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3学期 by深智


Nothing, but
                             深智
  ◇
 彼女は、なぜ自分が生きているのか、よく分からないでいた。
 きっと、誰も、彼女がそんなことを思っているとは夢にも思わないだろう。彼女はどう見てもただの少女であった。椅子に腰かけ、文庫本をめくる様子は、普通の高校生のそれであり、何も変わったところは見受けられない。けれど、物語を理解する脇で、彼女の思考は、自らの生について疑問を投げかけていた。
ただ淡々と毎日を過ごすだけで、きっと何も成し遂げない私が、どうしてまだ生きているのだろう。ページをめくる度に、憂鬱がむっくりと顔を擡(もた)げる。目標も、目的も、守るものも無い私が、なぜ今、のうのうと生きているのだろうか。
 彼女が悩みにふけっていると、ふいに、元気のよい足音が近づいてきた。ああ、決まったのね、と独り言を言うと、彼女は思考を止め、文庫本を閉じ、足音の主の到来を待った。
「おねーちゃん、この本かりていい?」
 ばたばたと彼女の元にやってきた少年は、少し控えめな声でそう言った。彼女は数年前から、親の帰りが遅い少年の面倒をみることを頼まれていた。今日は、本が読みたいとせがむ少年を、近所の図書館に連れてきていた。
「いいけど、ちょっと難しいんじゃない?」
 本と少年の顔を見比べて、彼女はそう言った。なんだか小難しそうな表紙と、底なしに明るい笑顔とでは、まったくもって釣り合わない気がした。
「えー」
 と、少年は不満げな声を出したが、すぐ自分がいた本棚の方へと走って行った。そろそろ自分の借りる本も決めないといけない。彼女は立ち上がり、さっきとは別の本を探そうと、本棚の周りをゆっくり歩いた。
 タイトルを目で追いながら、また彼女は考えを巡らせていく。
 自分がこんな風に考えるようになったのは、一体いつからなのだろうか。浮かんできた答えは一つではない。両親が離婚した日、姉と比べられ、叱られた日、クラスで孤立し始めた日。きっと全部が原因なのだろう。ひとつずつ、彼女は階段を踏み外し、いつの間にかこんな所に落ちてしまっていたのだ。
 あれ、と、彼女は小さな声を上げた。そして数歩後ろへ下がり、今自分が見たものは本当であるのか、確かめる。
 少女の視線の先にあるもの。それは名だたる名著の間に挟まれた、タイトルも、表紙絵も、作者名もない、真っ白な本であった。驚いた少女は本に手を伸ばす。表紙を開いても、白いページが続くばかり。首を傾げて、その本を元の場所へ戻そうとすると、
「えっ……」
 先ほどまで何もなかったはずの表紙に、文字が浮かび上がっている。
「たい、せつ……」
 浮かび上がったのは、きちんとタイプ打ちされたように美しい、“大切 ”という言葉だった。
 彼女は本のページを急いで捲ったけれど、やっぱり白紙のページが連なっているだけで、特に変化は無い。変わったのは表紙だけだ。
 気持ち悪い、と思い本を元に戻そうとした丁度その時、少年が息を切らせて彼女の元へ来た。
「おねーちゃん、こんどこそ、いいでしょ」
「うん、いいよ、うん」
 少年の顔もろくに見ずに彼女はそう言って、彼と一緒にカウンターへと向かった。しかし、彼女はその手にあの白い本を、しっかりと握っていた。なぜ返さなかったのだろう。それは、好奇心のせいなのか、はたまた別の何かであったのか、彼女自身も、その答えはよくわからなかった。

