遅刻だ。
*
「とんだ度胸の持ち主がおいでなさったようで」
唇から零れる嫌味は、着実に自分の心に刺さって、反論する気力を削いでいく。話は制服に着替えてからと言いたいのだろうか。彼女は自分に背を向け、勉強をし始めた。とりあえず、寮室を見ながら着替えよう。
昨日はすぐ眠ったので全く見ていなかったのだが、どうやらこの部屋、やたらと豪華であるようだ。自分が寝ていたベッドの布団はふかふかしているし、高そうな木で作られているし。敷かれている絨毯も濃い深紅で、落ち着いた高級感を醸(かも)し出している。そしてそれに何故か釣り合う勉強机。他に何もないのに、これだけで十分と言わせてしまう空気が流れている、そんな場所。自分には、全く似合わない所だ。
「似合わないわね」
はっと気がつくと、彼女がこちらを見ていた。こちらの心を除いたかのような発言に、何故か背筋が凍った気がした。
「そ、そうですか……」
「全くもって、そうね。まあ、それは良いわ。まず、自己紹介を」
「え?」
この人のリズムについて行けない。自己紹介って、昨日したじゃないか。
「大人の前で本音が言えるわけ無いでしょ。名前はいいわ。この前散々聞いたから。そうね……、職業とか」
「職業……?」
「そう、何か無いの? 面白いこと」
職業と言われても、一学生が愉快な仕事をしているわけがない。一番無難な回答を。
「が、学生、です」
「はっ、つまんな」
鼻で笑われてしまった。では、貴方は何か面白い職を手にしているのかと若干の憤慨を感じていると、彼女はそれを見透かしたかのようににやりと嗤い、言った。
「あたし? あたしはね……、そう」
息継ぎの間が、煩わしくて、憎い。彼女の口が再び開くのは、ラグナロクを告げられた者達と自分が同じ気持になったときだ。そんな場違いで無駄に壮大な例えが、なんだか不思議としっくりくる。
「――“名探偵“ってところかしら」
*
「め、名探偵ぃ、です、か」
少女は一人混乱の最中だった。それを見たもう一人は、それを楽しむかのように高慢な笑みを浮かべ、言う。
「そうよ。どう、面白いでしょう」
「あ、はい、面白い、です。はい」
どんな言葉を並べたら、この人は喜ぶんだろう。それと同時に、訳の分からない単語に興味がいき、結局虻蜂取らずの中途半端で、少女は何も言わない。そして、またその混乱の輪を加速させようと、もう一人は混沌(カオス)の糸で言葉を編んでいく。
「そう。信じてないのね。じゃあ、証明してみましょう」
「え……、えっ? 別に、信じて無いとか、そういう事じゃなくて」
「いいの。やってあげる。あたしがやりたいだけだから」
「そ、そうですか。なら、お願い、します」
少女の言葉を聞いたもう一人は、不敵に口角を上げた。そして、大きな目玉をぐるりと一回転させてから、
「じゃあ、一週間」
と、またしても悪役じみている、どうやっても名探偵なんかが言う口調じゃない風に言い、続けた。
「一週間以内に起こる事件を解決してあげる」
「え?」
意味不明だという風に目を見開く少女を、やはり面白そうにもう一人は見る。その目の異様なまでの輝きが、この言葉が冗談ではないことを示して、少女の背筋に悪寒が走る。
「そうすれば、信じてもらえるかしら」
嘘だ、と思う。事件なんて起こらないし、起こるはずがない。自分が転校生だともてはやされ、またいつものように飽きられるだけ。少女は呪文のようにそれを繰り返し、重たい足を持ち上げながら教室へ向かう。どうせ自分はこれから典型的な自己紹介をして、最初の一時間ぐらいは「わ~、転校生? なんて名前? どこから来たの?」なんていう質問攻めで、自分がどう答えて良いか分からずしどろもどろしている間に皆離れていくんだ。そして自分一人孤独に本を読んでいる。そんな二時間後の姿が想像できて、少女は溜息を吐く。まあ完璧に当たっていて、こんな想像、ただの感傷だと言えないのだが。
「ねえ、どう思う、これ」「ええっ、これって、あの……」「そうよ、絶対言っちゃ駄目だから」「えっ、でも……」「いい、約束破らないと絶交だから」「うん、分かった。言わない」「あ、何してるの?」「い、いや、何も。それより、それ、可愛いね」「そう? ありがと~」「高いんでしょ、それ」「ううん、それがね、これ、安かったの」「そうなの?」
隣の席の会話に耳をそばだててみると、何だか不穏な空気のする会話が飛び交っていた。その話の腰を折ったのは見知らぬクラスメイトで、彼女と誰かは慌てて話をそらした。面白くない。もう一度本に視線を戻す。隣の席に彼女が座ったことを、少し喜んだ自分は馬鹿だった。やっぱり、誰も話しかけて来ない。唯一無二の友である小説は、いよいよ核心に迫ったらしく、切羽詰まった様子がひしひしと伝わってくる。探偵役が、犯人に追い詰められ、生きるか死ぬかの窮地に立たされている。和気藹々とした隣の集団とは全く違うと、少女は一人、考えていた。
「ねえ、聞いた?」「何を?」「例のあの件のことよ。知らない?」「うん、初耳」「ええっ、そうなの? じゃあ、教えてあげる。えっとね、」「あっ、何話してるの?」「えっ、ああ、ううん、何でもないよ。それよりさ」
盗み聞き二日目。また、いいところで邪魔が入った。小説は相変わらず修羅場で、読んでいてつらい。慟哭と悲鳴の嵐だ。よくよく考えると、昨日から一ページしか進んでいない。隣席の会話とは間逆だ。中々佳境に入らない。話をそらす侵入者は、狙ってこんなことをしているのだろうか。少女はページをめくりながら考える。〈さっさと話しやがれ!〉小説の中の住民は叫んだ。その通り。小さな呟きは、騒音の教室の中、誰にも伝わらずに、消えていった。
