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3学期 by杏

2014年05月04日
   雪の御伽噺(フェアリーテイル)

彼女は一体、誰だったのだろう。

雪が降る夜に現れ、
雪が融けはじめる朝に去った。

銀色の髪と白い肌は、この世に生を賜った者と思えぬ程美しく。
身にまとうワンピースは、まるで絹のようで。
突き抜けるようなスカイブルーの瞳は、いつも微笑んでいた。

彼女がいるだけで、明日も幸せだ、そう思えた。

なのに。
僕が〝好きだ〟なんて言ってしまったから、
彼女は僕の元を去った。

雪の結晶を、枕元に置いて。

僕は、もう一度逢える日を待ちわびながら、
あの子がくれた結晶に、そっと接吻(くちづけ)る。


3学期 byベルン

2014年05月04日
  1/10000000000
ベルン
 あれは確か、二〇世紀だったと思う。
 私は生まれた。
 この世界に、この地球に、
そして、この日本という国に生まれた。

四歳の頃だった。
初めて他の人と触れた。
その人の名前は覚えていないが、初めての感覚だった。
季節が冬だったせいか、とても冷たくて、乾いていて、
そして温かかった。

七歳の事だった。
初めて他の人を嫌いになった。
何故だったかは覚えていない。
でも嫌悪感は確かに私の心にあった。
でも、私だってやっぱり一人の人間だったわけで、
時が経てば、次第にその嫌悪感も薄れていった。

一二歳の時だった。
 初めてうれし泣きをした。
 私は涙は負の感情を示すものだと思っていたけれども、
 実はそれは全くの誤解だった、
 そう理解することができた。
 このときには、もうあの子は私のそばにいたっけ。
 
 一六歳の時だった。
 初めて人を好きになった。
 これまで経験した中で、一番強い感情だった。
 その感情は言葉ではこれ以上言い表せない、
 少なくとも私の知っている言葉では。

 三〇歳ぐらいだっただろうか。
 私に初めて彼氏ができた。
 周りからは、そしてあの子からは遅いと言われたけれども、
 私は全然構わないと思った。
 それだけ、あの人が良かったから。
 それだけ、あの人に付いて行きたかったから。
 それだけ、あの人に尽いて生きたかったから。

それから何年後だっただろう。
 あの子が消えた。
 唐突で、真っ黒で、そして何故か馬鹿馬鹿しくて、
 でも、それでも真実で。
 私は泣いた。
 泣いて泣いて泣き崩れて、
 壊れて壊れて壊れつくした。
 それでも、まだその時は良かった。
 私にはまだあの人がいたから。

 これは鮮明に覚えている。
 その出来事から丁度三年後だ。
 あの人もいなくなった。
 私はもちろん冗談だと思った。
 冗談だと思おうとした。
 でも、これも嘘じゃなかった。
 真実だった。
 確かなのに、不鮮明な真実だった。
 だって、いきなりだったから。
 私は泣いた。
 前よりも泣いた。
 前よりも壊れた。
 でも、私は思っているよりもさらに恐ろしい生き物だった。
 何故なら私はその悲しみをも簡単に忘れることができ、
 数年後には次の相手と結ばれるのだから。

 そのまた十年後。
 私の体がおかしいことにやっと気付けた。
 だって私はその時には十分歳をとっていたはずなのに、
 容姿が十六歳の時とまるで変わっていなかったのだから。

 あれから何千年経っただろう。
 あれから何人の人間と別れただろう。
 もうこの世界には私以外誰もいない。
 みんな消えていった。
 あるものは天命に従って、
 あるものは人の手によって、
 あるものは自然の手で、
 みんな灰になった。
 でも、私は生きている。
 でも、別れていった人たちは、みんな消えた。
 悲劇的で、喜劇的で、でも普遍的な結末だった。
 別れていった人たちは、みんな私の事を好きと言った。
 私も、好きだった、はずだった。
 でも、そのせいで悲しみが増したのも真実だ。
 私はどうすればいい?

 それから数日。
 私はあの場所に来た。
 あの人と一緒に来たこの場所。
 私が一番初めに「付いていく」と誓った人。
 あの人は見ているのかな……?
 まあ、いっか。
 もう、いいよね……?
 私だって死にはする筈でしょう……?

ひゅん。
 落ちる。
 私の足が、胴体が、腕が、そして頭が、
 地球の思し召しによって落下する。
 「じゃあね。どうかお元気で。」
 誰に言ったのかは知らない。
 全く、最後の最後まで何がしたいんだか。
 暗い、冷たい闇が迫って来る。
 闇と私が接触する。
でも、何故かまだ寒くはなかった。
むしろ、温かかった。
 『まだ、残っててくれたんだね』
 ああ。
 私の心って、
 まだこんなにも白かったんだ……

3学期 by魅烏

2014年05月04日
  とある月夜の出来事
魅烏

去年の三月、私は令(れい)の隣で眠っていた。
いつもいつも令の事を想って笑っていた。
今年の三月はそんな令が隣にいない。

 ***

私と月宮(つきみや)令の関係は、月宮財閥が経営する図書館の雇い主と一従業員というだけではなかっただろう。いや、正直に言おう、私たちはたぶん恋人と呼んでいい関係であった。「あった」と過去形なのは、私たちは離れる決心をしからだ。
別に喧嘩をしたわけではない。お互いに憎み合うほどの出来事があったわけではない。ただいつかはこうなるべきだった。そしてその日が訪れた。それだけのことだった。私はその言葉をもうずっと前から覚悟をしていたし、その日が近いことだってわかっていた。
それなのにいざその時がくると、ふと鼻を掠めた令の髪に、いつも当たり前のように近くに感じていた令のかおりに、あふれ出る涙を止めることができなくなった。
最後の最後であっても令は、「冬香の事を嫌いになんかなれない」という言葉をあまりにも辛そうにそういうものだから私の涙は止まらなくなった。ああ、この人は本当に酷い人だと思った。私は溢れんばかりの令への想いも必死で押し留めているのに。そんな私の決意も努力も全て無にしてしまうような甘い言葉を囁く。そんな事を言うくらいなら、いっそ「嫌いになったから別れて欲しい」くらいの事を言ってくれたほうが優しさだと思った。
もうこれ以上私に近づかないで欲しい。
令を感じさせないで欲しい。
そう思ったら、何かのスイッチが入ってしまったかのように、私の頭の中は令との楽しかった思い出ばかりがよみがえってきた。

 ***

昔はずっとこのまま一生一緒にいられるものだと思い込んでいた。ただ私は令が好きだと、令も私を好きでいてくれるという想いだけで何でもできる気がしていた。
 しかし大学を卒業し、令に誘われるがままに一緒に働くようになって突きつけられた現実。立ちはだかった令と私の間に置かれている身分という壁。令は日本有数の財閥の一人娘で、いずれはその全てを継いでいかなければいけない立場だった。何についても有能な令の事だから、手掛けている事業のことはそれほど心配もしていなかったし、きっとうまいこと月宮財閥を発展させていけるのだろうとは思った。
そうなると次に問題として浮上してくるのは世間体。令には適齢になれば結婚して後継者を残すというごく当たり前の事が、ある意味義務として付きまとうことになる。
そして私とではそれはできない。
令を微力ながら支えることは頑張ればできるかもしれない。でも、私は女で、どんなに頑張ったってそれは変えられず、令に子どもを授けてあげることはできないし、令の恋人でそして将来を約束した仲であると胸を張って表舞台に立つことなどできるわけがなかった。
その事は令の父親にも念を押された。
数日前、図書館を訪れた令の父親は私に数枚の見合い写真を持ってきて
「この中で令にはどの人が合うだろうか。私なんかよりもずっと長いこと傍にいる君の方が、令の好みや性格を知っていると思ってね」
と、言った。にこにこととても紳士的なその顔の裏に隠れた悪意に私はうまく返答することができていただろうか。
令の父親には令から私のことを恋人だと、一生添い遂げるつもりだと紹介してもらった。その事に令の父親は、「お前達の関係に口出しするつもりはない。ただ、この家を継ぎ、多くの従業員の生活を支えるという義務があることだけは忘れるな」と答えた。
完全に認めてもらっているとまではさすがに言わなくてもここまであからさまに拒否されるとは思っていなかった。現実は厳しいのだと再認識した。
「そんなこと気にしない。言いたい奴には言わせていればいい。後継者だって今時世襲なんて古いんだよ」と令は何度も私に言い聞かせるように言ってくれた。だけどその言葉を鵜呑みして、ただ自分の幸福のために令が世間から後ろ指を指されるのを黙って見ていることなど私には到底できそうになかった。
いつか離れる日の為に令と距離を少し置くようにした。令がそれを望まないことは分かっていた。自惚れかもしれないけれど、令はきっと世間体や他人(ひと)からの視線や評価よりも私を選んでくれるだろう。だけど、これは令だけの問題じゃない気がした。だから少しでもお互いの傷口が浅くすむように、私は自分の心を殺した。
悔しかった。誰よりも令のことが好きで、愛していて、ずっと一番近くで令を見てきて、この想いは誰にも負けない。それなのにいとも簡単にその座を家柄がよく、男性であるということだけで、名も知らぬ誰かに奪われてしまう。なんていう理不尽。どうしてそれが私ではないのだろうか。別に男に生まれたかったと言うことではない。私は令を支え、いつだって令の一番の味方でありたいと思った。嬉しいことも悲しいことも、令の一番近くで一緒に感じていたいと思っていた。いや、今だってそう思っている。それなのに……。悔しくて悔しくて私は唇をかみ締めた。
私は相も変わらず令が好きだ。令が好きだからこそ、私は令から離れたいと願っている。愛しているからこそ、私は令の枷にはなりたくない。

 ***

「どうした?」
私はこみ上げてきた涙ぐっと飲み込んだ。令に最後の我儘を聞いてもらってからはもう泣かないと決めた。決めたはずなのに、静かに涙を流す令を見ると、思いがけず自身の瞳からも涙が零れてしまった。本当に詰めが甘い人だと思った。別れを切り出しておきながら泣くなんて反則である。もう無理だ。これ以上自分の心を殺すことも、令から離れることもできない。一度零れ落ちた涙は、堰を切ったように溢れ出し、止め処なく流れ出した。そしてその涙と共に、私の口からも止められなくなった想いが言葉として溢れ出た。
「嫌なの……。令が誰かを……私以外の誰かを傍に置くのは嫌だ!」
令の枷にだけはなりたくなくて、令の華やかで順風満帆な未来を奪うことだけはしたくなくて、愛する人の幸せが自分の幸せだなんて一生懸命に言い聞かせて我慢してきたのに……。感情的に言葉をぶつける私をそうやってどこか冷静に眺めている私がいた。しかし、一度口から零れてしまった言葉をとめることなどできなくて、私は令に叩きつけるように全てを吐き出した。
「好きなの。令が好きなんだよ! もし令が私以外の誰かのものになるのなら私は令を殺してしまいたいぐらい好きなんだよ!」
月明かりが照らし出す令の顔はまるで陶器でできた人形のように思えた。このままその白く細い首を絞めて、令を殺してしまおうか。そして私も一緒に死んでしまおう。そんな馬鹿げたことを考えている自分に呆れる。
「令とずっと一緒にいたい……。でも私が一緒にいたら、令に後ろ指を差される生活をさせてしまうかもしれない……。仕事にも影響が出るかもしれない……。だけど! それでも私は令が欲しい! ごめんなさい、ごめんな……」
「僕はお前だけを愛している」
 令は令らしくもない切羽詰まった声で私の言葉おさえぎると、私の頭を抱え込むように抱く。
「冬香。僕には冬香が必要なんだ。冬香がいないと息をするのも苦しい。冬香は私を本気で殺す気なの?それならそれでも構わない。だけど、それなら冬香も一緒に死んで」
令は私の頬を手で挟んで顔をあげさせると、まっすぐに私を見据え、全てを見透かすかのような瞳を私に向けた。
私はそんな令の顔を引き寄せて唇を重ねた。初めて自分からしたキス。私は初めて自分から令を求めた。
「うん。一緒に死のう。でも、まだ死ぬには早すぎるよ。私、令とこれからしたいことたくさん、たくさんあるんだからね」
 私は何度も何度もキスをした。
今求められているのは覚悟だ。
それは、令から離れる覚悟ではない。
令と共に歩みつづける覚悟。
私は令が進むべきだったごく当たり前の生活を奪ってしまったのだから、その分令を支え、慈しみ、深い愛情で令に幸福を与え続けなければならないと思った。それはもちろん強制されたことではなくて、自ら望んだことだ。

***

「令、大好き……。これからずっとずっと、ずーっと一緒にいれるなんて私は幸せだなぁ」
「ん? どうした? 眠い?」
私の身体をソファに押し倒しながら令は私の唇を塞ぐ。そのまま甘いキスを繰り返す。嬉しいのに、眠くてうまくこたええられない。意識が薄れていく。
「今夜は月がきれいだね」と令が言ってくれた気がしたけど、現実だったのか、夢だったのか。今はもう定かじゃない。

   白身魚の死
風船犬 キミドリ
 彼は、そこそこ都会といった雰囲気の街の道を歩いていた。カジュアルでありながらそれなりに洒落ているというような格好で、特に何に目を向けるわけでもなく、ただただ歩いていた。彼はどこへ向かっているのだろうか。実は彼もわかっていないのではないだろうか。いや、そうではなかった。彼は左腕にはめた腕時計を確認すると、少し慌てたような顔をし、きょろきょろとあたりを見わたす。が、目的のものは見つからなかったようでポケットから携帯端末を取り出すと、不慣れな手つきで何かを入力し、しばらく画面を見つめた。そして彼は先ほどより少し早足で歩き始める。携帯端末を握り締め、ちらちらとそちらに目を向けながら不安げに道を進む。
 そこへ、一人の女性が姿を現す。彼と同じくらいの年齢と思われる彼女は、彼よりも着飾り、若造りしているようにも見えるがそれなりに整った顔立ちで、スタイルも悪くない。彼は彼女を見るとほっとしたような顔をし、彼女へ近づく。彼は何事かを彼女に伝え、彼女はそれに答えた。
 二人はしばらく一緒に歩き、やがて大きなビルの前にたどり着く。ここが彼らの目的地なのだろうか。デートにしてはいささか不自然な場所だ。しかし二人はビルの裏手に回るとそこでひっそりと営業しているカフェへと入っていった。
 カフェのなかにはこの店の店主と思われる老齢な男性が不機嫌そうな顔をしてカウンター内にいるだけで、他の客の気配はなかった。二人が席に着くと店主はすぐに二人のもとへとやってきて水を並べた。あまりに乱暴な置き方だったため水が若干こぼれたが、三人のうち誰も気にした様子はなかった。
 水を一口飲んだ彼はメニューも見ずにブラックコーヒーを二人分注文する。彼女は全く口を開かず、ただぼんやりとこぼれた水が傾いたテーブルを流れていく様を眺め続けていた。
 不機嫌な顔をした店主がカウンターへせかせかと戻っていったあと、彼女はようやく口を開いた。
「そろそろ本題に入ろうじゃないの。私は何をして、あなたは何をするのか。それを教えてもらわないとこれは渡せないわ」
彼女の言葉を聞いて、彼は少々焦燥感を顔に出しながらも、落ち着き払った調子で笑いながら答える。
「ああ、それなら心配ないよ。僕らは確実に目的を達成できる。君がそれを渡してくれるならね。痛みもないし苦しみもない。あるのはまどろみと幸福感と現実からの解放だ。これは最大の放蕩で浪費だといえるね。なにせ……」
「お待たせしました、コーヒーです」
ちょうど店主がコーヒーを運んできたので彼は言葉を切った。そして一息つこうとコーヒーを飲む。彼女も彼に倣ってカップに口を付け、紅いルージュの痕を残した。しかし彼も彼女もすぐにコーヒーを飲むのをやめた。何故ならそのコーヒーはアメリカンといったわけでもないのにカップの底が透けて汚れが見えるくらいに薄く、まるで泥水か何かのようにまずかったのだ。彼のしかめっ面がそう言っていた。
「話の続きは?」
同じくしかめっ面の彼女が彼に続きを促す。
「ああ、そうだったね。なにせこの行為は……」
彼は、ここでこらえきれないというように、歯をむき出しにしてにたりと笑うとこう告げる。
「この行為は人ひとりの人生そのものをまるごと一気に使い切ることになるんだからね」
「それは爽快ね、きっと。私たちはその一瞬の快楽を必ず得られるのね」
「ああ、そのとおり。まあそれは君が本当に、本当の本当に…………自殺するほどこの世界に嫌気がさしているならね」
「心配ないわ、すぐにでも死んでしまってこの汚れた世界から解放されたいの」
彼がニヤつきながら放った言葉に同じく口角を釣り上げて返事をする彼女。二人はまずいコーヒーを前に凄絶な笑みをその顔にたたえていた。
 二人は店を出ると倉庫街の方へと足を運ぶ。
「自殺に倉庫街とは……最高のロケーションね」
「じゃあドラマにでもでてきそうな崖が良かったのかい?」
「まさか、そんな華々しく散っていこうなどと思わないわ。この世界に未練なんてないわけだし」
それから二人は黙ったまま歩き続けた。
 倉庫街に着くと彼は彼女にポケットの中身を要求した。
「これが一人分。結構高かったけど、どうせ死ぬんだし貯金は使い切ってきたわ」
「そうかい、ならいいよ。僕たちはこの世になんの未練も残してはいけないのだから」
二人は顔を見合わせ穏やかに微笑み合う。
「最後に聞くよ。君は本当に死んでもいいのかい?」
「何度言わせるの? 私は現実から解放されたいの。とっとと死んでしまいたいのよ」
「これは哲学で一番大切な問いだ。自殺するべきか否か、今後の人生には本当に苦しんで生きる価値がないと言えるのか。さあちゃんと二人で考えようじゃないか」
「本当に何度言わせるの? あなたがなんと言おうが私は死ぬの。あなたが怖がって意味不明な質問をなげることによって時間稼ぎをしているというのなら、私はとっととこれを飲んで死ぬわよ」
「まあ、そんなに急くことはないだろう? 時間ならいくらでもあるんだ」
「いいえ、時間などない。私はもう現実世界でこうやって生命活動を行うということに疲れたのよ! 今後の人生? そんなものいらない! あなたの言うように一瞬の快楽に身を投げたいの!」
彼女の激昂に、彼は長い沈黙を挟んでから答えた。
「オーケー、了解だ。君はもうこの世に生きる価値がないと思うんだね。それならばそうだね、君はこの世で生きている価値がない。とっとと死ぬのがベストだろう。僕と一緒に死んでくれるかい?」
「ええ、もちろん。あの世で会いましょうね。もしあの世があってこの世よりましで私の存在する価値がそこにあればだけれど」
彼女は冗談めかした調子で笑うとなんのためらいも見せずに握り締めたそれを飲み込み、それと同時に彼も飲み込む。二人の内蔵がそれを処理しようと働き始める。次の瞬間ごぼりと口から血を吐くと彼女は笑みを浮かべたまま、彼は何かを諦めたかのような表情のままこと切れた。

 「ふう、やれやれ。彼女もまたダメだったのか」
二体の死体に近づく男。格好こそ変わっているものの、その男はまさに彼だった。
「まったく世も末だな。いや、ここが世の末というべきか」
彼は死体を袋に詰めて鍵の開けてある倉庫の中へと運び入れた。
 何十個と並ぶ倉庫の中身は全て彼と、彼と一緒に死ぬことを選んだ憐れむべき人々の亡骸だった。地獄だろうか、いや違う。ここはむしろ天国なのだ。死を望みつつも、一人では死ねない人々が安心して死んでいった幸せに満ちた場所。それがここだった。




あとがき
 あけましておめでとうございます、キミドリです。今回、本気で原稿落としそうになりました。今まで皆勤なのにここで落とすわけにはいかない! 部活くらい皆勤で! と頑張ろうとした結果、申し訳ないことにストック放出、という形になりました。言わなきゃばれなかったのに。 
 で、ちょっと不安なのがこの話既に部誌に掲載したことあるような気がする点です。大丈夫かな……(言わなきゃばれなかったのに)

もし、これが掲載済みだったとしたら申し訳ないので、今回のテーマ「白色」についての思考をダダ漏れにしたいと思います。


 私は普段、病弱虚弱と罵られることがとても多いのだが、病院には最近あまりお世話になっていない。そんななか、これは珍しくちゃんと病院へ行った時のことだった。
 最近の病院は白一色の無菌室のような、というイメージではなく、暖色系の色合いや木で出来ているような雰囲気を与えるものを多く置いている。この理由については心理学的な話になるので今回は割愛する。
 しかし、私の行った病院の診察室はやたらと白かった。先生を待つ間、私は一人診察台に寝転がっていたのだが、だんだんと妙な気分になってきた。
 この部屋の扉はすべて白色で塗りつぶされ、私は白色の中に閉じ込められてしまうのではないか。徐々に白色が私を侵していくのではないか。
 白色というと、無個性的で、紙の印象だろうか、弱いイメージを何となく思う。しかし、白色は人の心をその上に描きだし、それに直面させて不安を呼ぶ。圧倒的に純粋な「白色」は、複雑な人の心とは馴染まずに、人の心を内側に取り込んで染め上げてしまう。そんな気がした。
 日本人は白色に神聖さを見る。部屋を囲う障子の「紙」は「神」に通じるし、米だって栄養価ではなく「白米」であることにこだわる人が大多数だ。真っ白であることに神聖さを見るのは、やはり恐れからなのかもしれない。

真っ白な原稿、真っ白なワードの画面、真っ白の頭の中。なるほど締め切り前に覚える、異様な、体の内側に走る寒気の原因は白色だったのか。                         
おわり 

3学期 by月夜猫

2014年05月04日

 小さな世界
月夜猫
 空には三つのお月さま。
 淡いピンクの満月に、青白く濃い半月と
 最後はいつも泣いている 姿を見せない黒い月
 太陽はここにありません
 でも、月が三つあるので 太陽は必要ありません
 深い深い 綺麗な夜を 月はほのかに照らします
 暗い暗い 惨めな闇を 月はやっぱり照らします
 太陽は私には眩しすぎて
 全て見透かす柔らな光
 全て照らしてしまう強い「陽」
 それから私は逃げました。
 一つしかないものなんて、嫌で
 私は一つしかないものを消しました。
 それは、私の臆病だったのかもしれません
 失うことが、怖くって
 つくらなければいいのだと。
 何かに甘えたくてたまらない
 弱い私はなぜここに?
 手に手を取り合う仲は
 とても脆弱で近づけない。
 壊れる事が怖いから
 変わる事が怖いから
 私は今日もゆらゆらり
 言い訳、嘘がぺらぺらり
 貴方に嫌われたくなくて
 貴方が離れてほしくなくて
 相手を気遣う嘘なんて 私の口から出やしません。
 出るのは、保身の嘘ばかり
 ねえ、月が綺麗ですね。
 ねえ、そうだと言ってくれませんか。
 ねえ、どうして誰もいないんですか。
 私が入ることを許さないから。
 こんな私の中に入ろうと
 ノックの音が聞こえました。
 私はそれを無視しました。
 また、ノックの音が聞こえました。
 ある時、私は外に出て ずっと立ち話をしたのです。
 話していると、楽しくて。
 だけれど、それでも、私はやはり
 また会う約束をして、その人を中に入れませんでした。
 いろんな人が通り過ぎます。
 ほとんどの人は気づきません。
 その中に太陽がないことも
 月が三つあることも
 ずっと夜であることも。
 ああ、カササギ、私のカササギ
 小舟に乗って 羽を被って
 どうか、唄を私に。
 銀の海に頼りなく 揺れる鳥籠、ぎこぎこと
 歪な旋律を、どうか私に。
 それを聞いて 静かに沈み
 私は海に溶けていく。
 遠くなる歪な旋律と
 それは少しの安心感。
 悲しいことがありまして
 憎いこともできまして
 忘れたいこともありまして。
 手放すことができたなら
 それはどんなにか素敵でしょうと
 私は今日も泣くだけです。

 ああ、今日も月が綺麗です。
 私の中で、それに同調してくれる
 そんな人など要りません。
 ただ 願ってもいいのなら
 月が一つの外の世界で
 チョコレートでも一緒に食べてくれる
 そんな人が いいのです。





あとがきー
 はいぶっ放しました。とりあえず何がやりたかったんでしょうね。自分の中の世界でしょうか。己の意思でしょうか。決まった事はわかりませんね。なんだかいろいろトチ狂っておりますが気にしないでください。
 文芸部誌「海琴」を手に取っていただき、そしてこんな月夜猫の作品をお読みいただき、誠にありがとうございました。
 二〇一四年の幕が開きましたが、今年も文芸部誌部員ともどもどうかよろしくお願いいたします。

3学期 by青い怪物

2014年05月04日

夜をこえる

夕日が世界を赤く染める頃
赤い赤い空の下で君は僕に言う。
「今日で別れよう」
当たり前だった日常が君のたった一言で崩れ去る。
僕は何も言えない。
勝手に大人びて、誰かに弱い所を隠すようになって。
歳を重ねて、本音を言えなくなって。
僕には君を引き留める資格が無いような気がして。
嘘を重ねて、さらけ出せなくなって…
いつから君は我慢していたのだろうか。
いつから君は僕を嫌いになっていたのだろうか。

君の存在が当たり前過ぎて見えていなかったのだろうか。
こんな日が来るのなら君をもっと大切にすればよかった。

終わりが近づけば、始まりが懐かしくなる。
こんなときに限って付き合った日の事を思い出す。
特別だった事が当たり前になったあの日。
当たり前だったことが特別に変わる今日。

今日の町はいつもと違う空気に包まれていた。
繁華街のネオンの光も重く暗い。
月が消えていく。
君が電車に乗り込む。
僕はまだ君に何も言えない。
君の電車が明日へ動き出す。
君の姿が見えなくなっていく。
君との最後の夜が過ぎていく。
「ああ、行かないで、夜をこえないで」
僕はそう言って追いかけていく。
遠くに行った君にはもう届かない。
時計の針は止まらない。
君が去ってく。僕が何を言おうとしても。
君が消えてく。僕が心で泣いていようとなかろうと。
君は幸せな夢を見て、僕との日々を忘れ去っていくのだろう。
僕は幸せな夢を見ることができるのだろうか?

 「好きと嫌いは紙一重だよ」
昔、君が僕に言った言葉の意味が
今、少しだけわかったような気がした。
月が消えた。街が朝の空気に包まれる。
別れを受け入れても思い出(きおく)は消えてくれない。
半年経っても、一年経っても完全に消え去ってはくれない。
『別れ』あの子と一緒に思い出も連れ去ってくれ。
ほら、二年経ってもまた君のことを思いだす。

会いたくて、会えなくて。
ほらまた心が君を求める。

ふと思う時がある。
君を嫌いになれればどれだけ楽だったのだろうか。
僕はあの時どうすれば良かったのだろうか。
君は僕にたくさんの物を残してくれた、
僕は君に何か残せたのだろうか。

僕の中の誰かが言った「君が幸せならばそれで良い」
そう思いながらも僕は君を求めてしまうだろう。
一人悲しみと同じリズムで歩く思い出の通学路。
黒い傘に雨があたる音だけが聞こえる。
分厚い黒い雲が空を隠す。

いつ終わるかな。明日が見えない日々は。
いつ終わるかな。明日の欠片をを探し続ける日々は。
どうだろう、僕は幸せな夢を見ることができる日が来るのだろうか。
僕の心は今もまだあのホームで未来を探していた。


一〇九六回目の朝日が昇る。
僕の時が動き始める。
ホームからは見ることのできない未来へ歩を進める。
僕だけが見られる未来へ。
僕の幸せな夢に向かって。

3学期 by深智

2014年05月04日

Nothing, but
                             深智
  ◇
 彼女は、なぜ自分が生きているのか、よく分からないでいた。
 きっと、誰も、彼女がそんなことを思っているとは夢にも思わないだろう。彼女はどう見てもただの少女であった。椅子に腰かけ、文庫本をめくる様子は、普通の高校生のそれであり、何も変わったところは見受けられない。けれど、物語を理解する脇で、彼女の思考は、自らの生について疑問を投げかけていた。
ただ淡々と毎日を過ごすだけで、きっと何も成し遂げない私が、どうしてまだ生きているのだろう。ページをめくる度に、憂鬱がむっくりと顔を擡(もた)げる。目標も、目的も、守るものも無い私が、なぜ今、のうのうと生きているのだろうか。
 彼女が悩みにふけっていると、ふいに、元気のよい足音が近づいてきた。ああ、決まったのね、と独り言を言うと、彼女は思考を止め、文庫本を閉じ、足音の主の到来を待った。
「おねーちゃん、この本かりていい?」
 ばたばたと彼女の元にやってきた少年は、少し控えめな声でそう言った。彼女は数年前から、親の帰りが遅い少年の面倒をみることを頼まれていた。今日は、本が読みたいとせがむ少年を、近所の図書館に連れてきていた。
「いいけど、ちょっと難しいんじゃない?」
 本と少年の顔を見比べて、彼女はそう言った。なんだか小難しそうな表紙と、底なしに明るい笑顔とでは、まったくもって釣り合わない気がした。
「えー」
 と、少年は不満げな声を出したが、すぐ自分がいた本棚の方へと走って行った。そろそろ自分の借りる本も決めないといけない。彼女は立ち上がり、さっきとは別の本を探そうと、本棚の周りをゆっくり歩いた。
 タイトルを目で追いながら、また彼女は考えを巡らせていく。
 自分がこんな風に考えるようになったのは、一体いつからなのだろうか。浮かんできた答えは一つではない。両親が離婚した日、姉と比べられ、叱られた日、クラスで孤立し始めた日。きっと全部が原因なのだろう。ひとつずつ、彼女は階段を踏み外し、いつの間にかこんな所に落ちてしまっていたのだ。
 あれ、と、彼女は小さな声を上げた。そして数歩後ろへ下がり、今自分が見たものは本当であるのか、確かめる。
 少女の視線の先にあるもの。それは名だたる名著の間に挟まれた、タイトルも、表紙絵も、作者名もない、真っ白な本であった。驚いた少女は本に手を伸ばす。表紙を開いても、白いページが続くばかり。首を傾げて、その本を元の場所へ戻そうとすると、
「えっ……」
 先ほどまで何もなかったはずの表紙に、文字が浮かび上がっている。
「たい、せつ……」
 浮かび上がったのは、きちんとタイプ打ちされたように美しい、“大切 ”という言葉だった。
 彼女は本のページを急いで捲ったけれど、やっぱり白紙のページが連なっているだけで、特に変化は無い。変わったのは表紙だけだ。
 気持ち悪い、と思い本を元に戻そうとした丁度その時、少年が息を切らせて彼女の元へ来た。
「おねーちゃん、こんどこそ、いいでしょ」
「うん、いいよ、うん」
 少年の顔もろくに見ずに彼女はそう言って、彼と一緒にカウンターへと向かった。しかし、彼女はその手にあの白い本を、しっかりと握っていた。なぜ返さなかったのだろう。それは、好奇心のせいなのか、はたまた別の何かであったのか、彼女自身も、その答えはよくわからなかった。

 ◆
 そう言えば、誰もこの白い本について、何かを言う人はいなかった。少年の手を引き、外を歩いているとき、ふと、そのことを疑問に思った。少年も、カウンターの人も、周りの人も、白い本などまるで見えていないようにふるまっていた。一体どういうことなのだろう。そんなことを思っていると、いつの間にか少年の家に着いていた。
「あしたも、遊んでくれるよね」
と、少年はきらきらとした瞳で問うたが、彼女はそれに生返事を返し、そっけなく手を振ると、その場をすぐに立ち去った。
 少年を家まで送ると、静寂の時が彼女を待ち受ける。家に帰る途中、誰かに会うことはまずないし、家に帰ってからも、家族と顔を合わせることはほとんどない。両親は遅くまで仕事に出ていて、二つ違いの姉は、家を離れて一人、遠方の大学に通っている。ま、いつものことだけれど、と思いながらため息をつく。
  “大切 ”
 頭の中で、あの本のタイトルがちらついた。大切。そう言えば、と彼女は空を見上げながら考え始める。私の大切なものは何なのだろう。
 日の落ちた空に星はなく、色のない雲がうっすらと地上を覆っていた。その元で思考を続ける彼女の顔は、だんだんと暗い影を帯びていった。
 考えれば考えるほど分からなくなっていく。そもそも、「大切」とはどういう意味なのだろう。一言で「大切」と言っても、その重みは違う。
 たとえば、火事になった時、持ち出すものを考えてみる。それはパスポートであったり、預金通帳であったりといった、生活面で必須の物ばかり思い浮かぶ。けれど、それを墓場まで持っていこうとは誰も思わないだろう。
 反対に、死の淵に瀕した時、大切に思えるものを考えると、家族の存在や、今生きているということが挙げられるのだろう。けれど、それはその状況にいるから初めて分かることであって、平和に生きている今、それを大切にできるかどうかは疑問だ。結局、私が一番大切にしているものは何だろう。
冷たい目をした家族や同級生たち? それは「大切に思わなければならない」人たちだけれど、私は「本当に」その人たちを大切に思っているだろうか。アルバムや、家族写真、思い出の品々? そんなもの、と蹴落としてしまう心がいることを、彼女が知らないはずがない。じゃあ、何? 
 答えは、ひとつも浮かばない。
それが意味することに少し戦慄を覚えながら、彼女は家の鍵を開ける。

 ◇
 案の定家には誰もおらず、彼女は一人で夕食や家事を済ませ、気がつけば夜の真ん中の時刻であった。
 自室に入った彼女は、今日あったことをぼんやりと思い返してみた。ひっかかるのは、やはり、あの白い本のことだった。彼女は鞄の中からそれを取り出し、もう一度ゆっくり見てみることにした。
カバーには、浮かび上がった文字以外、変化はないようだった。少し安心して、彼女は表紙をめくる。
 すると、本のページ一枚一枚が、光を放ちながら一気にめくれていき、最後のページに達したとき、彼女は何かに手を捕まれた。
 その手は最後のページから出ていた。そして強く引っ張られたと思った丁度その時、何もかもが暗転した。


“あー、やっと、やっと出れた ”
 その声は、少女の様でも、老婆の様でもあり、彼女がいる暗闇の、どこか遠くから聞こえていた。
“ありがとうね、この本を開いてくれて ”
 少女には訳が分からなかった。自分は今どこにいるのか、さっき何が起こったのか。考えることもままならないほど、彼女の頭は混乱していた。
「ここは……」
 彼女の呟きに、その声は笑うように答える。
 “本の中だよ。さっき入ったじゃないか ”
 彼女はますます理解が出来なかった。何も答えない彼女を見透かすかのように、声は言葉を続ける。
 “まあ、分からないよね。あたしもそうだったよ。ちょっとぐらい説明しとかないと駄目かー、先代の義務として、ね ”
 声は咳払いを一つし、滔々と話しはじめた。
“あんたは今、本の中にいるの。で、その本っていうのは特定の人しか見えないし、触れられない。誰も、あんたがその本を持っているのに気付かなかっただろ? ”
  声の問いかけに、彼女ははい、と震える声で答えた。
 “その特定の人、っていうのが、あんたみたいな人。つまり、…… ”
 声は勿体ぶるかのように言葉を区切る。
“‘ 次の持ち主候補 ’、ってわけ ”
 いや、住人と言った方が正確な気もするけれど、と声は続けた。
“この本は、ま、言ってみれば、教科書みたいなのかな。……あたしも、言われるまで気がつかなかったけどね ”
彼女は暗闇の中を見渡した。答えを探すかのように、じっくりと。けれど、夜より深い漆黒が、全てを包むこの場所で、そんなものは見つかるはずがなかった。
彼女が沈んでいる所に、声は疑問を投げいれる。
 “あんた、この本を開く前に、何考えてた? 手にとって、タイトルが現れてから、何を思ってた? ”
 思い返すまでもなく、答えは明白だった。声は彼女の答えを聞く前に言う。
 “ここにはあんたが考えた事への、答えがある。あんたの考えは本当に正しいのか、そうじゃないのか。それをここでは教えてくれる ”
 彼女は記憶を辿る。私は生きている理由も、大切なものも何もない、と考えていた。けれど。
 “今、あんたはその場所で、どう思ってる? ”
 彼女は頬に涙が伝っていくのを感じた。帰りたい。戻りたい。この闇から出て、早く元の場所へ。その思いだけが彼女の全てだった。
「出たい。出して、早く、出して!」
 ふん、と声は、彼女の叫びを鼻で笑った。
“さっきまで、いらないと思ってたくせに ”
 声の馬鹿にするような調子のこの言葉で、彼女の心は瞬間に凍てついた。
 “まあ、いつか分かるよ。それがどんな事を意味していたか ”
 あたしもそうだったしね、と、なんだか懐かしむように声は言った。その音はだんだんと離れていっているような気がして、彼女はもう
一度、同じ事を大声で叫んだ。しかし、返ってきたのは、どこか冷や
やかな声だった。
 “あ、それと、あんたがどれだけ叫んでも、誰も助けに来ないよ ”
彼女の目は大きく見開いた。声はかまわずに続ける。
“次、あんたがそこから出られるのは、次に誰かがその本を開くとき。それは明日かも知れないし、明後日かも知れないし、数百年後かも知れない。それまで、あんたはそこで、ひたすら待ち続けるしかないの ”
 声はますます遠ざかっていく。そして、最後に一言だけ、言った。
“せいぜい頑張りなよ ”
  ◇
 
それから、どれほどの日が過ぎ去ったのであろうか。
白い本は、気が付けば、また元の図書館に移動していた。
今日は、そこにあの少年と、その母親の姿を見つけることができた。
「ねえ、おねえちゃんは?」
 少年は母親に問うた。母は不思議そうな顔をして、
「おねえちゃん? 誰のことを言っているの?」
と、叱るように言ったが、少年は不満げに、
「いっつも遊んでくれてたおねえちゃん! 約束したのに」
と、母親の目を見つめながら言った。そして、どこか遠くをぼんやり見て、
「あした遊んでくれるって。……楽しみだったのになあ」
と、小さく呟いた。

                         了
  あとがき
 はじめましての方ははじめまして、毎度な方はご無沙汰してます深智です。長らく小説を書いていなかったら、いつもの勘が取り戻せず、気が付けばこんな駄作になってしまいました……。スランプよりもブランクの方が大変な気がしますね。
ってことで、話のことについて少し。
 元々、この話はESSの「絵本製作プロジェクト第三弾(仮)」になるはずのものでした。が、話が暗いし長いしで英訳する気力がそがれ、巡り巡ってこんな形になりました。あ、別に私が病んでるからこんな暗い話書いたわけじゃないですよ? 私は至って健康です。ただ、明るい時にこそ、暗い時のことを思い出したくなるものなのですよ……。
で、この話、最初は「本からウサギみたいな小動物が飛び出して来たらかわいいよね!」という、友達との会話から始まったのですが、結局出たのは手だけですよね。他にも原案と大きく変わってしまったり、力量と時間不足で入れられなかったりしたシーンもちらほらとあります。小説の難しさを改めて痛感しました。あと、やっぱり三人称は嫌いですね。文才のなさが露見しまくりで何とも言えない感じになっています。
 ……、これ以上語っても悲しくなるだけなので、今回はこのぐらいで。
 それでは、次号でお目に書かれることを願って。


大空の蛍
俺様はティガー
「パパー、まだぁ」
娘の明らかに疲れた様子の声が聞こえる。さっきから歩きっぱなしなのだから当然だろう。子どもの手前、顔には出さないものの僕も疲れている。
「ん、もうちょっとだからな。もう少しがんばれ」
もう何度目かも分からない「もうちょっと」で励ましてそっとため息をついた。

 始めは娘の一言だったような気がする。
「ほたるって知ってる?」
絵本にでも出てきたのだろうか、得意げにそう聞いてきた。
「うん、知ってるよ」
「ほんと、見たことある?」
「あぁ、たくさん見たことあるよ。おばあちゃんの前の家に秘密の場所があるんだ」
娘に影響されたのか得意げにそう答える。すると、当然のごとく、
「見てみたい。つれてって!」
と返ってきた、こうなると長い。はぁ、言わなければ良かったかもしれない。