 ◆
 そう言えば、誰もこの白い本について、何かを言う人はいなかった。少年の手を引き、外を歩いているとき、ふと、そのことを疑問に思った。少年も、カウンターの人も、周りの人も、白い本などまるで見えていないようにふるまっていた。一体どういうことなのだろう。そんなことを思っていると、いつの間にか少年の家に着いていた。
「あしたも、遊んでくれるよね」
と、少年はきらきらとした瞳で問うたが、彼女はそれに生返事を返し、そっけなく手を振ると、その場をすぐに立ち去った。
 少年を家まで送ると、静寂の時が彼女を待ち受ける。家に帰る途中、誰かに会うことはまずないし、家に帰ってからも、家族と顔を合わせることはほとんどない。両親は遅くまで仕事に出ていて、二つ違いの姉は、家を離れて一人、遠方の大学に通っている。ま、いつものことだけれど、と思いながらため息をつく。
  “大切 ”
 頭の中で、あの本のタイトルがちらついた。大切。そう言えば、と彼女は空を見上げながら考え始める。私の大切なものは何なのだろう。
 日の落ちた空に星はなく、色のない雲がうっすらと地上を覆っていた。その元で思考を続ける彼女の顔は、だんだんと暗い影を帯びていった。
 考えれば考えるほど分からなくなっていく。そもそも、「大切」とはどういう意味なのだろう。一言で「大切」と言っても、その重みは違う。
 たとえば、火事になった時、持ち出すものを考えてみる。それはパスポートであったり、預金通帳であったりといった、生活面で必須の物ばかり思い浮かぶ。けれど、それを墓場まで持っていこうとは誰も思わないだろう。
 反対に、死の淵に瀕した時、大切に思えるものを考えると、家族の存在や、今生きているということが挙げられるのだろう。けれど、それはその状況にいるから初めて分かることであって、平和に生きている今、それを大切にできるかどうかは疑問だ。結局、私が一番大切にしているものは何だろう。
冷たい目をした家族や同級生たち? それは「大切に思わなければならない」人たちだけれど、私は「本当に」その人たちを大切に思っているだろうか。アルバムや、家族写真、思い出の品々? そんなもの、と蹴落としてしまう心がいることを、彼女が知らないはずがない。じゃあ、何? 
 答えは、ひとつも浮かばない。
それが意味することに少し戦慄を覚えながら、彼女は家の鍵を開ける。

 ◇
 案の定家には誰もおらず、彼女は一人で夕食や家事を済ませ、気がつけば夜の真ん中の時刻であった。
 自室に入った彼女は、今日あったことをぼんやりと思い返してみた。ひっかかるのは、やはり、あの白い本のことだった。彼女は鞄の中からそれを取り出し、もう一度ゆっくり見てみることにした。
カバーには、浮かび上がった文字以外、変化はないようだった。少し安心して、彼女は表紙をめくる。
 すると、本のページ一枚一枚が、光を放ちながら一気にめくれていき、最後のページに達したとき、彼女は何かに手を捕まれた。
 その手は最後のページから出ていた。そして強く引っ張られたと思った丁度その時、何もかもが暗転した。