気付いた。今日は水曜日で、あの日は日曜日だったのだ! うわー、もっとゆっくり寝ても大丈夫だったのにと落胆しても、それを気にする程人間ができている者はいない。無慈悲で利己的が鉄板だと言わんばかりの冷たさが、この教室の談笑を作っている。優しさなんて、古い。転校生なんて、ニュースバリューがなくなれば、ただの空気だ。まあ、今日は少し事情が違って、注目されないのだが。
「ちょっと、なによそれ!」
甲高い叫び声が教室中を駆け巡り、居心地の悪い静寂をもたらす。さすがの少女も、これには驚き、現場を見た。顔を朱に染めながら罵声を次々と浴びせる者と、それに反論し、叫ぶ者。どちらも月並みな言葉ばかりで、水掛け論はひたすら続く。周囲の者はただひたすらその光景を見る部外者となり、それを止めようとはしない。内心は興味津々なのだが、ずっと見ていると不審に思われるので、少女は本を読む。それはよくあるミステリーのようなもので、栞を挟んでいる場所は、丁度犯人と対峙している所だ。一昨日から読み始めて、半分のところで止まっている。昨日、辛すぎて読むのをやめたからだ。
「知ってるわよ! あんた、私のこと、ずっと、ずっと」
隣席の罵詈雑言をBGMにしながら、少女はページをめくる。
「あんただってそうじゃない! あたしに内緒で、よくもあんな事を」
「お互い様ね。あなたは私の秘密をばらす。私はあなたの」
「あんたはあたしとあいつの縁を切ろうと行動をした!」
「そうよ! それが何? それが、それが、何だって言うのよ!」
辺りを切り裂く声の後、よく教育されたチャイムが鳴り響いた。本を閉じる音が小さく続く。今日は収穫。少女は思う。隣の話が発展した。毎日重い沈黙がのしかかる寮室に、久々に会話が生まれるかもしれない。日曜日の謎の宣言以来、彼女は全く口を開かない。会話の生まれない場所で二人なんて、地獄以外の何物でもない。
「今日は見ておきなさい。今日、事件を解決してあげる」
「事件、ですか?」
朝、少女が眠気眼を擦っていると、突然もう一人が口を開いた。
「そう。もう、起こっているの、分かるでしょう?」
「い、いや、分かりませんでした」
「嘘。ずっと話し聞いてたでしょ、あんた。休み時間、本一ページも読めてなかったよね」
気付かれていた。軽く衝撃を受けた少女を、もう一人は見逃さない。
「やっぱり。まあ、これで作戦成功って訳だけど」
「えっ?」
「種明かしは事件が解決してから。これ、探偵の法則(ルール)ね」
そう言い放つと、もう一人はスタスタと先に部屋を出て行った。どうやら、木曜日には本当に雷の神が住んでいるらしい。ということは、今からは豪雨ということなんだろう。そこからどんな風に天気が変わるのか。それは名探偵である彼女の采配次第であるのだ。そんなことは鈍い自分でも分かると考えながら、少女は制服に袖を通し、重い寮室の扉を閉め、教室へ向かう。寮と学校までの道のりは、ただひたすら赤い絨毯に沿って歩くだけ。階段を上っては下りて、ただ道の思うままに進んでいくと、陰鬱な場所に辿り着くのだ。
「ようは、貴方は嘘を暴かれて恨んでいて、貴女は恋仲を引き裂かれてイラッときたと」
「そうよ」「そう」
「でも、可笑しくない、これ?」
「何処が?」「何処がよ」
「もう、因果応報の法則で、これは相殺されているんじゃないの?」
「嘘っ。そんな筈無いじゃない。こんな奴と同じ訳がないでしょ!」
「そうよ。全然違うわ! 一緒にしないでよ!」
「いや、だから同じだって。目には目を歯には歯を精神で、罪には罪を。両方とも、相手を陥れようとしている、ってことで共通だし。それに」
「それに?」「それに何よ」
「迷惑なの。教室内でいざこざ起こされて、それを聞く苦痛を、あなたたち、知らないでしょ」
『うっ』
「皆、平和が好きなの。知ってるわね。それを乱す者は、どうなるか、分かってる?」
『……』
「分かった?」
目の前で繰り広げられる応答は、めまぐるしく形を変え、最後はこじつけの大団円の形をとったようだ。いや、違う。こんなもの、丸く収まったなんて言えるわけがないのだ。
ふっと、何か視線を感じると思い、少女はもう一人の方を見た。案の定、二つの目がこちらを向き、なにやら意味深な光を放っていた。その、なにやら物騒なことを考えていそうな瞳を見て、少女は嫌な予感しかしなかった。そんな感覚を背中に引き連れながら一日を過ごし、少女はそれを振り払おうとしながら、教室から自室へ向かう。
「遅かったわね」
いつもより何倍も重たい扉を開けると、もう一人が数日前に会ったときと同じく足を組み、女王様の如く偉そうに待っていた。
*
「種明かし、楽しみじゃなかったの?」
彼女は自分が否定する事なんて、これっぽちも考えていないらしい。何処からその自信はわいてくるのだろうか。不思議だが、そこは重要ではない。とりあえず、話を聞くことが先決だ。
「えっと、いや、ちょっと用事が……」
「まあ、そんな事はどうでもいいの。とりあえず、言ってみてよ、あんたの推理。いっつも一人でやってるから、他人の言葉なんて聞いたことないの。だから」
「は、はあ……」