そんな訳で今に至るのだが、おかしい。記憶をたよりに蛍が見える場所まで来たのはいいが、一向に現れそうにない。さっきから周囲を歩いて探してみるものの、蛍はおろか川一つないありさまだ。昔のことだから忘れてしまったのだろうか。いや、それはないだろう、記憶力には自信がある。実際ここまで記憶通りだった。
「パパ、ほたるは?」
「もうちょっとな」
視線が痛い。ひょっとしたら、時間がまずかったのだろうか。夜出歩かせてはいけないと思い、日も沈まぬうちに出たのがまちがいだったのだろうか。
「パパ、暗いね」
「ああ、そうだな」
うん?あ、本当だ。もう日は落ちかけ辺りは薄暗かった。
「今日はもうあきらめて帰るか」
「いや」
即答だった。とはいえ、さすがにこれ以上探すわけにはいかない。暗くなっては危ないし、心配させてしまうだろう。なにより教育上よろしくない。
「もう暗いじゃないか。明日絶対連れてってやるから、今日はもう帰ろう」
「いや」
娘はとうとう座り込んでしまった。はぁ、まただ。こうなると、てこでも動かない。しかし、そうも言っていられないだろう。もう日は落ちている。
「なぁ、「や、パパは信用ならない」……」
どこで覚えてきたんだそんな言葉。
しかし、そろそろがつんと言わなければならないだろう。決してさっきのにイラっときたんじゃあない、うん。
「よし」
小声で小さな覚悟を決め、娘を叱ろうとしたその時、
「わぁ!」
と声がした。
蛍でもいたのだろうか。そう思い、娘のほうを見てみても、蛍なんて一匹も飛んでない。娘は空を見上げていた。不思議に思って視線を上にあげてみると、
「きれぇ」
「あぁ、そうだな」
空には一面に星空が広がっていた。そして、ふと思い出した。小さいころに見た景色が同じものだったことを。都会にはない吸い込まれそうなほど明るく怖い星空が何が何だか分からなかった感動を。記憶がよみがえる、そのあと知ったかぶりの友人に騙されて、それを蛍だと思い込んだんだったか。その翌年におばあちゃんが引っ越して
ここに来ることがなくなったんだ……。

一つ一つが存在を主張しあい、数百、数千の蛍の群れのような星空の下で僕は少し父親というものに近づいた気がした。
「パパ、すごいね」
「あぁ、あれが蛍だよ」
「違うよ、あれは星っていうんだよ」
僕の娘はいつのまにか、かしこくなっていたらしい。気がつけばこんなに大きくなっている。早く大きくなってほしいが、このままでいて欲しくもある。とりあえずこの場の時間だけはゆっくり進んでくれといつまでも祈っていた。


   星
青い怪物
女「ねえねえ男、さそり座のさそりのお腹辺りに見える赤く光っている星みえる?」
と大空の星々を二人で見上げながら女は男にたずねた。
男「見えるよ。たしかアンタレス(Antares)だよね?あの星がどうかしたの?」
女「そう。さそり座で一番明るい星だよ。男はあの星がどうしてアンタレスって名前になったか知ってる?」
男「知らないな~。女は知ってるの?」
女「最近本で読んだんだ。アンタレスの近くにもう一つ赤く見える星があるのわかる?」
男「うん。見えるよ。あの星がどうしたの?」
女「あの星は火星(Ares)なんだけど、アンタレスと火星が明るさを競い合っている様に見えるから『火星(Ares)に対抗(Anti)するもの』っていう『Anti‐Ares』が由来って書いてたわ」
と女は自慢げに話す。
男「へ~、星の名前にそんな由来があるんだ。すごく明るかったり他のものに対抗したりして、なんだかアンタレスって女に似ているね(笑)」
女「男!!いったいどういう事それ!?」
女は男を問い詰める。
男「女はいつも明るいよねっていう話だよ」
女「絶対それだけじゃないでしょ?」
男「それだけだよ~」
と男はケラケラ笑いながら言った。
女「んじゃあ、男はどうなの?男も私と同じくらい明るいと思うけど?」
首をかしげながら男にたずねる。
男「う~ん…」
男は空を見上げて星を探す。
男「でも、さそり座の中でなら僕にはあっちの星の方が合っているのかな」
女「どの星?」
男「さそりの尾の辺りにある明るい星」
と星空を指さす男
男「え~と、名前は確か…」
女「シャウラ?」
男「そう!!シャウラ!シャウラ!」
女「たしかさそり座の中で二番目に明るい、さそりの針を担う星だっけ?」
男「うん。アンタレスは少し明るすぎて僕には合わないかなって。だから、アンタレスに比べて控えめなシャウラの方が僕にはちょうど良いのかなって思って」
男は少し照れくさそうに言う。
女「控えめか、たしかに男らしいね」
男「シャウラを見ているとなぜだか落ち着くし」
男はずっと星空の一点を見続ける。
女「シャウラばっかりじゃなくて、せっかくだからアンタレスとかほかの星も見なさいよ!」
少し頬を赤らめながらつぶやく。
男「気が向いたら見るよ」
と男は女の変化に気づかない。
結局僕はいつもアンタレスの様な物を見ているんだよな…と心の中で思いながら。

時間が経つのも忘れて二人は空を見ながら色々な話をした。
東の空が藍色になっていく。月が消えてく。
女は男に少しだけ触れて合図した。
二人は立ち上がり、もどかしいけどいつまでもこんな関係が続けばいいな。とお互いに思いながら帰路についた。
目の前に広がる夜と朝が混ざり合う、藍色の空を目に焼き付けて。
※さそり座は夏の星座です。

春号  By月夜猫

2013年09月16日

嘘ツキ少女と散るものたち
月夜猫



 ……綺麗。桜吹雪。儚いもの。散る運命のもの。
「だから綺麗」
 諸行無常。散るからこそ美しい。何もかも。だからこそ、僕は、
「……醜い」


 誰もいない無機質な部屋に帰る。必要最低限のモノしか置いていない部屋。もう慣れたよ。慣れたってば。なんとなくテレビをつける。笑い声が拡散される。顔、顔、顔。綺麗な人。普通の人。みんな何十年後かには死んでる人。終がある人たち。
「お腹、すいた」
 お腹がすく。体が栄養を欲しているということ。体は生きたいって思ってる。
「嘘ツキ」
 それでも欲求に抗えず、のそのそとご飯を口に運ぶ。にんにくラーメンチャーシュー抜き。いつからか、肉などを食べたくなくなってしまったため、特注のものを毎日食べている。
「おいしい」
 美味しいよ。これ。毎日毎日食べれるくらいに。この生活を何年続けてるんだろう。日めくりのカレンダーはめくる手が疲れていつからか捨ててしまった。携帯は必要ないと思って壊してしまった。外を見ればいつぐらいかは分かるから時計なんてしゃれたものもない。静かな部屋に針の音が響き渡るのも嫌いだったから、ちょうどよかった。だって、
「……一人って、感じがするから」
 ……だから、何? 僕は寂しいって思うのか。嘘。嘘ツキ。もうそんな感情なんてないくせに。楽しいも、悲しいも、寂しいも、愛しいも、全部全部もうないくせに。いつからなくなったっけ。それとも初めからなかったっけ。もう思い出せない。今日は日曜日。一応見た目だけは中学生の僕の安息日。眼を閉じても、眠れない。浮かぶのは、いつもの情景と憧憬だけ。突き刺すような痛みと、零れ落ちる液。何回も繰り返して、何回も壊して、何回も作り直して、それでもやっぱり、望む世界はできなくて。ピアノでうまく弾けない部分があると、反復練習をするように、自分が「いい」と思えるところまでするように、僕は続ける。その力を持った事を感謝するようにしながら。ありがとうって思う。
「……息がつまる」
 一日のうち、何回か息が止まるような感覚に陥る。いっぱい繰り返したからかな、体が終の感覚を覚えているんだろう。
そういう時は、外に出るのが一番いいってことを学んだ。始めのうちは、ただ叫びながらごろごろと部屋で転がっていた。でも、それすら無駄だって気づいたのと、何かが終わったのは同時期だった気がする。無機質な部屋から、開放的な空気へと変わる。幸いにも花粉症でなかった僕は、何の装備もしなくても、このうすら寒い外を歩ける。普通の人間のふりをした時は、マスクをつけたりもしたけど。マスク越しの空気は、余計に息がつまった。ちょうど今は、桜が散っている。人はそれを綺麗だと感じ、褒めて、子供は枝を揺らし無邪気にはしゃぐけれど。樹はどう思っているんだろう。自分の力だけで咲かせ、育てたものが散るのを、見ていたやるせなさとか。受け入れざるを得ない運命に、のどまで出かかった言葉を飲み込んでいるのか。言っても仕方ないし。
「君は、僕と同じだね……」
 そう言って撫でてみると、不思議と落ち着いてきた。たとえ樹が僕を馬鹿にしていたってかまわない。樹は何も言わないのだから。そう、お世辞すらも。拒絶もしないけど、受け入れもしないその体制はある種救いだ。曖昧。全てが曖昧な世界は、理想的。他人との壁がなくって、傷つきも傷つけられもしない世界。そこには僕はいないけど、今この状態もそんな感じだから、構わない。でも僕にはリピートの機能はあっても、リメイクの機能はない。誰かから与えられた力で、誰かが作ったちょっとずつ違う世界を繰り返すだけ。意思でどうにかできることなんて、僕の言動くらい。その言動ももう似通ってきた。無機質で、無意味で、無価値で……。終わりたいのに終われない、人類の古来よりの夢や野望だとしても、ただ苦しみが続くだけだ。何かの罪に対する報いとしか思えない。僕ってそんな悪いことしました? 僕の前世は僕。その前世も僕。その前も、その前の前も、ずーーーっと前も僕。
 僕が僕であり続けるものってなんだろう? どんな個性でも、それは今までの、そしてこれからのいろんな人が持つありふれた個性だ。僕が僕たる所以のものだなんて無い。それはつまり、僕という人物は今ここにいながらいないことと同義。あれれ、おかしいな。いるのにいない。いるから終われない。いない事を望むのに、いるから。なのにそのいたくない世界にいるのに僕はいない。……意味のない、こと。余計わかんなくなってきた。僕は終わりたいだけなのだ。こんな世界から、とっととおさらばしたいのだ。自分を傷つけたことも、何回もある。ある時は動くものに飛び込み、ある時は自らの血を抜いて、ある時は薬を飲んだ。たまに他人に傷つけられもした。だけど、僕の世界は終わらなかった。繰り返し、繰り返し。どれだけ続いたかわからない人生の中で、僕という存在は薄れてしまった。

春号  By魅烏

2013年09月16日
兄妹
魅烏



――
少女が胸元にしがみついてきた。
「おにい……ちゃん……だいじょうぶ? 」
「僕」のことをお兄ちゃんと呼ぶ少女を僕は知っている。でも僕は彼女の兄じゃない。
今にも泣きそうな瞳で僕を見る。
今にも消えそうな声で僕を呼ぶ。
そして彼女の後ろに居る中年の男性と女性も僕を息子と信じきっている。
もしここで少女に僕が兄ではないことを告げれば……
もしここで男女に僕が息子でないことを告げれば……
彼女らは崩れ落ちてもう一生立ち直れなくなってしまうのではないか。そんな脆い三人を見るぐらいなら僕は……
「大丈夫さ。美揺(みゆる)」
彼との約束のために僕は嘘を吐く。
◆◇◆
「お兄ちゃん……」
まどろみの中から声が聞こえた。この声を僕は知っている。
「うん、起きてるよ。起きてるから僕の上から降りて」
「わかった。ご飯できたから早く食べにきてね。待ってるから」
彼女はベッドから飛び降り部屋を出て行った。彼女は稲橋(いなばし)美揺。僕の親友だった稲橋遼(りょう)の妹だ。僕と彼は親友だった。僕たちは血は一滴も繋がっていないくせにまるで双子のように似ていた。と言っても外見だけだ。中身はまるで違った。僕は臆病でそのくせプライドだけ高くて人とあまりコミュニケーション。それに対し彼は誰にでも気軽に話せる気さくな奴だった。僕は彼と初めて会ったときこそビクビクしていたものの、だんだん打ち解けて行った。一緒に遊び、学校へも一緒に登下校するほど仲よくなったものだ。けれど、そんな時間はすぐに終わりを告げた。
その頃僕は父親から虐待を受けていた。ある日僕は帰りが遅いと殴られて雨の中外に放り出された。体中が腫れ上がったかのように違和感があるうえに、雨で体温が奪われ続けてままだときっと衰弱死していただろう。体は動かせず、生きることを諦めかけたときに彼は僕を見つけてしまった。彼は僕を助けるために自転車で彼の家まで運ぼうとしてくれた。しかし、その途中で僕たちは事故にあってしまった。
彼は病院に運ばれたけど死んでしまった。僕は、体の四肢がぐちゃぐちゃになっていたらしいが生きていた。轢かれた瞬間見てた人が救急車を呼び僕は一命をとりとめることができた。
目が覚めたときには病院のベッドの上で全身を包帯でぐるぐる巻きにされていた。全身包帯で巻かれていたので目は見えないし体は動かせなかったけど、声は聞くことが出来、喋ることもできた。
そこで医者に彼が死んだと聞かされたときはあの時に見つからずに、自分が死んでいればと後悔した。動かない体を嘆き、非力な自分に助けてくれた人を救えないどころか、その姿さえも見ることができない状況に僕はただただ泣叫ぶことしか出来なかった。
そんな中彼の家族が僕を彼だと思いお見舞いに来ていた。だけど僕の父親は一回も来なかった。家族は僕が目を覚ますまで生きているのに死んでいるような生活状態だったらしい。特に一番ひどかったのは彼の妹だったそうだ。ろくに物は食べず、部屋で何処かを見て生きているかわからない状態だったという。
だけど僕は彼じゃない。でも、僕が彼ではないと言った瞬間この家族はどうなってしまうのだろうか。それが怖かった。僕がまた壊してしまうのではないか。僕のせいでこの家族が僕の家族のようにバラバラに壊れなってしまうんじゃない。
それはだめだ。朦朧とする彼は僕に死ぬ前に告げたのだ。
「俺の代わりに家族を、妹を守ってくれ」
と、その約束のために僕は彼になると決めた。
「……おはよう。遼」
僕は遼の遺骨が入ったお守りに挨拶しお守りを首にかけ、鞄を持ってリビングへ向かった。
「おはよう。とうさん、かあさん」
彼の両親が先に挨拶しないように先に挨拶をした。
「おはよう。リョウ」
「リョウちゃん。おはよう」
彼らは僕に優しい笑みで挨拶を返してくれる。そう、この顔だ。僕は二人のこの顔を毎朝見るたびに胸が苦しくなる。だから、僕は先に挨拶することで二人の顔をあまり見ないようにしている。この僕に向けられた笑みは、遼に向けた笑みだ僕ではない。
「お兄ちゃん。早くしないと遅刻しちゃうよ?」
「おう。ごちそうさま。行ってくる!」
食器を洗い場に出し鞄を持って僕と美揺は外へ出た。
「お兄ちゃん。どう?」
美揺は僕の前に立ちその場で一回転した。今日から新学期だ。それゆえ自分の容姿がいつも以上に気になるのだろう。
「おう。よく似合ってる。可愛いぞ」
僕は優しく微笑み美揺の頭を優しく撫でた。
「えへへ。ありがと」
美揺は目を細め満足そうにしている。ふと腕時計を見る。
「うわっ! やばい! 行くよ、美揺」
僕は美揺の手を取り走った。息を切らせながら僕たちは教室に入る。タイミングを合わせたかのように予鈴が鳴り響いた。ちなみに僕は入院期間が長すぎたため出席日数が足りず、美揺と同じ学年だ。僕たちが席につき息を整えていると教室がいっそうざわめきだした。
「……あれ? なんか音がしない?」
廊下のほうから何かが走ってくる音がする。
「ちこくしたー! そぉい!!」
いきなり知らない女性が入ってきた。しかも、水揚げされたマグロのように滑ってきた。多分この女性は先生なんだろう。教員のバッジを付けている。
「セーフ? セーフだよね?」
一番前に座っていた子、つまり美揺の肩をガッシリ掴み息切れしていた。
「ほ、本鈴がなってないので大丈夫だと思いましゅ」
美揺は先生の迫力に負けておどおどしている。
「よかったー」
彼女は後ろに座っている僕を見た瞬間驚いた顔をした。
「浩人(ひろと)? 私だよ、木(き)村(むら)那緒(なお)! えっと、この苗字だと分からないか。田原(たはら)那緒(なお)! お姉ちゃんだよ!」
どきっとした。そう彼女こそ僕と血を分けた本当の兄弟である「姉さん」と呼びたいのをぐっと我慢する。
「もしかし田原浩人君と間違えていませんか? 僕は稲橋遼ですよ?」
「あ、ごめんなさい。そうよね、浩人もう一つ上の学年だものね。弟とあまりに似ていたものだから勘違いしてしまったわ」
何とかやり過ごせたようだ。僕は作り笑顔を浮かべて返す。
「大丈夫ですよ。僕も彼と始めてあったときはびっくりしましたから」
木村という苗字は母親の旧性だ。両親が離婚するとき父親は僕を引き取り、母親は彼女を引き取った。母親と実家に帰った後の連絡などはなく、心配だったのだが元気そうだ。少し安心した。
「あ、浩人のこと知ってるんだ! 私、もしかしたら弟に会えるかと思って弟が住んでいる家に近いこの高校に赴任したんだ! 浩人は元気?」
そうか、姉さんは僕たちの事故のことを知らないんだ。そういえば葬儀のときに姉さんを見かけなかった気がする。
「彼は……」
美揺が何か言おうとするのを僕は慌てて遮る。
「それよりも早くホームルームを始めて下さいよ、先生(・・)」
「そうだった!」
「今年からこの奈良学園に赴任した木村那緒です。気軽に下の名前で呼んでね。みなさん生徒には楽しい学園生活をおくってほしいと思ってます。悩み事などがあれば相談に来てくれると嬉しいな」
ここまではテンプレって感じだな。
「私のことを軽く知ってもらえれば相談しやすくなるとおもうので簡単に自己紹介すると、私は弟が大好きです」
ん?
「さっき少し話したけど、私には浩人って言うみんなより一つ年上の弟がいるの。小さいころいつも弟は私に甘えてお姉ちゃん、お姉ちゃんっていってて。その姿の可愛いこと、可愛いこと」
んん?弟ののろけ話になってないか?
「ですが小学生のときに両親が離婚し、私たちはそれぞれ別の親に引き取られちゃったの。そのあと音信不通になっちゃって。この近辺に住んでいることは知ってるのであと少しで……」
そのときチャイムが鳴った。
「あー話の途中なのにー。まあ、これはおいおい話すこととするわ」
クラスの生徒たちはみな一様に長話からやっと開放されたと安堵のため息を吐いた。姉さん一人が残念そうな顔をして教室が出て行った。
「なんで言うのやめさせたの?」
美揺は目ざとく僕に声をかけてきた。むりやり遮ったのがばれていたようだ。
「今教えたら先生、今みたいに元気に話せないだろ?」
「そっか、お兄ちゃんはやっぱり優しいね」
「……? 普通のことだろ?」
姉さんは僕が居ないことを知ったらどう思うのだろう。今日見た姉さんは僕の記憶に残っている姉さんとは別人だった。嬉しいようで寂しいけれど、「遼」である僕がそんなことを感じるのはお門違いかもしれない。
◆◇◆
今日は教科の説明などの配布物だけだったので授業は午前中で終わった。
「稲橋君、ちょっといい?」
先生の、姉さんの頼みなら仕方がない。
「分かりました」
僕は静かに姉さんについていった。通されたのは会議室だった。しかし会議室とは思えないぐらいあちらこちらにダンボールが積み重ねてあり、机にも誇りがたまっている。教員会議って本当に行われているのだろうか?
「適当な場所に座って」
「はい。妹を外で待たせているのでできれば手短にお願いします。」
姉さんはうなずいたはものの、コーヒーを入れ始めると言ったマイペースぶりだ。
「浩人今どうしてるの? この学校にはいないみたいだけど?」
直球だ。ならば僕も覚悟を決めねばならない。
「浩人は死んだよ」
姉さんが息を呑む気配が感じられた。コーヒーを机に置いていたことがせめてもの救いだ。目を見開き、手をわなわなと震わせている。コーヒーカップをもしもっていたら落としているところだ。僕は姉さんに言うと言うより、自分に自分を「遼」だと言い聞かせるかのようにもう一度繰り返した。
「浩人は死んだよ。僕と一緒に浩人の父親が運転する車にはねられて」
「嘘ダッ!」
間髪要れずに姉さんの叫び声がだだっ広い会議室に響いた。
「ほんとだよ、これが証拠だ」
そういって僕は袖をまくった。白い貧弱な腕に手術のあとが残っていた。
「浩人にもらった腕だ。僕の四肢は全部彼に貰ったものだ」
ちがう、これは遼にもらった体だ。姉さんごめん、嘘まで吐いて。でもあの家族は僕の理想郷なんだよ。ずっと望んでいたものなんだよ。家族のためでも歩けど僕自身のためにも僕は遼でありたい。姉さんは僕の腕をまじまじと見る。
「確かにつないだあとはあるわ。だけどそれが浩人のだとは……」
「逆にここで嘘を吐いて僕に何のメリットがあると言うのですか?」
「うぐっ。で、でも……。そうよ、父さんが、浩人のことをあんなにかわいがってた父さんが浩人をはねるはずがないわ!」
 姉さんはさも偉業を成し遂げたかのような顔でこちらを見てくる。姉さん、僕はもう遼なんだよ……。
「浩人の、先生の父親は奥さんと別れてからすっかり変わったよ。仕事も手につかず、遊びほうける毎日。おかげでたまるのは借金ばかり。それだけじゃない、彼はそのストレスを浩人で発散し始めた」
「浩人で発散……?」
「そう。もっと簡単に言うと浩人を虐待してた。精神のどっかがおかしくなってたんじゃないかな? 浩人は毎日サンドバックにされていた」
「じゃあ私たちのところに来れば……」
「そんなことしたら先生たちに迷惑をかけるからと思ったから……じゃないですか?」
姉さんは今にも涙を流しそうな絶望した顔をしている。当然だ。姉さんがここにきたのは浩人に会うため。再会することをあんなきらきらした笑顔で話していたのだから。だけどそれはかなわない夢となってしまった。
「でも、でも!  それなら浩人に会いに来ればいいじゃないですか! 」
「え?」
僕はどうやら自分とあの家族と同じぐらい姉さんのことも大切に思っていたみたいだ。姉さんにあったら僕は自分を置いていったことを憎み、罵るかと思っていた。でもどうやら違ったみたいだ。姉さんの絶望した顔をただ黙って見ることはできなかった。姉さんには笑っていて欲しいその一心で考えるより先に口が動いてしまったようだ。そう自覚した今ですら口は動くのを止めない。
「この体は……この髪一本からこの血の一滴まで浩人と生き、浩人に助けられたものです。僕は遼であると同時に浩人でもあるんです。僕を浩人と思ってください。」
これは遼としての言葉なのだろうか、それとも浩人としての言葉なのだろうか。わからない。姉さんはといえばこちらを見たまま唖然としている。しかし僕の視線に気づいたのか、はっとしてもう一度話し始めた。さっきとは違い、落ち着いた声になっている。
「ごめんね。そしてありがとう、稲橋君。先生がこんなに荒れてちゃいけないわよね。それにこんな状態じゃ浩人だって安心して眠れないわ。ほんとは稲橋君だってつらいだろうに先生にこんなことをいえるなんて君は強いね。」
姉さんは、先生は涙でぐちゃぐちゃになりながらもしっかり笑っていた。もう大丈夫だろう。僕は黙礼だけをして会議室を後にした。もう先生は大丈夫だろう。僕は美揺と家路についた。

春号  Byみるく

2013年09月16日
うそつき
みるく


いつも通りあなたのベッドに、いつも通りに入った。
耳元にささやくあなたの声にまた、幸せを感じながら。

まん丸のお月様は、私たちを窓からのぞいて。
私たちもそれに応えて踊らなくちゃ。
私たちだけを照らす、スポットライトにありがとう。

あなたと一緒なら、いつまでも踊れるのだけど
残念ながらあなたは眠そうね。

「眠いの?」なんて聞いても、あなたは強がって
本当のことなんか、いいやしないから。

「眠いよ」ってウソをついて、あなたの胸に顔をうずめるの。
私の大好きなあなたの匂いを胸いっぱいに吸い込んで
仕方なく眠りにつくわ。

ほら、まだお月様があるうちに眠らなくちゃ。
太陽はスポットライトには強すぎるから。...
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春号  By匠

2013年09月16日
パラレルワールド


マヤ文明の予言では二〇一二年に人類は滅亡する、と言われていた。しかし、人々にさんざん騒がれたというのに結局、何も起こらなかった。人類は今も概ね平和に暮らしている。
 だが、私達が無事だとしてもこの世界とは異なる未来を迎えた世界、パラレルワールドの中の一つでは人類は滅亡している。そのパラレルワールドもこの世界と同様に人類が滅亡するほどの災害も起こらなかったし、宇宙人が侵略に来たというようなことは何もなかった。
 それにも拘らず、ある悲劇によって、そのパラレルワールドの人類は滅んでしまったのだった。



 ここは、あと一か月で人類が滅びてしまう世界。
そんな世界の日本の首都、東京でランドセルを背負った二人の少女が不安げな顔をしながら下校していた。このパラレルワールドに住む親友同士の優奈(ゆうな)と亜美(あみ)だ。
「今日は十人も学校休んでたね」
「これからもっとみんな来なくなるよ……」
 人類が滅亡するまであと一か月。そこまで迫るとどうせ人類は滅亡するのだから、もう仕事をしても意味がないと働かない者が少なからず出てきていた。
 やる気をなくすのは当然大人だけではなく、子供も同じで学校に行かなくなっている子が増えてきた。むしろ子供の方が多い。犯罪数も大幅に上昇した。
「たったあと一か月でほんとに人間がみんな死んじゃうと思う?」
「大人達が言ってるんだからそうなんじゃない?」
「適当だなー」
 優奈は真剣に聞いたのに亜美はどちらでもいいという風に答えた。本当は不安で堪らないのに強がっているだけだ。幼稚園からの長い付き合いだからそれが分かり、苦笑いした。
「優奈は明日もちゃんと学校来てね」
「うん。亜美ちゃんもだよ」
「分かってる。じゃ、また明日」
「バイバイ」
 亜美に手を振りながら、家に入った。

「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、家の中が静まりかえっていることに真っ青になった。
「もしかして……」
リビングに入ると家族全員が暗い顔で座り込んでいた。父がすまなそうな顔でこちらをのろのろと見上げた。
「チケット、だめだったの?」
家族の様子からして、答えなどほぼ分かっているのに聞かずにはいられなかった。
「すまない……優奈。一枚しか、取れなかったんだ」
 父は机の真ん中に置かれた一枚の紙切れを指差した。優奈は頭が真っ白になってパタン、と膝をついた。一枚では意味がないのに。
 これは地球脱出のための宇宙船のチケット。
地球で何かが起こり、人類が滅亡するのなら宇宙に逃げてしまえばいい。そう考えた人類は数年前から世界中の優秀な研究者を集め、巨大宇宙船を開発していた。このことがあったからこそ人々は人類滅亡説を信じたのだ。
しかし、全人類が助かるための数の宇宙船は用意できなかった。宇宙船はそれぞれの国の人口数に比例させ、平等に分けられた。日本には五機の宇宙船が与えられた。だが宇宙船に乗れるのはどう頑張っても一千万人にも満たない。
だから、首都で宇宙船のチケットをかけたオークションが開催された。それが、今日だったのだ。
「そっか……」
 それだけポツリと呟いた。他に何を言えばいいか分からなかった。我が家は一般的にみると裕福な方だ。だから父が必ず家族全員分のチケットを手に入れてくると出かけて行った時、父の言葉を信じて疑わなかった。チケットのことが心配で学校を休んでいた姉と弟は大泣きしたようで、真っ赤な目をしていた。母も普段はおしゃべりなのに先ほどから何も話さない。
「それで、誰が宇宙船に乗るかだが……どうしたい?」
 父は家族を見回した。チケットは一枚だけ。よって助かるのは一人だけだ。
「……拓也はどう? 一番小さいんだし……」
「で、でもぼく、お母さんにも助かってほしい!」
 母は幼い拓也を指名するが、拓也は母親っ子なので母なしで生きていけそうにない。
「やっぱり家族代表でお父さんじゃない?」
 姉の玲奈は父だと主張したが、当の本人が拒絶した。
「愛する妻や子を置いて一人だけ逃げるわけにはいかない。子孫を残すことを考えれば玲奈か優奈だ」
 優奈は自分のことよりもお互いのことを考える家族の姿に感動した。取り合いになると思った自分が恥ずかしくなった。
「じゃあ、誰も乗らないってことでいいじゃない」
「え?」
「本当に滅びるかも分からないし、死ぬ時は家族みんなで一緒がいいよ」
 そう提案するとさっきまで落ち込んでいたのが嘘のように家族全員がニコリと笑って頷いた。
「うん!」
「そうね。それがいいわ」
「あぁ、そうだな」
「さすが優奈。いい考えね」
 優奈はこんなに素晴らしい家族を持てたことを幸せに思った。




 翌日、学校に行くと明らかに空気が沈んでいた。優奈の教室、六年三組に行くと、普段ならほぼ全員来ている時間帯なのにも関わらず半数程度しかいなかった。
「優奈、おはよ」
「おはよう、亜美ちゃん。……どうしたの? すごく顔色悪いけど」
「うちさ、チケットが一枚も取れなかったんだよね……。みんなにも聞いたけど取れなかったか一枚だったって。普通の家じゃとても家族全員分は払えない額らしいよ。優奈ん家はどうだったの?」
 亜美が問いかけた瞬間クラスにいた全員の視線が優奈に集中した。
「あ、えっと、うちもダメだったの」
 そう言うとクラスメイト達の視線が外れていった。みんな気になって仕方ないのだろう。
「優奈ん家でもだめだったのかー」
「うん……。でも家族はね、最後まで家族一緒に幸せに暮らせたら短かったかもしれないけどいい人生じゃないかって言ってるの」
「うわ、すごいポジティブ。じゃそれ、あたしも家族に言うよ」
「それがいいよ」
 優奈はその日から勉強にも運動にも精一杯取り組んだ。時間の許す限り、家族や友達とともに過ごした。それが死ぬまでにやるべきことだと思ったのだ。



 そして、ついに人類の滅亡までわずか一日となった。人々は最後になるであろう夜を過ごしていた。
 深夜、優奈は物音で目を覚ました。
「なに……?」
 次いで、母の悲鳴が聞こえた。泥棒かもしれない。見に行こうかしばらく迷ったが、やがてそろりそろりと母達の寝室に向かった。弟はまだ一人で眠れないのだ。
「お母さん、大じょ……」
 優奈は母達の寝室を覗き込んで絶句した。優奈の目の前には父も母も拓也も血だまりの中に倒れていた。悲鳴を上げようにも声がでなかった。そしてその先には玲奈が立っていた。
「優奈……。あんたもチケット狙い?」
「ちが、ひ、悲鳴が聞こえたから……」
「じゃ、わたしがこのチケットもらっても文句ないわね?」
「その、ためにお母さん達を?」
 玲奈は顔を歪ませて首を横に振った。
「こ、殺すつもりなんてなかった。こっそりチケットを盗もうと思っただけ。だって、だって死にたくなかったんだもの。なのに忍び込んだらお父さんは死んでて拓也は大泣きしてて……」
 動揺しだした玲奈を見ていると、優奈は何故かすっと冷静になれた。落ち着いて玲奈の話を聞いた。
「お父さんは最初から死んでたってこと?」
「お母さんよ! あ、あの人初めから拓也を助けるためにチケットを盗んで逃げる気だったのよ! 結局拓也が一番かわいいんだから」
 玲奈によると母は寝ている父を刺し殺そうとしたが、父は母の様子がおかしいと警戒して狸寝入りをしていたらしい。しばらく抵抗したがやはり、包丁を持っていた母の方が有利だった。一部始終を見ていた拓也は大泣きし、母があやしている時に玲奈が乱入したのだ。母も玲奈も互いに動転し、チケットを奪い合った挙句殺し合いに発展した。空手の有段者だったこともあってか玲奈が勝利した。母を殺してしまってから理性を取り戻し、そばで泣きじゃくっていた拓也に事情を聞いたのだという。
「だから、拓也はちゃんと生きてるわ。話してくれた後、疲れてお母さんに縋り付いて寝ちゃっただけ」
耳を澄ますと確かに拓也はすやすやと寝息をたてていた。
「じゃあね」
 そう言い残して玲奈は静かに家を出て行った。優奈は怒ることも泣くこともできず、茫然と立ち尽くしていた。
一か月前に家族に感動した自分が馬鹿みたいだった。母は息子のため、玲奈は自分のために家族を殺したのだ。父も母を信じ切ることができなかった。
結局、人間は自分が危機になると本能的に命を守ろうとするものだったのだ。ようやく優奈は真実を知り、目が覚めた。



このような事態は世界中で起こった。宇宙船に乗るために人々は争い合い、ついに国同士で宇宙船の取り合いになった。最終的に核戦争にまで発展した。どの国が初めに使用したのかは分からない。核兵器を所有している全ての国は緊急事態に備えていつでも使えるように準備していたらしい。箍が外れた人々はめちゃくちゃに核兵器を使用した。
そして、核兵器によってパラレルワールドの人類は滅亡したのだった。
                     
                       終わり

真冬の血の薔薇日記
風船犬キミドリ

夕暮れの駅前を、目元を赤く腫らしながらも爽やかないわゆる「イイ顔」をして歩く僕こと大槻(おおつき)賢治(けんじ)は、先ほど別れた二人のことを思い出していた。小学生時代のトラウマを想起させるトリガー、小早川(こばやかわ)鈴音(すずね)。植物状態から奇跡的回復を果たしたという汀(なぎさ)ひいらぎ。別段長い付き合いがあるわけではなく、それはもうほんの一瞬運命が交錯しただけの二人だったが、僕の人生に多大なる影響を与えるインパクトには事欠かない。そりゃたった今隣を通りすがった見目麗しい性別不詳気味の人物もかなり謎で、思わず振り返るほどに衝撃だったが。何か大きな紙袋をいくつもぶら下げ、肩からは細長く黒いケースのようなものをかけている。紙袋からは大きなぬいぐるみがはみ出していたし、服装もなんだかよくわからないウェイターのような……。
 まあ、そんな通りすがりの人はいいとして。二人の話に戻そう。そもそも小早川が廃人のような有様で大学を中退した理由は僕にあるらしい。僕が大学で彼女を見つけ、声をかけて食事に誘い、走り去る。それが小早川の汀との思い出を喚起させてしまい、強烈なフラッシュバックに心が耐えられなくなり、パニックを起こしたというわけだ。彼女は僕のせいじゃないというが、確かに僕のせいじゃない。だが、それで責任を感じないかといえばそういうわけでもない。感じるなというのは無理な相談以外のなんでもない。
 とにかく、彼女はパニックを起こし、心を閉ざして数日を過ごしてきたらしい。その間、汀は病室でただ横たわっていたということだ。二人とも、闇に閉じこもっていた。対する僕は――闇を閉じこめていた。思い出したくない、見たくない現実を心が勝手に隅へ追いやって厳重に仕舞い込んだ。何かの弾みで開くことの無いように、それはそれは厳重に。それを僕は無理やりこじ開けた。小早川がしまいこまれた“何か”を思い出させてくれたから。
 要は僕たち三人はきっとどこかが壊れてしまった人間なのだろう。何とか社会に適応しているふりをしているだけで、結局は全員異端者でだからこそ運命が僕たちを交錯させた。いや、僕と小早川が出会ったのも(厳密に言えば小学校卒業後に存在を認識しただけではあるが)、小早川と汀の趣味が一緒だったのも、汀がトラックにはねとばされたのも、僕が小早川の、小早川が僕のトラウマの起爆剤となったのも、すべてがすべて神の御業か。何一つこの手で決めたことはなく、ご都合主義の運命の慈悲、もしくは遊び心が奏させたのかもしれない。みなも知ってのとおり、この物語をそいつなりに懸命に綴る運命とやらはずいぶんとご都合主義らしいから。そのくせできすぎた展開を嫌うんだから始末に終えない。突飛に走って自爆するのが趣味らしい。
 閑話休題。ともかく、僕たちが出会い、それぞれの欠けた部分を修正しあったのは運命だ思っていいらしい。たまには良いこともしてくれるようで、運命は僕の心にこそばゆい春を運んできたようだった。小学生のころ、僕は恋をした。初恋だというのに珍しく(かどうかは不明だが)、両想いとなったわけだが、そこから先はただのサスペンスドラマのクライマックスのような状況となった。そんなに僕が憎かったのか、運命さん。僕はその相手である少女に首を絞められ殺されかけた。以来、僕は友愛を感じることはあっても性的欲望を根源とした恋情を抱くことができなくなった。いやはやまったく、人間の心というのはしたたかなもので、都合の悪いことは自身の保護のため、切り捨てることができるようだった。おかげで僕には女性関係のネタがない。
 それが、小早川のおかげで今まで口煩く僕を制止していた心の声はなりを潜め、僕は自由に恋愛ができる精神状況にようやく戻れたらしい。小学六年生以来、久しく覚えなかったむずむずするような感じが心地よい。相手はもちろん小早川だ。
 僕は結局運命に踊らされているだけなのだろう。ただ、一概にご都合主義と片付けるには惜しい運命である。まったく性格の悪いことだ。一度言おうと思っていた。『お前が恋愛小説を書き綴ろうとすると必ずといっていいほど偏愛方向へと向かうから登場人物のためにもやめてくれ』と。きっと偏愛こそ至高だとか思っているのだろう。頼むから恋愛方向はやめて救われない運命でも書いていろ。
 閑話休題、どうも僕は妄想をたくましくして神と交信するのが得意のようだ。さて、小早川に恋をしたわけだが、別段これからどうしようか決まっているわけでも、迷っているわけでもない。ただ彼女を愛していたい、それだけだ。そりゃ彼女からも愛されたら嬉しいどころの騒ぎじゃないし、出来ることなら彼女を独占したいが、今の関係を維持するだけでも全然構わない。何せ僕は彼女を愛することができるだけで満足だから。分をわきまえて足るを知る。これこそが人間が生きる意味なんじゃないかとふと思った。
 どこか色ボケた、春らしい思考を巡らせていると、前から歩いてくる男女の二人組みの間を通り抜ける形でぶつかってしまった。僕がボーっとしていたせいだ。
「すみません!」
「いやいや、こっちこそごめんね~」
 二人のうち女性のほうが軽い口調で返してきた。闇を透かして二人を見ると、驚いたことに外国人だった。それにしては流暢な日本語だなと思ってしまうのは偏見だろうか。
「おい、早く行こう。仕事は早いほうがいい」
もう一人の男のほうが足を止めずに歩き去りながら言った。
「やれやれ、敵さんより血に飢えていらっしゃるようで、レオーネ」
「無駄口叩かず行くぞ、リンチェ」
「じゃあね~、また会わないことを願うよ」
 そして二人は夕闇に融けて見えなくなった。その先をじっと見つめ、なんともなしに感心していた。身近に現れた異国というのはなかなか物珍しく、少し嬉しくなった。単純な僕だ。
 さて、すっかり陽は暮れ、辺りは寂しげな暗さに包まれていた。元々人通りが少なかったがもはや僕しか人影はない。夕飯を適当に買って、さっさと帰ろう――
「なあなあ、そんなにイイコト、あったのかい?」
 後ろからかけられた声に、ざわりと首筋が粟立つ。ばっと振り返ると先ほどまでなかったはずの人影が、手を伸ばせば触れられそうな位置にあった。それは完全に、危険な間合いだった。
「ええと……?」
「いやねえ、そんな美味しそうな色を振りまきながら歩かれたらねえ」
「は?」
「うん、だからね。そんなニヤニヤしながら歩いていたら不審者扱い受けるよっていう忠告、かな」
 ……どうやら僕はヘンな奴に絡まれたようだ。
「あの、とっとと帰りたいんで……」
「まーちょっと待てって。どうせ用事はないんだろ? ちょっとばかしそのイイコトとやらを聞かせろよ」
「いや、もう構わないでくださいよ……」
「そういうわけにもいかないんだよねえ、美味しそうな食事を逃すだなんて無理な話だ」
 もはや意味不明だ、頭が痛くなってくる。
「なあ、仮にだ。お前に好きなコがいたとしよう。てか、いるだろうな。で、そのコは自分にとっては手の届かない存在だと思いつつも諦めきれない。そんな青臭い悩みを解消できるようなすげー力があったら欲しい?」
「まったく話が見えないが。別に僕の恋愛観からいってそんな能力、金払われてもいらない。僕をそんな卑しい奴だと思わないでくれ」
面倒くさかったが、ちょっとカチンときたので言い返さずにいられなかった。
「ふうむ……このリア充め。俺も現実に希望を見出せていれば、こんなことにはならなかったのかも知れないな……」
 なんだか触れてはいけないトラウマを開いてしまったかのようだった。
「まあいいや、とりま美味しいのいただきまーす。ついでに汚らわしい能力あげますよー」
 意味不明すぎて思わず上を向きたくなる。ふと瞬きをする間に彼の姿は消え、代わりに首筋に鋭い痛み。があったような気もする。僕の意識はこのあたりでブラックアウトした。