“あー、やっと、やっと出れた ”
 その声は、少女の様でも、老婆の様でもあり、彼女がいる暗闇の、どこか遠くから聞こえていた。
“ありがとうね、この本を開いてくれて ”
 少女には訳が分からなかった。自分は今どこにいるのか、さっき何が起こったのか。考えることもままならないほど、彼女の頭は混乱していた。
「ここは……」
 彼女の呟きに、その声は笑うように答える。
 “本の中だよ。さっき入ったじゃないか ”
 彼女はますます理解が出来なかった。何も答えない彼女を見透かすかのように、声は言葉を続ける。
 “まあ、分からないよね。あたしもそうだったよ。ちょっとぐらい説明しとかないと駄目かー、先代の義務として、ね ”
 声は咳払いを一つし、滔々と話しはじめた。
“あんたは今、本の中にいるの。で、その本っていうのは特定の人しか見えないし、触れられない。誰も、あんたがその本を持っているのに気付かなかっただろ? ”
  声の問いかけに、彼女ははい、と震える声で答えた。
 “その特定の人、っていうのが、あんたみたいな人。つまり、…… ”
 声は勿体ぶるかのように言葉を区切る。
“‘ 次の持ち主候補 ’、ってわけ ”
 いや、住人と言った方が正確な気もするけれど、と声は続けた。
“この本は、ま、言ってみれば、教科書みたいなのかな。……あたしも、言われるまで気がつかなかったけどね ”
彼女は暗闇の中を見渡した。答えを探すかのように、じっくりと。けれど、夜より深い漆黒が、全てを包むこの場所で、そんなものは見つかるはずがなかった。
彼女が沈んでいる所に、声は疑問を投げいれる。
 “あんた、この本を開く前に、何考えてた? 手にとって、タイトルが現れてから、何を思ってた? ”
 思い返すまでもなく、答えは明白だった。声は彼女の答えを聞く前に言う。
 “ここにはあんたが考えた事への、答えがある。あんたの考えは本当に正しいのか、そうじゃないのか。それをここでは教えてくれる ”
 彼女は記憶を辿る。私は生きている理由も、大切なものも何もない、と考えていた。けれど。
 “今、あんたはその場所で、どう思ってる? ”
 彼女は頬に涙が伝っていくのを感じた。帰りたい。戻りたい。この闇から出て、早く元の場所へ。その思いだけが彼女の全てだった。
「出たい。出して、早く、出して!」
 ふん、と声は、彼女の叫びを鼻で笑った。
“さっきまで、いらないと思ってたくせに ”
 声の馬鹿にするような調子のこの言葉で、彼女の心は瞬間に凍てついた。
 “まあ、いつか分かるよ。それがどんな事を意味していたか ”
 あたしもそうだったしね、と、なんだか懐かしむように声は言った。その音はだんだんと離れていっているような気がして、彼女はもう
一度、同じ事を大声で叫んだ。しかし、返ってきたのは、どこか冷や
やかな声だった。
 “あ、それと、あんたがどれだけ叫んでも、誰も助けに来ないよ ”
彼女の目は大きく見開いた。声はかまわずに続ける。
“次、あんたがそこから出られるのは、次に誰かがその本を開くとき。それは明日かも知れないし、明後日かも知れないし、数百年後かも知れない。それまで、あんたはそこで、ひたすら待ち続けるしかないの ”
 声はますます遠ざかっていく。そして、最後に一言だけ、言った。
“せいぜい頑張りなよ ”
  ◇
 
それから、どれほどの日が過ぎ去ったのであろうか。
白い本は、気が付けば、また元の図書館に移動していた。
今日は、そこにあの少年と、その母親の姿を見つけることができた。
「ねえ、おねえちゃんは?」
 少年は母親に問うた。母は不思議そうな顔をして、
「おねえちゃん? 誰のことを言っているの?」
と、叱るように言ったが、少年は不満げに、
「いっつも遊んでくれてたおねえちゃん! 約束したのに」
と、母親の目を見つめながら言った。そして、どこか遠くをぼんやり見て、
「あした遊んでくれるって。……楽しみだったのになあ」
と、小さく呟いた。

                         了
  あとがき
 はじめましての方ははじめまして、毎度な方はご無沙汰してます深智です。長らく小説を書いていなかったら、いつもの勘が取り戻せず、気が付けばこんな駄作になってしまいました……。スランプよりもブランクの方が大変な気がしますね。
ってことで、話のことについて少し。
 元々、この話はESSの「絵本製作プロジェクト第三弾(仮)」になるはずのものでした。が、話が暗いし長いしで英訳する気力がそがれ、巡り巡ってこんな形になりました。あ、別に私が病んでるからこんな暗い話書いたわけじゃないですよ? 私は至って健康です。ただ、明るい時にこそ、暗い時のことを思い出したくなるものなのですよ……。
で、この話、最初は「本からウサギみたいな小動物が飛び出して来たらかわいいよね!」という、友達との会話から始まったのですが、結局出たのは手だけですよね。他にも原案と大きく変わってしまったり、力量と時間不足で入れられなかったりしたシーンもちらほらとあります。小説の難しさを改めて痛感しました。あと、やっぱり三人称は嫌いですね。文才のなさが露見しまくりで何とも言えない感じになっています。
 ……、これ以上語っても悲しくなるだけなので、今回はこのぐらいで。
 それでは、次号でお目に書かれることを願って。



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