推理、だと。そんな洒落たことなんか心得たことはないし、第一、素人がそんな簡単にできるものでもないのに、彼女は何を言っているのだ。とりあえず、今読んでいる本からそっくりそのまま抜き出してみる。
「えっと、つまりあなたは……、自作自演の名探偵です」
昨日読んだ場面を思い出す。えっと、確か、あれは自分が仕掛けた事件を解いていることがばれて、名探偵が窮地に立たされた所だ。
「彼女たちに口論を起こさせ、その仲裁を行った。それを解決と呼びました」
やっぱり、自分は探偵には向かない。こんな一番盛り上がらなければならない推理シーンで、二回しか口を開かないなんて、失格だ。
そんな事を考えていても、この部屋には何も声が生まれない。それに驚き彼女を見ると、なにやら恰好はそのままで、難しそうに腕を組み、口をへの字にしていた。
「あれっ、ばれ、ばれちゃってた……?」
小さな声で、詰まりながら言うその言葉に、さっきまでの威厳みたいなものは感じられなかった。いや、それよりも。
「合って、たん、です、か」
「うん……」
「し、小説のあらすじを、そのまま言っただけなんですけど……」
「うん……」
しばし沈黙。まさか当たっているとは思っていなかったし、それは彼女もそうだろう。自分はこんな下らないことを明らかになんかしたくなくて、ただ、会話を続けたいだけなのだ。えっと、と昨日読んだ本では、どんな風にここから続けていたんだろうか。かすかな記憶をたどる。そして、思い当たる。
「ど、動機は、何ですか」
名探偵らしくなく、これで合っているのだろうかと不安になりながら言ってみる。きっと、これが王道だ。そんな自分の感情なんか気にせずに、彼女は答える。
「動機……、それ、あたしが言おうとしていたんだけどな。うーん、そうね。簡単に言うと、“退屈だった”ってことかしら」
うーん、合ってるかなー、と妙に余裕のある声で続ける。
「例えると、教室はね、ベッドなの。数々の悪意をスプリングとマットレスにして、その上に真っ白な嘘のシーツを掛ける。あたし達はそこに寝転んで、偽物の善と平和と戯れる。下にある真っ黒なものを見ないように、ね。ずっと寝てるだけだから、何の変化も起こらない」
でもね、と彼女が続けたその瞬間、自分の頬に細いすきま風が擦れた。
「人間って、寝てるだけでも、汗をかくものじゃない? そこから動かないあたしたちのそれはたまり続けて、いつかはシーツが透けるほどになる。そうなると、折角隠していた真っ黒なものが露見して、あー残念ってワケ。勿論、それはそれで面白いんだけど、面倒くさいんだよね、後始末が。全部透けてしまったら、もうそれは洗って干してひき直さないといけない。安心な寝床から一旦出ないといけない」
彼女はそう言い終わると何故か大きな窓を全開にし、冬の冷気を部屋に招き入れる。ばたばたとはためくカーテンを背景に、彼女の語りは続く。
「でも、それは嫌でしょ? ただでさえ冷たい冬の風にあたるのも嫌いなのに、刺さるもの、傷つけるものが一杯な世界なんて出たくない。あんたもそうでしょ?」
窓の外へ向かって言う彼女に、何を返して良いのか分からない。でも、何だかそれが彼女の真意のような気がする。多分、気付かれなかったのだ。彼女が暗躍して、平和を作っていることを。皆、自分たちの平穏を精一杯舐め回すことに集中していて、誰かがそれを支えている事なんて知らないし、気付かない。彼女が名探偵と名乗ったのは、それに気付いて欲しかったのだ。探偵役は、必ず注目され、感謝されるものだと相場は語っているから。きっと、彼女は褒めてもらいたかったのだ。何故だか、今、その糸がつながった。吹きすさぶ北風のおかげだろうか。
「名探偵は、嘘を暴く者でしょ? 本来、それはこの平和には存在してはいけない。何故なら嘘のシーツを取り去ってしまったら、この空間は崩れ落ちてしまうから。でも」
すう、と息を吸う音が響く。
「完璧に剥がすのじゃなくて、少しずつ、少しずつそのシーツの端々を千切り取って、新しい布に取り替えていくのはどうだろうか、とあたしは考えた」
そう言いながら、彼女は身を翻し、まっすぐ自分を見る。
「そうすれば、退屈なときに少しの刺激が加えられて、有意義な時間を過ごせるし、この楽園の平穏も保たれ、名探偵は存在を許される。一石三鳥の方法ってわけ。」
「わ、分かりません。あなたの例えが、わかりません」
思ったままに口に出せない自分が、今日は特に憎い。言ってやればいいのに。あなたのそれは所詮自己満足で、誰の役にも立っていない。そうばっさり言い切りたいのだが、いつもの理由以外とまた別の何かが、それを阻止している。その代わりに、言うはずの無かった言葉がぽろりと口から出る。
「でも、あなたは探偵の定義(ルール)からは大きく外れています。探偵役は犯人になってはいけないんですよ」
だから今読んでいる本はミステリーとは書けないのだ。探偵役が犯人となる小説は邪道で、ある意味存在不可能だ。犯人でもある彼女は本来、名探偵と名乗ってはいけないのだ。
「でも、それは小説業界だけの話でしょ? それに、これは小説じゃないし、第一、これが文になったところで、読者はこの回答を導き出せる訳がないの。あたしは何処にもヒントを落としていないから。その時点で推理小説として崩壊している。それに、あたしは他人の定義(ルール)に縛られるつもりはないの。自分が思う法則(ルール)にのっとって動くだけ。自称なんだし、自由にさせてよ」
「は、はあ」