「なー、レオーネ……」
「分かっている、すぐ行く」
 大槻賢治が得体の知れない若者に絡まれ意識を失った頃、互いをレオーネ、リンチェと呼び合う二人はその気配を察し、現場へ最速の方法で駆けつけた。
「確か奴は『桜木(さくらぎ)右京(うきょう)』といったな?」
「うん。ルルシェ・エグザエル率いる一味の中のエリス・アストレアが直接インストールした日輪庭園の副次的な能力、吸血により感情を喰う能力を使って平穏を乱している、とか」
「日輪庭園自体は他人の感情が色で見えるってだけの平和なものなんだが……むしろ奴らはこの副次的な能力をメインに研究していたんだろう」
「……確かにこれ、吸血鬼といえるけど私らヴァンパイアハンターの仕事かなあ」
「文句言うな。……たしかに分かるがな」
「わざわざヴァチカンの地下から逃げてきて、与えられた任務が意味分かんないよー……」
リオーネと呼ばれる男は黙ったままだった。おそらく彼自身もそう思っているからだろう。
「で、そいつらに十字架やら聖水やら銀の杭は効くわけ?」
「……さあな」
 実際のところ、十字架や聖水など、一般に知られる対吸血鬼の道具で戦えることなどほとんどない。だからリンチェのほうも冗談半分でいったのだろう、やれやれとため息をつく。
「まあ、会ってみて殴りかかれば分かることだね!」
 夜の街を飛ぶように移動する二つの影は、誰にも気づかれることなく任務にとりかかった。

 世界に虹色が渦巻いている。色がゆらありと揺れる様子を見ると、なぜだか心が満たされていく気がした。直前に何があったのかはほとんど思い出せない。精々首筋の痛み程度だ。ゆるゆると緊張の糸が解けてふわふわと体の周りの漂いだす。その動きに誘われて、また意識は深く潜ってしまった。

 陽はもうすっかり暮れて、あたりは暗く、どこか不気味な感じすらした。今日は親友のナギのうちで夕食を食べさせてもらうことになっていた。久しぶりだし、凄く楽しみなのだけれど、この夕闇をぼんやり眺めていると、突然ざわりと悪寒が走った。嫌な感じがする。でも……
「楽しい夕食が待ってるんだ、大丈夫大丈夫」
 小声で言い聞かせるようにしてナギの髪が揺れる背中を追いかける。親友との四年ぶりの再会だ、話したいことは山のようにあるのが普通だろう。だが、私たちの場合において、この四年間は空白に等しい。語ることなど何もない。なぜなら、ナギは事故によって植物状態、私はそれに絶望し、引きこもりの生活を送っていたからだ。語ることの出来るモノを、二人とも持っていないのだ。だから、黙って歩く。互いを支えあえるように、体温がほんのり伝わるくらいの近さで、今は寄り添っていたい。でもさっきまでは二人で仲良く喋っていたのに、私が大学を中退した後の話からはどちらも口が重くなり、黙りこくってしまった。重苦しい沈黙が夜の帳とともに降りる。だから、そんなときこそ互いの存在を直に感じられる距離が欲しかった。
 だけど、もうそれどころじゃなくなった。なにか。よくないことが起きている気がする。
「どうかした、コバ?」
 ナギが振り向いて怪訝そうに聞いてくる。
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れてるだけ……」
「大丈夫? 無理はしないで今からでも……」
「大丈夫大丈夫、ナギと一緒においしいご飯をご馳走になればすぐ元気になるよ!」
 微笑を無理にでも浮かべ、なんとかやりきる。周囲をそっと見渡すと、なんだか闇の密度が高いような、どろりとタールのような粘り気を感じる。大きな黒い塊がズズズと移動しているかのよう……
「コバー? 着いたよ、我が家!」
いつの間にやらナギの家の前だった。
「さ、あがってあがって。多分母さんたちビックリするよ~」
「う、うん。ありがと、久しぶりにきちんと挨拶しなくっちゃ」
「あれ、おかしいな。電気がついてない……出かけるなんて聞いてないけど……」
 ナギがドアに近づいて、ノブをがちゃがちゃと回す。鍵は閉まっていた。仕方なく、鍵を取り出そうとして、ナギの両手が赤いコートのポケットを探り出した。それを私は後ろからぼんやりと眺めていた。先ほどからの警戒心もすっかり忘れて無防備に。
 ふわり、と後ろから抱き締められた。いや、拘束されたというべきか。驚いて思わず声を出しそうになった口を黒い革手袋をした手に塞がれる。逃れようとしても、力が入らない。そういう風に拘束されているからだ、不自然なほど体が動かない。
「あったあった、鍵発見」
 ナギはなんにも気づかずに鍵を探り当て、鍵穴に差し込む。
「ごめんね、とりあえずあがってよ」
 がちゃりと鍵を回してドアを開けながらナギは言った。そして、ナギが振り向いた先には、いつもの闇しかなかったはずだ。私は闇に取り込まれるようにして、その場から跡形もなく消えた。しまいには、意識までもが闇に侵され、なにも分からなくなった――。
...
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No Title
風船犬キミドリ

 私は職業柄、よく人に抱きつかれる。力いっぱい抱きしめられたり、撫でられたり。時には踏まれたり叩かれたり投げ飛ばされたりと悲惨な目に遭うこともある。だが、私は悲鳴を上げるどころかまったく声を発さない。黙ってされるがままを貫く。それが私という存在がある意味だからだ、それこそが生き様。そんなわたしだが、相手に好意、時には嫌悪を覚えるくらいは勝手だろう。美人な女性に抱きつかれればやはり嬉しいし、役得だと内心にやついている時だってある。しかし、悲しいかな私から動くことは許されていない。ただされるがまま、それが私だ。いくら心を通わせたくとも、無理なのである。鼻水をたらした汚らしい子どもや、化粧のけばけばしいメスに抱きつかれようと拒めないというのはとんでもなく辛いが、脂ぎった中年男性にハグされることに比べればいくらかマシというものか。
 毎日抱きつかれ、目の前で泣き喚かれ、床を引きずりまわされることもしばしば経験しつつも、私はこの職を辞められない。なぜなら、私は運命を信じるからだ。この職で運命の人を待っているのだ。
 ある日、妙に甘ったるい匂いの男連れの女が男に私をねだりながら去った後、一人の少女が現れた。シルバーグレーで肩辺りまで伸びたさらさらの髪とそれより少し濃い色の瞳、ふっくらと白くて柔らかそうな肌。少し頬の辺りが朱に染まっているのが可愛らしい。手には古ぼけてはいるがつややかな毛並みを保ったベージュ色のウサギのぬいぐるみ。とても丁寧に扱われてきたのだろう、羨ましい。
 私の黒い瞳と、彼女のダークグレーの瞳がぱちりと合う。ああ、ついにきた。と、そう思った。
「おっきなくまさん」
少女がかわいらしい声で私を形容する。そしてちょこちょこと小さな足で私に歩み寄り、おずおずと小さな手で私の手に触れる。
「ふわふわで、あったかいね、くまさん」
 おお、と感嘆の声を小さくあげ、ぱむぱむと私の手を両手で挟むように叩いた。私はというとこの少女の存在に今まで出会ったどんな人間よりも惹かれ、その無垢な瞳に吸い込まれそうになっていた。ああもし私が喋ったり動いたりすることを許される身だったら!
「くまさん、ふわふわ。おともだちだよ、みーちゃん」
 そういって少女は手に持っていたウサギのぬいぐるみを私の隣に並べた。ちらりと盗み見ると、ウサギは私に知的な光をたたえたつぶらな目で視線をよこし、私の立場に対しての同情と、今立場を共有している一体感とを伝えた。幸せなやつだ、このウサギは。
 少女はしばらく私と「みーちゃん」で遊んだ。時間を忘れたように少女の身の丈ほどもある私と、少女の小さな手におさまるようなウサギのぬいぐるみを戯れさせ、心底楽しそうな表情をしていた。
「ゆうー? あ、いたいた」
 しばらくして、少女の母親らしき人物が彼女を探して現れた。
「あ、おかあさんだ」
 ゆう、と呼ばれた少女は声のしたほうを見て呟いた。そこには嬉しさと寂しさが感じられた。きっと、私との別れが嫌なのだろう。そして、きっと少女が思っている以上に私も少女と別れたくなかった。
「ぬいぐるみで遊んでたの? 大きなくまさんねえ」
「そうなの! みーちゃんのおともだちなんだよ。……もう、帰らなきゃいけないの?」
 少女の瞳が不安げに潤むのを見て、母親も少し考え込む。
「ええ、お父さんがもう少ししたら来るはずだから、そうしたら帰らなきゃいけないわ。まだ、遊び足りないの?」
「うーん……いいや、おうちの子たちでもあそべるもん」
「いい子ね、ゆう。あ、お父さんが来たわよ。帰りましょうか」
「うん。そうだ、今日のおやつはなあに?」
 少女は、両親について店を出て行った。「みーちゃん」を忘れずに胸に抱いて。「みーちゃん」が最後にこちらによこした視線はとても気の毒そうだった。
 少女が店から出て行って、しばらくしても私の心は萎えたままだった。もともと動くはずのない身体がどうしようもなく重くて仕方がなかった。せっかくの運命が、消えていった。なんのために今まで虐げられてきたのか。私にもう、救いはない。
 彼女の感触が、まだ残っている。彼女の体温が、体臭が、まだ感じられるそのうちに。ああ、早く死んでしまいたい。元より命はないけれど、これ以上彼女以外の情報を私に与えないでくれ。あの少女が、わが生涯の全てだったのだ。ああ、もし神がいるならば、なんて悪趣味、なんて残虐なのだろう。信ずるものは救われる? 馬鹿を言え、すくわれるのは足元だけだ。そしてその躓きは致命傷となる。よろめいた先は、絶望の淵だった――

 暗くなった店内。命なき人形にすら生々しさを感じられる気がする夜更け。生き生きと月光に照らされるぬいぐるみの中に、巨大な屍が転がっていた。長年つやつやと輝きをたたえていた黒いボタンの目はくすみ、優しく触れるものを包み込んでいた豊かな毛並みは薄汚れて、触れてもちくちくと力なく拒絶を表すばかりになっていた。朝になれば、はたから見る分には何事もなかったかのように棚に並べられるその布で出来たかわいらしいクマは、ただ涙を流すことすら許されないのであった。それを知るのは店内に並ぶ数多の人形と、ひとつのウサギのぬいぐるみだけだった。
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うさぎさんの憂鬱
さつき

「いってきまーす!」
階下で、元気に走っていく足音と声が聞こえた。その、いつもとは全然違う元気な声に違和感を覚えつつも、そろそろかな、とボクはむくりと起き上がる。目を瞬かせ、ぼんやりした視界に目をならせる。いつも通り、ボクは窓際にあるおもちゃの木椅子に座っていた。うーん、と伸びをすると腕の関節をつなぐ糸がみしみしいう。
ばんっ
突如ドアが開き、入ってきたのはこの家に住む女の子の母親だ。若干嬉しそうなのは女の子の態度が変わったからなのか。とりあえず、彼女は人間だから、よもやボクが動いて言葉をしゃべるだなんて思っていないだろう。びっくりされて恐れられて、そこらに捨てられてしまうのは御免なので、立ち上がりかけていたボクは慌てて椅子に座りなおした。なんとか間に合って母親にはバレなかったものの、先ほどみしみし言っていた糸がぶちっとちぎれた。痛みは感じないが、きっとこれを繕ってもらうまで動きは制限されるだろう。何かを探している様子の母親が気づいてくれないかな、とちらちら視線を送るが全く気づいた様子はなく、お目当てのレースをあしらったピンクのハンカチを探し当てて女の子を追いかけていってしまった。まあ、もう彼女らがここに戻ってくることはないだろう。ボクは今度こそ、安心して椅子を立った。
 てくてくてく。昨日まで女の子は春休みだったから、ボクはずっと動けないでいた。ストレスも溜まっていたから、久しぶりにこの部屋を縦断するのは昨日から楽しみにしていたのだ。
 てってけてってけ。つい、足取りも軽くなるというものだ。スキップをすると、ボクの耳はひょこひょこ揺れる。あの女の子が幼いころは、シュシュだのリボンだので耳をひとまとめに縛られて大変だったのだが、中学生にもなった今はむしろほったらかされすぎてそれはそれで寂しい。
 そんなことを考えながら部屋の真ん中、蛍光灯の光が一番明るいところまで時間をかけてたどり着く。昔、ここで見上げて明るい蛍光灯の光に目をやられ、命からがら木椅子に逃げ帰ったことがあるので、上を見ないようにしながら、あたりを見回す。新たな家具が増えていたら、とりあえず調査をせねばならない。
 ボクがこうして部屋を闊歩するのには理由がある。それは、新たな居場所の捜索だ。木椅子はいかんせん居心地が悪い。まあ、同じ態勢でいても居心地がいいところなんてないのだろうけど、探す分には自由だろう。
 ふと、たんすの下から二段目の引き出しに新しい傷がついているのを見つけて歩み寄る。感触を確かめようと手を伸ばすが届かない。いつもなら適当なところで諦めるのだろうが、さわやかな春の陽気に惑わされたのか、ボクはたんすとの戦闘を続けていた。
――と、そのとき、ボクの右腕に嫌な感触が伝わる。
もしや、とすぐさま右腕を確認すると、予想通りだった。先ほどちぎれた糸の周りも、連鎖反応を起こしてちぎれてしまっていた。今、ボクの右腕は糸一本でかろうじてつながっている状況だ。
 ボクは今までの経験から考えた。あの女の子は今日始業式だ。ということは、おそらく午前中に帰ってくるのだろう。とすると、あと三十分くらいで彼女は帰ってくる。そんな彼女がボクのこの有様を見たら、きっといぶかしむだろう。そんな些細なことでボクが動けることを悟られてはならない。
――これは、自分で傷を治すしかないじゃないか。ついでにたんすの傷も見れたら万々歳だろう。

 時間がないので、ボクはすぐに作業に取り掛かった。この部屋の裁縫道具の場所なら既に知っている。すててててっと小走りで窓際の木椅子に戻る。木椅子の上に立てば、裁縫道具の入った小さいカラーボックスに手が届くのだ。お目当てのものを取り出したボクは、それをひとつひとつ床に広げる。針はなんとか取り出せたが、針山や糸切り鋏などは、即興で作った簡易てこを使ってやっと箱の中から引きずり出すことができた。既に左腕が筋肉痛なのは、若いと喜ぶべきなのかひ弱だと落ち込むべきなのか。
 そして、ボクは針に糸を通し、いざ、右腕にそれを突き刺した。
「いったぁ!?」
ボクの右腕を痛みが襲う。あの女の子の母親に繕ってもらうときは全然痛くないのに、なぜ痛いのだろうか。しかも針はボクの皮膚を貫通していった。しまった、玉結びを忘れていた。
 再びこの痛みを味わうのは嫌だが、仕方がないので再び針を刺す。痛い。けど、我慢してどんどん針を進めていく。痛い。母親の手つきは見慣れている。痛い。だから、うまくやっているつもりだった。痛い。痛い、痛い、痛い――

 その一時間後、部屋の真ん中には糸に絡まって身動きが取れないでいるボクを抱えて立っている女の子がいた。彼女は、ボクの姿を見るなりこう言った。
「慣れないことはしちゃダメだよ? いくら私がいなくても」
そして、その顔に憫笑を浮かべた。ボクの体を動揺が走る。
 彼女は、間違いなく知っている。ボクが実は動けることを知っている……!
 ボクは焦ったが、とりあえず動かずに様子を見ることにした。彼女はじっとボクの顔を見つめ、そして言った。
「慣れないことしたって失敗するんだよ、人間も、人形も、おんなじ」
彼女の口元は相変わらず憫笑をたたえたままだったが、その目だけはどこか悲しさを浮かべていたようだった。
しかしボクはそれをはっきり確認できないまま、その声を最後に、意識を失った。
続く?
...
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オールドワイズマン
尾月幾徒



 名無し'これって、もう打っても大丈夫なんですか?
 万屋 'ああ、大丈夫だよ。君と僕以外だれも見れない。安心して
話してごらん?
 名無し'分かりました。
 名無し'私、好きな人がいるんです。数年前から。それでも、まあ付き合えたら幸せだなー、とかなんとなく好きだったんです。
 名無し'いえ、本当は友達のように思ってただけなのかもしれません。それを好きだと勘違いして。
 名無し'私、友達少なかったので。
 名無し'それでそんな気持ちのまま最近になって、その好きな人に彼女ができたっていう噂を聞いたんです。
 名無し'それを聞いたときびっくりしました。彼女ができたっていうことにではなくて、そのことを聞いて凄く残念がっている自分に。
 名無し'聞いたときはよかったんです。驚いただけでしたから。でも、時間がたてば経つほど彼のことをどんどんすきになって。
 名無し'それで、私、なんだかおかしくなってきたんです。
 名無し'彼のことつけまわして写真を撮ったり、枕を彫刻刀で切り裂いたり、色々変なことをし始めたんです。
 名無し'ヤンデレっていうらしいです。
 名無し'それでそのヤンデレ行為が、最近どんどんエスカレートしてきたんです。
 名無し'このままだと私、犯罪に手を染めてしまいそうでこわいんです。
 名無し'お願いします。どうにかヤンデレ行為を止める方法を教えて下さい。
 万屋 '話は大体理解したよ。それで質問なんだが、君の話を聞いているとまるで他人事ように話すね。それがまず妙に感じたのと
 万屋 'そんなことをする人間が何故僕に相談に来たのかというのが、わからない。
 万屋 '普通、そういう人間は正気を保っていないからね。人に相談しようなんて思わないものだが。
万屋 'それともそれは他人事のように話すのとなにか関係があるのかい?
 名無し'私はときどき、突発的におかしくなるんです。
 名無し'いつもは普通なんですけど、時々すごく彼の彼女が憎くなったり、彼に会いたくなったり。
 万屋 'なるほど。つまりは発作みたいなものか。
 万屋 'じゃあまた質問だけど、その普通のときは彼のことが好きかい?
 名無し'嫌いではない、と思います。好き、でもないと思います。多分。

ここで万屋と名乗った少女はキーボードから手を離した。
よくある話だ、と薄暗いリビングの中で一人パソコンに向かいなが
思った。
「さて」
呟きながら腕を組む。もう返事を返す気はない。
(この子も、恐らくつまらない人間なんだろう)
ならせめて騙されたとわかったときになんと書き込むか、見せてもら
おう。

   ***

 「悪趣味だ」
話を聞き終えて、腕を組みながら俺は少女――識常(しきじょう)京華(きょうか)と名乗った
少女に言った。
都内の喫茶店、平日の昼間、雨雲がよく見える窓際の席に腰まで伸
びた黒髪とセーラー服が目を惹く女子高生らしき少女と向かい合っている。傍からみたら学校をサボった女子高生と二十歳くらいの無職の男が何かを話しあっているように見えるだろう。
ものすごく目立っているが仕方ない。
「悪趣味、ねえ」
識常は噛みしめるように言い直してから、続ける。
「まあ、君がどういう感想かはさておき、君は僕にどうして欲しいん
だい?」
「決まってるだろう。万屋と名乗って人の悩みを聞くだけきいて放置
するのをやめろ。俺の方の“何でも屋”に苦情が来てるんだよ」
は?、と識常は今までの微笑んでいるような嘲笑しているような顔
を崩し豆鉄砲でもくらったかのような顔になった。
「苦情って君の何でも屋のサイトにかい?」
ああ、というと識常はため息をついた。
「お門違いもいいところだねぇ……。ていうかどんな苦情が来るんだい? 話を聞かれただけで無関係の人間にいちゃもんをつけるほど嫌だったのかい?」
「人に興味本位で聞いて欲しくない話だってあるだろう。で、どうなんだ。止めるのか、止めないのか」
 コーヒーを半分ぐらいまで飲んでから識常は返す。
「止めないさ」
「何故?」
 識常は窓の外に視線をむけた。つられて見てみるが雨が降っており傘をさして歩道を歩いている人が一人居ただけだった。
「気にならないかい? あの人がこれから何をしにどこへ向かっているのか」
「……いや、全然」
 視線をこちらに戻す。
「僕は、とても、気になる。だから知りたいんだよ」
「だから、ネットで人の悩みを聞くのか」
 返事は無いが、おそらく合っているのだろう。
「つまりは好奇心だ。しかし恐らく、君が思っているより遥かに強い欲望なんだ。私にとっては」
「だからってやっていいことと悪いことがあるだろ」
「そうは言ってもねぇ、誰だって意外とやってることだぜ? 昔、僕は交通事故を間近で見たことがあったんだが、瀕死の人間が目の前に居て真っ先に携帯電話をとりだした人間がいて、通報するのかと思ったんだが見ていてびっくり、カメラを起動させて写真を撮り始めたんだよ。しかも一人じゃなかった。そういう野次馬根性丸出しのことはみんな気づいていないだけで結構やってるぜ? 大体、今日君が僕に直接会おうって持ちかけてきたのも、僕がどういう人間か気になったからじゃあないのかい? 忠告だけならネットでも出来たわけだし」
 それを言われると、弱い。興味があったから直接会う提案をしたという一面はあった。
「僕は倫理の観点からは非難されるかもしれないが、違法なことはしていない。まして、人から聞いた悩み事をネットで中傷しているわけでもない。己の知識欲を満たすためだけに動いている。それを止める権利や筋合いを君は持っているのかい?」
 無い。まったく持っていない。こうなればネットで人の悩みを聞くだけ聞いて無視する人間がいると呼びかけるしかないだろう。俺が黙っていると識常はコーヒーを飲み干し、立ち上がるのかと思いきやベルを押した。やってきた店員に、コーヒーをもう一杯注文した。
「?」
 これ以上彼女がここに留まる理由があるのだろうか。外を見てみるが雨はやんでおり、雨のせいではなさそうだ。
「ところで聞きたいんだが、何故君はいい歳して何でも屋なんて商売をしているんだい? 普通に就職とかできなかったのかい?」
 いきなり何を言い出すんだ。だが、なんとなく答えてしまった。
「一応、何でも屋は仕事だからな? 普通の」
「そうでもないだろう。厚生労働省に申告していないんだろ? 書類上では無職なんだし」
 確かにそうだが。
「何でも屋は俺の祖父の代から続けてることだ。だから自然と俺もそうなりたいって思ってたな」
「だけど、噂に聞くところ随分と安い、雀の涙よりも少ない料金で仕事を引き受けてるらしいじゃないか」
「お金欲しさにやってるわけじゃないからな。お金に振り回されないだけのお金があればいい」
 識常はコーヒーを少し飲み、それきり視線をカップに向けたまま黙り込んでしまった。
 何だ? 何か気を悪くしたのだろうか。別にそこまで気を使う必要などないのだが、だんまりを決め込まれてしまったらどうすればいいのか分からない。
 だが、識常の言葉で沈黙は破られる。
「生きがいはないのか? 生きているという実感が得られるときは」
 意味を咀嚼するのに数秒を要したが、すぐに返す。
「わからないな」
 また識常は黙るが、今度の沈黙は長くは続かなかった。
「ああ、分からない」と識常。
「何が?」
「君がだよ。最初はただの偽善者かとも思っていたんだが、話していてどうにも違和感を感じる。……気持ち悪いな、君は。僕は自分の好奇心を満たすためにネットだけではなくリアルでも様々な人間に出会ってきたが、それでも君ほどわからない人間は初めて見たよ」
そうだ、と識常は言う。
「僕を、君の何でも屋で雇ってもらえないだろうか」
 話題転換が急すぎる。また、意味を理解するのに数秒を要したが、返す。
「なんでだ?」
「分からないからだ。だからもっと近くで観察したい」
 まるで告白のワンシーンみたいだな、と思った。
「断る」
「何故?」
「なんでお前を雇わなきゃならないんだ。理由が無い」
そうか、と識常は黙考した後
「じゃあ、雇ってくれるならネットでの万屋を止めよう」
 今度は俺が黙考する番だった。そしてすぐに返した。
「分かった」
 識常は驚いた顔をして、意外だと言った。しかしそれは俺にとっては意外でもないことだった。識常の目的が俺の観察だと分かっている以上そう遠からず辞めるのは目に見えている。ならばさっさと受けて万屋を止めさせるのが良いだろう。辞めた後にまた万屋を始めないとも限らないが、何故か識常が嘘をつくのは考えられなかった。
 そして、何気なく窓の外を見てみると、空に虹がかかっていた。気づけば、日が差しており人通りも増えていた。そして、俺は無意識に口を開いていた。
「虹は日の光だけじゃなくて雨の残滓も無いと出来ないんだよな……」
 識常も、何を考えているのか口を開かない。
 沈黙が続いたが、虹はすぐに消えていった。そして俺は残ったコーヒーを飲み干し、勘定を済まして店を出た。その間、識常は店に残ったままずっと虹のあった場所を見続けていた。

   ***

 築六十年の木造アパートに帰宅し、電気をつけ、そのまま畳に敷きっぱなしの布団に倒れこむ。識常と別れた後、その足で何軒か本屋をはしごしたので、外は日が落ちていた。
(拍子抜けっていうんだろうな)
 識常が指摘したとおり人の悩みを聞くだけ聞いて放置する、という人間に好奇心を働かせて会いに行ったのは確かなのだが、同時にタチの悪い人間であることも予想していた。それは、ネットでの万屋の評判を鵜呑みにしてしまったからなのだが、実際に会ってみてそこに悪意が無くただ知りたいというだけだった事に、用心していた心がなんだか空回りしたように感じた。
(だからといって許されていいことではないと思うが)
 しかし、自分もまた万屋ではなく識常個人に興味を持ったからこそ、あっさりと雇用を承諾してしまったのかもしれない。自分の学習の無さにため息をついた。
とりあえず、雇うことに関して識常と話さなければならない。ネットを使えばすぐに識常と話せるだろう。起き上がるのも面倒くさくなって、ノートパソコンを畳にこすり付けるように手元に引き寄せ、電源をいれた。
...
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冬号 By深智

2012年12月03日


囚人たちの夜 上
  深智


 この地から逃げ出す方法を、私は知らない。
 耳にこびりついて離れようとしない音と、そこに絡む感情。
 誰かの、叫び声。

    ○

 ひんやりとした壁にもたれながら、昨日買った雑誌をぱらぱらとめくる。部屋の外は夜の足音が響き初め、茜色と紺とが混じった複雑な空が広がっているけれど、今はそんなことはどうでもいい。今の私には蛍光灯と雑誌、そして音楽の他には何もいらない。いいや、音楽以外は全部無くてもいいかもしれない。きっとこの音を心地よく聴くために、私は雑誌を買ったり電気を付けたりしているはずだから。
 壁の向こう側からは、いつもと同じメロディが流暢に流れ出している。今日はあまり自信がないのか、最後の部分が少し弱い。鞄の中からメモを取り出して、そのことを書き留めた。演奏者から直々に、もし気になるところがあれば教えて欲しいと言われている。私は音楽の良さなんてさっぱりだけれど、この人がそう言うなら仕方が無い。ゆっくりと目を閉じ、壁から溢れ出る旋律に耳を傾ける。
 瞼の裏では、まるで本のページが捲られるように、忙しく今までの情景が駆け巡る。音楽のリズムに乗りながら一つずつ、一つずつ。それがなんだかまた心地よくて、口元が少しだけほころぶ。

    ○

「ねえお母さん、この音、なんの音?」
 新しい部屋と一緒に現れた奇妙で美しい音は、まるで私たちを歓迎しているかのように、明るいテンポで流れていた。
小学三年生の冬、父親の転勤を機に、私たち家族は新しいマンションに引っ越すことになった。最上階の奥から二番目の部屋。そこが、その日から私の新しい「家」となった。
「家」へ向かう車の中、私は頭の中で色々なことを考えていた。勿論その中には、前の学校の事や友達の事みたいな、ちょっぴり悲しみを覚えるようなことも入っていたけれど、大半は今後私が生活する「家」での生活の事だった。内装はどうとか、部屋はこうだとか、周りには何があるだとか。でも、その全てを漁ったところで、「新しい音を知る」、なんて項目を見つけることはできなかった。予想外の展開に心を躍らした私は、その勢いのまま母親に尋ねた。
「そうねえ……、多分、バイオリンだと思うけれど」
 母親も、隣の部屋から流れだした音に少し驚いた様で、答える声もいつもよりうわずっていた。
「ばいおりん?」
「そう、バイオリン。隣の部屋かしら」
「誰が弾いてるのかな」
「それにしても上手ね。プロより上手いんじゃない?」
 そう言いながら、母親は「家」の中へと入っていった。
 部屋の奥に入っても、その音は消えなかった。母親と私しかいない「家」はまだ家具が置かれておらず、どこか殺風景で冷たく見えたけれども、私にはその音のおかげで何故か暖かく感じた。
「そういえば」
 一通り「家」の中を回った後、母親が思い出したようにそう言った。
「何?」
 訳が分からなかった私がそう問うと、母親は口角を上げながら
「挨拶に行かないといけないんだった、私」
と、意味のありそうな口調で言う。それでも何が言いたいのかさっぱり分からない私に、母親は微笑みながら告げる。
「三(み)香(か)も来る? バイオリンが何か見たいんでしょ?」
 その言葉に、私は勢いよく「うん」と頷いた。好奇心というものを放っておいて生きていける程、私は大人ではなかった。母親は私の返事を聞くやいなや、持って行くお土産を準備し、私の服装を整えた。それが終わると、すたすたと玄関の方へ歩いていき、私は慌ててその後を追った。
 私が玄関を出た頃には、もうすでに母親は隣のインターフォンを押していた。ピンポーンという無機質な音の後、すぐにその部屋から聞こえる音楽は止まった。そして幾秒か経った後また始まり、
「はい」と、澄んだ声の返事が黒い機械の向こうから返ってきた。
「恐れ入ります、今日隣に引っ越してきました高村(たかむら)と申しますが……」
 いつもと違い、母親は形式ばった口調で会話を始めた。そんな様子を眺めながら、私はどんどんと速くなる鼓動を押さえるのに必死だった。もうすぐ音の正体がわかる。そんな希望が積もるにつれ、私の心臓の動くスピードが上がっていくみたいだった。
 そうこうしている内に会話は終わったらしく、少しだけ母親が溜息をついた。その白い残骸が消えるとすぐに、扉の向こうからどたどたとした足音が向かってきた。母親と私はそろって背筋を伸ばし、相手の到着を待った。
ドアノブが乾いた音を立てて回されると、まるで怯えた小鳥みたいな小さな声で
「どうぞ、お入りください」
と言う、コバルトブルーの立派なワンピースを着た女の人が現れた。後ろでは相変わらず音楽が鳴っているけれど、その高級そうな、そしてどこか特別な響きがとても似合う美人だった。
母親が手土産を渡し終えると、私たちはすぐに玄関に通された。扉をくぐり抜けた途端、さっきよりもさらに強く、その音は私の鼓膜を震わした。廊下に入ると、私の隣では母親と女の人が何か嬉しそうに話しながら歩き始めた。けれど、そんな声は私には届かない。私はただ、奥へ奥へと続く音を追っていた。
一番奥の部屋。大きな木の扉で閉じられたその部屋から、音は届いている。それは一歩一歩歩くたびに確証を持ち、そして今から行く部屋はそこではないのか、という期待も同時に大きくなっていく。
そして、その私の望みはすぐに叶った。
「どうぞお入りになって下さい」
天使のような声でそう言うと、女の人は奥の部屋の扉を開けた。と、同時に一気に封じ込められていた音が解き放たれ、私も母親もその波に圧倒された。
「すごいですねぇ……」
母親が間の抜けた反応を返すと、女の人は微笑みながら部屋の中へ入っていった。私も浮き上がりそうな心臓を抱えながら、その後に続いた。
「ええっ」
 部屋に入ると思わず、母親が思わず小さな声を漏らした。私も思わずそれに続いてしまった。目の前に広がる景色すべてが、今まで触れたことのない世界の物である気がしたのだ。部屋を飾る家具は全て高そうな装飾が施されていて、いわゆる庶民の私たちにとっては夢のようだった。でも、それだけじゃない。
「お子さんですか……?」
 驚愕の光りを目に宿しながら、ぽつりと母親が呟く。私も同じような感情だった。思わず目を見開いて、その光景を見る。
 部屋の真ん中。濃い青のカーテンが掛かったベランダを背景に、真っ赤な服に包まれた子供がその「ばいおりん」という物を肩に乗せながら弾いていた。そこから発される音は、子供とは思えないほど力強く、そして、どこか心に残るような響きで、近づく程にそのすごさが分かる気がした。
「そうです」
 小さく、それでいて何処か誇らしげな声で女の人はそう返した。
 そこからは誰も話せなかった。喉に出かかった言葉は、耳に流れ込む音が次々に消していく。それはまるで魔法のようで、今いる部屋はマンションの一室ではなく、本当は音楽聖堂じゃないかと思った程だ。演奏者はこちらを一切見ず、ただただ自分の奏でる音だけを確かめている。
 ふいに、音が止んだ。いつの間にか目を閉じて聴いていた私は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。次の瞬間、私の目に映ったのは、ぽかんと口を開けたままこちらを見る、私と同じぐらいの子供の姿だった。
「ほら、自己紹介」
 耳元で母親がそう言った。その言葉の言う通りに、私の目はうろたえながら適当な言葉を探し始めたけれど、なかなかうまくいかない。もう一度母親を見ると、
「自己紹介でしょ、初めまして、私は、ってやつよ」
と、早くしろと言わんばかりの言葉を返され、慌てて言葉をつなげる。
「は、初めまして。私は、えっと……、隣に引っ越してきました、高村三香、です。これからっ、よろしく、お願いしま、す……」
 ちらりと相手の方を見ながら言うと、何故だか緊張が沸き上がって上手く言えなかった。
私が言い終わると、相手も視線を泳がせながら、弱々しい声で口を開いた。
「初めまして、っ……。えーっと、僕は、僕は、佐藤、ユウです。えっと、よろしく? お願いします」

   ○

 その後、私とユウはすぐに仲良くなった。馬があった、という表現が一番正しいかも知れない。ユウは私となんか比べものにならないぐらいの才能を持っていたけれど、そんなことは私たちの友情の妨げにはならなかった。元々ユウは謙虚だったし、それに、私はユウの能力が好きで友達になったわけじゃなかったから。私は、ユウの心が好きなのだ。
 あの日からずいぶんの日が経ったけれど、何故かその記憶だけははっきりと覚えている。そのときに流れていた曲のメロディとか、ユウが着ていた服のデザインとか、そのときの私の感情とか。他の記憶では曖昧になっているそれらが、この日だけは明確だ。今まで生きていた中で一番印象深かったのだろうか。それとも、頭の中のどこかが、このファーストコンタクトは私の人生において重要な役割を果たす、なんて予言でもしたのだろうか。考えれば考えるほど馬鹿らしくなって、私はまた目を閉じる。

   ○

「バイオリンの音は悲鳴なの?」
「ええっ? 何のこと?」
 私が突如言い出した言葉に、ユウは目を丸くしてこちらを見た。どちらの息も白く染まる冬の日、小学五年の終わりを迎えた私たちは、いつも通りに学校からの帰り道を歩いていた。
「いや、昨日本で読んで、ホントかなぁと思って。ユウが弾くとバイオリンは道具になるけど、これは本が間違ってるの?」
「いやちょっと待って、三香。僕はどこから答えればいいの?」
 困ったような表情でユウが言った。早く答えが知りたかった私は、急かすようにまたユウに話しかける。
「じゃあ最初は悲鳴かどうか。真相はどうなんですか、ユウさん」
 ふざけた調子で訊くと、ユウはあーとかうーとかいった音を発するだけで、中々答えを言ってくれなかった。
「どうなの? ゆーう」
「えーっと、っと? 多分、合ってる、と思うけどなあ。お母さんが言ってた気がするから」
 時折空を見ながら、自信のないような口調で呟くようにそう言った。
「おばさんが? そう言ってたの?」
 ユウのお母さんは、世間にそこそこ名の知れたバイオリン奏者だ。そのことを知ったのは引っ越してすぐ、母親がユウのお母さんが乗っている新聞記事を見つけた時だった。
「そう。僕にはよく分からないんだけど……。確か、お母さんが言うには、オーケストラは音の戦場で、バイオリンはその主役で、それで……」
「それで?」
 うーん、とまたユウは考え込む。難しそうなことになるといつも詰まってしまうのがユウの癖だ。
「えーっと。主役であるためには、目立たないといけないから、そのためにバイオリンは悲鳴のような音をする……、だったかなあ」
「かなあって、自信なさげな。とりあえず、目立つためにバイオリンは悲鳴をあげて、みんなに気付いてもらうんだよね? 悲鳴が一番人を引き付けるから。そういう話でしょ?」
 私がそうまとめると、ユウは安心したように大きく頷いた。そして、
「でも、本当はそれじゃ駄目なんだってさ」
と、少し目尻を下げながら言った。
「駄目なの?」
「そう。それじゃあ自分の音じゃなくて、誰かが聞いて欲しいと思った音をなぞっただけになる、っていつも言うんだ。それだとバイオリンを弾く人は、誰かが主張したいことを、正確に伝えるために叫んでるだけだって。僕にはよくわからないけれど……」
 短い髪をふるふると揺らしながらユウはそう言って、小さく溜息を吐いた。
「でも貴方には『才能』があるんだから、絶対に自分の音を届けられる人になるよ、だってさ。買いかぶり過ぎなんだよ、みんな」
「多分、それは私が言ってることと一緒だよ、ユウ」
「えっ?」
 私の言ったことに心の底から驚いたのか、ユウは大きな目をさらに見開いてこちらを見た。その視線を受けながら、私はさっき思いついた考えを急いで口に出す。
「ユウにとってバイオリンは道具だ、って言ったでしょ? それとおばさんの話は一緒だよ」
「どこが? 僕にはさっぱり……」
 ユウは首を傾げ、瞳をゆらりゆらりと転がした。私はその動きを止めるかのように、勢いよく次の言葉を紡いだ。
「だから、ユウの音楽はユウの意志を伝えるために奏でるものでしょ? でも、普通の人は役割を果たすために楽器を弾く。そういうことを言いたいんじゃないの?」
 私がそう言いきっても、やっぱりユウは分からないようで、少しだけ斜めに頷くと、
「やっぱり三香はすごいなあ」
と一言言うと、黙りこくってしまった。
 
   ○

その話題が出ることはその後一度もなかったけれど、私の心の中でいつも流れているのはそれだった。
 他にも、と言われればたくさんあるような気がするけれど、他に思いつく話は至って普通で、書くほどではないものばかりだ。例えばユウの家に行ってバイオリンを触らせてもらったこと。ユウが扱えば魔法のような音が出るその楽器は、私の手では耳に刺さるような金切り声しかでなかった。他にもベランダに設置してあった柵を乗り越えて行き来し合ったり、ユウのバイオリンの大会を見に行ってそのトロフィーを見せてもらったりしたこともあった。とりあえず、世間にある全ての平凡の登場人物を私とユウに替えると、今まで私たちが過ごしてきた日々になるのだ。
 もう後ろでなっている曲が終わってしまう。ここらで回想も終わらせないと、約束に間に合わない。私は急いでユウの家に行く支度をし、自分の部屋から急いで玄関へと向かう。
 丁度靴を掃き終えると、曲も終焉を迎えた。それを合図に、扉の鍵を開け、外へ飛び出した。空ではもう一番星が輝き始めていたけれど、そんなことには目もくれずに、私はユウの家の呼び鈴を押した。
「はい、ちょっと待って」
 ユウの明るい声を機械が通し、すぐ後に軽々とした足音が続く。私は早く早くと口に出しながら待っている。
「お待たせー。どうだった?」
 ガチャリと扉の開く音と同時に、そう尋ねるユウの声が聞こえた。私はそれに良かったと答え、いつも通り玄関の中へ入った。
 ユウは普段と変わらずにTシャツとジーンズという、どこまでもシンプルな格好をしていた。
 その後、私はユウの部屋に入り、今日の曲に対する感想を少しだけ述べた。
「あれ」
 ふと、机の上にあったパンフレットに目がいった。それは遠くにある音楽大学の付属高校のもので、その下にも同じような学校の資料が沢山おいてあった。
 私の視線に気付くと、慌てたようにユウが
「それは、お母さんが、勝手に」
と言い訳みたいに言う。私にはそれがどこか可笑しくて、小さく笑みを漏らしてしまった。けれど、その後急に喉の奥から何か切ないものが上がって来て、どういう風に会話を続けるべきか分からなくなった。
「もうギリギリだ、って。他の子はもう始めてるのに遅いってさ。僕はまだ弾いていたいんだけどなあ」
 ユウはそんな風にやわらかく、でもどこか諦めたように言う。
「もう、そんな時期かあ」
「だって、もう中二の三学期だからねえ。仕方が無いのかなあ」
「高校は別れ別れになる、ってこと、だよね」
 のんびりとした雰囲気で物を言っているユウに私がそう言うと、困ったように、淋しそうに眉をひそめながら
「そう、みたいだね」
と、静かに告げた。
 その後は二人とも何も言わなかった。
窓の外に広がる空はいつもと同じように星の数を増やしていき、空気も段々と冷たくなっていくけれど、今日は何だかそれも感傷に満ちあふれて見えてしまう。
ひしひしと終わりの足音が近づいてくる。けれど、その音を感じながらも、私は胸の奥のどこかで、この生活がずっと続くように、ずっと終わらないようにと願っていた。



そんな単純な終わり方が、天才のあの子に来るとでも思ってたの?
                だったら、貴方はとんだ幸せ者ね。
                      

――次号に続く

冬号 By深智

2012年12月03日
恋文の行方
深智


ただこの海の上
溢れかえる恋文の亡骸
永遠に届くはずの無い
思いの残骸

書き綴られた言葉と言葉
織り上げたらその先に
受け取る手があればだなんて
考えては海へと放つ

何度目になる?
そんな言葉に返事はなく
浮遊した現実だけが
確かに語りかける

永遠に届かないとは
知っていたけどこんなはずじゃと
空気の元へため息を届け




沈み行く恋文の海原
海鳥だけが訪ねる地
誰の姿も見当たらない

書き綴られた言葉と言葉
織り上げられたその先を
望んだ途端輝き始め
見つけては空へと放つ

何度目になる?
そんな言葉に返事はない
混濁した思いだけが
確かに手を動かす

永遠に届かないなんて
知っているけど止められないと
空気の元へ熱気を届け




高くそびえる紺碧の宇宙
投げつけた恋文の行き場所
逆らえぬ力に落ちていく

ただこの空の下
つもりに積もる恋文の山
いつ届くかと待ち焦がれ
海の上を漂い続ける

何度目になるの?
そんな言葉に返事はできず
混乱する感情だけが
確かに心を揺らす

いつの間にか輝いた太陽を背負い
目の前に香る漆黒の髪と
後ろにのびる恋文の道
差し出された手に重ねれば
始まりを告げる本当の恋
海風が頬を撫でる

冬号 By杏

2012年12月03日
 Did you kill her?