不意に、やんでいた風が一気に窓から吹きすさんだ。彼女の長い髪が舞い、月明かりがそれを映し出す。いつの間にか日は沈み、電気を付けていなかった室内は月光だけが灯となった。その微かな光に導かれ、自分は彼女の瞳を見つめる。唇の形をした影がにやりと笑い、暗闇に言葉を響かせる。先ほどまでと打って変わって、明るい口調で彼女は言う。
「どう、楽しかった? この事件、どうだった?」
「どうって……。分かりません。この事件があったから自分はクラスに馴染めなかったのかもしれないし、これのおかげで他人の人格を理解した気もします」
「ふっ。あんたはそう言う言葉を選ぶのね。なるほど」
ふうん、と馬鹿にしたように納得する素振りを見せてから、
「でも、それはあんたが悪いんじゃないの?」
と、自分の痛いところを突いてくる。さっきまでは自分の首に優しく巻かれていた彼女の言葉の布が、一気に殺意を剥き出しにして、自分の首を絞めてきたようだ。
「えっ?」
「あんたがもし、本なんか読んでなくて、笑顔でクラスメイトの陳腐な質問に答えていたら、あのいざこざの中、誰かと笑い合っていたかも知れない。もし、何かを聞いていたら、少しはあの場の空気は変わっていたかもしれない。『転校生の前で、いきなり修羅場なんて』みたいな、ね」
言われてみて、なんだかすぐにそんな光景が目に浮かんだ。
「実現不可能って訳ではないでしょ? あたしが“名探偵”なんてことを信じるよりもずっと簡単。どうしてあんたはそうしなかったのかしら」
そう言われれば、と思う。そう言えば、何故自分は本を読んだのだろうか。それが安全だから? いつもそうしていたから? そこに深い意味は、在るのだろうか。するするっと首の布が取り払われ、自分の髪の毛がばさあっと風になびき、首筋に冷たい空気が通った。
「つまりは、そういうことよ。この事件の真意は、そういうこと」
「あたし(名探偵)が解決したのは、」
最後は決め台詞らしく、彼女は指を鳴らして、言った。
「あんたの事件ってわけ」
***
何故今自分がこんな思い出話を書き出したのかというと、今現在の状況を把握するためだ。只今、自分は困惑している。今までで一番、状況が掴めていないと言っても過言ではないだろう。
自分はまだ学生だ。なんといったって、まだこの「名探偵」と会って三年しか経っていないのだ。あの時自分は中学生で、今は高校生だ。あの会話以来、なぜだか少数のクラスメイトと仲良くなることができ、新入生を見て馬の骨だと馬鹿にできるぐらい学校にも馴染んだ。よって、自分が悩んでいるのは人間関係がギクシャクしているとかそんなのではない。もしそうだったら、この過去を思い出して書いたこれは、ただの自己憐憫を誘う、自己中心的な物でしか無くなる。そうじゃない。過去をそんなものに使うほど、自分は暇でも馬鹿でもない。そうじゃなくて、この回想録の使い道は、もっと大きな事件を整理するためだ。そのためには過去を、自分以外の目線で彼女を見つめてみる必要があったのだ。まあ、最後の方はリアルが急激に忙しくなり、最も重要なところが駄文になってしまったが。
いま、自分はあの時と同じ制度の学校に通っているから、今も寮で、ルームメイトと部屋を共同で使っている。
問題なのは、そのルームメイトなのだ。
そいつは彼女以上にやっかいで、不可解な謎を抱えている。
だって、そいつの外見は自分と全く(、、)同じで、そして――。
内面は、微々たる差異もないほど、完璧に。
彼女だったのだから。
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夜更かしの絶望。
1
鬱陶しい、と言う声が聞こえた。その人の周りに人がいないので、おそらく風である我に言っているのだろう。まあ、周りで風切り音を容赦なくブンブン言わしておいて、そのままわざと向かい風になるように吹いているのだから仕方が無い。
風、と言うと良いイメージを持つ方と、その逆の感情を持つ方の二つに分かれると思う。追い風、と向かい風。でも、向かう人の方向違いでその考えは変わるので、ご容赦願いたい。
しっかし、この男も変わっている。我に鬱陶しいと言ってから、どうやら他の人の悪口まで言っている。兵士だろうから戦争のストレスで、脳内回路が悪口しか思いつかないようになってしまったようだ。何年も前に吹き抜けた人の中には、ストレスで「あ」としか言えなくなった老人や、泣くことにしか命を使えなくなった子供はいたが、こんな人は始めてだ。
戦争は、ちょっと昔から地球全体で起きている。数百年前に「平和」はどうたらこうたら言っていた人間に見せてあげたいほど、彼らが住んでいたところは荒野と化し、現在は本当に「戦場」となっている。というのは、戦争が発生したために人間は我ら風が届かないなんたらと言う星に移住したからである。人々はゲームを観戦するように戦争の結果を見、誰も悲観的にそれを見ることもなく自分たちの生活を送っている。今、この星の王となっているのはほんの少しの兵士と、雑食のかつて“害虫”と呼ばれていた奴だ。
おっと、そうこうしているうちに兵士は先の方へと進んでしまっていた。別に先に進んでもらっても支障はないが、久々に見た人間だ。後を追いかけてみるのも暇つぶしになりそうである。
おっと、一つ注釈を。風が喋る事に異論を唱えたくてうずうずしている方にひとつ。誰が、大脳で考えることが“普通”であるとしたのか?
それが、万物の共通であると、誰が分かるのか?
*
細波の音。その男の周りに吹いたときに感じたおと。そして懐かしき過去の記憶と共に聞こえてきたのは男の怒声だった。
「何っ! 敵国(あやつ)にやられただと⁉ それはばたばたお前らがしくっているからだろうがっ‼」
男の口調は激しく、怒りと共に生きてきた人の声をしていた。男が入っていったのは軍のキャンプで、やたらと屋根が茶色く臭く、中に入ることが躊躇われるほどのものだった。科学技術が発展していると威張るのなら、ここまでちゃんとやればいいのにと思う。
「はあ? ふざけてんのかお前!」
その声と共に何かが割れる音もした。音を伝える空気となっている同胞が哀れでならない。こんなことならついてこなければ良かったと、ここから出ようとしたとき、ごにょごにょと話し声がして
「ふん、分かった。そこには俺が行く。あっ、後マーはついてくるように」
といかにも“ぶった”感じの威厳で叫んで出てきた。振動していた同胞も、きっと安心しているだろう。そして、きっと我の地獄の始まりだろう。こんな奴、付いてくるんじゃなかった。
でも、後悔というものは恐ろしく、逃げる元気も奪いく。そして、風というのは動かないと怒られる職業なのである。
2
隊長が運転するおんぼろの車が着いたのは戦場では無く、無人の町に着いた。まあ、当たり前である。人がいると大事になる。自分が心配していたのはそのことだ。
人影の目撃情報があったらしい、と新入隊員はぼそぼそと言った。確実に敵国の攻撃の予兆のようなのに、必要のない雑務の話と一緒に伝えて、その新入隊員は怒鳴られていた。その声はもちろん隣にいた自分にも刺さって、今でも頭の中をぐるぐる回っている。
ぐるぐる回るうるさい声で頭の中はめちゃくちゃであり、考えなくてもいいことまで考えてしまう。自分は、なぜここにいる? 隊長は、なぜ自分を呼んだのだ? この前から、なぜか自分は隊長に気に入られる節がある。嬉しいことなのだが、鬱陶しい。そういうのが一番嫌いなのだ。
「降りるぞ」
すぐに遮る声が聞こえて「ぎぃっ」、といかにも怪しい音を立てながらドアが開いた。仕方なく砂埃のたまった道に降りてあたりを見回した。そこは、人が住んでいたときにはきっと「高級リゾート」という文字が旅行パンフに躍っていそうなほど威厳があり、そして隠れるのにうってつけの森も奥にあって、海のにおいもした。もしも実家に帰ってこんなところに行ったんだ、と言うと姉あたりが喜びそうな感じ。
自分がこんな具合にのんびり観察していると、隊長がなにやらぶつぶつ呟いていた。おかしいな、と思って声をかけてみても返事は呟きの中の“うるさい”だけで相手にもしてくれなかった。
しかたなしにもう一度周りを見渡してみた。木、家、壁、道、家、木、白い服。……、白い服……?
えっ、と思った次にもう白い服を着た何かは走り出していた。
「た、隊長っ!」
自分は叫ぶと指差すしか能のない隊員Aになり、隊長が白い何かを追いかける後を追った。
3
いきなり何かを追いかけて二人が走り去ったので、驚いてしまった。我も老けたものだと一呼吸おき、ひゅいっと飛ぶとすぐに追いついた。男らはまだ“白い服を着た何か”に追いつけず、必死になっていた。
もちろん、我がその前に吹くことで“白い服を着た何か”を止めることはできる。しかし我にそんな義理はなく、人を止めるほどの風になるにはかなりの体力がいる。そして、老けた我にそんな体力は微塵も残っていない。ここはじっくりと人間の皆様にがんばってもらおう。そう思ったとき。
びったーん、という大きな音がして“白い服を着た何か”がこけた。そして、男らは待ってましたとばかりにそれに羽交い絞めをくらわしていた。大人気ない。実にそう思った。
“白い服を着た何か”だった少女は羽交い絞めを心底不快に思ったらしく、白い犬歯をむき出しにしてなにやら叫んでいた。髪は黒で、目も黒。昔東洋で見た顔に似ているようだが、なんだか違う気もする。
「ヘリー! お前、ここで……、ここで」
「これはこれはお久しぶりです隊長さん。お元気でしたか?」
「お久しぶりですじゃねえよ! なに軍を荒らしてんだこの野郎!」
「それは勝手にあなたの無能な部下が勘違いをしたからいけないのでしょう。わたくしのせいではございません」
男はいきなり少女に向かって話し出し、少女もそれに答えていた。旧知の仲のようであり、その横が残されていた。
「あの……」
横が申し訳なさそうにそう言うと、男はあっ、と言ってなにやらもぞもぞと話し始め、我の体は震えだした。
※
ひどく寒い秋の日だった。柱時計は何度も鳴り、数え切れないほど鳴った。地球を離れるまで後数日。皆は焦り始めて町はそわそわし、のんびりしていた野良猫までもが町の空気に押されていた。
そこそこの知名度の人形師だった俺は、地球にいる最後の仕事として、本当の“人形”――つまり、人の形のものをいろいろな材料から作ることにした。それは地球を離れる五十日前から始めたので、数字にまつわる名前を人形につけた。五十ならルージュ、という具合にわからないようにしながら。(ちなみにルージュは五十→五重塔→奈良→東大寺→東大→赤門→赤→口紅→ルージュ)
はじめは植物が中心だった。だが、途中からそれではせっかくの最後なら特別な材料を、という欲望が強くなっていった。最後の仕事ぐらい派手にやりたい。そして、たまたまテレビのワイドショーでやっていた公にされたクローン人間という選択肢を思いついたのだ。幸い、その業者の社長とは面識があり、クローン人間の端くれをもらえることになった。