僕の目の前に広がる紅い野原
 真ん中に立つのは憎むべき男
  彼の足元には一際大きな花が
   それを踏みつけ彼は振り返り
    ゆっくりと僕に近づいてきて
     ――――
      ニコリ
     ――――
    不気味な笑みを浮かべていた
   その時僕は初めて知ったんだ
  言いようのない怒り、哀しみ
 傍にぶちまけられた白い葉と
ハート模様の封筒が一枚……


『彼岸ちゃんへ

  とつ然のお手紙、ごめんね。おどろいたかな? 今日は伝えたいことがあって、かきました。こんなことは初めてなので、きんちょうしています。ときどき敬語になるのは、大目にみてね。伝えたいことっていうのは、ぼくが彼岸ちゃんが好きだということです。三年生になって、同じクラスになったときから、ずっとかわいいなと思ってたんだ。
  よかったらお返事ください。ずっとまってます。

一より』

冬号 Byみるく

2012年12月01日
片想う
みるく


 気づかないふりをしていただけなのかもしれない。
 恋をしていた。きみに。
 初めて会ったときからきっと
君を好きだった。

 雲は風に運ばれて、太陽のもとに。
 僕だって、そんなふうに何かの力で
ふわっときみのもとに行けたらいいのに。

ほらまたきみのことを思って手が止まってる。
しなくちゃいけないこと多いのに。
ほらまたきみを思い出した。
ほら、また。

携帯の音が鳴るたびに心のどこかで
きみじゃないかって思いがよぎる。
僕の期待 はかなくて
いつもいつも空振りで終わる。

 前よりも空の色に敏感になった。
 それはきっときみを思って
遠くを見ることが多くなったから。
いつしかそんな癖も付いた。

ほらまたきみを思い出してかなしくなってため息が増える。
これじゃだめだって言い聞かせても
ほらまたきみを思い出した。
ほら、また。

ほらまたきみを思い出してぼんやりしてる。
やりたいことだって多いのに。
ほらまたきみを思い出した。
ほら、また。

ぼくは君がいなくても多分笑えるし。
君もぼくがいなくても多分余裕で生きていく。
でもどうしても一緒にいたい。
そんなふうに思う。

ほらまた、きみを想い出した。

冬号 By杏

2012年11月30日
ある少女の出逢い、そして残酷な終焉(END)


             ***

「私、あなたの事が嫌いなの」

私の意識はブラックアウトし、夢の中に迷い込んでしまった。

             ***

 事の発端はといえば、七月に彼女が転校してきたということで間違いないだろう。
 教室に入ってきた彼女は、名乗ることもなく一度だけ頭を下げた。転校初日にも関わらず人だかりもできない、今時珍しい転校生だった。彼女自身、何の取り巻きもなく読書しているだけ。しかし、私はその強さに惹かれたのだった。
「名前は?」
 彼女は読んでいた本に栞を挟み、顔を上げて名を告げた。嫌いだと宣言された今、名は頭から消えているが、確か……伶(れい)、だったか。眉の上に綺麗に切りそろえられた茶色い髪と、切れ長の瞳が印象的だった。
「よろしくね」
 私が精一杯話しかけても、何も答えてくれなかった。自分自身、話すのは得意ではないので、話すことも聞くこともテンプレートだったと思うが、それにしても些か無愛想が過ぎると思った記憶がある。今思えば私が聞いていたのは家庭のことばかりだった。それなら答えられなくても当然だろう。

 夏休みが過ぎて、放課後の校内が文化祭準備一色となっていた頃。皆でペンキを塗っている時、突然彼女は倒れてしまった。
「大丈夫!?」
 私が叫んだのを皮切りに、皆口々に声をかける。名前を呼ぶクラスメートが一人もいなかったのは、覚えていなかったからに違いない。私がそんな事を考えている間にも彼女は立ち上がり、すたすたと歩いてどこかへ行こうとしていた。私は大急ぎで後を追いかけた。他の子が追いかけてくる様子はない。大方、私に任せようとしているか名前も知らないクラスメートの事など気にしている暇はないのだろう。私は参加こそしていたものの、文化祭にそれほど協力する気はなかったので、体調を崩した子への気配りと称して涼しい保健室に行けるなら本望だ。
 しかし、彼女は保健室には向かわなかった。そのまま校門から外に出ている。
「ちょ、ちょっと待って!!」
 彼女は振り向き、少し悲しそうな笑みを浮かべた。思えば、この時も美しさに驚いたものだった。
「何か?」
 私が彼女の声を聞いたのは、これで二回目だった。透き通るような綺麗な声だった。天は二物を与えずと言うが、彼女は三物も四物も与えられている気がする。
「えっと……保健室、行かなくて大丈夫?」
 彼女は、おもむろにポケットに手を入れた。そして取り出したのは、
「携帯!?」
 確か校則では禁止されていたはず。クラスにはこっそり持ってきてる子もいたけど、彼女はそういうタイプには見えなかった。
「特例で……ね。内緒だよ?」
 彼女は悪戯がバレた子供のように微笑んだ。
「と、特例? そんなのあるんだ……? ねぇ、実はお嬢様だったりする?」
 半信半疑で訊いてみた。勘以外の何物でもなかったが、
「うん。なんで分かったの?」
 まさか当たっているとは思わなかった。
「いや、見た目大人っぽいし、ちょっと病弱っぽかったから。それに私の中での『お嬢様』ってイメージにぴったり合致するんだよね」
「そんなに私ってお嬢様っぽいかなあ? 実をいうと、この茶髪、染めてるんだよね」
「え、嘘でしょ?」
「いやいや、黒髪はお嬢様っぽいかなと」
「普通に考えて茶髪みたいなめったにない髪色の方がお嬢様っぽいよ!」
 彼女と話すのは、すごく楽しかった。
「……ふう、疲れた」
 彼女はぼそりと呟いた。
「え? 大丈夫?」
「うん、大丈夫。久しぶりにこんなに話して、疲れただけだよ」
 私はそれを大丈夫と言って良いものかと思案した。が、とにかく元気になったようなので、作業場に帰る事を提案した。
しかし、
「ごめんね。もう帰るって連絡しちゃった。荷物取りに行ってくれない? こんな笑顔で戻って帰るなんて言えないし」
と言われてしまった。反論を試みたが、有無を言わさぬ笑みを浮かべていたので取りに行く事にした。

 作業場に戻ると、皆からの質問攻めに遭った。
「ねぇねぇ、あの子大丈夫なの?」
「何で一緒に戻ってきてないの?」
ざっと要約するとこんな具合だ。適当に答えても良かったのだが、ここは一つ、自分の心証をよくしておこうと思って、用意していた嘘を並べ立てた。
「あの子、しんどくなったからって先生にお家の人に連絡いれてもらってたわ。今は保健室で休んでる。荷物持っていくから、ちょっと抜けるね。すぐに戻るから」
「うん、ありがとう」
 荷物を手に取り、また暑苦しい外へ駆け出した。それにしても驚いた。こんな容易く信じてもらえるとは、優等生という地位も捨てたものではない。実は不肖私、学年で成績トップなのである。彼女が来てからはどう足掻いても二番になってしまうようになったのだが、まぁそこまで執着心があるわけではないので、私はいつも通り勉強に励んでいる。
そんな事を考えながら校門までたどり着くと、彼女の脇には見るからに高級そうな車が止まっていた。
「これ、荷物ね。体に気をつけて」
 そう言って荷物を手渡したのだが、彼女はまだ車に乗らなかった。
「ねぇねぇ、※※※ちゃん」
 蝉の声がうるさくてよく聞こえなかったが、名を呼ばれたように思った。
「何?」
 聞き返すと、彼女は思いがけない事を言った。
「良かったら、うちに来ない? 私、折角だから母に紹介したいの」
「えっ、でも、文化祭準備は……?」
 確かにお嬢様だという彼女の家には興味があるけれど、私はまだ作業場に荷物を置いている。それに皆にすぐに戻ると言ってしまった。
「良いじゃない、今日くらいサボっても。予定表見たけど、あなた毎日来てるじゃない。他の皆は多くても一週間くらいなのに」
 そう、実は私の休みはお盆オンリーだ。そしてそのお盆も元々校舎が開かないので、実質休みはゼロだといえる。やる気はないけれど、家にいても暇だったので全部来ることにしたのだ。今となっては激しく後悔しているが。
「その上、皆は屋根のある作業場でたらたらとペンキ塗ってるのに、私を追いかけて走り回ってさ。今から休んでも誰も困らないよ。本当は苛々してるんじゃないの? あんまり怒りを隠してると、あなた自身が壊れちゃうわよ」
 彼女の話を聞いていると、何だかどうでも良くなってきた。
「分かった、じゃあお邪魔するわ」
「ありがと。荷物はうちの使用人に受け取りに行かせるから、心配しないで」

 彼女と私を乗せた車は、豪邸に着いた。
「え、ここ? ほんとに? マジで? 嘘でしょ? デカすぎない?」
 自分でも久しぶりだと思えるくらい、取り乱してしまった。それだけ大きいのだと思ってほしい。そんな私を見て、彼女は、
「早く中に入るわよ。一応うちの伯母を待たせてるからね」
と案内を始めた。

「こんにちは、ようこそ。何もない、広さだけが取り柄の家ですけど、ゆっくりしていってくださいね」
 彼女の伯母は、優しい婦人といった風情だった。
「ありがとうございます」
 形式通りの挨拶を交わした後、彼女はお茶を持ってきた。すぐさま伯母が一口飲んだ。
「……やり直し。あんたはお客にこんな紅茶をだすつもりかい? 全く、ろくな娘じゃないね」
「申し訳ありません、伯母上! 今すぐ作り直しますから!」
 私は今にも飛び出さんばかりの彼女と、叱責を続ける伯母さんを、大急ぎで止めた。
「あ、あのっお二人とも、頂けるだけで十分ですから、むしろ何のお土産もない上にアポイントメントもとってなかったですからっ」
 焦りの所為か、文法はめちゃくちゃだった。しかし、言いたい事は分かったらしい。引き際を心得ていたのは、伯母さんだった。
「分かりました。お客様がそう仰ってくださるなら、我々は下がると致しましょう。伶、あんたは失礼のないようにね」
「分かりました、伯母上」
 彼女の伯母は悪態をつきながら出て行った。
「驚いたでしょう、ごめんね」
 彼女はゆっくりと話し出した。
「さっきも言ったけれど、あれは私の伯母。私の母の姉よ。今はあの人にお世話してもらってる。実は、うちの本家は伯母の家柄にあたるのよね。その事もあって、私はあの人には逆らえないの。……ううん、それだけじゃないわ。実はね、私の母は一族の反対を受けながら父と結婚したの。そう考えてみれば、私の扱いも仕方ないんだけどね」
「あれ? じゃあお母さんは……?」
 少し嫌な予感がした。この展開はもしかして。そう思っていると、彼女は笑顔で言い放った。
「半年前に自殺しちゃった。あ、お父さんが不良に絡まれて死んだ直後のことだったから、一族の圧力とかじゃないよ」
「ご……ご愁傷様です」
私にはそういうのが精一杯だった。この時、目の前にいる彼女を心の底から恐ろしいと思ったからだ。私なら自分の両親が死んだ、なんてあっさり笑顔で言ってしまう事なんてできっこない。
「だからさ、和室に来て、母の仏壇を見て行ってよ」
「わ、わかった。もともとそれが目的なんだよね?」
 私がそう言うと、彼女は頷いて案内を始めた。

 流石はお屋敷、和室は建物から別だった。
「本当に大きいのね……」
 小さく呟いたつもりだったが、聞こえていたらしい。彼女は微笑を浮かべた。
「敷地面積はたいしたことないわよ? ほら、ここ」
「失礼します。小さいけれど立派ね。お母さんのお仏壇はこちら?」
「えぇ」
 彼女は腰を下ろし、静かに手を合わせた。私もそれに倣い目を閉じた。彼女のお母さんの冥福を祈り、顔を上げると、
「……!」
 彼女は涙を流しながら祈っていた。その姿はまるで女神のようで、私は放心状態で彼女を見つめ続けた。

 その後、私達は息つく暇なく話し続け、気がつけばあたりは薄暗くなっていた。
「今日は来てくれてありがとう。あんな伯母がいても良かったらまた来てね」
「こちらこそありがとう、急な訪問だったのに。じゃあまた明日、学校で」
 そう言って家に帰ろうとすると、意外そうな声で彼女は問いを発した。
「え? また行くの?」
「うん、今日サボっちゃったから皆に謝らないと」
 私としては至って普通な答えを返したつもりだったのだが、彼女にとってはありえない事だったらしい。
「良いじゃん、文化祭準備なんかサボれば。もっと面白いこと他にあるのにもったいないよ」
「……分かった。でも母親に参加するって言っちゃってるから、代わりにお邪魔していい?」
「どーぞ、どーぞ」

 次の日から私は、毎日のように彼女の家に通った。彼女の伯母は聞こえよがしに文句を言ってきたが、私達は気にすることなく勉強や遊びを続けた。伯母さんが言っていたのは文句を通り越して彼女に対する悪口になっていた。しかし、堪忍袋の緒が切れたのは、私の方が早かった。

 その日も私は朝から彼女の家に行っていた。しかし目的は彼女をカラオケに誘う事だった。その頃、彼女は元気が無さそうだったからだ。こういう時は話を聞いてあげるべきなのだろうが、彼女自身が話したくなさそうだったので、元気になってもらうために誘うことにしたのだった。
「こんにちは」
 インターフォンを押して中に入る。すると、珍しく伯母さんが出てきた。普段とは違う、地味な和装だ。
「今日はあの子はいませんよ。お祖母さんが亡くなったのでね。全く、運の悪い子です。これで、あの子の味方は消えたも同然。これから我が一族でどうやって暮らしていくのやら」
「何なんですか、一体!」
 気がつくと私は抗議の声をあげていた。
「そんな、仲のいい私の目の前で! あの子を非難するような事ばかり! あの子は、あの子はっ……!」
 思わず咳き込んだ。勢いに任せて、これまでの怒りを爆発させる。
「私の親友ですっ!」
 伯母さんは一瞬、虚をつかれたような顔をした。しかしそれは本当に一瞬の事で反撃した。否、反撃しようとした。
「それは違うわ」
『!!』
 私と伯母さん、二人の驚きが重なった。門の前に止まったタクシーから出てきたのは、彼女だった。普段は女神と見紛う茶髪を、今日は一つに束ねている。葬式のためだろう。喪服姿でも、いつもと変わらず美しかった。
「伯母上、只今戻りました。彼女と二人で話をしたいので、少し席をお外し願えないでしょうか」
「ああ、分かったよ。思うところはあるだろうし、ゆっくり、気の向くままに話しなさい」
 私が呆気にとられている間に、伯母さんは了承した。ただし、恨み言は忘れていなかったが。
「全く、お前も迷惑な子と知り合ってしまったもんだね」

「ここ、座って」
 広い庭の一角にあるベンチに腰を下ろした。
「あのさ、」
 彼女が話し始めた。
「何でわざわざあんな庭のど真ん中で口論するの? そりゃ、原因は伯母かもしれない。でも私言ったよね? 『あんな伯母がいても良かったら』って。あの人の事が嫌ならくる必要はないの。私が出向けば良いんだから」
 そこまで言って、一度言葉を止めた。その姿はまるで泣くのをこらえている様だった。
「百歩譲って口論したことは許せるよ。何を言われたかは知らないけど、あの人に突っかかってしまうのは分かる。でも、あんな所でしていたという事が許せない。うちに住んでて、伯母が『あの子』って呼ぶのは私だけなのね。そう考えると、近所の人は『またあの家の人達は揉めている。渦中にいるのは娘だろう』ってなっちゃうの。そうなると立場が悪くなるのは他でもない、私だよ? 理解できない?」
 続けざまに言われて、私は何も言えなかった。絞り出すように発したのは、
「私達、どんな関係だった?」
という言葉。
 すると、彼女は目に見えて態度を変えた。ベンチから立ち上がり、屋敷の入り口に向かって一歩一歩足を進める。
「あら、疑問に疑問で返す主義? まあ良いわ、とりあえず質問に答えましょう。とは言っても、どういえば良いかしら。ちなみに、参考までに聞いておくけれど、貴女はどんな関係だと思っていた?」
 自分だって疑問に疑問で返したじゃないか、と思ったが、答えを返した。
「親友。決まってるじゃない、あなたと一緒にいて本当に楽しかったんだから」
 私がそう言うと、彼女は鼻で笑った。
「へえ……。残念だけど、貴女とは分かり合えそうにないわね」
 見事な程あっさりと言い切られてしまった。
「どうして? どうしてそんな態度を取るの? 私達、友達じゃなかった?」
 私は、彼女に呼びかける。女神のようにきれいな茶髪を揺らして振り向いた彼女は、不敵に笑っていた。いつ見ても美しい顔立ちには、感嘆してしまう。
「友達? あんた、ふざけてる? 冗談? ならそうと早く言って」
 息を呑んだ。同時に自分の顔が紅潮したのが分かる。冗談なんて、そっちこそふざけるな。戯言を抜かすな。信じていたのに、信じていたのに、信じていたのに。
「信じていたのに、か」
 どうやら聞こえていたらしい。彼女は私の呟きを復唱した後、鼻で笑った。
「人の言う事で信じられる事なんて、一つもないのよ。それが例えどんなに信憑性が高いとしても、百パーセント事実である、という確証はない。九九パーセントが正しいとしても、残りの一パーセントがどういう可能性を持っているかなんて分からない。間違いなのか、はたまた嘘なのか。創作かもしれないわ。つまり、その発言の真偽を知るのはその人自身だけ、という事なの」
 彼女は何を言いたいのだ。頭が混乱してきた。頭の出来は大して変わらないはずだが、私には理解不能だ。
「どうやら混乱しちゃってるようね。でも大丈夫、結論はすぐに出るわ。今のは前振りだから」
 じゃあさっさと結論を述べてほしいものだ。
「へぇ、そんなに結論をご所望? なら遠慮なく述べさせて頂くわ」
 そう言って彼女は、残酷な真実を告げた。

             ***

 こういった経緯で今に至る。つまり『嫌い宣言』をされたわけだ。
 そして私は今、私達の街から二十分ほどで着く海に来ている。どのようにここまで来たのか思い出せないが、丁度日が沈む一番海が綺麗に見えるタイミングのようだ。
 この夏休みの間に、私の心の中での彼女の存在は日に日に大きなものへとなっていった。そんな彼女に嫌いだと明言された今、生きる意味を持つことなど出来なかった。死にたいとも思わないが、生きたいとも思わない。そんな状態で浜辺を歩いていた。可能ならば、どこかの適当な殺人鬼にでも殺されておきたい、という感じだろうか。
朦朧とする意識の中で、目の前にナイフを持った男が二、三人いるのを見た。
――この娘、可愛いぜ――へっ、俺のモンにしてぇなあ――でも、今日は俺達ラリってるもんでな。すまんな嬢ちゃん――聞こえてねぇんじゃねぇの――
 最期に感じたのは、鈍い痛みだった。
                          The enD

冬号 By月夜猫

2012年11月30日
癒しの声はもう届かない
月夜猫

 ドキドキする。何が待っているんだろう。仲よくしてもらえるかな。友達、できるかな。恋なんかもしちゃったりして。ああ、どうなるんだろう……だめだ、だめだ。早くこの扉を開かないと。さあ、一歩踏み出そう。そこはきっと、私の知らない世界。
「仲村癒愛(なかむらゆあ)です! よろしく、お願い、しまひゅっ!」
――どうやら、少し未来が不安な世界みたい。
 私は今日、この学校に転校してきた。

「仲村さん、仲村さん、名前可愛いね」
「ゆあちゃんって呼ぶねー?」
「前の学校ってどんなところ?」
「好きな食べ物は?」
 ぐ、ぐるぐるする……。矢継ぎ早に繰り出される質問は、多分私を歓迎してくれているものだろうけど。大勢が私の机を囲んで口ぐちに好きな事を言っているのは、眩暈がする。多すぎて答えるのに間に合わないくらいだ。
「えっとね、あのね、あのね、えっとね……」
あうう、あうう、まただ。私のこの照れてしまう癖が出る。昔から照れ屋で、恥ずかしがり屋な私は、私が嫌いだった。ああ、今私の顔は火を噴きそうなほどに真っ赤なんだろう。顔が熱くて、手が震える。眼が廻る。私をとりまく、目、目、目。その眼は好奇心にあふれている。そこには、私を思っているようでその実何の気遣いも存在していない。あるのは、目の前の新参者の全てを知りたいという浅ましい詮索欲だけ。
「おい、お前ら」
 私が何も言えずただオロオロしていると、静かな低い声が突然響いた。その時、急に教室が静かになった。私は思わず、その声のした方を向いた。するとそこには――朝の眩い光を味方につけ、髪の毛は窓からのそよ風にわずかになびき、頬杖をついた、びっくりするくらいかっこいい、男の子がいた。
「さっきからギャーギャーうるさい。質問するなら一人ずつ聞け。その転校生が困ってんのも分からんのか。歓迎するってなあ騒ぎ立てる事じゃねえんだよ。さっきからお前ら本当に う ざ い 」
 艶やかな低音ボイスでそう言い切ったあと、彼はまた窓の外に視線を戻した。痛烈ながらも的を射た指摘に、皆はすまなさそうに謝りながら、自分の席に戻った。あの子は誰なんだろう?
「あ、あの、あのね、言ってくれてありがとう」
 意を決して、話しかけた。この人生で名前も知らない男の子に話しかけるなんて、初めてだよ!
「何が?」
 す、すげない! すげないよ、名も知らないお隣さん! でも私はめげない! が、がん、ががんばりゅ。うん。
「あの、だから、さっき、その言いにくい事ってゆーか、思ってた事ってゆーか」
「つまりお前は俺が言った通り、あいつらを邪魔で迷惑でウザいと思ってたわけか。真っ赤な顔して照れてると思ったらそんな事考えてたんだな、お前」
 がーーーん! そ、そう来るか…っ! うぬう、なかなかに揚げ足取るのが上手いよお隣さん! 
「そ、そこまで思ってないけど、でも、どうすればいいのか分かんなかったから」
「まあ、別にいいけど」
 意地悪だよ……優しいけど意地悪だよ、お隣さん……。

 きーーんこーーんかーーんこーーん

 いろいろ話したり思ったりしていたら、チャイムが鳴った。一時間目ってなんだっけ、そうそう、数学aだ。私ずっと数学苦手なんだよなあ……教科書教科書、えーっと確か……あった、これだっ!
  サルでも分かる数学の基礎
……あれ? もう一回目を閉じよう。ついでに深呼吸もしよう。よし、目を開けよう。

  サルでも分かる数学の基礎

 ままままま間違えたーーーー! 
「お隣さん、お隣さん」
「お隣さんってなんだよ……で、何だ?」
「教科書、見せてくれませんか……」
「……お前転校生だよな? 緊張はないのか?」
「か、返す言葉もございません」
「まあいいけど。ほら、机くっつけろよ」
「すいません……うう、失礼します、お隣さん」
 転校初日から何やってんだろ、私……本当に前途多難だよ……。
「あのさ、そのお隣さんってやめてくんね?」
「ほあ?」
「気持ちわりい」
 ずががががががーーん! き、気持ち悪いと言われてしまった! 「天斗(あまと)」
「え?」
「沖田(おきた)天斗だよ。俺の名前」
「あ、仲村癒愛です」
「まあなんて呼んでくれても構わねえよ」 
 沖田君とか、天斗君とかはありふれてるしなあ…どうせなら仲よくなりたいし……あ。
「ねねね」
「あ?」
「あめちゃん♪」
「ぶっ!」
 あめちゃん、実にいいじゃないか! だってさー、あまとって名前だけど漢字は天なんだもん。天って漢字だったらあめって読んだ方がかっこいいよねー。
「ちょ、おま」
「なーにあめちゃん」
「その呼び方やめろ!」
「そこーー! 何くっちゃべってんだ! イチャイチャするな!」
 うわあ! 注意されたー……あうあうあうあうー。早くこの授業終わってください! このやろー! 


「ハッピーウィンターパーティー?」
 話しかけてきた女の子、亜樹(あき)ちゃんに、私はそう返した。
「そうそう。この学校珍しくってさー、なんか季節ごとに行事があるんだ。秋は文化祭とかね。で、それの冬バージョンがハッピーウィンターパーティー。まあ、ざっくりいっちゃえばみんなでワイワイして遊びましょーっていう催しだよ」
 学生の盛り上がりが字面に現れている……!
「でね、それなんだけど、遊ぶって言ってもやっぱり文化祭みたいな感じで、違う所は一般の客を招待しない所なの。でも、文化祭が一日なのにこれは二日で、生徒を一日目のクラスと二日目のクラスにわけて、誰でも一日は遊べるようにしてあるんだよ」
「それすごいねー。よく先生が承知したねぇ」
「ふふ……確かにね」
 亜樹ちゃんは腰まであるぱっつん黒髪を、サラリと耳にかけた。この亜樹ちゃん、美しい! 女の子にしては高い170の身長に、スラリと長い脚、小さい顔に整った顔立ち、ワンダフル! それに落ち着いた態度は大人~♪ な空気を醸し出してるんだよ。もう、眩しい! もう、何もかも私と違いすぎて……。
「うううー……」
「え、どしたの?」
「もう、亜樹ちゃんが眩しすぎて……」
「何言ってんだか」
 そう言ってクスッと笑うしぐさもお美しいーーー! 
「それで私たちのクラスは何するのー?」
「ああ、私達は一日目のクラスなんだけどね。出し物は」
「仮装喫茶だよ」
「うわっびっくりした!」
 後ろから低い声が聞こえた……! と思ったら
「あめちゃん!」
「その呼び方やめろって言ったろ!」
「おやおや、沖田天斗珍しい。お前が女子の会話に割り込んでくるだなんてねえ」
 亜樹ちゃん、何をニヤニヤとしてらっしゃる?
「お前はキャーキャー騒がねえから楽なんだよ」
「癒愛ちゃんはどうなのよ?」
「こいつはカラカイがいがあるからな」
「あめちゃん酷い!」
「だからあめちゃん言うな!」
「へえ、案外遊ばれてるのはお前じゃないの? ねえ、あめちゃん」
「……お前なあ」
「ねえねえ、二人は幼馴染なの?」
「「なぜわかったっ!?」」
「やっぱり? 当たってた? わーい」
「ははっ、癒愛ちゃんにはかなわないね」
 そう言って頭をなでなでしてくる亜樹ちゃん。
「お姉ちゃん……」
 ひしっ。そうつぶやきながら私は亜樹ちゃんに抱き着く。だってだって、こんな大人な人に頭をなでなでしてもらったらそう思うよ! 大げさ? 違う違う! 会えば分かるよ! オーラがすごいの!
「おい、いつまで抱き着いてんだ、冬の出し物の話するんじゃなかったのか?」
「ああ、お姉ちゃーん……」
 文字通り、文字通りひっぺがされたよ、あめちゃんに……。
「おやおや天斗。嫉妬ですか?」
「ちげえよ、イライラしてんだよ」
「ふふふ……もう、私はあえて何も言うまい」
「それで? 仮装喫茶なんだよね? 出し物」
「うん、私達が仮装して、接客と厨房に分かれて喫茶店をするんだよ、で、私はもう適当なコスプレで厨房にでも回ろうかと思って」
「何言ってるの亜樹ちゃん!」
 何言ってるのこの人! この人が接客に出ずしてなんとする! 
「亜樹ちゃんみたいな美人さんはもうびしーーっと仮装してちゃちゃーーっと接客してお客さんはメロメロ~~なの!」
 ズビシッ! と亜樹ちゃんを指さしながら力説なう!
「ああ、ちょうど次の時間多分その話するから、その時癒愛ちゃんの仮装する衣装も決まると思うよ。仮装する衣装はみんなで一人ずつ話し合って決めるんだ。本人の意思、似合うかどうか、客は引かないか、値段はどの程度かね」
「まあ、本人の意思は正直そこまで大切にされてねーけどな」
 ふくれっ面でそう言ったのはあめちゃん。
「天斗、結局あれだもんねー」
 ニマっと亜樹ちゃんはそう笑った。
「どんなのー?」
「ぷくくくっ笑えるんだよ。盛り上がった女子にテーマまで決められてさ。ほら、自分の口で言ってみなよ天斗」
「……『不思議の国の、正体不明ながらもなんかお偉いさんで危険な香りのする帽子屋』のコスプレ……だーっ、笑うんじゃねえよっ!」
「ご愁傷様です……ぷ、くくくくくくくくっ……」
 だって、うくっくくくくくく!
「ほら、チャイムなったぞ! 席つけこの馬鹿どもが!」
「「あめちゃん顔あかーいwwww」」
「うるせーこのやろー!」
 二人してニヤニヤしながら席につく。しかしこの時私は知らなかった……この先、あんな悲劇が待ち受けているなんて……。
「はいはーい、仲村さんはメイドがいいと思います!」
「アイドルでしょ! フリッフリの!」
「ゴスロリー!」
「天使―!」
「仲村さん好きだー!」
「おい誰だ今地味に告ったやつ」
 そんな事じゃないよっなんでさっきからそんな類のものばっか!
「はーい、それならいい案がありまーす」
 自信満々な顔で手をあげ、すっと立ち上がったのは亜樹ちゃん。
「ふ……このクラスには『帽子屋』がいるでしょ? 『不思議の国』の」
「「「「「「「「「ほう……」」」」」」」」」」」
「という事は、アリスもいていいでしょう? みんなの意見をまとめると……ゴスロリかつフリッフリなアリスかしら?」
「「「「「「「「「さんせええええええええええ!」」」」」」」」」」」
「いい案だね! さっそく注文しないと!」
「いやいや、オーダーメイドでしょ! 家庭部の連中はいる?」
「「「「はい!」」」」
「至急仲村ちゃんにあうゴスロリでフリッフリな服のデザインを!」
「「「「さーいえっさー!」」」」
「さあみんな、動き出せ! ……一週間後のウィンターハッピーパーティーに向けて!」
「「「「「「「「「「おおおおおおおおおおおおおおお!」」」」」」」」」」」」
「そんなに近いのおおおおおおおおお!?」
 ちらほらと雪が降り始めた灰色の空、響き渡る私の悲鳴、楽しそうなクラスメイトの歓声。なんだか楽しい事になりそうです。
「ちょっとエロいのはありですか!」
「ミニスカートにしてもいいですか!」
「ええい、もうお前たちの好きにしていいぞ! やれーー!」
「「「「「「「「「「「「あざーーーーーーす!」」」」」」」」」」」」」
 ……みんなの勢いが怖いです。

 そんなこんなで一週間後。みんなの衣装が届いて、みんなが着替えた。それぞれ凝った衣装を着ている。……まあ、中にはネタでしょ! みたいな人も何人かいるけど。
「おい、俺の服、なんだよこれ……」
あめちゃんの声がする。なーんだ、あめちゃんもネタ系の服にされたのかな? テーマもなんだか微妙だったしなあー。さて、さんざん笑います……か……って……。
「え?」
 そこにいたのはあめちゃんだけど、あめちゃんじゃないみたいだった。黒いシルクハットを小粋に斜めにかぶった下は、いつもはしていないのによく似合う、少し濡れたようなセットされた髪。襟元のボタンをはずしたそこは、紐のネクタイがゆるくかかっていて。端っこに向かって長くなっていくアシンメトリータイプのこれも黒いベストに、長い脚を強調する黒いズボン。あめちゃんの不機嫌なような、物憂げなような顔もマッチして、なんていうか――

 かっこいい。

 心臓がどきどきする。ここに来たばかりの時と、似てるようで、全然違っている。呼吸がうまくできない。今までみたいに、恥ずかしかったり、泣きたくなったりなんてしてないのに顔が熱い。視界が、あめちゃんだけしか映してくれない。まるで世界が私とあめちゃんだけになったみたい。
「なんでこんな恰好しなきゃいけないかねえ、ねえ癒愛ちゃん」
「ほあっ! そ、そうだ、ネっ!」
 マリア様をイメージした白い服を着た亜樹ちゃんが話しかけて、現実に引き戻された。あうう、もう少しだけあの二人っきりの世界にいたかったなー……だなんて何考えてんだ私! さっきから私おかしいよ! ちらちらあめちゃん見ずにはいられないのー! 変だよ、絶対! 
「って、癒愛ちゃんまだ服着てないじゃない! あんなにかわい……ぶふっぷくくくくく……」
 え、笑ってらっしゃる? そんなに服酷いの? 
「はいはい、こっち来てー……やれっ! 衣装班!」
 どどどどどーっと連行され、事態を確認する前に複数の女子に着替えさせらーーれーーーてーーのーー。
「「「「完成! ふわふわアリスでーーーす!」」」」
「ほ、ほあああああああああああ!」
 なんじゃこりゃあああああ! 予想以上の酷さっ! こんな恰好私に似合うって言ったやつ誰じゃああああ! 
「うんうん、やっぱり髪はこんな風におろして、頭のてっぺんでリボンっていうのは正解だね!」
「いやー惚れるわー」
 待て待て、なんかおかしいなんかおかしいよっ! な、なにこのふわふわ! しかも……。
「なんつか、仲村ちゃんって着やせするタイプだったんだね」
「うん、結構、その……出るとこ出てるよね」
 そう、最大の疑問はその二つ。一つ目、この大胆かつ繊細に空いた、レースと細いリボンに彩られたこの胸元! こ、ここここここれはかなり恥ずかしい! プーラースー! 見える、見えちゃうよこのスカート! フリッフリかと思いきやもう、ビックリするぐらい短いんだよ! これ、ちょっと風が吹いたら絶対見えるって! 
「あ、あああああ、亜樹ちゃー……ん」
「うっそんな捨てられた子犬のような目で言われると……ちょっと罪悪感」
 ううう、これ、今日、一日、着て、過ごすの……? 
「あ、あああ、あめ ちゃーーん……」
「うっ、おま、なんつー恰好を、して、いる、んだ」
「ほらほらほらほらーー! あのあめちゃんが言葉に詰まるくらい私の恰好おかしいんだよー!」
「ふふ……天斗が言葉につまってるのはそのせいじゃないと私は思うんだけどな……まあ、聞こえてないか」
「みんな準備できたか? そろそろ開店だー」
 あ、あうあう、担任の先生来ちゃった……。
 扉が開く。人が入る。私の、私のセリフは――
「い、いい、いらっしゃいませ、ご主人様――!」
 あ、波乱な予感。もう、この顔が赤くなる癖、そろそろ治ってほしいんだけどっ! 