人間から、人の形にする。その作業は難航した。もともと人間なのだから、そのままにすればいいと分からない人は言った。それでは人形ではなく、人間である。溜め息の数は、その日が俺の人生で一番多かったと思う。感情がないのは人形。操られて動くのが人形。でも、人間をその形にするのはいいのか? ずっとそればかりだった。クローン人間が届く前日は全く作業が進まず、毎日つくっていた人形もこの日だけはつくることができなかった。そして、考え事のために夜遅くまで――たぶん新聞配達がくるころまで――起きていた。どうやったら人間を人形にできるのか、どうやったら人間だと気づかずに人形にできるのか。一日葛藤して、答えは出なかった。結局、人間からつくった十三番には名前と頭の中の考えを凡人が考えることにして個性をなくし、間違いの過去を植え付ける事しかできなかった。それは、人形ではなく人間だ。そう思って俺は十三番を次の星に移住してものこる孤児院に送った。
そう、その日の俺は寝不足で頭がなかなか動かなかったのだ。そして、目もかすんでよく孤児院の広告を見ていなかった。そこには小さく、“クローンと思われる子は軍隊に送ります”と書いてあったのだ。そして、それに気がついたのはもう一体人間から人形を作ろうと決心したときだった。
考え方は、みんな違う。それだから人間だ。
過去をちゃんと持っているのは人間だ。
クローン人間は、必ずオリジナルよりも劣った物で、個人ではない。
その時の常識はだいたいそんな感じで、どれも十三番に当てはまることだった。“人形”は人間だと思われ、戦場に消えゆく。そんなことって、あるのか、と絶望し、そしてまた夜更かしをしてよく広告を見ていなかった自分に苛立った。
後悔しても仕方あるまい。次の人を人形にするときはこうしないように、夜更かしをしないようにと三番をつくるために十日を費やし、設計図を念入りにつくった。そして、実行に移した。
三番は、女だった。すこし意外だったが、まあなんとかなるだろう。そう楽観的につくっていったが、本当になんとかなった。これにはやった自分も驚いて、思ってもみるものだ、なんてつぶやいたものである。
三番には成長しない身体で、風が吹き抜ければ分かる程度に密度の改変を行った。もちろん十三番にも行ったが、あれはあからさますぎたと思う。どちらにしても、ひとは絶対に気がつかないけれども。後、十三番とは違う回路をぶち込んだ。ようは、オリジナルにない個性を入れて“人形”に仕立て上げたというわけだ。だって、ずっと同じ身体でおかしな考え方を持つ人間って、それほど居ないだろう?
まあ、そんなこんなで俺の地球生活は終了し、無事に次の星にも住めたわけだが。
そこで問題が発生した。三番のことだ。名前も付け、さあ孤児院へ送ろうと思った時。気付いたのだ。人形を、育たない人形を、どうやって人と一緒にするのか?
頭の回路が回る日に考えたから、まだ良かった。これが何かの間違いで、頭が悪い日にこうなったら本気でやばかった。いや、普通に考えてみろ。成長しません、交通事故にあっても死にません。頭のおかしな子です。……おかしくね? みたいな。
どうやら困った物をつくってしまった。そして俺は迷いに迷ってある選択をとったのだった。
*
「なんか無駄に引っ張りますね、隊長」
男の横にいるのがそうせかすように言うと、少女が口を開いた。想像していなかった登場に驚いたのか少し目を見開いたが、耳はちゃんと少女の方に向いていた。
「で、ね。この男はアホな行動に出たわけよ。このわたくしを地球にほっていったんですよ。人形が自分で生活できると信じて」
「そっ、それは無いんじゃないんですか隊長! って、あたくしをほっぽってって……あなた人形(三番)⁉」
「そうよ。こいつに個性をぶち込まれた人形よ。まあ、今の時代だったら“男女平等”だから女も戦場に行かなければならないからね。そうならなかった事には感謝してるわ」
「隊長、さっきあなたのこと“ヘリー”って呼んでましたけど……」
「ああ、あれはね、三番→sun→太陽→ヘリオス(ギリシャ神話の太陽の神)→ヘリーというわけ。可笑しいでしょ」
「す、すごいですね」
「ちなみに十三番は十三日→十三日の金曜日→金曜日→その頃はやっていた歌のFRiDAY-MA-MAGiCよりマーみたいな感じね」
「……えっ?」
「マーって、本名ではあんまり無いよね」
「えっ……。隊長?」
そう男の横に言われた男は気まずそうに、一言。
「あっ、あー」
と下手な濁し方をした。
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1
鬱陶しい、と言う声が聞こえた。その人の周りに人がいないので、おそらく風である我に言っているのだろう。まあ、周りで風切り音を容赦なくブンブン言わしておいて、そのままわざと向かい風になるように吹いているのだから仕方が無い。
風、と言うと良いイメージを持つ方と、その逆の感情を持つ方の二つに分かれると思う。追い風、と向かい風。でも、向かう人の方向違いでその考えは変わるので、ご容赦願いたい。
しっかし、この男も変わっている。我に鬱陶しいと言ってから、どうやら他の人の悪口まで言っている。兵士だろうから戦争のストレスで、脳内回路が悪口しか思いつかないようになってしまったようだ。何年も前に吹き抜けた人の中には、ストレスで「あ」としか言えなくなった老人や、泣くことにしか命を使えなくなった子供はいたが、こんな人は始めてだ。
戦争は、ちょっと昔から地球全体で起きている。数百年前に「平和」はどうたらこうたら言っていた人間に見せてあげたいほど、彼らが住んでいたところは荒野と化し、現在は本当に「戦場」となっている。というのは、戦争が発生したために人間は我ら風が届かないなんたらと言う星に移住したからである。人々はゲームを観戦するように戦争の結果を見、誰も悲観的にそれを見ることもなく自分たちの生活を送っている。今、この星の王となっているのはほんの少しの兵士と、雑食のかつて“害虫”と呼ばれていた奴だ。
おっと、そうこうしているうちに兵士は先の方へと進んでしまっていた。別に先に進んでもらっても支障はないが、久々に見た人間だ。後を追いかけてみるのも暇つぶしになりそうである。
おっと、一つ注釈を。風が喋る事に異論を唱えたくてうずうずしている方にひとつ。誰が、大脳で考えることが“普通”であるとしたのか?
それが、万物の共通であると、誰が分かるのか?
*
細波の音。その男の周りに吹いたときに感じたおと。そして懐かしき過去の記憶と共に聞こえてきたのは男の怒声だった。
「何っ! 敵国(あやつ)にやられただと⁉ それはばたばたお前らがしくっているからだろうがっ‼」
男の口調は激しく、怒りと共に生きてきた人の声をしていた。男が入っていったのは軍のキャンプで、やたらと屋根が茶色く臭く、中に入ることが躊躇われるほどのものだった。科学技術が発展していると威張るのなら、ここまでちゃんとやればいいのにと思う。
「はあ? ふざけてんのかお前!」
その声と共に何かが割れる音もした。音を伝える空気となっている同胞が哀れでならない。こんなことならついてこなければ良かったと、ここから出ようとしたとき、ごにょごにょと話し声がして
「ふん、分かった。そこには俺が行く。あっ、後マーはついてくるように」
といかにも“ぶった”感じの威厳で叫んで出てきた。振動していた同胞も、きっと安心しているだろう。そして、きっと我の地獄の始まりだろう。こんな奴、付いてくるんじゃなかった。
でも、後悔というものは恐ろしく、逃げる元気も奪いく。そして、風というのは動かないと怒られる職業なのである。
2
隊長が運転するおんぼろの車が着いたのは戦場では無く、無人の町に着いた。まあ、当たり前である。人がいると大事になる。自分が心配していたのはそのことだ。
人影の目撃情報があったらしい、と新入隊員はぼそぼそと言った。確実に敵国の攻撃の予兆のようなのに、必要のない雑務の話と一緒に伝えて、その新入隊員は怒鳴られていた。その声はもちろん隣にいた自分にも刺さって、今でも頭の中をぐるぐる回っている。
ぐるぐる回るうるさい声で頭の中はめちゃくちゃであり、考えなくてもいいことまで考えてしまう。自分は、なぜここにいる? 隊長は、なぜ自分を呼んだのだ? この前から、なぜか自分は隊長に気に入られる節がある。嬉しいことなのだが、鬱陶しい。そういうのが一番嫌いなのだ。
「降りるぞ」
すぐに遮る声が聞こえて「ぎぃっ」、といかにも怪しい音を立てながらドアが開いた。仕方なく砂埃のたまった道に降りてあたりを見回した。そこは、人が住んでいたときにはきっと「高級リゾート」という文字が旅行パンフに躍っていそうなほど威厳があり、そして隠れるのにうってつけの森も奥にあって、海のにおいもした。もしも実家に帰ってこんなところに行ったんだ、と言うと姉あたりが喜びそうな感じ。
自分がこんな具合にのんびり観察していると、隊長がなにやらぶつぶつ呟いていた。おかしいな、と思って声をかけてみても返事は呟きの中の“うるさい”だけで相手にもしてくれなかった。
しかたなしにもう一度周りを見渡してみた。木、家、壁、道、家、木、白い服。……、白い服……?
えっ、と思った次にもう白い服を着た何かは走り出していた。
「た、隊長っ!」
自分は叫ぶと指差すしか能のない隊員Aになり、隊長が白い何かを追いかける後を追った。
3
いきなり何かを追いかけて二人が走り去ったので、驚いてしまった。我も老けたものだと一呼吸おき、ひゅいっと飛ぶとすぐに追いついた。男らはまだ“白い服を着た何か”に追いつけず、必死になっていた。
もちろん、我がその前に吹くことで“白い服を着た何か”を止めることはできる。しかし我にそんな義理はなく、人を止めるほどの風になるにはかなりの体力がいる。そして、老けた我にそんな体力は微塵も残っていない。ここはじっくりと人間の皆様にがんばってもらおう。そう思ったとき。
びったーん、という大きな音がして“白い服を着た何か”がこけた。そして、男らは待ってましたとばかりにそれに羽交い絞めをくらわしていた。大人気ない。実にそう思った。
“白い服を着た何か”だった少女は羽交い絞めを心底不快に思ったらしく、白い犬歯をむき出しにしてなにやら叫んでいた。髪は黒で、目も黒。昔東洋で見た顔に似ているようだが、なんだか違う気もする。
「ヘリー! お前、ここで……、ここで」
「これはこれはお久しぶりです隊長さん。お元気でしたか?」
「お久しぶりですじゃねえよ! なに軍を荒らしてんだこの野郎!」
「それは勝手にあなたの無能な部下が勘違いをしたからいけないのでしょう。わたくしのせいではございません」
男はいきなり少女に向かって話し出し、少女もそれに答えていた。旧知の仲のようであり、その横が残されていた。
「あの……」
横が申し訳なさそうにそう言うと、男はあっ、と言ってなにやらもぞもぞと話し始め、我の体は震えだした。
※
ひどく寒い秋の日だった。柱時計は何度も鳴り、数え切れないほど鳴った。地球を離れるまで後数日。皆は焦り始めて町はそわそわし、のんびりしていた野良猫までもが町の空気に押されていた。
そこそこの知名度の人形師だった俺は、地球にいる最後の仕事として、本当の“人形”――つまり、人の形のものをいろいろな材料から作ることにした。それは地球を離れる五十日前から始めたので、数字にまつわる名前を人形につけた。五十ならルージュ、という具合にわからないようにしながら。(ちなみにルージュは五十→五重塔→奈良→東大寺→東大→赤門→赤→口紅→ルージュ)
はじめは植物が中心だった。だが、途中からそれではせっかくの最後なら特別な材料を、という欲望が強くなっていった。最後の仕事ぐらい派手にやりたい。そして、たまたまテレビのワイドショーでやっていた公にされたクローン人間という選択肢を思いついたのだ。幸い、その業者の社長とは面識があり、クローン人間の端くれをもらえることになった。