「「「「「「「「「「お疲れ様―――――!」」」」」」」」」」
 終わった。終わった。いろんなものが。所変わってここは打ち上げの席、焼き肉屋さんでーす。あははは、はは! はあ……。
「いやあ、災難だったねぇ。まさか最後の最後にずっこけて癒愛ちゃんの可愛いパンツ大公開、だなんて羽目になるとは」
「それを言わないでよ――――――!」
 そうなのだ。最後、最後の盛況だった時、あまりの忙しさにつまずいた私は盛大にこけ、よりによってホールに向けてパン
「もうヤダあああああ……」
 もう心の中で言うのも嫌だよ……。
「まあ、その、あれだ……うん、まだ可愛い柄だったからよかったんじゃないのか、うん」
「何がいいの!? ねえ、何がよかったの!? というより、あまちゃんその口ぶりだと思いっきり私のパンツ見たね!?」
「いや、その、誤解……白状しよう。多分ホールの奴らみんな見えてたぞ」
「うえええ……えぐっ」
 しかも制服だと怒られるからって理由でまだコスプレみんなしてるんだけど、これすごく変な光景だと思うの……。
「あ、そうそう癒愛ちゃん、ちょっと天斗と写真撮られてくれない?」
「ふぇっ? な、なななんで?」
 あめちゃんと写真っ? ……なんか、嬉しいんだけど恥ずかしい……。
「だって『アリス』と『帽子屋』じゃない。ぴったりだし、記念にね」
「という訳であめちゃん、笑顔になってください」
 すまなさそうにひたすらジンジャーエールをあおっていたあめちゃんは、こっちを向いた。それだけで私の胸はドクンと高鳴る。
「いいよ、別に。こっち来い」
 こっち来い、その一言に私がどれだけ心を揺らしているか、あめちゃんは知らない。
「はい、チーズ!」
 カシャリ、という軽快な音とともに写真が撮られた。それは、確かにここにあめちゃんと私が存在していたという証。意地悪だけど、優しげな笑みのあめちゃんと、ちょっと顔が赤いけど幸せそうな笑顔の私。その笑顔を見て、私はやっと気づいた。
     ああ、私。
       あめちゃんの事が好きなんだ。
 やっと気づいた。気づくのが怖かった。簡単に好きになっちゃった、自分を認めるのが嫌だった。でも、これは間違いない。私はあめちゃんの事を、好きに、なってしまった――。

「あ、明日、一緒に回ってくれないかな、あめちゃん……」
 家に帰り、私は明日あめちゃんに一緒に歩いてくれるにはどう言えばいいか計画していた。でも分からない。今までこんな気持ちになったことがないのだ。
「……てっとりばやいの思いついたかも」
 そう思って私はお気に入りの便箋を手に取った。カチカチとシャーペンの芯を出し、推敲しながら文を書く。初めての手紙、ラブレターは、愛を運んでくれる言葉無き天使に見えた。緊張する体を無理やりベッドに沈ませ、目を閉じる。明日いい日になりますようにと願いながら……。

 この時私は知らなかった。あんな悲劇が待ち受けているなんて。

 期待に胸を膨らませ、朝の準備をする。少し念入りに髪を直し、どたばたと家を出る。いつも通りだった。ドキドキしている以外は、本当にありふれた日常の一コマだった。私が最後に見たのは、ノンストップで私の目の前に現れた車だった。

「え? 癒愛ちゃんまだ来てないんですか?」
「ああ。保護者もわからないらしい。普通に家は出たらしいんだがな。保護者さん曰く、以前にもこういったことがあった時、仲村は迷子を送り届けていたんだそうだ」
 職員室で先生にそう聞き、思わず笑ってしまった。癒愛ちゃんらしいなあ……。でも、この日にそんなことするかしら? 分からない。私はまだあの子の全てを知っているわけじゃないし。そして隣の男に話しかける。
「天斗、残念。なんだか癒愛ちゃんまだ来てないみたい。一緒に回れないよ」
「別に。アイツとそんな回りたかったわけじゃねーし。じゃあ俺直樹(なおき)んとこ行ってくるわ」
 いっつもそう言うけど、明らかにがっかりしていることが顔に表れているのを知らないのだろうか。いつもあの子の事をいったら、強がっているのがばればれだ。何年一緒にいると思っているのだろう。私はじっと空を見上げた。ここは晴れているけれど、視線を遠くにずらすと陰りのような雲がある。
「まさか……ね」
 私はそうつぶやき、かねてより決めていた店へと足を向けた。


 ここはどこだろう。ベッドに寝かされている。いっぱい繋がれている。眼を開けた私を見て、お医者さんとお母さんが目に涙をためて何かを叫んでいる。聞こえない。お母さん、聞こえないよ。嫌なものだ。自分の気持ちがすぐにわからなかったくせに、もう死ぬんだなあ、なんて事は直感的に分かる。あはは、哀しいなあ。私結局あめちゃんに何も言えてない。亜樹ちゃんにも何も言えてない。せめて、あの手紙をあめちゃんに渡したい。あなたの事が好きですって、私の口で言いたかった。あめちゃんにぎゅってしてほしかった。優しくしてほしかった。名前を、呼んでほしかった。
「手紙、あめちゃんに……生きてって……」
 お母さんにつぶやく。届いたかわからない。みんなの声が聞こえないなら、今つぶやいたのも届いたか分からない。嫌だ。会いたい。短い時間だけど優しくしてくれたみんなに会いたい。あめちゃんに会いたい。目の前にあめちゃんが見える。見せたことのない笑顔で微笑んでいる。ああ、これは私の幻想だ。神様ありがとう。あめちゃんを見ながら死ねるなんて、私は幸せです。だから最後にわがまま、聞いて。どうかさっきの言葉、届けてください。
「だい、す、き」
 口が緩く弧を描き、目から暖かい何かがあふれる。何かすごく大きな音がして、誰かが駆け込んできたそのあとを――私は知らない。


「……まとっ天斗おおおおおおおお!」
 教室の隅でうつらうつらしていた俺は、幼馴染の叫びに起こされた。騒々しい。アイツが騒ぐなんて珍しい。ていうより、祭りの日なのに公衆の面前で騒ぐな。
「ぼーーっとするな! 行くぞ!」
「え、お……おいっ!」
 手を引かれるままに、俺たちは駆け出した。亜樹の足は速い。意味がわからないまま、学校を風のように抜け出した。走っている途中、何度もどういうことだ、説明しろ、どこへ行くと質問をぶつけたが、答えなかった。生真面目な亜樹が信号を無視し、車道を渡り、裏道を駆け抜ける。亜樹は眼を見開いて、カタカタと震えながらも全力で走り続けた。何が起こったかはわかっていなかったが、止まってはいけないことは分かった。そして俺たちは、勢いよくとある病室の扉を半ば蹴破るように開いた。
「だい、す、き」
 バーーーンという轟音のさなか、誰かの声が聞こえた気がした。

     ピ――――――――――……

 無機質な音が響いた。何で亜樹はこんなところに? 亜樹はそのベッドへとかけよる。カーテンを開け、俺の視界から見えなくなると、亜樹の泣き声が聞こえる。どうしたっていうんだろう。誰がいるんだろうか? 俺はそのカーテンを引いた。
 この人生で、俺はこのカーテンを引いた事を最も後悔するだろう。全てが純白に包まれたその中で、俺の好きな人が、眠っていた。
「は……?」
 落ち着き始めた呼吸が、なぜか忙しないものへと再び変貌を始める。眠っているんだ。きっと眠っているに違いない。さっきの音は、間違いだ。今は寝ていても、またあの呼び方で俺を呼んでくれるんだ。顔は笑っているし、目は静かに閉じている。何で亜樹は泣いてるんだ? 寝てるだけじゃないか。ただ寝てるだけじゃないか――。
「仲村癒愛様、十二月六日午後二時四十二分三十五秒ご臨終です」
 看護婦の苦しそうな声が響き、亜樹の顔が絶望に染まる。泣き声が大きくなる。俺はなぜかここに入った直後の時間を覚えていた。午後、二時、四十二分、三十六秒――。目の前が暗くなる。

 俺の好きな、好きだった、大好きな人が今日――死んだ。

それから先どうやって帰ったかを、覚えていない。涙は出なかった。亜樹がおばさんに迎えにきてもらって、俺は家まで歩いた気がする。
色は目に入らなかった。耳はノイズすら拾わなかった。口の中はカラカラで、何の匂いもしなかった。ただグルグルと残酷な現実が頭を支配していたことは覚えている。気づけば、俺は着替えもしないでベッドに腰掛けていた。そのままごろりと横になる。暗い部屋で、天井に向かって手をかざしてみた。受け止めきれない現実がここから通り抜けて、その分幻になればいいのに。いや……不可能だ。通り抜けた現実はやっぱり現実で、それは鋭利なナイフとなって俺の心に突き刺さる。誰かが言った。人生っていうのは、託せないし、奪いもできないし、消すことも踏みにじることも、笑い飛ばすことも美化することもできないって。
「嘘だ……」
 嘘だ、嘘だ。嘘だ! 名前も知らない誰かは、アイツの人生を簡単に奪っていった。簡単に未来を消した。運命は、あいつの人生を踏みにじり、所詮無力だと笑い飛ばしていった。……俺は何をしていたんだろう。のんきに祭りを楽しんでいた。何の連絡もないのに、心配もせず、一緒に回れないなと気落ちしただけだった。偉そうに言える立場じゃない。結局、俺も自分の事しか考えていなかったのだ。
「……癒愛」
 名前も呼べなかった。あの日、言葉を交わした日から、俺は多分あいつに惹かれていたんだ。なのに俺は何をしていた? 初めて思った気持ちに戸惑い、自分じゃなくなることを恐れ、何かと理由をつけて逃げていた。騒がないやつだから、亜樹と仲がいいから、カラカイがいがあるからとか……。嫌だったんだ。純真で無垢なあいつに、薄汚れた俺の気持ちが伝わることで気軽にしゃべれる関係がくずれてしまうのではないかと。嫌われてしまうのではないか。嬉しそうに、あめちゃんって言ってくれなくなるんじゃないか。意気地なしだ。弱虫だ。もう……もう、二度とアイツの声すら聴けないんだ。人生は、人生はありのままで、残酷で、受け入れるしかないんだと……。笑顔を見るたび嬉しかった。笑顔を見るたび辛かった。笑顔を見るたび憎かった。何も思ってなさそうなあいつの素直な笑顔が、愛しいと同時に憎かった。……あいつ、顔笑ってた。笑うものなのか? この世に未練があるやつなら、死に際に笑うはずがない。もう何もかもが嫌だ。アイツはもうこの世にいない。もう会えない。俺はもう、死んだも同然だ。
ふと、机の上の手紙に目がいった。俺を『あめちゃん』だと知ったアイツの母さんが、俺に渡したものだ。なんなんだろう。震える手で、手紙を出す。授業中、カリカリと書いていたアイツの字だった。

 沖田天斗君へ
 いきなりの手紙でびっくりするかな、あまちゃん。あのね、私気づいた事があるんだ。私あまちゃんと居てたら楽しいの。あまちゃんの笑顔見たら、なんだかドキドキするの。今までこんな気持ちになった事なくって、はじめはこれが何か分からずに逃げてたの。   
 でもね、私気づいたの。これは恋なんじゃないかって。だからね、私はあまちゃんに伝えたかったの。
 私は、あまちゃんのことが好きです。意地悪だけど、気が利いて、優しいあまちゃんが大好きです。お祭り一緒に回りたいの。あまちゃんと、もっともっと仲良くなりたいの。あまちゃんの事もっともっと知りたいの。だから、あまちゃん。よければ私とおつきあいしていただけませんか? お願いします       大好きなあまちゃんへ

「馬鹿だ」
 俺はそうつぶやくことしかできなかった。分かってる。本当の馬鹿は俺だ。もうアイツがここからいなくなっても、素直に言えないんだ。いつもみたいに、馬鹿にして、遠ざけて、傷つけて。ふざけんなよ。ふざけんな。一秒前までお前は生きてたんだろう。かろうじてあの小さな体に魂を遺していたんだろう。俺を待っててくれてもよかっただろう。いつもいつも、アイツは俺の先にいて、振り返って笑うんだ。屈託なく笑うんだ。そのくせに、俺が手を伸ばしたらもっと先に走るんだ。お前なんか、大嫌いだ。大好きだ。嫌いだ、大好きだ。
「好きだ……」
 涙が頬を伝う。声が漏れる。みっともなく俺は泣いた。止めようと思っても止められないのだ。アイツが見たらどう思うだろう。みっともないって笑うんだろう。もうそれでも構わない。なんだか無性に泣きたいんだ。
 憎らしいくらいに透き通った透明な空、届かないものに、気づくもの。暗い部屋の中、俺はいつまでも泣き続けた。

                            おわり

冬号 By魅烏

2012年11月30日
涙雨
魅烏


 アイツのことがスキだ。この気持ちに気づいたのはいつだったろうか。はじめは憧れの人だった。それからスキに変わったのだ。

 入学式後のホームルーム。好きな者と自由にバディを組んで学校見学する時間だった。ボクがアイツと最初に喋ったのはこの時だ。田舎の学校である我が校は中学校といえども交友関係は小学校からほとんど変わらない。この春から家庭の事情で引っ越してきたボクには相手がいなかった。よって余った者同士、つまりボクとアイツが組むことになった。アイツも同じ時期に都会からこっちへ引っ越してきたらしい。新しい環境で緊張していたボクにアイツは明るく話しかけてくれた。ボクは前の学校にいる時から人との距離の取り方がうまく分からず浮いていたので、その対応には多少驚きながらも馴染むことができた。

それからというもの、ボクはよくアイツの側にいるようになった。アイツは磁石か何かのようで、アイツの周りにはいつも人がいた。ボクにとってアイツは唯一の存在でも、アイツにとってのボクは大勢の中の一人に過ぎなかった。ボクはそれでも良かった。アイツの笑った顔、怒った声、困った仕草、それらを近くで見、感じることができるだけで幸せだった。次第にボクの学校生活、いや日常にアイツは必要不可欠な存在となった。アイツとはクラスが同じなので、授業中は見つめることができる。たとえ移動教室などで教室が離れてしまっても構わなかった。ボクは、アイツが授業中、先生の質問に見事に答え、周りの注目を集めて照れている姿を想像した。アイツが欠席の日は自分の席でただひたすらにアイツが今何をやっているか想いを馳せた。

 学校が休みの時は、あいつの仕草やクセを鏡の前でこっそり真似した。夢の中ではアイツはボクに笑いかけてくれる、名前を呼んでくれる。ボクはその時確かな幸せを噛み締めていた。

冬が刻々と迫ってきたこの季節、まさに絶好の鑑賞日和である。アイツを見て少し火照った体を涼しい風が癒してくれる、まさに僕のための季節ともいえよう。今日の授業も終わりに近づいた頃だ。中年のすこし肥えた数学教師が突然ボクの名を呼んだ。確か彼は……名前は思い出せないが何故かボクを目の敵にしてくる教師だ。どうやらボクの目付きが嫌いらしい。この目付きは生まれつきだからどうしようもないのだが、まあいい。彼曰く、ボクのこの前の小テストの成績が芳しくなかったから罰として屋上掃除をしろ、とのことだ。自業自得なのだが、アイツと帰れなくなると思うとウンザリする。しかし、相手は仮にも先生。断れるはずもなくボクは終礼が終わるなり数学教師に連れられ屋上に到着する。生徒が昼食を取るために設けられているこのスペース、この季節のため落ち葉はもちろんパンのパッケージやお弁当の仕切りなどゴミが山ほど落ちている。これからこれを片付けると思うと、気が遠くなりそうだ。でも終わるまで帰らせてくれなさそうだし、やるしかないか。

全て片付いた時には、結局十七時を過ぎていた。早く終わらせるよう努力したつもりだが、量が量だけにそう簡単にもいかなかった。教師たちは会議室の方でミーティングがあるとかで、ボクは職員室に掃除用具を直したら帰っていいことになっている。生徒数低下や町の予算不足のため我が校にはクーラーやヒーターなどといった英知の塊は存在しない。よって屋上から校舎内に入ったものの、この肌寒さは変わらない。老朽化してところどころ色の変わった木の廊下や階段を通り、ボクは職員室へとたどり着いた。立て付けの悪い引き戸を何とかして開き、中に入る。教師陣はすでに会議中のようで、誰一人いなかった。掃除用具入れは職員室の隅、あの数学教師の机の後ろにある。ボクは掃除用具入れへと足早に進む。掃除用具入れの前にたどり着き何とはなしに背後を振り向く。するとアイツがいたのだ。

「恋は盲目」と言うだろう。ボクはまさにそれだ。ボクはアイツを見たとき、アイツがボクを迎えに来てくれたのだと思った。アイツは数学教師の机の下に身を丸めていたのにかかわらず。ボクはアイツの名前を小さな声でつぶやいた。アイツはビクッと一瞬震えたが、ゆっくりと机の下から這い出し、立ち上がった。ボクはアイツの顔が間近で見られたうえに言葉を交わすことができたのでとても気持ちが高揚していた。アイツを眺めていると、アイツが左手に何かを持っていることに気がついた。どうやらプリントの束のようだ。アイツは視線に気づいたようだ。話すかどうか迷っていたようだが、結局口を開いた。

「はぁ、見つかっちゃった。仕方ない白状するとしよう。これは次の期末試験の問題だよ」

次の期末試験の問題をなぜアイツが持っているのかという問題よりも先に、ボクはアイツの声を聞くことができたことに感極まっていた。

数秒ほど間を空けてからボクはやっとその言葉の意味を認識しはじめた。それからまたアイツがしゃべりだした。要約するとアイツはこの頃成績が落ち始めていた。それについて思い悩んでいる時に、教師全員が参加するミーティングがあった。しばらく迷ったものの結局アイツは職員室に忍び込み、期末試験のコピーを作った。そこまでは順調だったのだが、そうそのときボクが職員室に来てしまったのだ。アイツはボクがあの引き戸と格闘している間にコピーを回収してあの机の下で息を潜ませていたと言うことらしい。ボクはその話を聞いてもアイツをスキだという気持ちは数ミリも変わらなかった。ボクのアイツに対する愛はそこまで深かったのだ。

「ねぇ、このこと秘密にしてくれない? ……この問題用紙分けるからさ」

アイツはそんなことを言いだした。ボクは最初からこの話を誰かにするつもりなどなかった。好きなやつを犯罪者だと密告することなんて、とてもじゃないができない。しかし、アイツの懇願するような少し上目遣いの目を見ると気持ちがグラリと揺れた。ボクはあることを思いついてしまったのだ。こんなことをしてはいけない、と止める頭をよそに口は勝手に動き出す。

「秘密にしてあげるよ。でもただではできない。対価をもらおう。ボクが欲しいのはそんな紙じゃない。ボクは……ボクは……君が欲しい。ボクにキスして」

しばらくアイツは唖然とした顔をしていたが、やがて笑い出した。

「まさかこんな口説き方があるとはね。ふーん、まあいいよ。キスしたら黙ってくれるのだね?」

ボクはうなずいた。外では雨が降り始めていた。まるでボクの代わりに泣いているように。ボクは泣きたかった。自分がこんなことを頼んでしまう醜さに。でもアイツとこんなことができるのも今を逃せばきっとない。これは神様が与えてくれたチャンスだと考えるボクもいて、結局とめることはできなかった。ボクは伸びてくるアイツの指がボクの顎をつかむのをただぼんやりと眺めていた。

冬号 Byさつき

2012年11月30日
いと愛しうこそ、ものぐるほしけれ。
さつき

――あれは、二年前のことだ。



朝、まだ眠いのにかまけて、だらだらと学校の前の道を歩いていると、聞き慣れた声が後ろから近づいてきた。その声は、そのまま私の隣を通りすぎる。先輩が振り返って笑った。
「アイ~おはよー」
「アイ言うなっ! です!」
「相変わらずな反応速度だねぇ……全く、アイ……もとい、カナの名前はすごく綺麗なんだよ、コンプレックスに感じる必要はないんだってば」
呆れたように肩をすくめる先輩に合わせるように、足を速めながら、私は抗議の意味を込めて小石を蹴った。先輩に当たるように仕向けたつもりだったのだが、小石はあらぬ方向へと飛んでいって、落ち葉の上にカサリと落ちた。
「だから、毎回それ言いますけどなんでなんですか! どこが綺麗なんですか! 愛のどこをどうしたらカナなんですか!」
「はいはい、高校生になったらそのうち分かるからちょっと落ち着こうか」
むぅ、と唸って少し考え、もう一度小石を蹴って、先輩の足に完全に当たったのを見届けてから黙りこくる。そのとき、冷たい木枯らしが服の中を通り抜けていった。くしゃみを二連発。鼻をすすってから、どこかで悪い噂をされているのかなと、苦笑した。当てがあるだけに侮れない。その様子を見て、私の『事情』のことを思い出したのか、先輩が聞いてきた。
「今日もまた行くの?」
「はい、行きたいとは思わないので」
目的語を抜かした文章だと訳が分からないと思う。その証拠に、悪い噂をしている当てである、今背後で盗み聞きをしているであろう友人には意味が伝わっていないはずだ。そこまで考えてから、バッと後ろを振り返り、叫ぶ。
「はい、図星!」
「きゃぁあああバレたあああ」
友人は、単数ではない。まだ薄暗い空に、黄色くてバカでかい悲鳴が木霊する。
「バレるに決まってるでしょ、今の季節は特に落ち葉のカサカサいう音でバレるってのー」
「うわぁ、盲点だった!」
「やっぱ、あんぱん買ってこなきゃいけなかったんだって! 何事も形から!」
「いや、そもそもてめぇら足音隠す気皆無だろ」
「あはは、バレたぁ?」
私がそうやって友人とふざけだすと、先輩はふっとどこかへ消える。おそらく、難しい新書とにらめっこしながら大学へ向かったのだろう。それが毎朝の習慣と化していた。そして、先輩が消えるとこの友人たちのテンションがもっとあがるというのもお約束のようになってきた。沈んだ気持ちのときにそれをされると、悩んでいたことがどうでもよくなったり楽しくなったりとメリットは多々あるが、普通の心境な時にそれをされても、ただ耳が痛いだけだ。ただでさえ耳にささるような寒さなのに、それではひとたまりもない。ただ、もう彼女たちは何を言っても聞きやしないのでどうしようもないのだが。
「ねぇーカナー、あんたらいつになったらくっつくのー? ねぇー?」
「そーだよ、赤城(あかぎ)先輩さぁ、めっちゃカナのこと大好きじゃん、空気も読めるしさ」
「友達より俺優先しろよ、みたいな感じじゃないしさぁ」
「そうそう、あんなに“いい人”の典型いないってば!」
「はよくっつけー!」
「末永く爆発しろシアワセな奴めがぁっ」
「そうだよ、付き合ってないのに、しかも年齢差四つもあるのにそんなに仲いいってのがね、本当に……しかもカナ、ここ最近齊藤(さいとう)とも仲いいじゃん? どんだけモテるのよ」
「早くしないと私、赤城先輩取っちゃうよ!」
「取れるのかよお前」
「無理ですごめんね!」
くちぐちにいろいろなことを言ってくるが、要約すれば全員異口同音に『赤城先輩とはよ付き合ってしまえ、そうしないともう私たちはどうにかしててめぇらを無理やりくっつける方向に動く』と言っているのだ。だからといって私の弁解を聞いてくれるのかと言えばそうでもなく、
「だからね、」
「でもさぁ、……っていうのもよくない!?」
「うわ、何そのシチュエーション萌えるっ」
……ずっとこんな調子だ。更に、私がいない間もこんな調子なんだろうなぁ、だなんて想像してはしんどくなる。

だったら教室に行きたくないなどと駄々をこねて非常階段に行くな、ということなのだが、それは無理な話だった。

 ところで、保健室登校という言葉があるのを知っているだろうか。あと、理科室登校とか図書館登校とかも聞いたことがある。私はそれらに似たような登校をしている。ここ――非常階段は、この季節になるといつもに増して居心地がよくなるのだ。何も障害物がない非常階段をすぅっと通り抜けていく風はあたたかくても冷たくても心地よく感じるものだ。だが、少し肌寒いぐらいが私にとっては丁度いい。ちなみに、この非常階段にいることは公認であるため、小テストなどがあるときは学級委員長さんが呼びに来てくれる。もちろん教室には帰らずに、非常階段でテストを受けるのだが。
 どうしてこんな面倒なことをしているのかというと、全ては私の名前のせいだ。最近流行っているのかはしらないが、私の名前はキラキラネームというやつだ。愛と書いてカナと読むだなんて、どんなおめでたい脳でも思いつかない。しかも、苗字は苗字で珍しく『相(あい)武(む)』であり、これは「I‘m」につながる。英語を習い始めた一年のころは、陰口が特にひどかった。
 小さいころは、自慢していた。珍しい名前でしょ、しかも私は英語も知ってるんだよ、と自己紹介をするといろんな人に覚えてもらえた。それが嬉しくて、どこへ行っても、いくらそれが通りでティッシュ配りをしている大学生相手でも、環状線でアメちゃんをくれるおばちゃん相手でも、自慢して回った。
 けれど、中学にあがって様子が変わった。入学式で、参列していた先輩たちが、私の名前が呼ばれた瞬間に笑い出したのだ。在校生には名簿などは配られておらず、耳で聞いただけだったらしいので、おそらくその爆笑のわけは苗字のほうだろう。その下賤な笑みは、入学したあともずっと私の心の傷となった。三年生になった今も、笑う奴はこっちを見て笑ってくる。あのときから、私は二度と名前を口にしなくなった。

チャイムが鳴った。今日の三時間目は、移動教室のために非常階段を使う学年があるので、私は早々に荷物をまとめて端に移動した。邪魔だと文句をつけられたら教室に戻らざるを得なくなってしまうかもしれないからだった。それだけは絶対嫌だった。

「ねぇーカナー」
「ん? ああ、ミオか。どうした」
五時間目終わりのチャイムが鳴った瞬間、ミオがばたばたと踊り場にやってきた。
「レッスン7のパート4って予習やってる? 英語の訳、見せてくれない? 今日、私の出席番号の日付なのに忘れちゃってさ。全く、私が知らない単語出しすぎなのよこの教科書!」
「今日、ていうよりか毎日でしょ、バカ。まあいいよ、借りは地理で返してもらうからね」
「いいよ。でも、データブックなくしちゃうカナのほうがよっぽどバカじゃない? オレンジ色ですっごい存在感あるのに」
「うっせー! あんなちっちゃい教科書、リュックの中に埋もれちゃうんだってば!」
軽口を叩きながら、大好きなオレンジ色のペンで“ENGLISH”と書いてある百均のノートを差し出す。私は今授業でどの範囲をやってるかはあまり把握していないので、全ての単元の予習を予めやっているのだ。ミオはこれをあてにしているから、英語の赤点を抜け出せない。まさに自業自得。
「さんきゅ、助かる! じゃあこの時間終わったらまた返しにここへ来るから、そのときに一緒にデータブックも持ってくるね。今日一日借りてていいよ。だから六時間目終わってもいつもみたいに颯爽と消え去らずに、待っててくれると嬉しいんだけど」
「おっけ、待ってるね。ありがと」
じゃあね、と手をばたばた振り、忙しそうに踵を返して、コンクリートが打ちっぱなしで冷たい雰囲気を醸し出している階段を、すたすたと上り始める友人の背中をぼーっと眺めた。かつては非常階段娘である私のことをよく思っていなかった彼女だが、今では一番仲がよく、印象もいい。――無論、今朝のような囃し立てのとき以外なのだが――囃し立てる時はその高い統率力の無駄遣いをして、抜け目なく全力で私に絡んでくるので、印象がよいどころかむしろ不快なのだ。
 
 チャイムが鳴って、どたばたと教室に入っていく生徒の足音が聞こえなくなったのを確認してから、私は考え事に耽り始める。

 正直に言うと、赤城先輩のことは大好きだ。博識だし、面白いし、万能だし、四歳差とか関係ないし、勉強教えてくれるし、近所に住んでいるからいつでも会えるし、と理由はつけてみるけれど、やっぱり好きなもんは好きなのであり、理由はない。ちなみにこれをミオをはじめとした友人たちに言うと「あー聞いてるだけで恥ずかしいわ、なんか煽りたい、強い酒を煽りたい、未成年なのがもどかしい! とりあえずファンタでもいいから少しでも刺激のある飲料奢れ!」などと騒がれること間違い無しなので言わない。
 そもそも、もしミオたちが騒がなかったら、今頃は何かしら進展があったのかもしれないのだ。何故って、今は最小限の人としか話そうとしない私にも、一応頭が桃色で青春まっさかりな時代があったのだから。私の勇気を根こそぎ奪い取ったのは、紛れもなく彼女たちなのだ。そう思うと、やっぱり彼女たちのバカ騒ぎが不快だと感じてしまう。
「ったく、私含めてみんな、何やってんだかねぇ、ここ最近」
思わず、そう呟いてしまう。中二までは、私たちは所謂ただの“地味―ズ”だったのだ。私と、ミオと、残り二人、四人でずっと一緒にいて、結束を固めて学校生活を楽しんでいた。コミュ障で非リアな自分たちに、酔いしれていた。けれど、最近そうではなくなってきている。例としては、ミオが急にオシャレに目覚めたり、サヤが体育祭の応援団に志願したり、リカがスピーチ大会で優勝したり、誰も何も言わないけど四人とも二次専じゃなくなっていたり――生活のどこを見ても如実だ。
「みんな、だんだん変わってくんだよなぁ」
ドラマでよく聞くような、ありきたりすぎて歯が浮くようなセリフが、自然と口から出た。自分で発言したのに自分でびっくりして、授業中だからいないのは解ってはいても、周りに誰もいないか確認してしまう。もちろん誰もいるわけがなく、安心して一息つく。吐き出した息はもう白く、もう冬なんだなぁとしみじみ感じた。その割にあまり寒いと感じないのは、年がら年中暖房のない屋外で過ごしているからなのかもしれない。家でもせいぜい、湯たんぽくらいしか使わないので、寒さに対する抵抗はあるだろう。
 そこで集中力が途切れて考えることもなくなり、手持ち無沙汰になって腕時計を確認すると、六時間目はあと三分で終了するようだった。よく考えたら、今日はあまり勉強していない。考え事ばっかりだった。家に帰ったら勉強しなくちゃ、という真面目な気持ちを胸に抱きながら立ち上がる。
――勉強しなきゃ、とか、先輩がいなかったら考えることなんてなかっただろうなぁ。
ふと浮かんだことは、浮かばなかったことにして心にしまった。

ミオたちには口が裂けても言えないが、私は登下校が一日の一番の楽しみだ。理由は、言わずもがなである。赤城先輩は下校時間に合わせてサークルを抜け出してきてくれるので、大体一緒に帰っている。私を家まで送り届けたらまた大学に戻るそうだ。そこまでしてくれるというのが、素直に嬉しい。
「カナ、こっち!」
「あ、先輩!」
しかも今日は、地理を教えてくれるというのだ。地理は教科書を読むだけよりは専門的な知識を知ったほうが楽しいので、心が躍る。小走りで先輩の隣に並んで歩き始めると、おもむろに先輩が口を開いた。
「データブック持ってきた?」
ハッとする。口を押さえて、だいぶ遠ざかった校門を振り返った。
「あ」
「ミオちゃんに借りる予定だった? しょうがない、今日は僕のを進呈してしんぜよう」
「本当ですか! ありがとうございます」
先輩からデータブックを受け取り、丁寧に鞄にしまう。と、そこで、最近若者化したミオを思い出した。明日、放って帰ったことにキレられるのは明白だった。
「待ってください、ミオに謝罪のメール打つので」
「最近の子はみんなメールだねぇ。まあ僕もスマホ民だからあんまり偉そうに言えないけどさ」
「メールして、明日直に謝るんです。そうやって怒りを緩和させておかないと、あとあと面倒ですし。それに、私ほら、ガラケーですからまだましなほうですよ。機能もメールしか使ってないし」
「あ、知ってた? ガラケーってぱかぱかする携帯のことじゃなくて、日本製の携帯全部をさすんだよ。ガラパゴス携帯の略称。だからその携帯も、僕のも、ガラケー……のはず。ガラスマとも言うのかな、スマホだから」
「え、マジですか! 知らなかったです」
「カタカナ語事典便利だよ、これこないだ買ったんだけどね、辞書としても使えるし……」
どうやら今日は、地理ではなくカタカナの話題になりそうだ。それはそれで楽しいからいいのだが。というより、先輩が話すことならなんでもいい気がする。どこのラブコメの主人公だよ、と脳内でセルフツッコミをしてみる。
「そうそう、英語から日本語になっちゃったやつとかもあるよね、サービスとかさ」
「ああ、あとはカステラとか? なんか聞いたことがあります」
「あーそれはね、英語じゃないよ。なんだっけ? オランダかポルトガルか、その辺りだったと思うよ。また調べておくよ」
「ありがとうございます」
「そういえばもうすぐクリスマスだよね、プレゼントいる?」
「あ、欲しいです! どうせなら、今買いに行きませんか? 実は目をつけてたパワーストーン屋さんがあってですね」
「うわ、カナ相変わらず物頼むの上手だね。まあ、いいよ。どうせヒマだし」
それから、先輩はちょっと間をおいて付け足した。
「残り時間も短いことだし」
「ん? あ、はい」
若干最後のセリフが気にかかったが、よく考えると私が高校に行くことになったら、こんな生活もなくなるのだ。今は中学と大学が近いけれど、あいにくこの辺りに高校はない。



――そのときはそうだと思っていた、だなんて、またありきたりなセリフを独りごちてみた。もちろん現実はそうではなかったわけなのだが。

 それからすぐ、先輩はアメリカへ行った。私にはよくわからないが、日本ではできない飛び級制度がアメリカでは使えるらしく、それを使って、人より早く大学を卒業し、若くから教師になりたいらしい。地理を専修していたから地理の先生になるのだろう。先輩の野心は応援したいと心から思ったが、やはり先輩がいないというのは私にとって精神的に辛く、それからというもの何に対しても全く意欲がなくなった。受験も、受かったのは偏差値三十を切っているような、風聞的にあまりよろしくない、滑り止めの高校だけだった。私の手に残ったのは、今まで以下の価値しかない非常階段生活と、オレンジ色のデータブック、そして先輩にもらったオレンジ色の石がついたペンダントだけだった。

それから私はその高校で、楽しくもなんともない非常階段登校を意地で続けていたわけだが、先輩がアメリカに行ってから二年とちょっとがすぎた昨日、久しぶりに先輩から連絡が入ったのだ。二年前のあのときから変わらない私のガラケーの画面に、役目を果たし終えて地面に散った桜の花びらが、風で再び舞いあがってくるのを払いのけて、受信ボックス画面が昨日からほぼ表示させられっぱなしな液晶を見つめる。
「それにしても、久しぶりのメールが『授業に出ろ 必ず』だとは思わなかったな」
あまりにもそっけなさすぎる。私はいささか不満だった。さすがに『久しぶりぃー! 元気ぃ―?』みたいなハイテンションなメールは嫌だが、ここまでそっけないとそっちのほうがよかったという気までしてくる。
「んー、でも」
久しぶりにメールのアイコンがともった『先輩』の受信フォルダを穴があくほど眺めて、久しぶりに聞いた先輩からの着信音を脳内再生して、決心した。

――先輩に頼まれたのだし、小学生以来の授業に出てみるか。


予想通りの反応だった。最初危惧していた、自分の席がわからない、ということに関しては、まだ四月の出席番号順から席替えをしていなかったらしく問題なかった。しかし、その次に心配していた教室が急に静かになり、少し間があってひそひそと話す声が聞こえる、というのは如実に感じられた。担任でさえも、私の名前を呼ぶとき声が震えていた。おそらくいつもなら逃げ出したくなっているのだろうが、先輩のメールを頭に浮かべていると、安心できた。
「はい、じゃあ朝礼終わります」
担任は、ビブラートのかかった声でそう言って、チャイムと同時に教室を出て行った。それと入れ違いで、一時間目の担当教師が入ってくる。
「あいー、じゃあ授業始めていくよー、座ってー」
誰かに呼ばれたような気がした。しかも、本名じゃないほうで呼ばれた気がした。はっと顔をあげ、そこに立っている人物を確認する。
「あれっ、先輩……?」
間違いない、先輩が、そこにいた。しかし、なぜかスーツを着て教卓に立っていた。目が合うと、わざとらしく目をそらして、出席簿のほうを向いてしまった。
――え、嘘でしょ。
だって、仮に先輩が教師になる夢を叶えていたとして、今日の一時間目は古典のはずだ。周りを確認しても、古典のオレンジ色の教科書を持った人が続々と着席し始めている。
「なんで地理じゃないの?」
口パクで聞くが、先輩は気づいた様子もない。私は焦った。もう一度周りを見たが、やっぱりみんなが開いているのは、紛れもなく古典の教科書だった。疑問が解けないまま、授業が始まる。
「えっとねー、じゃあ前の続きって言いたいんだけど、ちょっと今日は、重要語句の説明から行くね。まずは僕の一番好きな形容詞から。これはね、僕が三歳のときに父から教わったんだ。父も古典教師なんだよね。僕が相当かわいかったらしく、キザに古語でそれを示してきたんだよね、しかも三歳のほとんど何も分かってない僕に。おかげで当時の僕も調子に乗って、近所の女の子にその影響が及んじゃったんだ……ってのはまあさておき、これは高一で教えたって、某古典の先生が言ってたよ、だからみんな分かるよね」
そう言って先輩が黒板に書いたのは、『愛し』の二文字だった。鼓動が跳ねるのが、自分でもわかった。オチがだんだん見えてくる。
「これはね、『あいし』とは読まないんだよ。なんて読むか覚えてる人いる?」
きょろきょろと辺りを見回し、先輩が当てたのは、間違えようもない、ミオだった。同じ高校に行っていたことも今まで全然知らなかった。髪を染めていて、雰囲気も変わっている。
「かなし、です。切ないほど愛しいって意味、ですよね」
「正解。あい、じゃなくてかな、な。じゃあ重要語句は以上、じゃあ前回の続きね」
チョークの箱を開けて白と赤を一本ずつ取り出し、ぱっと顔をあげた先輩と思いっきり目があった。動揺を隠すべく正面を向いたら、前の席の子が机に置いていたハンドミラーに、リンゴのように顔を紅くした自分の姿が映っていた。

私は逃げ出したくなって、思わず教室を飛び出していた。



いつの間にか家についていた。慣れというものは怖い。自然と足が動いていたのだ。学校に帰らなければ、と時計を確認すると、もう古典の時間は終わりかけだった。どうせ非常階段に行くだけなのに学校まで戻るまでもないと思ったので、合鍵を使って家に入る。
そしてすぐ、普段は近寄りもしない、二階の奥にある母の仕事部屋へノックもせず入った。目を丸くする母に事情を説明するのさえ億劫で、私は単刀直入に訊いた。
「あのさ、私の名前って赤城先輩がつけたの?」
階段を上るだけでいつもに増して息が上がり、肩で呼吸をしながらそう聞くと、母は、応えた。母が、私の名前がらみのことで質問に答えるのは初めてだったから、自分で聞いておきながら少し面食らった。
「あれ? そうなの? 赤城さん家の旦那さんが考えたと思ってた。でも、そうかもね。旦那さん、英才教育を施すとか言って、小さいときから赤城くんにはしょっちゅう古典教えていたみたいだし。そうなんじゃない?」
ふと、頭に先輩のセリフが過ぎった。
――全く、アイ……もとい、カナの名前はすごく綺麗なんだよ、コンプレックスに感じる必要はないんだってば。
胸に、何か熱いものがこみあげてくる。やがてそれは目頭をも熱くした。
「分かった、ありがとう」
それだけ母に伝え、部屋に戻った。

携帯を開くと充電が切れたらしく画面が真っ黒で、そこに映る自分の顔は見ていられないほどぐしゃぐしゃだった。とりあえず携帯を充電器につなぎ、洗面所で顔を洗った。お気に入りのオレンジ色のタオルで顔をふいて、目薬をさし――たのはいいが、かなり沁みたので、痛みのあまり目をしばたたかせながら部屋に戻ると、携帯がちかちかと光っていた。最初は自分の目がおかしいと思ったのだが、待ち受けのアイコンを確認すると着信を知らせるものが点灯していた。急ぎの用事だと困るので、慌てて受信ボックスを開くと、『先輩』のフォルダにアイコンがついている。このフォルダに着信する相手はたった一人しかいない。逸る鼓動と震える足を懸命に宥めながら、メールを開く。
『驚かせてごめんね。ずっと黙っててごめん。カナには僕自身が、名前の秘密を教えてあげたかったんだ。だから、カナが学生のうちに間に合うようにしたくて、その代償として二年間アメリカに行ってたんだよ。今日は授業に出てくれてありがとう。カナ、大好きだよ』
私はその場にへたり込んだ。さっきのような涙ではなく、今度は雫が静かに頬を伝った。
「……先輩、私も好きです」
ずっと大事にしまってあった、大好きなオレンジ色のデータブックを、私は静かに抱きしめた。



朝の訪れ
風船犬 キミドリ


 『ごめんなさい、私もう大学へは行きません。せっかく食事に誘ってもらったのに』
電話から聞こえてくる彼女の声は泣いていたが、無機質というのが一番に合うようなそんな音に聞こえた。僕はああ、うんとかなんとかつぶやいて理解の及ばないまま電話を切った、と思う。なにせまだ頭が追いついていないのだ。始まりは少し前に遡る。
 彼女、というのは別にお付き合いしている女性ということではなくて、ついさっき講義後のランチに誘った女性である、小早川(こばやかわ)鈴音(すずね)のことだ。彼女とは小学校六年間同じクラスであったらしい。在学中は気がつかなかったんだけども卒業アルバムを見る限り、どのクラス写真にも一緒に写っている。残念ながら中学校で離れてしまったけれど、いつか会いたいとは思っていたんだ。で、偶然大学で再会したので話しかけてみたのだ。向こうは最初気がつかなかったみたいだけど、メガネを外したら思い出してくれた。
「しっかし……話しかけてすぐあっさりといいですよとか言われるとは思わなかったな……」
僕の全体的な雰囲気は小学校からあまり変わっていないと思う。変にナンパな野郎でもなく、根暗にも見えない普通なやつ。ヘタレはちょっとだけ改善。でも今まで彼女はいなかった、残念ながら。でも彼女には何か特別な感情を抱いていた。なけなしの勇気を絞りきって調子よく明るく話しかけてみたつもりだ。そのおかげだろうか。ただし、そのあとが問題だった。
「それじゃあ講義後にホール前で待ち合わせしよう! あとこれ、」
そういいながら思わず笑顔になって連絡先の書いたメモを手渡す。
「じゃっ」
片手を振りながら次の講義の行われる別棟の教室へと走っていった、のだが……
 今日最後の講義が終わり、彼女と約束したホール前へと心を弾ませながら向かう。その時、知らない電話番号から携帯へ電話がかかってきた。とりあえず出てみると、彼女だった。
 何があったのかはわからないが、彼女は泣いていて、大学をやめる旨を伝えてきた。
 そして今に至るというわけだ。僕にできること? 全くわからないな……でもとりあえず、何かしないといけない気になって電話をかけ直してみる。ダメだった、彼女は電話に出てくれない。彼女の家の場所も知らない僕は、なんとかしようにも、手立てがなかった。大学で聞けばいいんじゃなかったのかって? 教えてくれるかどうか確証もないし、正直彼女にそこまでの執着があったわけではない。所詮、その程度だったのだ。そして僕は彼女のことを気になりながらも心の奥にしまいこみ、何もなかったかのように四年間のキャンパスライフを送ったのだった。

   ***

 私、小早川鈴音という人間は一枚のCDといくつかのバイトを生きがいに生きているといっても過言ではない。社会的立場は曖昧。勤労意欲はないがひきこもりではないという微妙な立ち位置。バイト以外の時間は一枚のゲームサントラを聴き続ける。もはやCDなど聞かなくても、脳内で全て正確に再現できるレベルなのだけれども。あくまで習慣だ、記憶を掘り返す以外に意味はない。
 そう、このCDは私と、私の親友であった汀(なぎさ)柊(ひいらぎ)をつなぐか細い糸なのだ。このCDを聞くという行為自体が彼女とのつながりを唯一象徴する。そんな彼女は今、病室で植物状態だ。彼女の病室には一度も足を運んだことがない。四年前、彼女を襲った不幸な事故の直後は悲しくて仕方がなく、病室に行けなかったのだと自分を納得させていた。でも、いつまでたっても私は彼女の病室へ行くことはできなかった。なんだろう、親友だった彼女への思い入れが彼女の時間の停滞とともにあの日に置いていかれてしまったみたいだ。私の青春は彼女との友情のなかにあったのだからそこで青春は、私の人生の一部は終わりを告げたのだ。そんな私は今まさに無気力状態にある。仕事には行きながらも、心は彼女と過ごした日々を彷徨い歩いている。四年、四年経っても私は前進することなく彷徨い続けている。
 そして今、私は街を彷徨っている。バイトからバイトへ移動中。どれだけ感傷に浸っていても現実というのは足踏み待機をしてくれない。感傷に浸る人間を無理やり引きずって前へ前へと進ませようとする。特に停滞している人間へのあたりはとても厳しいものだ。しかし私の場合、あまりにも抵抗を続けていたために心の一部が引きちぎれてしまったのかもしれない。
 さて、とりあえず仕事だ。帰る途中のサラリーマンらしきスーツ姿の人並みを縫うように進む。その灰色の人並みの中に、ひとつ。鮮やかな赤いコートが見えた。

***

 病室から出られるようになって三日目。一ヶ月前に植物状態から回復して検査等なんだのを適当に済ませた。あと三ヶ月は拘束されそうだったので無理やり、ほとんど脱走に近いようなかたちで出てきたわけだが。
 四年、四年もの間私は寒々しい病院のベッドから出られないでいた。それは人生経験では十八年、肉体的には二十二年しか生きていない私にとってあまりに長く、失うには惜しすぎる時間。その間に世界はどれほど変わってしまったのだろう。そして、私の感覚はどれほど鈍ってしまったのだろう。
 目を閉じた暗闇の中が私の住処だった。そして闇は病みに通ずる。こうして街を平然と歩く私はどこか狂っているのかもしれないと考えると、自分が恐ろしくてたまらない。でも、それでも。四年間光を失っていた私は外出せざるを得なかった。目に鮮やかな赤色のコートを来て、駅前のサラリーマンの間を流される。ふと、やる気のなさそうにふらりふらりと揺れるように歩く若い女性と目があった。四年間ずっと望み続けていた瞬間だと悟る。ああ、やっと……

 やっと会えたね、こば。

***

 僕は何気なく大学近くの駅前をぶらついていた。スーツ姿のおっさんらを見ていると、去年の十月に僕もしていた就職活動の記憶が蘇る。仲の良かった高校の友達と偶然再会したりと、それなりにお気楽だったのだが。まだ三年生だったしね、という油断が今後の僕を不幸のどん底に……いや、やめておこう。そういえば彼女はどうしているだろうか。何があったのかは全く知らない。もう連絡もつかないかもしれない。おもむろに携帯電話を開き、すっかり暗記してしまった(悩みに悩んでいるあいだにいつの間にか覚えてしまっていたのだ)彼女の番号を打ち込んでみる。だめだ、かけてみる勇気はない。小学生の頃の記憶に、あやふやな靄がかかっている部分から感じられるものに似ていた。いや、むしろこの記憶から感じられるものが無気力なのか……? わからない。ただ、当時の自分が何かを成し得なかったということはわかっている。ああ、ならそうなのかも……? うう、昔から思考を回すと必ずこんがらがる……。
 まあ、そんなわけで久しぶりに彼女を思い出した今日。僕は当時彼女を誘おうかなーとか色ボケた妄想を膨らましていた喫茶店のある駅前を、当時の思い出に浸りながらぶらつく。と、なにか記憶を刺激する横顔が見えた。そして目に鮮やかな赤いコートがそばに見える。なんとなくふらっと近づく。あ、不審者に間違われるかな……? のんきにも程があるだろ僕、と後に僕は思うのだった。

***

 赤いコート。目があった。嘘だ、いるはずない。だって絶望的な状況。ありえない。違う、人違いだ。ああ、こちらに向かってくる。誰が? 親友の彼女だ。耳にゲームの曲が流れる。ああ、掘り返されていくキズ。違う違う、彼女じゃない。だってトラックにはねられたじゃない。植物状態から回復? そんなのは小説の中だけだ。ここは現実。所詮現実。奇跡が起こらない、起こってはいけない現実。じゃあ彼女はフィクションの産物なの? 最初から? 嘘だ、そんなの……私の青春がフィクションだったわけがない。ゲームだって……そう、ふたりでゲームを作ったじゃない。そうか、彼女は現実なのか……運命のご都合主義さにはまったく呆れかえる。彼女は回復した。ああ、四年前に私の中身が巻き戻る。あの頃に置いていかれた心の欠片を拾い上げ、更に時間を巻き戻す。

――「あれ? その本私も持っているよ!! もしかしてパソコンの技術系に興味持っているの? あはっ、仲間が見つかった! いや~あの番組の朝の占いは凄いなあ、運命ってやつだね! そうそう、私の父さんがプログラマーなんだー。だからこっち方面に興味もってさー。あ、自己紹介がまだだったね、私は中学一年二組の汀 ひいらぎだよっ。汀はさんずいに一丁目の丁。ひいらぎは平仮名だよ。よろしくっ!!」

――「えと、一組の小早川 鈴音です」
「へ~え~、んじゃあこばっちゃんだね!」
「へ?」
「ん、だからこばやかわ、でこばっちゃん」
「こばっちゃんと呼ばれたのは初めてかな」
「じゃあ今までは? 」
「スズちゃんでした。クラスの子が決めてくれて……」
「んー、私的にはこばっちゃんのほうにビビッときたかな~。」
「ビビッと……」

――「お~、いいじゃあないですか~!ナギかぁ~!」
「気に入ってくれたようで何より」
「つーか、あれなわけです。私、もともとひいらぎっていうコードネーム? みたいな名前なわけですよ。『こちら楠(くすのき)、柊応答せよ!』みたいな?」

――「私の連絡先。自宅とケータイの番号とメアド。できれば近々連絡ちょーだい! じゃっ」

 ああ、ナギ。ナギが私の中に帰ってきた……今まで病室に閉じ込められていた、四年前に閉じ込められていた私の……わたしの……

「やっと会えたね、こば」

「……大学へ行ったらまたナギとCDショップへ行ってゲームを作って映画でも見に行ってそれからそれからぁあああああああああ」
ぽたり、ぼたぼたと夕立のように唐突に、とめどなく、涙が溢れ出す。がくりと地面に膝をつき、そして――

   ***

 やあ、やっぱり彼女じゃないか。どうしたんだろう、こんな時間にこんな街中で。というか大丈夫かあの足取り……? 今にも倒れそう、いやもう危ない――
「がはっ!?」
常に彼女に関して感じていた無力感が、空白の記憶を埋めるピースを引きずり出す。ああ、痛い。懐かしい声が響く。思い出すな思い出すな! お前が壊れてしまうといっただろう! やめるんだ、思い出そうとするなんて自滅するだけだ。とっとと忘れてしまえとそう言っただろう!
「そんなの……逃げじゃないか」
ああ、逃げろと言っている! とっとと過去から、やつから逃げてしまえ! 
 謎の声がガンガン響き、頭痛はますますひどくなる。でも、なにか大事なものを思い出せそうなんだ……もうすこしで……もう、少し――

「凛……そう、凛だ。僕は凛を愛していた。なのに彼女を狂気から救えず、見逃し、忘れていた……。情けない、情けない情けない……!」
思わず涙が出てくる。何年越しの後悔だろう。これだ、無力感の正体は。ああでも、今度はきっと。今度こそは――

――彼女を救わないと

   ***

 目の前には四年間、ついぞ病室に姿を現さなかった私の親友、こばがいる。なんだか面白い顔のまま硬直してる。どうしたの? 幽霊でも見たような顔して。しっかしまあ……よくそんなぼろっぼろの格好で駅前を歩けるね、と苦笑する。大学の友達に笑われちゃうよ?
 今、無事に四年生ですか? 彼氏とか、できた? ねえ、四年間何があったの? 全部、全部教えてよ。余すところなく、すべてを。この空白の四年間を埋めたいの、こばの記憶で。こばのいるところにきっと私がいただろうから。こばが喜んでいたとき、私もきっと喜んでいただろうから。子供みたいな感性だとは思うけど許してね。だって私の心はまだ十八歳なんだよ。大学生として生きていないというのは大きな心のハンデなんだ。ねえ、こば。私は、あなたとどんな生き方をしていたかな?
 ずっと、病室でもこばの声が聞こえるのを待っていたんだ。もしこばが泣いたりしたら申し訳ないと柄にもなく思ったりしたかもね。でも、こばは一度も来なかった。私に会うのが嫌だったの? 嫌いだった? それとも怖かったの? うん、怖がられても仕方がないかな。植物人間って響きがなんかやーな感じ。人間じゃないみたい。モンスターの種族名みたいなイメージがあるよ。あ、それは私のゲームのしすぎが原因かな? こばは今、何が好き? ねえ、

 私のこと、好きですか?

   ***
 
 目の前が霞んでいく。世界が遠のく。暗闇が徐々に世界を侵食していく。回復したナギの代わりに。ああ、ああおちていく……
 意識を手放しかけた私の肩を、誰かがぐっと力強く抱きかかえた。薄ぼんやりとした視界に目を凝らす。四年前、私が堕落したトリガーの顔があった。
「ええと……なんで、いるの?」
今の今までナギのことしか頭になかったはずの私は、すごくナチュラルに疑問を発していた。なぜ、いるのだと。生涯にわたり、おそらく唯一の親友をなくしたと思っていた私に声をかけてくれて、さらにまったくもってありがたいことに記憶をフラッシュバックさせてくれた人物。大槻(おおつき)、賢治(けんじ)。
「なんでって……助けに? きた。……のかなあ」
なんだ、しまらないな。そういって彼は情けなさそうに笑う。その笑みを見て世界は唐突に明るさを取り戻した。
「こば? 大丈夫?」
いつの間にか、傍らにはナギが立っていた。
「えーっと……この人は……? まさか彼氏とか」
「……いや、ないよそれは」
苦笑する大槻くん。ふたつの「なぜいるの?」という疑問に捕らえられ、腰の抜けたままの私の頭上で繰り広げられるどこか能天気な会話。
「おっと、大丈夫? とりあえず立とうか。立てる?」
「なんとか……」
ふらふらしながらも支えなく立つことができた。
「えーっと……ちょっと、まって……。なんでナギが?」
「んーとりあえず場所変えようよ。あの喫茶店なんてどう?」

   ***

 今、僕は奇しくも彼女を誘おうとしていた喫茶店で彼女といる。ただし、彼女の友達らしき「ナギ」と呼ばれる女性が一緒だ。
「で、おふたりはどのような関係で?」
とりあえず僕が二人に話を促す。おい、そこの女子校生たち。「え、なに修羅場?」みたいな顔して色めき立つな。
「んーと……こば、多分母さんも連絡をまだ入れてなかったのだろうけども私は一ヶ月前に植物状態から回復したの。で、無理やり脱走じみた方法で退院してきたというわけ。いままで、ごめんね」
どうしよう、僕すごく無関係なんだけど……。じとりと居心地の悪さに汗をかいていると彼女が口を開いた。
「ごめん、一度も病室行かなかった。大学も辞めちゃった。二度とナギと話ができないと思って死んじゃいそうだった。でも、死ねなかったよ。ナギのことが好きなのに、死ぬ覚悟すら持てなかったよ。ごめん、ごめんなさい……」
今にも彼女は泣きそうだったが、もう涙も枯れたようで肩を震わせるのみだった。その頬を撫で、肩を抱きたかったけれど、僕にその資格はない。まだ、ね。
「寂しかったよ、こばが来ない毎日は。でもこばには辛い思いをさせちゃった。私の不注意のせいで。そのヘッドフォン、私のだよね。持っててくれたんだね……」
そういえば彼女はあの日もヘッドフォンを首にかけていた。自分の場違いさに狼狽えながらも僕は無意識のうちに彼女の震える右手を掴む。途端、彼女の体から力が抜けた。
「ごめん、ごめんねえ……ひぐっ、うう……」
泣き出したのはナギさんの方だった。子供のように、嗚咽を隠すこともせず、顔をクシャクシャにして泣いている。僕の隣にいる彼女もまるで最後の一滴のような涙をこぼした。しかし、その顔は晴れやかで。一瞬見とれてしまうほど素敵な笑顔を浮かべて泣いていた。
「ねえ、ナギ。また……またゲーム作ろう!」
嗚咽混じりではあったけれど、鼻声ではあったけれど、彼女の声はようやく喜びの色を帯びて発せられた。僕は何の事情も知らないけれどそれが嬉しくて、嬉しくて。ぽたりとテーブルにひとしずくの涙が落ちた。
「あ、あれ? 僕が泣くことないのに……なんでだろう……はは、ごめん……」
驚くふたりに情けなく弁明めいたものをつぶやく。なんで、なんで僕は泣いている……? 彼女の笑顔に、言葉に、心を奪われた。そうだ、それしか考えられない。ああ、きっと僕はあの日、彼女に声をかけようと思った時から彼女に心を奪われていたんだ。

彼女に恋をしていたんだ。


***

 泣いたせいで目元が真っ赤になっている私たち三人は喫茶店を出て駅へ向かう。えーっと大槻くんとやらとは駅で別れてこばと二人で家路へつく。
「帰ったら何する?」
「昔作ったゲーム、もう一回やってみようよ」
「えーあんな陳腐なやつ? 懐かしいけどさー」
「いいじゃんかー。ほら、四年前を思い出そうと思って!」
「そうだねー、じゃあやろうか。うん、よしじゃあうちで晩御飯も食べていきなよ。本当に久しぶりにこばに会えてうちの親も喜んでくれるって!」
こばと何気ない日常の続きのように、取り留めのない会話をして歩くかつての通学路。四年の時を失った私に、こばは思い出を与えてくれている。
「ねえねえ、こばー」
「なんだね、ナギ」
「ええと……好き」
「何を今更」
くすりいうかにやりというか、その中間のような笑みを浮かべる私たち。きっとこれからまたふたりで喜んで、悲しんで、楽しみを分かち合うのだろう。それに、とっておきのネタもできた。
「ねえ、こばさんや」
「なんだね、ナギさんや」
「大槻君って、こば的にどうよ?」
「なっ……なにを言っているのかねナギ」
「アラ、そう。べつになんもないよ、うん」
にゅふふふふと意地悪く笑う私をこばは恨みがましい目で見てくる。こんな感じに幸せが続いていくのだろう。もう、時間の空白はなくなった。

天の川

2012年11月10日
天の川作

夏号 Byさつき

2012年06月30日
とある二代目除霊師の成長の話。

さつき

僕は汗をだらだら流しながら一人で見慣れた通学路を歩いていた。制服で。お盆ど真ん中なのに。

「どうしてこうなった……」

部活があると宣告を受けたのは昨日のことだが、未だに納得がいかない。思わずため息が漏れた。僕のような貧弱野郎にとって、夏の紫外線というものは天敵でしかない。なるべく室内にいて、浴びないでいたい。なのに……。

「あの横暴先輩があああああ!」

少しでも涼しいように、木々が鬱蒼とした小径を歩いているから誰もいない。それをいいことに僕はたった一人の部活の先輩への恨みを叫んだ。

刹那、声が響く。

「功(こう)先輩?」

振り向くと、たった一人の部活の後輩がいた。いつも通りのほわほわした笑みを浮かべて手を振っている。僕は手を振り返しながら言った。

「あぁ、笑那(えな)か」

「先輩は暑いからここ通ってるんですか?」

「まあな。そっちもその口か」

「はい。紫外線はちょっと……」

「だよな。あっついし“線”なんてついてたら中毒性物質のイメージしか沸かないし。暑いし。暑いし。暑いし暑いし……」

「え、えっとーお肌に悪いですし……」

どうやら、僕とは少し理由が違ったようだがまあいい。それより……。

「ヤッバ、まさか会うとは思わなかった……」

「え、なんですか先輩?」

「あ、いや、なんでもないよ」

僕が頭を抱える理由はほかでもない。ここ最近、なぜか笑那に会うと心臓がバクバクいうのだ。なぜか分からない。重度の心臓病を患ったのかもしれない。とにかく、今も心臓がバクバクしている。死にそう。

僕は誤魔化すために歩みを速めた。

「先輩、早いですよぅ」

そんな笑那の声が聞こえたが、聞こえなかったことにした。



ようやく部室に着いた。遅れて追いついた笑那が、僕の肩を(正確には、二の腕辺りを)ぺしぺし叩きながら文句を言う。なるほど、本当は肩を叩きたいけど身長が届かないのか。

「先輩、なんでそんな早歩きするんですかぁ~! ついて行くの大変だったじゃないですか! れでぃーふぁーすとですよぅ」

「はいはい、今度から気をつけるよ」

「その台詞何度目だと思ってるんですかぁ~!」

ごめんごめん、と謝りながらドアを開ける。その先には、ふんぞり返って足を組み、あたかも女王のようにふかふかソファに座る例の横暴先輩がいた。ちなみにこのソファは先輩専用である。

「遅かったじゃないか功」

「いやいや、まだ時間の十三分前ですよ?」

「私が来てからもう五時間半経つ!」

「貴女は朝の四時から何をやってるんですか!」

「兄が朝から稽古をしていたから面倒なことになる前に逃げてきた」

「さいですか……」

横暴先輩こと涼佳(りょうか)先輩は、剣術の家系に生まれたらしく、よくお兄さんの稽古相手を頼まれるらしい。しかもその剣術が水無瀬(みなせ)流とかいう陰陽道云々交じりの剣術ですごく名門らしく、初の女剣士として期待されているらしい。しかし本人は剣にそこまで興味があるわけではなく、お兄さんは正直言って面倒くさいらしい。ちなみに笑那は涼佳先輩の妹であったりする。笑那が剣術を習っていないのは、笑那曰く『かくかくしかじかあってうにゃうにゃうにゃ』だかららしい。全く意味が分からないが。

「ところで笑那はどうした」

「どうしたもこうしたも貴女の妹でしょうに……」

「うちは広いから家族の行動パターンを全て把握しているわけではないんだ。羨ましいか功?」

「空き巣に狙われますよ」

「うぐっ」

全く、先輩はことあるごとに僕のアパート一人暮らしについて嫌味を言ってくるから苦手だ。……と、そんなことを考えていると、僕から説明がないのに耐えかねたのか僕の背後から笑那が顔を覗かせた。

「ヒドいよお姉ちゃん、私ずっとここに居たのに」

少し涙目な笑那。さすがに涼佳先輩も反省するだr……

「さて。今日集まってもらったのは……」

『横暴だああああああ』

なんで!? どうして反省の言葉がない!?

「どうした、二人とも。部長たる私の言葉を受け流すとはいい度胸だ」

「わーー! 横暴だ、恐怖政治だ、独裁だぁぁぁ」

「……私も本来姉に言うべきではない罵倒が脳内を駆け巡っています」

そう騒ぎながら、笑那とアイコンタクトを交わす。

(お姉ちゃんはほんと最低です)

(しかしこれ以上抗ってもしょうがないのは過去の経験から分かっている。ここは素直に話を聞いたほうが)

(そうですね。いつも思いますが私たちのほうがオトナですよね)

(それ、口に出すなよ)

二人で苦笑したあと、涼佳先輩に向き直る。

「お前ら、ずっと見つめあって何をやってたんだ。何? お前ら愛し合ってるの?」

『!』

顔が熱くなった。どうしてそんな、解釈なんだよ……。

どうやら笑那も赤面していたらしく(当たり前だが)涼佳先輩がニヤリと笑う。

「さてはお前ら両おも」

「さーーてさてさて今日召集かけたということは何か話し合うべきことがあるんですよね、それ、何ですか? あーあー早く話し合いたいなーうずうずするなー」

「ほう、功はそんなにも今日の会議が楽しみか。じゃあさっさと話し合うことにしよう」

ふぅ、と安堵する。涼佳先輩は予算をちょろまかして買ってきたホワイトボードに議題を書き込む。

「なになに、明日の夏祭りについて……え、まさか行くんですか!?」

「何か悪いことでもあるか」

「いや……いいですけど」

意外だ。涼佳先輩はそういうエンターテイメントには全くといっていいほど興味がなかったはずだ。

僕がいぶかしんでいると、急に涼佳先輩が挙動不審になり、キョロキョロしながら早口で言う。

「と、とある後輩の浴衣姿が見たかったからな」

後輩? ああ、笑那のことか。なら僕が行ってもきっと邪魔になるだけだろうな。

「なら二人で行ってきてくださいよ。僕は人ごみがそれほど好きではないので」

「……」

「……功先輩ってつくづく鈍感ですよね」

二人にすごくにらまれてしまった。なぜだ。わからん。

「……あ、荷物持ちですか? しょうがない、それなら行きますよ」

「……そうだ。だから浴衣姿で荷物持ちに来い!」

涼佳先輩の反応が遅かったのはきっと気のせいだろう。

「了解しました!」

そして笑那が敬礼した僕に向かって深く嘆息したのはきっと気のせいだろう。



次の日の午後四時ごろ、僕たちは学校最寄のバス停に来ていた。

「おぉっ!」

笑那が浴衣だ。ピンクの浴衣が高一だとは思えない小さい体躯によく似合っている。

「笑那、浴衣似合うな」

「え、そ、そうですか? えへへ、ありがとうございます! お礼に私にわたあめを買ってくれてもいいんですよ?」

少し顔を染めながらにっこり笑い、理不尽なことを言う笑那。そんな笑那を見てまたドキドキしてくる。心臓発作かもしれない。ヤバイ。

一方涼佳先輩は白いワンピースだった。

「涼佳先輩、浴衣着ないんですか? 僕には強制だったのに……」

「ああ、どこぞの後輩が鈍感すぎてもうこれは浴衣を着る価値なしと思ったのでな」

なるほど。笑那と浴衣が共用だから着れなかったのか。

僕はそういう結論に達したのだが、それを言ってみるとまたも嘆息で返された。やたら機嫌よく微笑んでいた笑那もその顔を曇らせた。どうして? 昨日から二人ともおかしいよ。

「まあ、ひとまずバスに乗ろうではないか」

そう促す先輩に従って、バスに乗った。途端、水無瀬姉妹が頭に手をやる。

「どうしたんです?」

しかし、僕が聞くと二人は作り笑いを浮かべて何もなかったかのように座席に着いた。僕たちが席についていない最後の客だったらしく、座ると同時にバスは走り出した。

「なんでもないですよ」

「そうだ、なんでもない。ちょっと船酔いになっただけだ」

「ここバス内ですが……船酔いとはこれ如何に?」

「ま、間違えただけだ! 功はいちいち揚げ足を取るからいけ好かないんだ!」

そっくりそのまま熨斗つけてお返ししたくなったがまあいい。せっかくのお祭りなんだから楽しもうではないか。

そういう結論に至ったので、何か話題でも振ろうと二人のほうを向いた。

刹那

ドン――

キャアアアアア!――

キキィーッ



「佐々井(ささい)さん? 佐々井功さん?」

「うぅ……」

「よかった。起きたんですね」

起きると、そこは白に囲まれた個室だった。ほかの何色も存在しない。シロ、シロ、シロ……。さらに傍らにはナースさんがいる。それでやっと、僕は病院に居るのだと察した。

「どこか具合の悪いところはないですか?」

言われて、少し上半身を動かす。肩辺りに激痛が走り呻き声がもれた。

「っか、肩が……」

「分かりました。安静にしていてください、すぐ戻ってきます」

ナースさんは出て行った。一瞬垣間見えた病室の外は、真っ暗だった。真っ白な病室とのコントラストが不気味に感じた。



帰ってきたナースさんは治療道具を両手に抱えていた。あんなにも使うのだろうか、包帯。まあナースなので信じていいだろう。

ふと、心に余裕ができる。きっと治療されて治るのが分かるからほっとしたのだろう。それで手当てをしてもらいながら呟いてみた。

「僕はどうなったんですか」

「あのね……佐々井さんが乗っていたバスが横転したのよ。最近物騒よね……」

横転? ということはつまり、

「笑那っ!?」

つい身体を起こしてしまい、ナースさんに怒られた。落ち着いてから、再び話した。

「笑那……と、先輩は……」

「先輩、とは」

「水無瀬涼佳です」

早く答えが知りたくてナースさんの言葉をさえぎるように答える。ナースさんは少し怪訝な顔をした。しかしすぐに営業スマイル(ただし苦笑だが)に変わる。

「水無瀬姉妹さんとは知り合いなのですか」

ナースの様子がおかしい。さっきまでは苦笑気味だった顔が真顔になっている。

「隠さず言ってください。何があったんです」

「水無瀬さんは……お姉さんは意識不明の重態で、妹さんは……」

ナースが目を伏せた。それだけで全てを悟る。

「笑那ッ……!」

僕は肩の痛みなんて忘れて走り出した。ナースさんが僕を呼んでいる。けど今はそれどころではないのだ。今気づいた。



僕は、笑那のことが好きだったんだ――



無我夢中に当てもなく走っていた割にすぐに集中治療室は見つかった。

「笑那ッ!」

乱暴にドアを開け放つと、十六の目が僕のほうを見た。そのうちの一人の医者が僕の肩に中途半端に巻かれた包帯を見ていぶかしむような目つきをしたが、名乗ると黙認して通してくれた。

「笑那……」

そっと呼びかける。返事はない。

「笑那はもう意識がないのよ、もう、ダメなのよ……」

隣に立った笑那のお母さんがハンカチで目を押さえながら呟いた。それに、妙な苛立ちを覚える。

「ダメかどうかなんて、分からないじゃないですか!」

そのまま意地で枕元まで行き、笑那の耳元で叫ぶ。

「笑那! お前バカか!? 祭りはどうした! 浴衣似合ってたし! わたあめだって食べたいって言ってただろう! なあ? 僕と先輩おいてくのかよ!?」

半ばヒステリック気味に叫ぶ。叫ぶ。とにかく、叫んだ。

刹那

「先輩……、なんですか?」

「笑那!」

「先輩なんですね。……先輩のせいで、伝えられなくて諦めた遺言思い出しちゃったじゃないですか……」

苦笑する笑那。少しほっとする。

「思い出したんならよかった」

「先輩、ずっと前から私は先輩が好きです。もう知ってましたか?」

いきなりド直球が来る。ふらついた僕は臆病(チキン)以外の何者でもないだろう。しかしすぐに姿勢を立て直す。

「さっき気づいた。僕も、笑那が好きだよ」

「先輩、ずっと鈍感でしたね。……許してください」

また姿勢がかしぐ。重態の笑那にも簡単に引っ張れるくらい力が入っていなかったらしい。しかし今度はそれだけではなかった。僕の唇に柔らかな感触があった。視界をさえぎる笑那の少し青白い、でも整った顔。びっくりする僕に、笑那はただ一言、

「世界で一番、あなたが好きです」

そう言って、目を閉じた。



「愛(めぐみ)、初仕事はどうだった」

「すごく、感動しました。これからもこの仕事を続けていきたいです」

「そうか。咲実も喜ぶよ」

「番人さんってホント先代のこと好きですね」

「……うっさいな!」



これはとある二代目除霊師の成長の話。

END


苺な姫と苦労の執事の夏休み

風船犬 キミドリ・杏・さつき



 広がる宇宙の中にある気がしなくもない、とある惑星――いちご星は、先日の地球からの来客も去り、夏の平穏な空気が流れている。そのことがこの星の万能執事、リッカはとても嬉しかった。たとえそれがつかの間の平和だと知っていても。

「ああ、平和だ……。仕事もなく、メイドの失敗の後始末もなく……こんな日は羽毛布団で眠りたいって今は夏か……ぼけてるな」

いつもの外道執事様はどこへやら、夏の日差しと開放感からかリッカは惚けたようににへらと笑いながら濃い茶色の執事服を着崩し、自室で寝転んでいた。

 しかし、彼はとっくに気がついていた。きっとこんな気分でいられるのはこの刹那だけであるということと、その証拠に部屋へ向かってくる足音に。

 てとてと足早にリッカの部屋に向かって歩く苺(いちご)姫(ひめ)。このいちご星をまるごと治める国の第二王女である。そして、リッカが苦労をするとすれば彼女が基本的に原因である。ようはわがままでふわふわぽわぽわ、そういう人物なのだ。よくこれで王室を継ぐ権利を有すことを許されているのか、彼女の姉である林檎(りんご)の同僚ダラスは首をひねっている。

 そんな彼女がリッカの部屋に向かっているということはこれはもう誰にでも予想できる執事忙殺フラグだ。彼がいちご星人と地球人のハーフで不死の力を持っているというところが余計にタチが悪い。彼はきっとこのままイチゴ星のために一生を捧げる運命にある、ハーフであるというのはそういうことだ。

 いちご星に隷属(れいぞく)する執事、リッカは悲壮な運命を理解しつつもギリギリまで刹那的な幸せを手放したくなかった。そのため……

「リッカー、いるー? あのねあのね! 私地球に行きたいなーってあれ? 何してるのリッカ?」

部屋の扉を勢い良く開け放ち、ずかずかと飛び跳ねながら部屋に入ってきた苺姫は思い切りリッカの鳩尾を踏み抜いていた。普段なら常人ならざる反射神経でいかなる攻撃もよけきるリッカだが、今回は幸せを求めるあまり、回避行動が遅れてしまったようだ。彼は潰されたカエルのような声をだしたものの、すぐに起き上がると怒りに顔を引きつらせながらも苺姫に話しかけた。

「これはこれは姫様、ご機嫌麗しゅう。今回はまたどのような御用で……」

「ちょっとリッカ!? キャラを見失わないで! まるで地獄から響いてくるかのような不気味な声だし!!」

事実、彼の声は地獄の底から聞こえてくる怨嗟(えんさ)の声のような響きを持っていた。かなりの怖がりである苺姫が心底震え上がるのにも無理はない。

「ふんっ、どーせまたろくでもない……」

「何か言った、リッカ?」

「いえいえ、なんでもありませんとも、ええ。さっき地球がどうのとかおっしゃっていましたが……」

「そう! 私ね、地球へ行きたいんだあ~。だってね、地球ではまだ夏でしょ、だから夏祭りがあるんだって!」

「……どこでそれをお知りに? 林檎様が言っておられたとか?」

「ううん! この……よいしょ、天音(あまね)宅配サービスってところの天音さんがね、リッカ宛に雑誌みたいなのを沢山送ってきていたんだけど、そのなかのほら! この一番分厚いヤツに夏の祭りがどうのって……」

「ひ、姫! 勝手に人の荷物を開けてはいけません!」

「勝手にじゃないよ、天音さんに開けていいですかーってきいたらいいですよーって……」

「あんな胡散臭いやつの言うことを聞いちゃいけません!! 大体、その荷物は私のではない!! やつの私物です!」

「えー、じゃあ下においでよー。天音さんまだ下の応接間にいるよ?」

「なんで……はあ……じゃあ行きますか……」

因みに天音というのは火星に物資を密輸入していると噂のアヤシイ宅配サービス経営者のことである。目本といちご星を繋いでいる宅配便も、ここが唯一である。リッカがこの前パソコンと苺への土産であるぬいぐるみを送ったのもこの会社だ。

「天音さーん、リッカを連れてきたよー」

アヤシイ商売をやっている人とは露知らず、無邪気に駆け寄る苺と、それに続くリッカ。拳を固めながら、それを必死で抑えながらであったが。

「あ、リッカきた。ちわーっすいつもご利用あざーす」

「それは客に対する言葉使いか? おい、どうなんだ」

緩い口調で声をかけてきた天音に既に髪も目も紅(あか)く光らせ低い声で応じるリッカ。

「いやー、リッカはなんというか・・・・・・クライアントっつーか同志という認識の方が強いもので……」

「まっとうな得意先だろ! 顧客だ、この国が!」

「えー、そんなこと言ってると届けてやりませんよ、色々と。わざわざ偽装までするのは面倒で面倒で……」

にへらと緩くにたつく天音にやましいところがあるのか、押し黙るリッカ。

「みゅ? リッカがなんか頼んでるの?」

何故か目の前にいるリッカ本人にではなく天音に尋ねる苺に、諭すような口調で天音は口を開こうとしたのだが……

「そんなことは知らなくていいですからおやつでも食べてきたらどうですか。ほらほら、地球に行くなら持っていくもののリストでも考えといてください!」

と、半ば強引に苺を応接間から追い出してしまった。

「あー、説明しようとしたのに……」

「しなくていい!!」

今までに何があったのかはさて置いて、そういえば要件を聞いていなかったことを思い出したリッカは今更ながら尋ねた。

「そんなの! 目本へ行って夏の祭典に参加するために決まってるだろ!」

「知らんよそんなもの! 大体なんでこっちに来る必要があるんだ!」

「なんでって……知り合いに男の娘がいるというのに、利用しない手はないだろうと……」

「誰だ! そんなことを言った奴は!」

「ダラス」

「だと思ったよ!」

というか、それ以外考えられるわけがない。彼は自称苦労人の林檎の同僚で、いつも暇さえあればリッカに嫌がらせを仕掛けてくる。とどのつまり暇人だ。何故なら、自分の仕事をうまいこと言って部下や林檎に丸投げしているからだ。そして何故かその被害にリッカも遭っている。主に林檎の八つ当たりという形で。

「まあまあ、落ち着けよ」

「落ち着いていられるか! あととっとと帰れ!」

「えー、いいだろ別に。明日には行きたいんだよな。泊めてくれよ、帰るの面倒くさい」

「部屋は貸さないからな! 大体お前みたいなのを城で寝泊まりさせるなど……」

「危ないって? ならお前の部屋でもいいぜぇ?」

「断固お断りだ!」

「なんでだよ、つれないねえ……明日の準備手伝うからさあ……」

「む……」

天音にも分かっていたのか、その提案はリッカにとってかなり魅力的なものだった。

「ほら、お前これから姫とかの浴衣やらなんやらどうせ作らされるんだろ? ならその間俺が相手してやれるし、荷造りもさせられるし。メリットだらけだぜ?」

「…………分かった、俺の部屋の簡易ベッドを貸してやる。でも頼むから大人しくしておいてくれ……」

「よっしゃっ! 了解だぜ執事さん!」

「ならそこに散らばる荷物の類もちゃんと片付けてくれよ、俺の部屋に置いといていいからさ……」

今日も執事の苦労は絶えない……。



「さて、明日出発って無理あるよな……やるしかないんだろうが……。じゃあまず荷造りリスト作って、目本に連絡入れて、手土産作って、浴衣作って……作ってばっかりか……。まあまずは天音の世話しないとな……一応客人だし……」