人間から、人の形にする。その作業は難航した。もともと人間なのだから、そのままにすればいいと分からない人は言った。それでは人形ではなく、人間である。溜め息の数は、その日が俺の人生で一番多かったと思う。感情がないのは人形。操られて動くのが人形。でも、人間をその形にするのはいいのか? ずっとそればかりだった。クローン人間が届く前日は全く作業が進まず、毎日つくっていた人形もこの日だけはつくることができなかった。そして、考え事のために夜遅くまで――たぶん新聞配達がくるころまで――起きていた。どうやったら人間を人形にできるのか、どうやったら人間だと気づかずに人形にできるのか。一日葛藤して、答えは出なかった。結局、人間からつくった十三番には名前と頭の中の考えを凡人が考えることにして個性をなくし、間違いの過去を植え付ける事しかできなかった。それは、人形ではなく人間だ。そう思って俺は十三番を次の星に移住してものこる孤児院に送った。
そう、その日の俺は寝不足で頭がなかなか動かなかったのだ。そして、目もかすんでよく孤児院の広告を見ていなかった。そこには小さく、“クローンと思われる子は軍隊に送ります”と書いてあったのだ。そして、それに気がついたのはもう一体人間から人形を作ろうと決心したときだった。
考え方は、みんな違う。それだから人間だ。
過去をちゃんと持っているのは人間だ。
クローン人間は、必ずオリジナルよりも劣った物で、個人ではない。
その時の常識はだいたいそんな感じで、どれも十三番に当てはまることだった。“人形”は人間だと思われ、戦場に消えゆく。そんなことって、あるのか、と絶望し、そしてまた夜更かしをしてよく広告を見ていなかった自分に苛立った。
後悔しても仕方あるまい。次の人を人形にするときはこうしないように、夜更かしをしないようにと三番をつくるために十日を費やし、設計図を念入りにつくった。そして、実行に移した。
三番は、女だった。すこし意外だったが、まあなんとかなるだろう。そう楽観的につくっていったが、本当になんとかなった。これにはやった自分も驚いて、思ってもみるものだ、なんてつぶやいたものである。
三番には成長しない身体で、風が吹き抜ければ分かる程度に密度の改変を行った。もちろん十三番にも行ったが、あれはあからさますぎたと思う。どちらにしても、ひとは絶対に気がつかないけれども。後、十三番とは違う回路をぶち込んだ。ようは、オリジナルにない個性を入れて“人形”に仕立て上げたというわけだ。だって、ずっと同じ身体でおかしな考え方を持つ人間って、それほど居ないだろう?
まあ、そんなこんなで俺の地球生活は終了し、無事に次の星にも住めたわけだが。
そこで問題が発生した。三番のことだ。名前も付け、さあ孤児院へ送ろうと思った時。気付いたのだ。人形を、育たない人形を、どうやって人と一緒にするのか?
頭の回路が回る日に考えたから、まだ良かった。これが何かの間違いで、頭が悪い日にこうなったら本気でやばかった。いや、普通に考えてみろ。成長しません、交通事故にあっても死にません。頭のおかしな子です。……おかしくね? みたいな。
どうやら困った物をつくってしまった。そして俺は迷いに迷ってある選択をとったのだった。
*
「なんか無駄に引っ張りますね、隊長」
男の横にいるのがそうせかすように言うと、少女が口を開いた。想像していなかった登場に驚いたのか少し目を見開いたが、耳はちゃんと少女の方に向いていた。
「で、ね。この男はアホな行動に出たわけよ。このわたくしを地球にほっていったんですよ。人形が自分で生活できると信じて」
「そっ、それは無いんじゃないんですか隊長! って、あたくしをほっぽってって……あなた人形(三番)⁉」
「そうよ。こいつに個性をぶち込まれた人形よ。まあ、今の時代だったら“男女平等”だから女も戦場に行かなければならないからね。そうならなかった事には感謝してるわ」
「隊長、さっきあなたのこと“ヘリー”って呼んでましたけど……」
「ああ、あれはね、三番→sun→太陽→ヘリオス(ギリシャ神話の太陽の神)→ヘリーというわけ。可笑しいでしょ」
「す、すごいですね」
「ちなみに十三番は十三日→十三日の金曜日→金曜日→その頃はやっていた歌のFRiDAY-MA-MAGiCよりマーみたいな感じね」
「……えっ?」
「マーって、本名ではあんまり無いよね」
「えっ……。隊長?」
そう男の横に言われた男は気まずそうに、一言。
「あっ、あー」
と下手な濁し方をした。
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今日夏号の製本が終わりました。図書館に置きます。今回は紙を図書館に援助してもらったため、漆黒・純白ともに100部ずつあります。ですが見学会に来られる人にも渡すためいつもより早くなくなるかもしれません。なので欲しい方はお早めにー(@゜▽゜@)もし貰えなくてもそのうちここに載せる予定です。
Byさつき
Byさつき
文化祭号の〆切は、7/21です。テーマは『本』『ハロウィーン』『ff(ふぉるてぃっしも)』の3つです。作品にいくつ入れても構いません。文化祭号は一般の人も見るので張り切って書きましょう!!(*^□^*)中3はリレー小説がんばろーねー!