ブツブツと予定を組み立てながら部屋へ戻ろうとすると

「こんにちは! フラワーショップキラ星の皐(さつき)でーす!」

いちご星御用達の花屋の店員、皐がやってきた。

「ああ、いつも配達ありがとう……って何か頼んでましたっけ?」

「ああ、今回はプレゼントです。うちの萌(めい)がリッカさんにって。受け取ってくれますか?」

「あ、ああもちろんです。ってなんで私に……?」

「あ、あーそれは……開けてからのお楽しみってことで……」

「はあ……まさか、毒性のある植物とかじゃないですよね……」

「そんなことは絶対にありません! とにかくこっそり一人きりで見てあげてくださいね」

「わ、分かりました……。あ、そうだ。明日地球へ行く予定なのでまたよろしくお願いしますね。と言っても私は別行動かもしれませんが……」

「あ、ホントですか? 明日定休日だし、ぜひ遊びに来てくださいね! では失礼します」

皐は優しいほほ笑みを終始たたえつつ、そのまま去っていった。

「プレゼントって……なんだろうな……あとにしよう……」

とりあえず包みを厨房近くの隠し扉――リッカしか知らない――の中にいれ、部屋へと戻るリッカ。



「お、戻ってきたか。それよりお前の部屋どうなってんだよ……コスプレの衣装ばっかりじゃないか」

にやにやと笑いを貼り付け部屋に戻ってきたリッカに声をかける天音。

「勝手に人のクローゼット開けるな、あとそれは全部ダラスからの嫌がらせだ」

「あれ、全部姫とかに渡していたんじゃなかったのか?」

「大概はな。でもさ……こんな衣装渡せるか?」

リッカは天音が漁っているクローゼットの奥の方から制服と思しきものを取り出し見せた。

「ちょっ、これあのアニメの……」

「俺は知らないが、こんなもの渡せるか? 無理だろ? だからこうやって溜まっていくんだ……いつか処分しようとは思っているんだが……」

「えー、もったいない。そんだけのクオリティのモンだぞ?」

「いらないもの持っていても仕方ないだろ……」

「じゃあさ! お前コスプレしろよ!」

「嫌だよ! なんでそういう結論!?」

「え? お前の素材もいいし、衣装も完璧だし……」

「だからといってやる必要ないだろ!」

「白髪でショート……ふむ、あのキャラと……あれもいけるな……」

「無視すんな!」

なんだかんだで息の合っている二人であった。



「あーもう、じゃあとりあえず荷造りリスト作ってみたから姫とかの手伝いしてやってくれ」

「らじゃったー。あ、目本にも連絡いれとくぜ? もっとも、ダラスは知ってるがな」

「ああ、ありがとう。助かるよ……」

「じゃっコスプレの件は頼んだぜぇ! 衣装は決めてあるから覚悟さえ決めてくれればいいよ!」

「……ちっ、分かったよ……ただし、普通のにしただろうな? 一応俺男だからな?」

「わかってるってーあんまりなのにすると絶対拒否るからその際どいところをつけたと思う!」

「はあ……」

こうして、リッカはコスプレを余儀なくされ、平和な日曜の大半を浴衣作りと手土産作りに費やすのであった。



「……ふう、手土産はこれでいいか」

数時間後の厨房には大量のスイーツが並んでいた。どれも目を見張るほどの出来である。

「時間なかったからマカロンとか作れなかった……ホント急すぎる……」

ぐちぐちと後片付けをしながら文句を垂れる執事。

「ふう、じゃあ次は浴衣か……どうするかな……五人分? 生地はいいとして、デザインだよな……」

「あ、リッカ様! 浴衣作ってくださるんですよね? 天音様から聞きました! あのですね……」

厨房からでて廊下をとぼとぼと歩いていたリッカに神華(みか)が駆け寄りつらつらと自分の計画を話し出した。それを無表情で聞くリッカ。

「じゃあ、そんなわけでお願いしますねー私たちは天音様と荷造りしてますから!」

言いたいことだけ言って颯爽と来た道を駆けもどる神華を無言で見送るリッカ。

「はあ……やるか……」

神華がガトリング砲のように喋っていった内容を反芻しながら材料置き場へと重い足取りで向かっていくリッカの姿は悲痛なものを感じずにはいられないものがあった。



それから、また数時間。既に日は西に大きく傾き――と言ってもいちご星内の太陽の明るさが変わっただけなのだが――夕食時まであまり時間がない。

「リッカー、浴衣できた? あとお夕飯は何かな?」

今日一日の苦労を知らない苺は無邪気にリッカの作業室を訪ねた。

「ああ、姫。ちょうどできましたよ、これ」

少し、少しだけ疲れた声音でリッカは苺のために作ったフリルたっぷりの和服とドレスの合いの子のような浴衣を差し出した。

「わー! 可愛い! ありがとうリッカ! やっぱり天音さんのいう通りだったよ、リッカはやっぱり凄いね!」

「あ、ありがとうございます……」

さっきよりずいぶんと安らかな顔つきになったリッカにお夕飯よろしくねっと手を振って出て行った。と思いきやまた戻ってきた。

「お姉様のってどんなのなの? ちょっと気になるんだけど」

「ああ、林檎様のはですね……」

と、紫色が艷やかな浴衣を苺の前に掲げるリッカに、苺が絶叫した。

「お姉様のやつと同じのがいい! 色違いで作ってよ!」

「え、えー……」

実は、作りながらそんな予感はしていたのだ。それでも現実から目を背けたかったリッカは結局面倒ごとを引き受けることになってしまった。

「作ってよー、ねえお願い!」

「……そしたらお夕飯が遅れますよ? いいのですか?」

「う、うー……」

涙目でプルプル震えながらリッカを見つめる苺を、悪魔、いやあくまでリッカは冷静に見つめ返した。

「あ、飯なら俺がつくりますよ、姫」

その時ひょいと顔を出したのは天音だった。

「え? 作ってくれるの? やったー! じゃあリッカよろしくね!」

そして今度こそ苺は出て行った。

「お前、料理できんのか?」

「お前ほどじゃないがかなりの腕だぜ?」

「……そうか、じゃあ任せた。くれぐれもメイド三人には手伝わせるなよ」

「ん? なんで?」

「あの三人はな、どんな料理も毒物に変えるスキルを持ち合わせているんだ……それはそれは恐ろしい能力で苺のトラウマになっている」

「そ、そうか……分かった、気をつける」

天音も顔を引きつらせて出て行った。

「じゃあ、色違い作るか……お揃いもーっとか言いそうだからそっちも作らないとな……」

執事の苦労の日曜はまだ続く。



浴衣を作り終え、夕食の席へ。夕食は既に終わりかけであった。

「あ、遅かったねリッカ。デザート食べてるところだよ。天音さんってお料理上手だね、おいしかった!」

「いやあ、リッカの料理にはかなわないですよ、姫。喜んでいただけて光栄です。デザートもお口に合いましたでしょうか?」

「うん! 美味しいよ!」

「それはよかった。あ、リッカの分の夕食もあるぞ? すぐ用意できるけど?」

「ああ、有り難い。ちょっと片付けだけしてくるからその間に頼む」

「了解した、お疲れ様」

リッカに労いの言葉をかけ、厨房へと天音は消えていった。

「姫、浴衣ができましたがどういたします?」

「着る! お揃いのやつ?」

「ええ、一応」

「私たちも見に行ってもよろしいですか?」

苺とリッカの会話を聞いて三人のメイドの一人、聖華が尋ねてきた。

「ああ、もちろん来てくれて構わない。一度着てもらいたいし」

「「「分かりました!」」」

三人仲良くいい返事で答える。さすが三つ子なだけあるというべきか。

「じゃあ早速行こうよ!」

「口にクリームをつけたまま行かれるおつもりですか、姫」

張り切って飛び出そうとした苺に冷静に注意する優(ゆう)華(か)であった。



「どうかなリッカ!」

「……ないわー」

「ええ!? 酷いよ!」

あんまりなリッカの反応に衝撃を受ける苺、しかし苺の恰好の方がよほど衝撃的である。

 今、苺はリッカが作った林檎とお揃いの浴衣を着ていた。なんというか、苺の幼い容姿とミスマッチして、そう言うなれば……

「……これは事件レベル」

「違うよ!」

神華のつぶやきにも律儀につっこむ苺だが、誰も耳を貸さない。似合っている、似合っていないの問題ではなく、こんな恰好で出歩かせるわけにはいかないと誰もが思うであろう姿。

「いいじゃん! 大人っぽいし! お姉様とお揃いだし!」

「いや、確実にアウト……」

「じゃ、じゃあこっちの色違いで!」

「……まあ、いいでしょう。じゃあよろしいですか?」

「うん!」

だなんて無邪気に頷く苺を見て、リッカはかすかな罪悪感を覚える。実は、色違いといっておきながら微妙にデザインが変わっているのだ。どうせ事件になるのだから最初から手を打たねばならなかったのである。苦労を回避するためには仕方がなかったのだが、それでも胸が痛んだ。

「うにゅ? どうかしたのリッカ?」

思わずこわばってしまったリッカの顔を見て苺が無邪気な瞳で尋ねる。

「ああ、いえ……なんでもありません。少し疲れただけです……」

「リッカ様ー、私たちの分もバッチリです! ありがとうございます!」

丁度神華が浴衣のチェックを終えて、話しかけてきたので、リッカはとてもありがたかった。

「大丈夫だったか、よかった。じゃあ私は夕食を摂ってくるからその間頼んだぞ」

「はーい、了解です!」

こうして、苦労の日曜始まって以来の休息の時間を得たリッカであった。



「いやー、お前も一日大変だったな。今更だが悪いな、押しかけてきて」

「今更すぎるだろ……いや、でも助かった。感謝してる」

「そうか、ならいいけど。そうだ、明日の出発時間って何時だ? イベントはパス持ってるから並ばないで入れるけど……七時には行きたいところだな」

「……正気か? SAN値大丈夫か? なあ、俺は犬か馬か、はたまた奴隷か?」

「いや、で、出来ればそうして欲しいかなーなんて……」

急に引け腰になる天音。それもそのはず、リッカの目は既に紅くちらつき眩い白髪も今では燃えるような紅に染まり始めている。

「……ふん、いいよ。やってやるよ、ここまで来たらなんでもやってやる……!」

リッカはついに不貞腐れてしまったようだ。

「そういえば皐さんがなんかプレゼント置いていったな、なんだったんだろう。ちょっと見てくる」

「ん? ああ行っといで」

隠し扉にたどり着き、中の包を出す。

「なんだろう、これ……赤い薔薇の花……?」

包には沢山の赤薔薇が。そして持ち上げると何かが落ちた。

「……カード? 萌さんからだ。えーっと……お仕事ご苦労様です、か。ありがたいなあ」

今日一日の苦労を思い出し、リッカは萌の優しさが心に染みた。

「なんだったんだ? ってその薔薇どうした?」

「ああ、プレゼントってこれだったんだ。萌さんからだとさ。仕事お疲れさんってカード付き」

「へー、よかったな」

天音は赤薔薇の花言葉をリッカが知っているか聞こうとしたが、言わないほうが面白そうなのでやめた。そしてリッカはそんなことには微塵も気がつかずに薔薇を応接間の大きな花瓶にいけた。



「出発は明日の早朝なので今日は早めに寝てくださいね。莱夢(らいむ)様もネットばっかりやってないでとっとと寝てくださいね?」

「……莱夢、目本に行かないもん」

「え?」

明日の予定が決まり、苺やメイド達に説明していると苺の妹である莱夢が衝撃の発言をした。

「桜お母様とお留守番するって決めたんだもの、ちゃんとお勉強しないと林檎お姉様に叱られちゃう。会いに行きたいけど、我慢する」

「え……い、いいんですか? 本当に……?」

「いいの! 莱夢はお留守番なの! その代わり!」

ビッとリッカに指を突きつけて言い放つ。

「莱夢はちゃんといい子でお勉強してますって林檎お姉様に伝えること! 忘れたらリッカのパソコンクラッシュしてやるんだから!」

「あーはいはい、分かりました。了解しましたよ……」

何かを諦めたような口調のリッカに対して、苺は納得いかないといった口調で文句を言いかけたが妹の凄みのある目つきに怯み押し黙ってしまった。

「えーっとじゃあ参加メンバーは六人でよろしいでしょうか? では各自荷物を忘れないようにしてくださいね、頼みますから!」

「「はーい」」

返事は優等生の五人である。



翌日の早朝、太陽が白む少し前。

「全員の搭乗を確認。皆様おはようございます、昨晩はよくお眠りになられましたか?」

「「……すー……すー……」」

「「全員既に爆睡!?」」

そう、あまりに朝が早かったため操縦を担当するリッカと天音以外座席に座って一分以内に睡魔の猛攻に屈してしまったのだ。城の朝はゆっくりなのだ。 何故なら早く起きすぎるとリッカの邪魔になるから。因みに、莱夢と桜女王は見送りに来なかった。地球へ行くくらいで見送りをしていられないのであろう。

「……じゃあ、行くか」

「おう」

操縦者組はそれだけの言葉を交わし、果糖の力でロケットを離陸させた。



数時間後、目本の大使館の横に見事な着陸を終えて、リッカと天音は荷物を運び出していた。

「結局誰も起きなかったな」

「熟睡にも程があるだろう……」

操縦者組は少しばかり疲労の色が見える。と、そこへ林檎とダラスがやって来た。

「おはよう、二人とも。お疲れ様、また妹のわがままに付き合ってくれて」

「つーか連絡昨日だぞ? 冗談で言ったのになんとかなるもんだな」

「冗談って……ダラスお前……」

「……いい加減リッカが不憫だな。可哀想に」

天音の顔がリッカの不憫さに引きつっている。

「まあ、それはいつものことだからさて置いて。ほかのメンツはどうした?」

「ああ、まだ機内で爆睡中だ。呼んでこようか?」

「いや、いいよ別に。あいつら、というか主に苺がいると煩いし。それより天音、リッカの衣装の件は?」

「おお、バッチリだ! さてリッカ、覚悟は決めたか?」

「ああ、もうどうにでもしてくれ……」

不憫な子、リッカは諦めたようだ、色々と。

「あ、林檎様。手土産としていくらかスイーツをお持ちいたしました」

「おお、気が効くな。毎回毎回ありが……」

「おっし! じゃあもう行くか!」

手土産を渡した次の瞬間にはテンション急上昇のダラスに引きずられるようにしてリッカは傍に止めてあった車に乗せられて連れ去られていった。

「誘拐事件……?」

ひとり取り残された林檎は呟いた。そしてスマホ、通称林檎携帯で呟きもした。



「さーて、リッカさんや。この衣装を着てもらおうか」

「おい、なんだその衣装! ちょっ、おい! やめろぉおおおおお!!」

運転を任された天音は、ダラスに取り押さえられるリッカに心底同情しつつも、同時にダラスグッジョブとばかりに賞賛もしていた。そしてイベント会場へと車を走らせるのであった。



「すー……すー……っは!」

 ロケットの中、いち早く目を覚ましたのは苺だった。

「ねむー……ってもう目本着いてる? リッカいない……」

ぽけーっとしながら機体から降りる。そこには……

「わーい! お姉様だ! おはようございます!」

「おはよう、朝から煩いなあ苺は」

「うん、お姉様に会えたから元気になった!」

「じゃあその勢いで駄メイド共を起こして来い」

「わかった!」

さらりと暴言を吐いた林檎の言葉に素直に従う苺。そしてロケットの開け放した扉から三人の嬌声、いや奇声が響いてきた。数十秒後、少し髪の乱れた駄  メイド……メイドが降りてきた。

「おはよう、役立たずのメイド共」

「「「……おはようございます、林檎様」」」

「そういえばリッカはどこ?」

「ああ、今しがた誘拐……いや、ダラス達と出掛けた。お前たちが寝こけている間に。でもほら、手土産を置いていったぞ……お前たちが寝こけている間に」

「に、二回も言わなくても……」

「いやーリッカは凄いなーこれだけの仕事をほぼ一人でやってきたんだから。操縦までやってなー……お前たちが寝こけている間に」

「「「「……ごめんなさい」」」

「ふん、まあいい。じゃあリッカの手土産でも中で食べながら今日の予定を決めようじゃないか」

「あ、お姉さま! 私はねー……」

「中にはいってからだといっただろう、目本語通じてるか?」

「うう……はーい」

沈み込んだメイドに代わり、苺が張り切って声をあげるも冷静にいなされてしまう。



「もぐもぐ……で、どうする?」

リッカの作ったスイーツを食べながら林檎が尋ねる。そこへ苺がさっき言いそびれた提案を口にする。

「あのね、プール行きたいんだけど!」

「え、面倒だから却下」

「何で!? 泳ぎたいもん! プール! プール!」

「あーもう……分かったから静かにしろ。メイドはそれでいいか?」

「「「「……はい」」」

まだまだ沈んではいたが、プールへ行くことに決まって少しだけ元気になったメイド三人であった。

***

「そういえば、苺を埋めた時の花屋の定休日って月曜日じゃなかったか?」

 林檎が、呟くように聖華に尋ねた。聖華(せいか)は手帳を見ながら答える。

「そうですね……誘いますか?」

「さ~んせい! 人数多い方が楽しいもんね!」

聖華の相槌に、苺が真っ先に賛成する。周りの皆も、異論を唱える様子はない。

「では、誘うか」

一行は大使館を後にした。



 二十分後。皐と萌を加えた七人は、到着したにもかかわらず未だにプールに入れずにいた。

「完全に想定外でしたね……」

「まさか場所取りできないなんて……」

 神華と優華が顔を見合わせる。

 そう、彼女らはあっさりと入れたにも関わらず場所取りができずにいるのだった。その上、美人・美少女揃いなため、かなり目立っていた。

 まず、苺星姉妹はそれぞれビキニとツーピース。苺は林檎と一緒が良いと言っていたが、ちょうど良いサイズが見つかるはずもなく、諦めて比較的色目の同じものを選んだ。

 神華は露出多めのタンキニ、聖華は露出の少ないタンキニ、優華はビキニにパーカーを羽織っている。

 皐と萌はお揃いのビキニ、もちろん色は水色とピンクだ。デザインが派手だからと、皐はTシャツを着ている。

「あの……」

 大人たち(メイドと林檎だ)が諦めようかと話していると、誰かが声をかけた。

「はい、なんでしょう?」

 基本的にこういう時の対応は神華の十八番だ。それは世話をしている莱夢が迷惑をかけた先に謝りに行ってばかりだからなのだが、今回はそれに関しては記さないでおくとしよう。

「よろしければ半分お使いになりますか? 主人と子供は戻ってきそうにありませんし、そちらのお嬢さん、しんどそうですよ」

 そちらのお嬢さんとは苺のことだった。

「まあ、構わないのですか? ご主人やお子さんが帰ってきてしまわれると狭いのでは?」

「大丈夫です、それよりお嬢さんが心配で……。それに、こう言っては何ですけど、あなた達のような綺麗な方たちが隣にいらっしゃるとなれば、主人も喜びます」

「そうですか。お気遣いありがとうございます。皆さん、こちらの方が場所を半分譲って下さるそうです」

 神華が声をかけると、皆口々に礼を言った。

「では、私は荷物番をするから遊んできなさい」

「えーっ、お姉さまとも遊びたいー」

苺が頬を膨らませたが時すでに遅し、林檎は折りたたみ椅子をスタンバイし、お菓子まで装備していた。

「日焼け止め、良かったら使ってくださいね」

 そう言って神華は鞄から日焼け止めを取り出した。

「良かった、日焼け止め忘れちゃったんです。全く、皐が急がせるんだから」

「えーっ、私のせい? てか、苺星の皆さんも日焼けするんですか?」

 神華は明後日の方向を向いている。それを見て日焼けしない事を悟ったが、皐も突っ込まないほどには大人だった。

「そうだな……聖華、皐と萌について行ってやれ。神華と優華は苺だ。ナンパを追い払ってほしいからな。自分達がナンパされないように気をつけてくれ。それぞれどこに行く?」

「わたしはあれ乗りたい!」

 そう言って苺が指差したのは、

「あれですか……」

「みたいですね……」

問答無用で『恐竜の滑り台』だった。そう高くもなく、傾斜も緩い、小さい子供たちが順番争いをしているアレである。

「……神華、優華。頼んだぞ」

 林檎も苦笑気味だが、止めるつもりは無さそうだ。

「「分かりました」」

 三人が行ったあと、萌が林檎に声をかけた。

「林檎さん、私達は流れるプールで浮いてることにします」

「分かった。聖華、二人を任せたぞ。というか主に皐だが」

「了解です」

「待ってください、なんで主に私なんですかぁー!」

 皐の悲痛なツッコミは華麗にスルーされた。

「行ってきまーす!」



 恐竜の滑り台のあるプールでは、苺が犬かきや滑り台に興じていた。そしてその横では、神華と優華がプールの端の方を陣取って世間話をしていた。

「目本の政治ってどんな感じなんでしょうねぇ」

「噂によると、毎年総理大臣を変えるという制度ができたとか」

「えっ? 目本の友達と文通してますけど、そんな話どこにも書いてなかったですよ」

「じゃああの噂は間違いなんでしょうか」

「案外、何もしてないのに信用なくして変わっちゃったのかもしれませんよ」

「確かに、ありえない話ではないですね」

と、こんな具合である。

 ふと、周囲を見回していた神華が名案を思いついたとばかりに立ち上がった。

「優華、私達でかき氷を食べませんか?」

「良いですね! 買ってきてもらっても良いですか?」

「分かりました。味はどうしましょう?」

「じゃあ、メロンでお願いします」

「はぁい」

 神華は売店の方へ駆け出していった。



 五分ほどして神華が帰ってくると、事件が起こっていた。

「みかでもゆーかでもどっちでも良いから助けてえええええええええええ」

 珍しく優華がプールの傍でおろおろしていた。どうやら苺が滑り台からうまく着地できず溺れてしまったらしい。メイド3で一番泳ぐのが得意なのは優華だが、救助が得意なのは神華なのだった。

「神華、苺様を!」

「はい、かき氷お願いします」

 そう言って神華が飛び込んだ。このプールは飛び込み禁止だが、それを完全に無視してしまっている。数十秒で、鮮やかな手際で苺を引っ張り出した神華が優華のもとに戻ってきた。

「苺様、大丈夫ですか?」

「ふにゃ……だいろーふ」

  苺が中途半端に噛むのは日常茶飯事なので、二人とも突っ込まなかった。

「よし、大丈夫ですね。優華、かき氷はどこですか? メロンがなかったのでレモンにしてしまったのですが……」

「それが……」

 少し困ったような表情をした優華が指差した先では、林檎がかき氷を食べていた。レモン味は食べ終わり、ブルーハワイ味を食べ始めている。

「あちゃあ……私のブルーハワイが……」

「おねーさまーかき氷ちょーだーい! 」

「ふむ……あーん」

「ふぇぇ、自分でたべれるぅ」

 メイド二人は、時にニコニコ、時に苦笑といった様子で二人を見守っていた。



 同じころ、流れるプールでも萌が溺れていた。

「皐のばかぁー……ぐすん」

 どうやら、皐が、流されていた萌が乗っていた浮き輪を勢いよく引っ張り、落ちてしまったようである。ちなみにこちらでは聖華が救助したようだ。

「萌さん、唐揚げ買ってきたのですがいりますか?」

「あ、ありがとうございます、いただきます。全く、聖華さんはこんなに優しいのに。皐ったら」

「比べないでよー、聖華さんはメイドだよー?」

「それでも同じ女の子としてどうなのよー」

 このままでは本格的な喧嘩に発展しそうなので、聖華が仲裁に入った。

「皐さんも萌さんも唐揚げでも食べて落ち着いてください」

 あっさり落ち着いた二人は、十分ほどで完食した。

「そろそろ林檎さんのところに戻りますか? ビーチボール持ってきたので、それでも遊びたいです」

 皐の提案に、二人とも頷いた。

「じゃ、早く戻りましょう」



「ただいま戻りましたー」

「お帰りなさい、早かったですね」

 皐の挨拶に優華が答える。

「皆さん、ビーチバレーしませんか?」

「やりたいな、ビーチバレー!」

 萌がビーチボールを出してきて言うと、苺が真っ先にボールを奪い取った。

「苺様、勝手に人のものを取っちゃいけませんよ」

 すかさず聖華が注意する。

「はーい、ごめんなさーい」

「良いんですよ。で、どうしましょう? どこでやりますか?」

「あのプールはどうでしょう?」

と、神華が指差した先には、比較的浅めの子供用プールがあった。

「ああ、良いと思うぞ。遊んでいる子供たちには少々申し訳ないがな」

「では、行きましょう」



「せーいかー、もっとちゃんと取ってよー!」

「す、すみませんっ」

「神華さーん」

「はいっ、皐さん! ……苺様、大丈夫ですか?」

「皆元気だねー……」

 たくさんいたはずの子供たちを皆流れるプールに追いやり(林檎流に言うと『もっと素敵なプールを教えてあげた』そうだ)、ビーチバレーを始めた七人だが、早速苺が暑さでダウンしてしまったようだ。

「この後お祭りにも行くわけですし、そろそろ退散しますか? 浴衣着なきゃいけませんし」

 聖華の提案に、皆頷いた。

「苺、行くぞ、ほら」

 林檎が体を揺するが、反応はない。どうやら眠ってしまったようだ。

「っと、仕方ないな……。リッカがいれば運ばせるのだが、今はいないしな。私が背負うことにしよう」

 林檎が背負おうとしているのを見て、急いで優華が声をかけた。

「林檎様、私が背負いますから」

「いや、お前たちでは潰れてしまうだろう。早く行くぞ」

 苺を背負った林檎と、分担して林檎の荷物を持った六人は、プールを出て行った。

***

プールを出てしばらくしてから、林檎の自慢のスマホに着信が入る。

「リッカだ。どうしたんだろう」

林檎は苺を起こして自力で歩かせてから電話を取った。寝起きの苺が何かを察して心なしかおびえている気がするが、やましいことがあるからではないということにしておこう。

『もしもし、林檎様ですか』

「ああ、そうだが……何かあったのか?」

『いや、今気づいたのですが浴衣を渡しそびれていましたので、天音に届けさせて花屋の梟神(ふくのかみ)に預けておきました』

「ああ、そうか。わざわざ済まない。じゃあ今から花屋に向かう」

梟神? と疑問を抱いている人には、

『せーーっつめいしよーー!』

かっこよくポーズをキメた花屋の双子に説明をしてもらおう。

「梟神とは、私たち花屋のペットである!」

「しかしただのペットではなく、苺星を統括する神なのである!」

皐と萌がテンポよく説明をする。

「関西弁で流暢にしゃべるししっかりものだが、勝手に苺星を抜け出すのである!」

「梟神がいないときは、海豹(ごまの)命(みこと)や熊(くまの)君(きみ)が統括を行っている!」

萌が説明を終えると、ありえないほどの爽やかな笑みを浮かべた皐が、さて、とみんなに振り返る。

「では浴衣を着にいきましょっか!」

全員がそれに、テンション高く返し、歩き始めた。



「そういえば花屋のお二人は浴衣の試着事件のこと知りませんよね?」

歩きながらふと、神華が聞く。

「試着、事件ですか?」

萌が首をかしげる。

「ええ、いや、実はですね、浴衣をリッカ様が作ったとき、少し事件がありまして」

優華が苦笑いで苺の方を見る。

「えええ、ちょ、ちょっと! あれを事件っていうなんておかしいよ!」

「その事件なんですけどね、」

「どうして事」

「苺様がお祭りに行くなら浴衣が着たいと仰いまして、」

「事件じゃな」

「それで浴衣を作ったんですけどね」

『事件』という表現が気に食わなかった苺が必死に抗議しているが、そんなことなんて全く気にせず聖華が話を続ける。

「だぁかぁらぁ人の話を聞」

「最初はフリルつきのものを作っていたんですよ、ネタで」

「ちょーっと待った! 今小声で何か言った!」

「ですが林檎さんの浴衣を見た苺様が、ぜひ色違いにしてくれと駄々をこねましてね」

またも苺が無視され続けているが、花屋は先が聞きたいので気づかなかったことにした。

「それでしょうがなくもう一度作ったのですが、それがもう、なんというか大人っぽすぎてですね、」

「何が悪いのよ!」

「なんというか、この容姿であの浴衣はもうまさに事件というか……」

ここで耐え切れず苺が声をはりあげた。

「聖華ひどいよぅ! にゃああ!」

しかし、メイド3は白々しく明後日の方向を向き、花屋は笑い上戸に陥ったため気づかず、林檎は意味深に親指を立てるのみだった。



苺の一人むなしい抗議を華麗にスルーしている間に、花屋についた。皐と萌にうながされて全員が裏口から入るや否や、ハキハキした関西弁が聞こえてくる。

「おお、皐も萌もやっと帰ったんか。全く、急にやな、長身の客が来たと思ったらあの凶暴リッカの一味の天音とかいうやつでな、しかも五人分の浴衣をやで? 五人分やで? 急に運べとか言われてやな」

「はいはい、お疲れ様でした」

ぴらぴらと手をふりながら適当に萌があしらう。梟神はせめてもの抵抗に羽をばたつかせたが、あとから入ってきた苺星民もあえて無視して部屋の奥へ歩いていく。苺と二人で被害者の会だのなんだの言っているが、きっと幻聴だと全員がスルーした。



その後林檎がなんとか苺をなだめ、全員で着替え始めた。慣れた手つきでさっさと大人っぽい紫色の浴衣を身にまとった林檎が、みんなの着替えを手伝いながら感想を言う。

「花屋は水着もそうだったが浴衣も水色とピンクなのか。もうもはやトレードマークだよな、その色」

「はい、死んだ母親が作ってくれたエプロンが懐かしくて、気づいたらこの色に手が伸びるんですよね」

苦笑して萌がそういい、少ししんみりモードになりかけたが、それがことごとく苦手な皐が、萌を茶化してもとの空気に戻る。

「メイド3はなんでも似合うよなぁ。さすが観賞用メイド」

『お褒めに預かり、光栄でございます林檎様!』

メイド3が綺麗にハモるが、はたしてそれは本当にほめられているのだろうか。観賞用というところにいやみが感じられたのは気のせいではないはずだ。

そして林檎は、思わせぶりに苺の方を見……

「みんな着たか、この近くに会場があるらしいから行こうか」

「お姉さまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

苺は、驚異的な速さでスマホを打鍵しながら出て行った林檎を必死に追いかけていった。あとに残ったメイド3が、皐と萌に、

「行きましょうか」

と、苦笑いでうながした。



少し小走りでメイドと花屋が追いつくと、苺は満面の笑みを浮かべていた。

「あのねあのね~! お姉さまがわたあめ買ってくれるの~! えへへ、わったあめわったあめ~!」

めっちゃ機嫌回復してた。びっくりするくらいハイテンションだった。花屋はあきれてものも言えなかったが、メイド3はこんな事態にはもうなれているらしく、

「私は金魚すくいがしたいです!」

と、神華。

「光る腕輪が欲しいです!」

次は綺麗なものが好きな聖華。ちなみに好きな花は白百合である。

「メロンのかき氷食べたいですね。さっき食べ逃してしまいましたし」

そして優華。プールで林檎にかき氷を取られたのが悔しかったようである。

……慣れているのではなかった。ただひたすらにテンションが高いだけだったようだ。しかし花屋も持ち前のノリと順応力を生かし、

「萌! ひっさしぶりにヨーヨー釣り対戦やるぞ!」

「うぉっしゃぁ! 手加減せんぞー!」

「ヨーヨーって苺色以外もあるんですか! 楽しみですね!」

「でもあれ、空気抜けたらただのゴミ……」

『夢を壊すなぁぁぁっ!』

あれやこれやと騒ぎまくるのを、

「はいはい、近いところから全部回るからね」

『はぁい』

何かを諦めたような顔をした林檎が、まとめにかかった。しかし、何かがおかしい。

「おい、みんな、今の『はぁい』に、苺の声は混じってたか?」

「あれ?」

勘の鋭い林檎が指摘すると、全員が確かに聞かなかったと騒ぎ出した。

「苺(様)!?」

苺は、忽然と姿を消していた。

「着いて一分で迷子かよぉぉぉぉ」

林檎が頭を抱えて悲痛な声で叫んだ。普段冷静な林檎がそう叫んだことで周りもパニックになり、

「どうしましょう! 誰かリッカ様を!」

「今の話だとわたあめの屋台とかに居そうなものですよ!」

「わたあめは複数店舗あるみたいなんですけど、どうするんですか!」

聖華、神華、優華が順に叫ぶ。三人とも抱き合って半泣きだ。

「リッカさん呼んだほうがいいよ!」

「私ちょっくら屋台見てくるぅ~~~!」

皐は手をチョキにすると足が速くなるという迷信を信じながら飛び出して、わーわー叫びながらも皐よりは落ち着きのある萌に首根っこをつかまれ引き止められている。

しかしそうやって周りがパニックになったとたんに冷静沈着な元のキャラに戻ったらしく、林檎がただ一言、

「リッカに電話するから落ち着け」

そうのたまった。

***

異様なほどに熱気の篭もるイベント会場内で、リッカはセーラー服に黒スト、さらに手には半額シールの貼られた弁当を持たされていた。ショートカットかつ白髪、更に容姿は完全女の子。こんな貴重な人材を逃してなるまいとダラスと天音が強制的にコスプレ会場へ連れてきたのだった。もうリッカの目は死んでいる。

「はあ……何やってんだ……」

「すいませーん、こっちお願いしまーす」

「ほらほらリッカ、笑顔だ!」

「……殺す、いつか殺す」

カメラを向ける集団に向かってとびっきりの営業スマイルを振りまきつつもその集団の向こう側にいるダラスと天音に殺気のこもった視線を送るリッカ。

 そのとき、リッカに電話が掛かってきた。

「もしもしリッカですが、林檎様何か?」

『ああ、リッカか。実はな、苺が既に迷子で……』

「すぐ行きます」

リッカは目にも止まらぬ速さで会場を出て行った。……着替える間もなく。

***

「苺姫、大丈夫ですか!」

遠くからリッカの声が響く。少し安心した花屋が、ふざけて 

『こ、この声は!』

と刑事ドラマに出てきそうな犯人のようなポーズを決めた。

「花屋さん元気ですね……」

呆れるリッカの肩からダラスが顔を覗かせる。

「やっぱり迷子か……さすが苺」

しかし皐はそれよりも気になるものがあった。

「リッカさん……なんちゅう格好してるんですか……。完全女の子じゃないですか。何してたんです? 全く、萌が幻滅するじゃないか」

リッカはしばし硬直した後、

「そ、そんなのはどうでもいいじゃないかハハハ」

誤魔化せていなかったが、萌が

「皐、今はいいでしょう、緊急事態よ」

とフォローする。リッカはふう、と汗をぬぐった。

「何か手がかりはあるんですか」

メイド3の中で唯一冷静になった優華がリッカに尋ねる。

「ああ、それなんだが、ひとまずこの間のように地下には埋まっていない。安心しろ」

それを聞いて、メイド3が安堵のため息をもらした。

ちなみに『この間』って? と思っている方には

『せーーっつめいしよーー!』

今回は少し出番多めな彼女らに説明してもらおう。

「この間、とは風船犬キミドリの書いた苺姫一作目のことである!」

「あの時苺姫は地下に埋まっていたため、メイド3は畏怖の念を抱いたのであるっ!」

皐と萌はビシッと指を指してウインクを飛ばす。

「あの時は本当にびっくりしました。私たちは苺星人と地球人のハーフですから光合成は出来ないのです」

聖華がそう言ったところで林檎が

「話がずれている」

ぼそりと呟いた。

「それもそうですね、林檎様。さて、さっき言っていたことの根拠ですが、今はもう夜です。植物は夜に光合成が出来ません。それと同じで苺星人もまた夜は光合成が出来ないのです。土にもぐったら最後、窒息死します」

『ほぉーーー!』

林檎を除く全ての人が感嘆の声をあげる。そういえば林檎も純血の苺星人だから光合成が出来るはずなのだが、リッカはまだ見たことがなかった。

「ではメイド3は屋台の捜索、特に甘いものを中心に探してくれ! 俺は一応その他食い物の屋台を探す。林檎様は迷子センターに行ってください。花屋の二人は屋台の裏など、地味なところで溝にはまったりしていないか捜索をお願いします。ダラスと天音は逝ってよsじゃなかったここで待機!」

『はい!』

リッカが何かを言いかけたが、綺麗にハモった声でかき消された。ダラスと天音だけがニヤニヤしていた。



一分後、狂気の速さで広い会場を探した全員が元の位置に戻っていた。そして、『いなかった……』

これまた狂気のシンクロ率で全員が呟く。ダラスと天音の表情がおかしいのにリッカはうすうす気づいていたが、いつものことなので無視していた。

……と、そこに。

「あれ~? みんないたぁー!」

『苺(様)!?』

全員が目をむく中、KYとして有名な苺は

「あ、そーだリッカぁーあのねあのね! 知らない人がわたあめくれたのーえへへ」

「え!?」

「えっと、あのねキツネさんのおめんかぶったひとだったのー」

『天音!?』

全員で天音の方を振り返った。天音はコスプレ会場ではキツネのお面をかぶっていたのである。

「え? ああ、いやぁみんなが探してる間にここに来たからさ」

ピキッと何かが切れる音が聞こえたのはきっとリッカだけではあるまい。しかしリッカが全員の真意を代弁した。

「もっとはよ言えやぁぁぁぁぁぁぁ!」



『もう、びっくりしたよぉー』

リッカがキレて炎髪灼眼モードになったあと、皐と萌が呟いた。

「まあ、苺姫が無事で安心したな」

もう普通の髪の色に戻ったリッカが笑った。

「でもさ、俺としては三日目までいたかったぜ。天音もそういうだろうな」

「ダラスも殴られたいのか」

天音はダラスの傍らでのびている。それを再確認したダラスは半笑いで手を振った。

「まあ、紆余曲折あったが、祭りは楽しいものだよな」

リンゴ飴を食べながら林檎が言う。

……リンゴ飴? 林檎?

目ざとく気づいたダラスが騒ぎ出す。

「うーわ! お前まで共食いかよ! 妹に偉そうに言えないな! とっもぐい! とっもぐい! しかもお前スマホはアップル社だろ!」

しかし当の林檎はしごく真面目に、

「ああ、これか。えーっと……これは別に共食いじゃないんだからね! 林檎の形をした栄養剤なんだからね! ……でいいのか?」

「えええええええええええ!?」

END







※コラボ小説です。
最初から、プールに行く手前までと、林檎とリッカの会話が風船犬キミドリ、プールのところが杏、それ以外がさつきです。

夏号 By深智

2012年06月27日
       2 後編
  
           ***
        
始まりの終わりの、続き。

           ***

 名探偵らしく嘘を暴きたいと思う。名探偵の彼女と同じ容姿を持つのなら、というこの感情は、果たして正しいのだろうか。
 嘘。同室になった奴は、あの時間の中で多大な量のそれを書き続けていた。例えばあたしのこと、今のこと、過去のこと。それを逐一洗っていくのは愚かな事この上ないから、重要なそれだけを日の目に晒そう。
 まず最初に断っておくが、あたしはヘリオスだ。本編と全く雰囲気が違うではないか、という非難をする者には哀れみの目を向けることにしよう。貴方は世界の常識を知らないで生きてきたようだ。知らないのか? 真実はいつも一つであるが、それを見た人間の感情は無数にあるのだ。それに、一人の人間の内面と外見が違うのはもう先の書き手が証明している。あの言動でこの感情、と何度驚いたことか。まあ、書いていることが真っ赤な嘘であるから、もしかしたらそれもそうかもしれない。でも、そんなことはあたしの知るところではない。
 話が逸れた。もうあまり時間が無いから、重要なところだけを告げることにしよう。
 要点だけを絞ると、書き手とあたしは同じ容姿ではなく、そして、こいつが書いたような「いかにも」小説くさい会話をしたことなど一度もない。むしろあたしの容姿は「名探偵」と呼ばれる彼女と同じであり、こいつとの共通点なんて性別とルームメイトである事ぐらいだ。どこからそんな発想が出てきたのかが不思議で仕方が無い。小説家ぶって私と自分という一人称を併用すれば面白くなるんじゃないか、なんて自己満足による嘘だと推測するが、どれもこれも失敗だと思う。まあ、言ってもこんなの、ただの古びたノートに成り下がる運命しか用意されていない手記だし、こいつの好きにさせてやっても良いところだが、さすがにここまでいくと注意書きを挟まなければ、という気分になる。忙しいのに、あたしは何をしているのだか。
 いや、完全に外れていた訳ではない。ここであたしの長い過去を語ることは控えておくが、確かあたしは昔、こいつの顔を真横で眺めたことがあるはずなのだ。よくわからない液の中にいた時、必死になって開かない目を開けたら見えた景色に、こいつの顔があった。あたしと同じように細い筒に入っていて、眼を閉じたこいつが何体も並んでいた。少しの間しか見れなかったが、目に映った光景があまりにも強烈過ぎて六年経った今でも覚えている。ここから考えるに、あたしは元々こいつと同じ容姿で、ちょっとごにょごにょあった時に今のもの――ようは名探偵の彼女――になったようだ。
 内輪話になって真に申し訳ない。でも、読書なんて特異な趣味を持たれるお方なら別にいいか。読者なんていつも登場人物達の生活をのぞくプライバシーの侵害者であるのだから、きっとこんな下世話以下の話にも興味を持たれるだろう。
 そんなあなたに朗報だ。今までの話は嘘八百の羅列だと今述べたが、ここから先、本編に戻った後のものは全てあたしの修正が入っている。明らかに嘘の部分は書き直して、そしてあたしにとって都合の悪いことは書き換えてある。だから、安心して先に進んで欲しい。肩すかしを食らうことはもう無くなって、信用にすがりながらページを読むことができるのだ。これはもう、十分な奇跡だろう? 

           ***

 開かなかった。
 すすり泣く声はドアに手をかけた途端に消えてしまった。
 出オチですまないが、ドアを押した瞬間、感じたのは鍵がかかったそれ特有の手ごたえと、消えてしまった疾走感の残り風だ。
「あれ……。おかしいわね……」
 そう首を傾げながら言った後、ヘリオスは自分にドアノブを譲った。そしてその感想がさっきの奴だ。
「いや、まあ、当然、ですよね……」
「なんでよ」
 強い口調に少し怯んだが、
「いくら寮室であれど、鍵ぐらい掛けておきますよね、普通。しかも今、夜ですよ。話しこんでいる間に時間が経っていること、忘れていたんですか。自分たちも鍵は掛けてきましたよね」
と言い返す。常識だ。
「そういえば、そうね。ちょっと混乱してて忘れてたわ。あ、後鍵かけて来てないから」
 あっさり開き直ると、ヘリオスはくるりと身を翻して自分を見る。
「帰りましょ。作戦会議よ」
 焦りすぎてたみたいね、と続けた直後、すたすたと自分の部屋へと歩いていく。自分は自分勝手なこいつにぶつぶつと文句を言いながらその後ろに続いた。さっきまで真紅に輝いていた廊下の絨毯が急にくすんで見えた。
 数歩足を進めるとすぐに自分の部屋についたけれど、先に到着していたヘリオスはなぜか部屋の中に入っていない。
「あの……、どうして入らないんですか?」
 ヘリオスは気難しそうな表情をして唇をいじっていて、自分が言葉を発した後も黙ったまま、ただじっとドアノブを見つめているだけだった。
「ドアノブに、何かついているんですか……?」
 恐る恐るそう言ってもやっぱり口を開いてくれず、その代わりにか、唇に当てていた指を扉に向けた。 
 自分はヘリオスとドアを一巡した後、体からあふれ出す無言の命令に仕方なく従って、冷えたドアノブを回した。
 回らなかった。
           *

「困ったことになったわね」
 誰もいない廊下に座りこみ、腕を組んでそう言うヘリオスの姿からは一抹の不安も感じられず、ただ一人走り出した自分の心が馬鹿らしく思えてきた。
「なんでそんな冷静なんですか」
「焦る事も無いでしょ。開かないものは開かない。あんた、そんな性格だったっけ?」
 余裕のある声でそう言われると、焦りが収まると同時に妙に苛立つのは気のせいか。
「とりあえず、状況は、鍵をかけていないのに鍵がかかって入れない、ってところかしら」
「なんか軽そうですね……。別に、自動ロックなんていうハイテク機能が備わっているわけでも無さそうですし、これってやっぱり……」
 自分がそこで口ごもると、彼女は悪びれもなく
「だれかが鍵を閉めた、ってことね。全く、入学初日にやることかしら」
 とあっさり言ってしまい、似合わないため息をついた。
 自分はただ呆然と立ち尽くしながら壁にもたれ、何も映らない天井を眺めているだけだった。いつまでも星空である外の光をうけて、鈍い蒼に染まったそれは、眺める度に濃さを増しているように思える。その時間の間に自分の考えはどんどん悪い方向に向かっていき、犯人は誰だとか彼女の部屋に行かなければよかったとか、というか隣は本当に彼女なのか、元よりなんでこんな物騒な学校に入ってしまったんだといった、今となってはどうしょうもなくて、言っても仕方のないことを永遠に毒づいていた。
「どうする?」
「えっ、えっ?」
 一人白昼夢に浸っている時に突然尋ねられてしどろもどする自分を脇目に、ヘリオスはもう一度深く溜息をつく。
「だから、どうするって、この状況。何かできることある?」
「できることって言われても……」
 何も思いつかない。ただ自分にできることと言えば、段々と黒に近づいていく天井をぼーっと見ることだけだ。そのブラックホールに似た模様に自分の意識が吸い取られていくようで、アイデアの欠片もあったもんじゃない。
「何もないの? 想像力のない子ね。作家か何か見習ったら?」
 はあーあ、こんな調子じゃ朝までずっとこれよ、とさっきの言葉の説得力を根こそぎ奪っていく言葉を続け、やっぱりヘリオスも打破する方法を見つけられていないことに気付く。何処までも閉塞感の夜中。そういえば、今は何時だろう。教えてくれる太陽はないし、チャイムも鳴らないから全く分からない。何もかもが不便すぎる。朝になって気象時間になったら誰か助けてくれるだろうけど、それまで待ちぼうけはきつい。でも今の時間に誰かの部屋に行くのも何だかはばかられる。初対面の人間にそんな事を訊く度胸はない。
 どうしようか、と二人分の溜息が混じるいつか。その廊下に、吹くはずのない風がその二人の頬をかすめた。奇妙なことに実体のあった感触に驚いて、自分とヘリオスはその進む先を思わず追った。
 かさり、と何かが落ちる音が小さくすると、無言でそこに向かい走り出した。足音は計らずとも二つある。あまり離れていない所にあったそれは、蒼の空間のなかで白が怪しい色に染まった紙飛行機だった。
「紙飛行機って……」
「今時無いわよね、こんなの。どこから飛ばしたのかしら」
 ヘリオスの呟きと共に視線を飛んできた方向に向ける。そこには同じような部屋の扉が並ぶ壁と、同じように窓が並ぶ壁で挟まれた廊下が少し続いているだけで、人影も何もなく、直角に折れた角の先にも誰かがいる気配はしなかった。
「窓から……、はないですよね」
「さあ、どうかしら。分からないけれど、誰かが飛ばしたことは確かね。……、とりあえず開けてみましょうよ。ヒントになるものが隠れてるかも知れないし。なんか誘導されてる気がしないでもないけど」
 確かに作為的な臭いはするけれども、それと引き替えにしてでも早く部屋に入りたい。そう思って小学生でも作れそうな紙飛行機を勢いよく開き、しわくちゃになった紙をのばして星明かりにかざしてみる。
「よの……かねが……?」
 何てなんて、と隣にいたヘリオスものぞき込み、意味の分からぬ文章を二人して読む。星と非常灯だけだと二人の影で読みにくい。
「よのなか、ね、かおかお金……、何これ、怪文?」
 そこには下手な字でこんな文が殴り書きされていた。
世の中ね、顔かお金かなのよって子の三番目が上と右に二つ移動したらDancingってわけ。
まるで急いで書いたみたいな、女とも男とも似つかない字。女子寮に男子がいることはできないから、たぶん女なんだろうけど。
「訳が分からないわ。何なのよこれ。書いた人病んでるのかしら。心配になるわ」
「そこですか。むしろ自分たちの心配をした方が良いんじゃないですか……?」
「それもそうね。でも面白そうじゃない。なんか暗号じゃないの、これ」
 怪文を目にして面白そうに言うヘリオスの神経がおかしい。気味悪そうに見る自分の視線を感じていないのか、その後も自信満々に続けていく。
「うろ覚えなんだけど、確かこういう暗号の解き方ってあったのよね」
「そんなのあるんですか?」
 初耳だ。ミステリーとして成立するには何かいろいろルールが必要なことは数年前に調べたが、暗号の解き方もあるのか。
「うーんと、火であぶって文字をうかばせるとか、反対から読むとか、そんなんだったはずなんだけど……」
 適当すぎる。
「さかさまに、ですか」
「そう。上から読むと訳が分からないけど、下から読むと意味を成す、みたいな」
 例えば、ね、と言いながら、胸ポケットからシャープペンシルを取り出し、広げた紙飛行機になにやら文字を書き出した。
「何書いてるんですか?」
「ま、見てみなさいよ」
 言われるままに見てみると、無駄に整った字で「るまやあとこのうのき」という、訳の分からない文章が書かれていた。
「これを上から読むと……、読みにくいから飛ばすわ」
「さっきから適当すぎますよ」
「まあいいじゃない。とりあえず下から読んでみてよ、これ」
 あまりにも強く言われたので、しぶしぶ読み上げてみる。
「きのうの、こ、と、あやま、る……? 昨日のこと謝る?」
「そう。上から読むと変な文で、下から読むと意味の通る文に成る。結構王道の説き方なんだけどね」
 そう言って自信満々に頷いてから、また何やら紙に書き出す。さっきよりも長い時間を要するようで、書く手はとても忙しそうに動く。
「できた。ちょっと、これ見て頂戴」
 そう言って差し出したのは、元の文面の下に書かれたひらがなの羅列だった。
「こうすると分かりやすいでしょ」
 今にも鼻歌を歌いだしそうな勢いで言い切り、
「ほら、読んでみなさいよ」
 と、その紙を自分の鼻先まで突きつける。それを受け取ってよく見てみると、あの仮名文は怪文を基にしたものらしかった。
――よのなかね、かおかおかねかなのよってこのさんばんめがうえとみぎにふたついどうしたらだんしんぐってわけ
 読みにくくなっただけのような気がするけれども、確かに逆に読むには楽な気がする。
「けわてっ、ぐんしんだら、たしうどいつた、ふにぎみとうえがめん……ばんさんのこてっ、よのなかねか、おかおかねかな、のよ……?」
 口に出して読んでみても、全く意味のある文になっている気がしない。ただ読みにくいだけの嫌がらせだ。
「こんなのが意味あるんですか?」
「うーん……。区切ってみたらどうかしら」
「区切る?」
 不思議がる自分を背にしながら、ヘリオスはしゃがみこんで何やら書き加えているようだ。
「ほら、こうすれば」
 そう言いながら自分に見せたのは、送られてきた怪文に記号がちょっと付け加えられているものだった。
――よのなかね、かおかおかねかなのよ\ってこのさんばんめが\うえとみぎに\ふたついどうしたら\だんしんぐってわけ
 相変わらず訳が分からないが、逆さに読み上げてみることにする。
「けわてっぐんしんだ、らたしうどいつたふ、にぎみとえう、がめんばんさのこてっ、よのなかねかおかおか、ねかなのよ……?」
 さっきより些か読みやすくは成っているが、でもやっぱり意味がわからない。自分が何も気付いていない中、今のでヘリオスは何か分かったようだ。その印に、今までで一番鋭い目と口調で
「ちょっともう一回言って、最後の言葉」
こう言い放ち、そのせいでさらに冷えた空気に背筋を震わせながら自分はそれに従う。
「よのなかねかおかおかねかなのよ、ですよね、ってあっ……!」
 閃いた。
「そう、これ、上から読んでも下から読んでも同じ言葉になるやつよ。あたしの見方は当たってたってわけね」
 嬉々の声が混じる返答に、思わず自分もくすりと笑い声をこぼした。
「すごいですね。どうしてこんな風に考え始めたんですか?」
「勘よ、勘」
 鋭いにもほどがある。
「たしか、こういう文章って〝回文〟って呼ばれてますよね」
 誰かがそう言っていたような気がする。〝新聞紙〟の文章版のようなもののはずだ。
「そんな感じだったかしら」
 生返事を返しながらまたヘリオスは何かを書き加えている。
「また何を書いているんですか?」
「今のを付け足してるのよ」
 ほら、と例の紙を差し出してきた。
――世の中ね、顔かお金かなのよ(=回文)って子の三番目が上と右に二つ移動したらDancingってわけ。
「ちっちゃいですね」
「まあ、自分たちが分かればいいだけだからいいじゃない。それより、後は他の文を解けばいいだけなのよね。だったら早くしましょうよ」
「確かにそうですね。早くこの廊下とおさらばしたいですし」
 この状況は少し楽しいが、それは夜の人間特有の、奇怪な心理状態が魅せる幻のような気がする。とりあえず、朝になって誰かと鉢合わせすることだけは避けたい。恥ずかしいにも程がある。
「じゃあ、つべこべ言わずに考えてよ。これは解決したけど、まだ他のところが残ってるじゃない」
「そうですね。……、三番目っていうのはどれなんだと思いますか」
 自分がそう尋ねると、不機嫌そうに、
「今、考えてって言ったじゃないの」
 と渋い顔をされた。仕方ないので頭の中で文をぐるぐると回してみることにする。世の中ね、顔かお金かなのよ。この三番目は「な」。でもこれじゃあ五十音表の右には行けても、上には行けない。
「右と上は五十音表のような気がするけど、三番目がどうもね」
 どうやらヘリオスも同じような事で悩んでいるようだ。
「な、だと上に行けないですからね。じゃあ違う所と言われても……」
「特にない、わね」
 さっきはすぐに解けたのに、と零すヘリオスを少し可哀想に思いつつ、自分もその当事者で在ることを思い出して止める。
 三番目。怪文の中の三番目は「な」の一つだし、他のもの、と言われても見当が付かない。自分が分からなくて悶々としているなか、ヘリオスが小さくあっ、と声を出した。
「何か分かったんですか?」
「『かいぶん』よかい(、、)ぶん(、、)」
「回文がどうかしたんですか?」
訳が分からないからそう訊くと、鈍いわねえと呆れた調子で返された。
「だから『かいぶん』の三番目を上と右に二つ移動するのよ」
 言われた通りに考えてみると、この語の三番目は「ぶ」。これを上に二つ移動させると「ば」になる。そしてそれを右に二、移動させると……、
「『かいだん』よ、階段!」
 自分が回答に辿り着くのとヘリオスがそう叫んだのはほぼ同時だった。
「ようは『世の中~移動したら』までは階段を表していた、ってことね!」
「そうみたいですね。でも、まだ残っていますよ」
 残っている単語を指さしながら言った。
「Dancing、ダンシング、ね」
 でもまあ、ここまで来たんだし何とかなるんじゃない、と早くも楽観的になったヘリオスはその語の通り、踊るように無人の廊下を一人でくるくると回りながら、ふらふらと歩いて行った。
「ちょっと、何処行くんですか」
 焦る自分を尻目に、余裕そうな雰囲気をまき散らしながら
「階段に決まってるでしょ」
 とふてぶてしく答え、足取りを止めず進み続ける。
「って、まだDancingの意味分かって無いじゃないですか! そんなので大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。もう分かってるし」
「分かってるんですか!」
 なら早く言ってくれればいいのに。自分一人だけ答えが分からないままなんて不憫すぎる。
「むしろ分からないことに驚きだけどー? 階段でダンシング、踊りとくればもう一つしかないでしょー」
「階段で踊りって……、もしかして踊り場ですか?」
 だいせいかーい、と茶化しながらまたヘリオスはくるくると回り出した。回っているのに足はちゃんと階段の方へ向かっているところが憎い。自分達がいる所に階段は一つしかなくて、さっき紙飛行機が飛んできた角を曲がった突き当たりがそれだ。ここからほんの数メートル程の距離しか離れていない。
「階段の踊り場に、何があると思いますか?」
 気になってみたので尋ねてみることにした。魔法の道具みたいな洒落たものは置いていないはずだけれども、ちょっと面白いものだと少しうれしい。
「まあ、それは行ってみてからのお楽しみでいいんじゃない? 急がなくても逃げないしね」
 人間よりずっといいわ、と何だか大人びた言葉を付け足しながら角を曲がる。もう少しで問題の階段だ。
「ねえ、こんな話があるんだけど」
「何ですか?」
 もう一歩で一段目に足をかける瞬間、ヘリオスは語り出した。
「階段の踊り場の由来は、色々なものあるって話。聞いたことない?」
「無いですけど……」
 興味もなかったので調べてみたことさえない。
「そう。あたしが聞いたのは、昔西洋のドレスを着た婦人が踊り場を通ったとき、その服の裾がまるでダンスを踊る時みたいにふわりと舞ったから、っていうのと、心臓の鼓動を踊りと呼んで、階段を上がる度に上がるそれの休息場として設けられたから踊り場、と呼んだという説があるのよ。学術的には前者の方が有力とされているようだけれど、あたしは後者の方が好きだわ」
「何故ですか?」
 自分だったら、信用できる方を信じるし、好きになるだろう。
「だって逆じゃない? 今のあたし達と。あたし達の場合は踊り場にどきどきする物があるけれど、他の人達にとってはそこが休みの場所だなんて、逆説的で魅力的じゃない?」
「確かにそうですね」
 ヘリオスの言う通り、いつもは呼吸を整えることさえ在る場所へ向かうのに、一段一段上っていく度に平常以上に心臓が高鳴っていることがはっきりとわかる。
「さあて、何が待っているのかしらね」
 そう言いながら、ヘリオスは最後の段、つまり踊り場のところに足をかけた。
 一体何があるのだろうか。そう思いながら自分も一歩遅れて足を進ませる。自分も最後の一段を踏んだとき、ヘリオスは踊り場でしゃがんで何かを拾っていた。自分が急いで駆け寄るとヘリオスは同時に立ち上がり、拾った物を掌に乗せて差し出した。
「鍵……、ね。それも一番万能な奴」
 そう紹介された鍵、マスターキーは星明かりを反射しながら無機質に光り、それを見ながらヘリオスはさっきとは打って変わった、無表情のまま呟く。
「さあ、これで何をさせようと言うのかしらね。名探偵(、、、)さん(、、)」

           ***

 拾った鍵で開けた部屋には、数時間前とほとんど変わったところがない様子だった。開けっ放しのカーテンと、廊下と同じ真紅の絨毯。ただ一つ変わった所といえば、飾り気のない勉強机に置かれた二枚の置手紙があることぐらいだ。
 ヘリオスは自分がそのことに気づくやいなや、一人机に駆けつけていった。何をするんですか、と訊くよりも早く手紙に目を通し、そのうちの一枚を上着のポケットにしまった。
「ちょっ、何を」
「あんたには関係ないことよ。それよりも」
「関係ないって、」
「だからそうだ言ってるでしょ。それより、あんたに必要なのはこれよ」
 関係ない理由をはぐらかして偉そうに手を差し出しながら言うヘリオスに苛々した気持ちをぶつけようかと思ったが、視線は勝手にその手の中の手紙に注がれる。
「隣室で待つ……。名探偵からよ」
 沸騰寸前の脳内に冷水が目と耳から注がれたような感覚。背筋にも流れ出したそれのおかげで一気に冷静になった。名探偵? ということは彼女が犯人なのか? そういえば、その手紙の筆跡は三年前の彼女と同じだ。
「勿論行くわよね?」
 もうその台詞は疑問というより命令に近かったが、数時間前と同じ答えを返す。
「ええ、行きますよ」
 予感はしていた。この学校にいる知り合いなんて彼女しかいないし、自分の部屋の鍵を閉めれるのは隣室にいる人ぐらいにしかできない。でも、何故彼女はこんなことをしたのだ。そのことを直接尋ねに行かねばならない。
「そう。なら早い方がいいわね。行きましょう。今すぐに」
 ほら、と繋ぐように手を自分の方に向け、ヘリオスは不敵に笑った。その表情に何故か緊張が緩み、自分は口元を綻ばせながら手を重ねた。

           *

 冷たいドアノブ。触れた瞬間その温度に驚いて、ぱっと手を離してしまった。そんな自分を見て少し訝しそうにヘリオスは眉を上げたが、すぐに視線を扉のほうへ向けた。
 もう一度、マスターキーを鍵穴に挿しなおし、深呼吸をしてドアノブを回す。扉を押すと、さっきみたいな詰まる感覚は微塵もなく、すっと風を切るようにあっさりと開いた。
 その風に乗るように、ヘリオスは自分よりも先に部屋の中に入っていき、それに続いて自分も部屋の中に入る。足音以外に物音はせず、ただ蒼に染まり冷えた空気が体に纏わりつくだけだ。
「ご招待ありがとうございます名探偵さん」
「招待なんて、した覚えはないけれど」
 勉強椅子にもたれ座りながら偉そうに言う彼女は、目に嗚咽の残骸をためながらも三年前と変わらぬ眼光でヘリオスを睨み、そのクローンであったヘリオスも同じ気迫で彼女に迫っている。
「とんだ冗談ね。わざわざ置き手紙を残していったじゃないの」
「ああ、あれのこと」
 ちょとした忘れ物を思い出したみたいな、軽い調子で自分が犯人だとあっさり認めて、彼女はこちらの方に顔を向けて言い放つ。
「あれは招待じゃないわ。脅迫、っていうのよ。知らない?」
 片目だけだった方がまだましだ。両方の目で見られると、いくらそれが充血しているといえども逃げ腰になってしまう。しかも言動が言動だ。三年前の自分はどうやってこの人と会話をしていたのだ。何だかヘリオスが神々しく思えてくる。
「幽霊みたいね」
 ぽつりとヘリオスが呟く。いや、この表現は少し可笑しいか。この場にいる全員に聞こえるように言ったのだから、もっと別の言葉を当てはめた方が良いかも知れない。
「何よ、幽霊って」
 眉をひそめて彼女は尋ね、そんなことも分からないの、と鼻で笑いながらヘリオスは答える。
「見えないところでこそこそと事を進めて、最後に実は幽霊の仕業でしたー、って良くあるでしょ、怪談話で。それと同じ事を貴方はしているのよ」
「例えが微妙すぎるわよ。何か他になかったの?」
「いいじゃないの、それぐらい」
 同じ声と同じ口調で言い争われると聞いている方が混乱する。
「で、貴方はこんな事を話すためにわざわざこの部屋に来たんですか」
 しびれを切らして口を出した。こんな無意義な会話を聞くぐらいなら、今すぐベッドに飛び込んで寝る方がよっぽど良い。
「それもそうね。忘れてたわ」
「貴方が全て悪いんでしょ」
 ヘリオスの腑抜けた発言に彼女がそう言い返し、もう一度言葉を発そうと口を開くと、同じ形にヘリオスも唇を動かしていた。
『貴方が生まれてきたから』
 二人の同じ声が重なり、同じ言葉を響かせた。その瞬間、思い通りだというように口角をにやりと上げる者と、目を見開いて二の句が告げられなくなってしまった者に二つに分かれ、蒼く冷たい空間に陰と陽の光りが舞ったように見えた。
「分かるわよ、それぐらい。だってあたしは、」
「貴方だから」
 驚いたのもつかの間、今度はあたしの番よと言うかのように、彼女はヘリオスの言葉の続きを難なく言った。そして悪役じみた笑みを浮かべながら
「やっぱり。そうみたいね」
 と意味の分からない言動をする。その一言が持っていた糸につながったようで、ヘリオスも同じように口角を上げ、自分一人を蚊帳の外に追い出す。
「あの、意味が分からないんですけど……」
「話した筈なんだけど。それも、あんたが、あたしに」
 ヘリオスはそう呆れかえったようにそう言うと、こう続けた。
「過去を話したでしょ、さっき。クローン人間の写真が送られてきた、って自分で言っていたじゃない。それがこいつ――、『名探偵』のクローンって訳。思い出した?」
 話が飛びすぎている。とりあえず、言われるままに昔送られてきたファックスの一枚目を思い出してみる。たしかあの子は、艶々とした髪と、開けば妖艶な光を携えるだろう目、唇を持ったフランス人形の如く整った容姿をしていた。それを一つひとつ彼女に重ねて見ると……。
「本当だ……」
 何故今まで気がつかなかったのだろうか。目を閉じて夢想ふける彼女とあのときの少女の外見は完璧に一致する。
「何を話しているの」
 自分が悩み事と別れると、今度は彼女が疑問に出会ったようだ。その様子を見ながらヘリオスは意地汚い笑みを浮かべて言い放つ。
「貴方の話よ。名乗れない(、、、、、)名探偵の、貴方の話よ」
 その言葉に彼女はびくっと肩を上げ、思いっきりヘリオスを睨み付けた。瞬間空気が凍りつき、一人訳の分からない自分をまた置いていく。
「何を、」
「黙ってて」
 ヘリオスに強く遮られて出かけた言葉をひっこめる。この部屋の主導権は彼女ではなくヘリオスに握られてしまったようだ。
「貴方はずっと名探偵だったんでしょ? 知ってるわ。こいつといた三年前以前から、そしてその後もずっと、貴方は名探偵であり続けた」
 違う? と全くそう思っていない風にヘリオスは脅しをかけて、彼女は聞きたくないと主張するように顔の角度を変え、自分達に横顔を見せる体勢になった。
「昔、言ってたわよね。名探偵は存在してはいけない。それは楽園を壊す悪役だからだと。だけど、私は違う。存在意義をちゃんと見つけ、ちゃんと受け入れられたと、自慢げに言ってたわよね。でも本当は違った」
 何故ヘリオスがその会話を知っているのか、と疑問に思って思い出した。確かこいつは、あの三年前の記憶を持っていると話していた。あの話は本当だったのか。
「貴方は、本物の悪役になっていた」
 初耳だ。あれは例えの一種だと思っていたのに、現実にあったことだったのか。本当に、と彼女の方に視線をやると、彼女は肯定するように静かに天井を見上げていた。
「考えてみればそうじゃない。人間関係を壊す人は誰から見ても不必要で邪魔でしょ。考えてみたことなかった?」
 少しの沈黙の後、またヘリオスが口を開いて自分に話を振った。
「え……、いや、無い、です、けど……」
 急な話題で着いていけず、しどろもろになりながら答える。あの時は自分のことだけを考えて行動していたので、彼女の言葉に嘘があるなど考える暇など無かったはずだ。
「無いの? つくづく生ぬるい子ね。それで生きていくつもり?」
 自分を馬鹿にしながらそう言うと、もう一度彼女の方に向き直ってまたヘリオスは口を開く。
「とにかく、貴方は嫌われた。名探偵と名乗るまえから、その後もずっと」
「ずっと?」
 あの事件のとき、彼女はとてもクラスに馴染んでいるように見えたけれど、それも違うのか? 
「そう、ずっと。クラスに溶け込んだように見えたのは、あの一瞬だけ。みんな遠慮してたんじゃないの? こいつの言葉を借りると……、そうね、〝転校生の前でいきなり修羅場なんて〟、ってことなんじゃない」 
「あれを修羅場って言わないんですか」
 疑問と驚きの混じる言葉に、ヘリオスは失笑を漏らしながら言う。
「それで修羅場なら、世の中で起こる殆どの喧嘩がそれにあたってしまうわよ。何、あんた、頭の中にお花畑でもあるの?」
「いや、無いですけど……」
 ホントに? と懐疑の目を向けたが、すぐにそれは論点じゃないわねと話を本筋へと戻す。
「要するに、名探偵というものは依頼があって、お客さんがあっての職業なのよ。なのに貴方はその基本的なルールすら脱している。そんな人は名探偵と名乗ってはいけない――、いや、名乗れないのよ」
「でも」
 まだこいつの肩を持つのかと睨(ね)めつけながら、
「大体、いくら自称だからといっても限度があるでしょ。しかも、名探偵なんて、驕(おご)りすぎにも程があるわ。そんな人、誰も名探偵と認めない」
 そう吐き捨て、もう一度彼女の様子を見る。さっきよりも幾分視線が上がった気がするが、それでも何も言葉を発しない。
「それに、歴史に名を残した名探偵達は、変な人として嫌われていても、一応認められて頼られている。それは何故か知ってる?」
「いえ……」
「実力があるからよ。覆しようのない実績の前にひれ伏すの。だから彼らは生きて行ける」
そこで言葉を切り、続く言葉の強さを証明するかのように大きな息継ぎをした。
「でも、貴方は違う。貴方にはそんな実力なんてものはないわ。あるのは取り繕った謎と、自分で作った回答だけ」
 一番触れてはいけないところにヘリオスはずかずかと踏み込んでいく。その先に何があるかを全く気にせずに進んでいく姿は雄々しいのか愚かしいのか。
「でも、自称ですよね。なら何でも良いんじゃないんですか」
 彼女の弁明を思い出して言う。確か自分はそれで納得したはずだ。
「別にあたしはいいのよ。貴方が名探偵だろうが何だろうが知った事じゃないわ。でも、貴方は放っておかれることを、望んでなんかいないでしょ?」
 そう言って見つめる先には、一人世界から切り離されたように佇む彼女が、ほんの少しだけ笑みを漏らす姿があった。
「望んでいる……、んですか?」
 確認するように彼女をちらりと見ると、さっきより大きく笑みが咲いていた。
「だから貴方は自分に分かるようにこの謎を作った」
 さっき解いた紙飛行機を手にしながらヘリオスはそう言った。
「でも、何で隣の部屋にヘリオスがいるって分かったんですか?」
「さっき言ったじゃないの。廊下で彼女に会ったって。そんな容姿の同じ人を見たら、なかなか忘れられないわよ」
「でも、もしあなたと会っていなかったらどうするんですか。暴いてもらう人がいなくなりますよ」
 自分の発言を鼻で笑いけなしてヘリオスは続ける。
「そんなの、あんたや他の人にも分かりそうな謎にすれば良いだけじゃない。これは解く人が作者と同じ頭を使っているのとほぼ同じだから、渾身の謎を用意することが出来ただけのことだしね」
「そうなんですか……?」
返事なんか帰ってくるはずもないと思っていたが、ダメ元で彼女に尋ねてみた。すると以外にも彼女は小さく首を縦に傾げ、肯定の意志を見せた。……、でも、何故だ? 何故、解いてもらいたかったのだ?
「名探偵って、ずっと他人の謎を解かないと行けないでしょ。それが望まれようがそうでないかは別として、使命として存在するの。でも、貴方はそうしているうちに、罪悪感と戦わねばならぬ事になった」
「罪悪感?」
 そんなの、感じたら止めれば良いだけの話なのに。誰も強制も望みもしない事を続ける意味は無いと思うのだが。
「人の邪魔をして生きて行くことは本当に良いのかどうか、とか色々悩んで、結局は続ける事しか選べない。そんな自分に嫌気も差した」
 確かに、嫌われることは結構エネルギーのいる行動だ。それを大勢の人から受けたのならそう思っても仕方が無い。でも、
「じゃあ何で止めないんですか?」
「あんたがいるからよ。あんたみたいな人が、いるからよ」
 即答だった。その声の主はヘリオスではなく彼女で、なんだか悲痛と苦悩が混じったような音程。
「少しぐらい……、あたしがいることで救われたみたいな顔をする人がいるから……」
「続けるしかなかった」
 嗚咽で遮られた彼女の言葉の続きを紡ぎ出すのはヘリオスで、その声もさっきより落ち着いて、語りかけるような口調になっていた。
「事実を知ることは大体の人にとっては不幸なこと。でも、現実を変な方向に見ている人にとって、真実を告げる名探偵は必要不可欠な存在と言える。そういうことよね」
 静かに頷く彼女を見てヘリオスは満足そうに笑みを浮かべ、言う。
「で、あなたはどっちなの? 暴かれて良かったの、悪かったの?」
 その問いに彼女は答えずただ天井を見上げているだけで、その頬には筋が一つ、入っていた。
「あ、そうそう」
 突然、ヘリオスが明るくこちらに身を翻しながら言った。
「え、あの……、何ですか?」
 このシリアスシーンをぶち壊すのかと呆れつつ訊くと、
「あたし、これから出かけなきゃならないの」
 そう言って軽く名刺を出すような素振りで自分に見せたのは、もう一枚の置き手紙だった。
「人形劇、開幕のお知らせ……?」 
「そう。あたし、これに出なくちゃならないから」
 だって最初に言ったでしょう、あたしは人形だって、とさっきのことなどまるでなかったかのように言ってのける。
 そのままヘリオスは部屋から立ち去ろうとするので慌てて引き留める。
「え、ホントに行くんですか」
「行くわよ。決まってるじゃない」
 文句があるなら言いなさいよと目が言っているので、ここはそれに遠慮せず乗らせていただく。
「じゃあ、最後に一つ、訊かせてください」
「いいわよ」
 あっさりと許可を得て少し拍子抜けしたが、今回は引かない。ずっと疑問に思っていたことがあるのだ。
「なんで、貴方の名前はギリシャ神話の太陽神が由来なのに、あなたは北欧神話の話ばかりするんですか?」
 気にかかっていたことだ。ラグナロクもヘイムダルも、神話ということ以外には「ヘリオス」に共通点はない。それなのに何故、ずっとそんな話ばかりをしたのか。帰ってきた返答は自分の考えの遙か先を行くものだった。
「憧れてるから、かしら」
「憧れ?」
「北欧神話には終わりがあって、その後にもう一度始まりが来る。だらだらと終わりが来ないあたしの話より、ずっと綺麗。綺麗なものに憧れるのは普通でしょ?」
 憧れなんて言葉がこの人の口から出るとは想像していなかった。
「それだけ? なら、行くわ」
「えっ、ちょっ、待っ」
 扉の方に歩き出したヘリオスが急に此方に身を翻し、まっすぐに自分の目を見る。その手にはあの手紙ともうひとつ、一冊のノート、それも、自分が過去を記したものがあった――。
「あたしとしたことが、一番大切なことを忘れてたわ。やっぱり、最後はこれでなくちゃ」
 そう言って背筋を伸ばし、驚く自分を見ながら子供みたいに大きな声で言った。
「左様なら」 

      3
           ***   
        
        神は何を望みしか。
 
          ***

 お姉ちゃんは、今日も帰ってきません。
 私は最後に頼まれた洗い物をしながら考えます。お姉ちゃんがいなくなった日から、今日でもう千九十日が経ちました。カレンダーはめくる事も出来ないまま、壁にぶらさがったままです。もうそろそろ捨てようかと思いますが、ごみ箱は他のもので一杯で隙間など在りません。それに、三年ぐらい前からごみを回収してくれるおじちゃんもいなくなりました。みんな、何処へ行ったのでしょうか。
 そう考えている間にもう夜です。最近は北風が強くなってきて、夜の帳も早く落ちてくるようになりました。もしかしたら冬が近いのかも知れません。
 早く雨戸を閉めなければと窓際によっていくと、何だかガラス越しに黒く動く丸いものがみえました。そういえば、と思いました。確かお姉ちゃんはこう言っていました。カラスとか猫とか言う野生動物は庭の野菜を食べてしまう悪い奴だから、見かけたらすぐに追い払いなさい、と。だから賢いわたしはこうするのです。
 窓を開け、息を思いっきり吸い込んで、それを勢いよくはき出して叫びにします。
「出ていけーーーーーーーー!」
 あんまり大きな声だったので、私も思わず耳をふさいでしまうほど家の中で反響していきました。それが止んで恐る恐る目を開けると、そこには黒く丸っこいものが尻餅をついている姿がありました。
「お、お姉ちゃん!?」
 その姿をじっと凝視してみると、見慣れたお姉ちゃんにそっくりな顔をしていました。黒い長髪は三年前と同じ様に、星空の光を受けてつやつやと輝いており、黒々と大きな目が短い間隔で瞬(しばたた)いていました。
「え……。お姉ちゃん……?」
 お姉ちゃんは訳が分からないと言うように首を傾げ、私は裸足のまま家の中から飛び出し、お姉ちゃんに駆け寄りました。
「お姉ちゃん今までどこ行ってたんですか心配したんですから!」
 私の三年間の思いの堰が一気に崩れたように一息で言ってしまいました。そんな私を見てお姉ちゃんは一言、呟きます。
「あんた……、誰?」

          *

 お姉ちゃんとそっくりなお姉、じゃないです女の子はヘリオスと名乗りました。そして自分は人形だと語ります。訳が分かりません。
「要はあたしには行かなければならないところがあるの。それにあたしは貴方のお姉ちゃんなんかじゃないわ」
 全く、こんな所で誰に間違われているのかしら、と呆れた風に続けました。しかし、私にはその言葉の意味が理解できませんでした。お姉ちゃんと完璧に同じ声で言われても、説得力なんてありはしません。
「でも、貴方はお姉ちゃんと全く同じ見てくれですよ」
「それでも違うわよ。いったいどんな人なのよ、『お姉ちゃん』って」
 社交辞令のような質問です。それに少し苛立ちながら、私はお姉ちゃんのことを思い出してみます。
「お姉ちゃんは名探偵ですよ。みんなに嫌われていて、でも目がとても純粋で綺麗な、私の本物のお姉ちゃんにそっくりな人です」
 私がそう言い切ると、またヘリオスの目が大きく見開かれました。そして口の中をもごもごと動かし、時々「名探偵」や「彼女」、またお姉ちゃんの名前も聞こえました。
「お姉ちゃんを、知っているんですか?」
 尋ねると、ヘリオスは困ったような笑みを浮かべながら
「知ってるも何も、さっきまで一緒にいたわ」
 と答えました。
「一緒に、ですか? 貴方が?」
「そう。変な巡り合わせね」
「巡り合わせ、ですか」
 その言葉を胸の内で反駁してみます。巡り合わせ。とてもいい響きです。
「巡り合わせって、いいですね」
「良いって、」
 何がよと訊くヘリオスに、優しい私はちゃんと答えてあげます。
「本物のお姉ちゃんと別れちゃった後、私はとても悲しんだんです。でも、この家に来ると同じ容姿の名探偵のお姉ちゃんに会えて、私は全然悲しくなくなりました。もう一人お姉ちゃんができたみたいで、嬉しくて。だからずっとお姉ちゃんって呼んだんです。そして今、貴方に、お姉ちゃんと同じ貴方に出会えました」
 これを、素敵と呼ばずなんて言うのですか、と格好よくまとめると、ヘリオスは圧倒されたように身を逸らして、その体制がしばらく続いた後、急にふっとやわらかく微笑みました。
「ねえ」
「何ですか?」
 いきなり変わった態度に少し動揺しながら、ヘリオスの顔を眺めます。
「あの足跡を通って、まっすぐ行きなさい」
 指を指しながらそう言って、もう一度、やわらかな笑みを浮かべました。指指す先には一人分の足跡が、砂埃の上に続いていました。
「お姉ちゃ、じゃないヘリオスも、一緒に……?」
 私が尋ねると、ヘリオスは静かに首を振りました。
「何で、ですか? なぜ一緒に来てくれないんですか?」
「だから、あたしには行かなければならない場所があるのよ。言ったでしょ?」
 そうヘリオスが言い終わると同時に、大きな音が遠くでしました。驚いて振り返ると、足跡の方向にある空に、大きな花火が咲いていました。
「あの場所。あそこに行きなさい。きっと、そこに貴方は行かなければならないわ」
「でも……」
 不安げに下を向く私の肩に手を置き、優しい声でヘリオスは語り掛けます。
「あれは、貴方の旅立ちへの手向けの花よ。安心して行きなさい」
 そう言って潤む私の目をじっと見つめて、私は花火の上がっている方向を見るために振り返ります。その瞬間、ヘリオスが私の肩を勢いよく押しました。
「えっ!?」
 突発的に起こった出来事に反応することができず、よろける私を見てヘリオスはまた笑います。
「さようなら」
 後姿を見せながら言い捨て、ヘリオスは前へ進みだします。それも、私が進めといわれた方向と逆に、です。文句を言おうと思いましたが、何だか言ってはいけないような雰囲気に、口を開くことができませんでした。
 もう一度、咲き誇る花火に目をやります。あれから止まること無く咲き続けても、いつかは消えてしまうのでしょうか。
 儚いこと、泡沫のこと。花火といって思い浮かぶものはその二つだとお姉ちゃんは言っていました。でも、そうじゃない、と今となって思います。この光は、遠くに届く程強く、激しく咲き乱れています。それに泡沫や儚いなんて言葉を当ててはいけないのです。
 そう、これは、皆への花なのです。私だけの手向け花ではなく、ヘリオスだけのものでもなくて、ここにいる、全ての道へ進みだしたものへの花束なのです。
 そう思いながら、一歩、踏み出しました。足の裏のひんやりとした感覚が、この先の道を示しているような気がしました。もう一歩、一歩、踏みしめて歩き出します。
 そのゆったりとした緊張感に乗せ、呟きました。
         ――進む道に、幸と手向けの花あれ。
             うたかた花火。完。

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